第一三話 「塩とアジと浸透圧」
新しい我が家は高校からは大体自転車で15分くらい。すこし北に行ったところだ。
国道には出ず、田んぼと田んぼの間の農業道路を使って、一人で帰る。
入学式の後、物理室でウダウダやっていたので新入学生はみんな帰ってしまっている。
そう。今の僕はボッチだ。
どのみち引っ越したばかりで知り合いはいないので一人で帰る事は既定路線だったのだが…。別に寂しいとかそういうたぐいの感情はない。
それはともかく、今日の事を思い出してみた。
何だかんだ言って楽しかったのが、若干悔しい。だからといって寂しいって訳じゃ無いから。
科学部とは言えちゃんと活動しているようなので、一応真面目に出席してもいいかもしれない。
でも、科学部って何する部活なんだろうか?実験三昧という事はないだろうし、緩く理系の勉強でもしてるんだろうか。
そんな馬鹿な事を考えていたら、家に着いた。
冷蔵庫を開けながら、何だかんだ言って僕は素直な方だと思った。
なぜなら言われたとおり、素直に最後のアジを取り出して塩を振っているからだ。どのくらい塩をしていいか分からないから、全体的にまぶす感じで振りかけた。
これだけであの生臭さが消えたら苦労はしない。
「あっ、今日のは美味い。」
今日、初めて父さんが僕の焼いたアジを美味いと言った。
まさか。
そう思って僕も続いて食べる。何時も口に入れた時に広がる生臭さがなくなってる。確かに美味しい。買ってきてから5日くらいたってる新鮮でも何でもない、しかも見切り品のアジなのに。
「今日は塩焼きにしたのか。すげぇな、塩味。これだけで生臭さとか色々許せるな。それになんて言うか、食感が良くなった気がする」
「うーーん。何時も焼いたのに醤油かポン酢かけて食べてたから、単純に塩だけのせいじゃないと思うんだけど……」
「じゃぁ、時間がたったから発酵したんだ」
「特に何かしたわけじゃないから、発酵したわけではないと思う。それで変質した場合、発酵じゃなくて腐敗にしかならないと思う」
「発酵と腐敗は、プロセス的には同じじゃなかったか?」
「違いは人の役に立つかどうかだけど、冷蔵庫に置いておいてほっとくだけで発酵の方に進めるならみんな冷蔵庫でほっておく。だけど、昨日と今日でここまで変わるものかな?」
あぁ、でも久しぶりにまともなもの食べた気がする。ご飯が進む。父さんはビールが進んでいる。
「さぁな。そう言う時は、まず前とやり方を変えた事と、変える前の事を比べて考える事が解答への近道だな」
「うちに帰ってきてから塩ぶっかけて冷蔵庫で放置した。以上」
「それだ!」
ビシッと僕に指を指して即答する父さん。
「人に指を指すのは行儀が悪いよ」
「細かい事、気にすんな」
「気にするよ。ここに来てから父さんの株はストップ安もいいところだよ」
「気楽でいいじゃないか。俺もこっち来てから、気楽にやれてるしな」
ふむん、と鼻で大きく息を吐いてから考える。
塩を振って放置しただけで生臭さが消えた理由。やった事は本当にそれだけだ……。まさか本当に父さんが言うように発酵した結果だろうか?
「なぁ、五感の作用って知ってるかい?」
「五感?知らない」
「ゆとり世代め。」
「残念。ゆとり教育はすでに終了している」
「ちっ、可愛くねぇな。まぁ、五感だよ。視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚。つまり、感覚。センシングだよ」
「つまり、感覚を全解放しろと?」
「ははは、この厨二病患者め。解放してどうする、使用しろ。」
カチンとくるが、叱りごもっともとも思った。日本語は正しく使いましょう。
皿を持って臭いを嗅ぐ。
アジが焼けた臭いだけで、腐敗臭はもちろん発酵臭もしない。
腐敗臭は身体が寄せ付けないから、臭えば誰でも分かる。
発酵臭についてはおじいちゃんが作っていた発酵肥料や漬け物で慣れている。酸味のきいた臭いは大ざっぱに言って乳酸菌。バナナみたいな臭いはコウジカビ。納豆の臭いは納豆菌……。納豆菌の臭いは正直よく説明できないけど、なんとなくわかる。でも、このアジにはそう言う発酵臭が感じられない。
もう一度臭いを嗅ぐ。
やはりアジを焼いた臭い以外の何物でもない。
次は改めてアジの身を食べてみる。
明らかに生臭さが消えている。それに父さんが言うとおり食感が良くなっている。何というか、まっとうな焼き魚の食感だ。昨日まで僕が焼いていたアジとは明らかにクオリティが上がっている。
咀嚼しながら、考える。
ご飯が欲しいな。
違う。
なぜ、食感まで良くなったかだ。
魚の身はつまるところ、筋肉だ。ふにゃふにゃの筋肉が引き締まる理由……。鍛え直した?
