1話:マドンナの溜息
奇跡と絶望は同時にやってくるらしい。
「よし……これで完全に消えたな」
自室の鏡の前。俺、佐藤陸は
全裸で自分の手を見つめていた。
……いや、正確には手は見えない。腕も脚も
男としてのシンボルすらも
綺麗さっぱり透明になっている。
「ナノ光学迷彩デバイス」
システムエンジニアである俺が
極秘で開発したこのシステムは
スマホアプリでスイッチを入れれば
皮膚に貼ったナノパッチが光を屈折させ
瞬時に全身を透明化させる。
ただし、衣類までは光を透過させられないため
効果を発揮するには、全裸になる必要がある。
毎日パソコンと向き合うだけの味気ない
技術職の日々。 そんな俺が手に入れた
あまりにも危険で魅惑的なテクノロジー。
透明になれる手段を得た男が思い浮かべる
ことなんて、昔から一つ決まっている。
「藤咲……待ってろよ……!」
藤咲葵。
営業部に所属する会社の同期で
大人の魅力に溢れた綺麗な女性だ。
無駄な愛想を振りまくタイプではなく
常に凛とした落ち着いた雰囲気を
纏っている。社内でも一目置かれている
高嶺の花であり、 部署が違う俺にとっては
完全に雲の上の存在だ。せいぜい社員食堂で
顔を合わせたら会釈を交わす程度の
ただの顔見知りに過ぎない。
以前、社員データを扱う社内名簿システムの
データメンテナンスで藤咲の自宅の住所を
目にして、俺は驚愕した。藤咲は俺の住む
社員寮に、しかも、俺の隣の部屋に
住んでいたのだ。会社ではきっちりスーツを
着こなし、冷涼な美しさを漂わせる藤咲が
プライベートの、壁一枚隔てただけの空間で
どんな無防備な姿を見せるのか。
早速、俺はスマホアプリで透明化をONにして
心臓の高鳴りを必死に抑えながら
全裸のまま自室のドアを開けた。
静まり返った廊下。全裸で外に出ているという
異常な背徳感に身をよじらせながら、息を殺して
潜んでいると、藤咲がゴミ出しのために
部屋を空けた。足音を殺し、彼女の部屋へと
滑り込む。室内には、いつも社内で
すれ違ったときに香る上品で
落ち着いた香水の匂いがかすかに漂っていた。
高嶺の花のプライベートな聖域に
全裸で潜入しているという現実に
足先からゾクゾクとするような
狂おしい興奮が突き上がってくる。
ソファの裏に身を潜めて数十秒後
ゴミを捨て終えた藤咲が
リビングに戻ってきた。
「はぁ……疲れた。もう下着外しちゃおう」
ソファ越しに聞こえる衣類が擦れる音。
いつも冷静沈着な彼女が漏らした生々しい吐息。
まだ本人の姿すら目の当たりにしていない
というのに、その一言だけで全身の血流が
とてつもないスピードで巡り始め
男としての本能が狂い咲いた。
(ヤバい、ついに……
あの藤咲の姿を拝める......!!)
「ブーッ、ブーッ、心拍数が
規定値(120bpm)を超えました。
システムエラー。強制実体化を行います」
(......え?)
その刹那、持っているスマホが激しく
振動して、画面に警告が表示されていた。
心拍数の急上昇による体温変化でデバイスが
過熱し、安全装置が働いて、全身の実体化が
始まってしまったのだ。うっすらと
赤みがかった自分の手が露わになる。
(ヤバいヤバいヤバい!!バレたら
人生終了だ!!落ち着け!脳を冷やせ!!)
藤咲は部屋の奥へと歩いていき、こちらには
一切気づいていない。 心拍数を下げるために
俺は必死で藤咲から目を背け、全速力の
脳内暗唱を開始した。
「円周率は3.1415926535……!!
スイヘーリーベ、ボクノフネ!! 」
必死の脳内冷却処理により、なんとか
心拍数が低下。 ギリギリのところで実体化を
免れ、再び透明に溶け込み、危機を脱した。
藤咲は何事もなかったかのように
ゆったりとした足取りで奥の寝室へと消えていく。
藤咲は完全にリラックスしている様子だ。
俺は胸をなでおろしながら這うように
ベランダへ向かい、窓の鍵を解錠して
自室へと命からがら逃げ戻った。
鏡の前で透明化を解除して
冷や汗だらけの全裸で膝をついた
俺は虚無感の中で静かに涙を流した。
目の前で無防備な姿を晒している片思いの
女の子。すぐ近くに桃源郷はあるというのに
俺自身の興奮が最高潮に達した瞬間に、この
システムは俺を裏切るのだ。己の浅ましい
煩悩との戦いに打ち勝たない限り、俺は一生
藤咲のスケベを拝めないのかもしれない。