違うな。死んだ魚は身体を鍛え直せないし、そもそも、負荷のかかり続ける水中で活動していた魚は普通に鍛え上げられた身体をしているはずだ。と、なると、水気が抜けたのか。
どうして、水気が抜ける……。
そうか、浸透圧だ!
塩をかける事によって、平衡状態になろうとアジの体内に塩分が取り込まれるんだ。逆に水分が体外に放出されてにじみ出る。多分、この時に生臭い原因の何かが一緒ににじみ出るんだ。
そうやってアジから水分が抜けたせいで身が引き締まって食感が良くなったんだ……
ひとしきり納得して、ため息をつく。
「いろいろ、考えてみたらなんとなく納得した」
「そうか。それは良かった。それにしても、考え事が口に出る奴って本当にいるんだな。
「へっ?そんなマンガみたいな奴いないよ」
「『ご飯が欲しいな』辺りからダダ漏れだったぞ」
「うわぁ。」
「でもまぁ、概ねあってると思うぞ。だが、それだとうま味が塩と食感だけであることになるな。このアジの塩焼きは美味くなっているんだ。そこんとこの説明が出来てない」
「塩と食感だけじゃだめなの?」
「重要な要素だけど、それだけじゃぁないんだよ。旨みうま味って言うのがあってな。それが増えてる」
「うま味?」
「人が美味く感じる味覚って言うのは、あぁ。美味しさには確か、甘味、塩味、酸味、苦味、うま味っていう五大要素があるんだよ。五つ言ったよな。よし。塩を振る事によって塩味とうま味が増してるんだよ」
「つまり……、どういうこと?」
知らない事なので、素直に聞く事にする。
「動物を構成する要素には、タンパク質があるのは分かるよな」
「それ位は知ってる」
「さっきお前さんが独り言で言ったとおり魚の身は筋肉で、筋肉繊維の多くはタンパク質で出来ている。塩を振る事によってタンパク質が溶けるんだ。これを焼く事で固まって食感が良くなるんだよ」
父さんが得意げに解説し出す。
少し驚いた。正直、アジの事も、こんな風に得意げに話している父さんの事も、知らない事ばかりだ。ちょっと嬉しくなってきたけど、少し引っかかる。
「それだけじゃない。塩をしてしばらく置く事でタンパク質分解酵素が働いてうま味成分に変わるんだ。これが今日のアジが美味くなった原因だな」
「……知らなかったよ。焼いてから味付けたら一緒かと思ってたから、びっくりした」
「どうよ?尊敬したか。父の博識ぶりに尊敬したか」
胸を張ってどや顔する父さん。
「そこなんだよ。引っかかるのは。なんでそこまで知っていて、今日まで、塩を振る事を教えてくれなかったんだ?」
「あぁ、それかぁ」
父さんは目をそらして、アゴに手を添えて少し無精ヒゲをさすった。
「まぁ、まずい理由は分かってたんだけど、一通り不味い思いした方が料理について真面目に考えてくれるかなって思って……、な。でも、嬉しかったよ。誰かに助けて貰ったんだろうけど……、そう言うことがちゃんと出来るようになってるのも分かったし、食べる事に向上心がある事もよく分かったから。」
「で、本当のところは?」
「ひとしきり失敗させてから、俺が変わってやるよって感じで格好良く美味く作ったら尊敬されるかなぁって」
「こんちくしょうめ!」
そう言って怒ったふりをしてすぐに笑った。父さんも同じタイミングで笑って、気が付くと二人で大笑いしていた。
目の前で起こった事柄を観察して、どうしてそうなるか検証する……。小学生の頃の理科の実験みたいだ。わくわくする。
それだけじゃ無い。
美味しい食べ物って言うのは、何というか、理由なんて関係なく、楽しい気分になる。
だってさ。すごく楽しい!




