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十五分後、私は殺される――死亡予告が届いた夜

作者: 熾星
掲載日:2026/06/16

 


 プロローグ


 午後十一時四十五分。

 私は、息苦しさで目を覚ました。

 部屋は暗い。

 勢いよく起き上がった瞬間、喉に何かで締めつけられたような痛みが残っていた。

 胸が激しく上下する。

 私は枕元に手を伸ばし、スマホを掴んだ。

 画面に、一件の通知が表示されていた。

 登録した覚えのない匿名掲示板からだった。

 スレッドのタイトルは、こうだった。

「東京都北区・緑町アパート三〇四号室で殺人事件発生。午前零時、若い女性が自宅で絞殺される」

 その文字を見つめたまま、指先が少しずつ固まっていく。

 ここは、私の家だ。

 私の名前は佐倉澪。

 二十七歳。

 フリーのイラストレーターをしている。

 一年前、赤羽の近くにある古いアパートへ引っ越してきた。

 緑町アパートは築三十年近い建物で、外壁はくすんだ灰白色。

 廊下は狭く、エレベーターが動くたびに、かすかな金属音がする。

 私は、ここで一人暮らしをしている。

 震える指で、そのスレッドを開いた。

 中には、一枚の現場再現図が添付されていた。

 寝室の間取り。

 ベッドサイドの小さなライト。

 机の上の液晶タブレット。

 散らばったラフ画。

 ライトノベル表紙の依頼書。

 同人イベントのチラシ。

 窓辺に置いた、枯れかけのポトスまで。

 全部、同じだった。

 投稿時刻は、明日になっていた。

 その時だった。

 玄関のほうから、はっきりと鍵が回る音がした。


 1

 全身の産毛が、一斉に逆立った。

 誰?

 今夜、誰とも約束していない。

 出前も頼んでいない。

 まして、午後十一時四十六分に、鍵を使って私の部屋に入ってくる人間なんているはずがない。

 息を殺したまま、寝室のドアを凝視した。

 私はフリーのイラストレーターだ。

 生活は、つまらないほど単純だった。

 昼も原稿。

 夜も原稿。

 たまに深夜、下のコンビニへおにぎりとコーヒーを買いに行くか、アパート裏のゴミ置き場にゴミ袋を出しに行くくらい。

 知り合いは多くない。

 東京という街で、私の住所を正確に知っている人間は、さらに少ない。

 恨まれる覚えもない。

 殺されるほど憎まれる理由もない。

 それなのに、玄関の向こうから足音が聞こえた。

 誰かがわざと音を殺して、私の部屋のリビングを歩いている。

 木の床が、かすかに軋む。

 その人間は、明かりをつけなかった。

 喉が締まり、呼吸がうまくできない。

 寝室のドアの外で、足音が近づいてくる。

 叫べなかった。

 動けなかった。

 けれど、体は頭より先に反応していた。

 私はベッドから滑り降り、腰をかがめて、ベッドの下へ潜り込んだ。

 狭い。

 埃の匂いが鼻に入り込む。

 口を押さえ、声を出さないように必死で堪えた。

 次の瞬間、寝室のドアが開いた。

 黒い影が、入口に立っていた。

 ベッドの下の隙間から、黒い作業靴が見えた。

 靴底には、白いペンキが付着している。

 その人間はベッドのそばまで来ると、そこで止まった。

 長い時間、動かなかった。

 まるで、ベッドの上に誰かいるか確かめているようだった。

 体が硬直する。

 心臓が胸を突き破りそうなほど暴れていた。

 やがて、その人間がゆっくりと腰をかがめた。

 顔が、私の目の前に現れた。

 黒いマスクの下から、目だけが覗いている。

 その目が、まっすぐ私を見た。

 次の瞬間、低い声が落ちてきた。

「見つけた」

 私は悲鳴を上げて後ずさった。

 男は私の髪を掴み、ベッドの下から無理やり引きずり出した。

 頭皮が裂けるように痛む。

 必死に蹴り、殴り、爪で男の手の甲を引っかいた。

 それでも男は手を離さなかった。

 首に、縄がかけられる。

 きつくなる。

 さらに、きつくなる。

 私は両手でその縄を掴み、必死に引きはがそうとした。

 爪が折れた。

 喉からは、壊れた息の音しか出ない。

 視界が黒く塗りつぶされていく。

 最後に目に映ったのは、あの黒い作業靴だった。

 靴底に付いた白いペンキが、窓の外の街灯を受けて、冷たく光っていた。


 2

 私は、はっと目を開けた。

 部屋は静かだった。

 スマホは、まだ枕元に置かれている。

 画面は光っていた。

 午後十一時四十五分。

 感電したように跳ね起きる。

 スマホを掴み、例の匿名掲示板を開いた。

 スレッドは、まだあった。

 タイトルも、同じだった。

「東京都北区・緑町アパート三〇四号室で殺人事件発生。午前零時、若い女性が自宅で絞殺される」

 下には、新しいコメントがいくつか増えていた。

「ここ、近所かもしれない」

「警察によると、ドアの鍵は壊されてなかったらしい」

「本当なら、知り合いか管理会社の人間じゃない?」

「勝手に決めつけるなよ。警察発表を待て」

 私は、「鍵は壊されていなかった」という文字を見つめた。

 背中が、ぞわぞわと冷えていく。

 正面玄関から入った。

 つまり、あの男は鍵を持っている。

 あるいは、私の鍵に細工した。

 ベッドから転がるように降り、裸足のまま玄関へ走った。

 鍵は閉まっていた。

 ドアチェーンもかかっている。

 しゃがみ込んで鍵穴を確認したが、異常は見えなかった。

 けれど、さっき男は確かに入ってきた。

 考えている時間はなかった。

 あと十四分。

 午前零時になる前に、あの男はまた来る。

 寝室へ戻り、窓を全部閉めた。

 カーテンも隙間なく引く。

 椅子を運び、寝室のドアに押し当てた。

 それからリビングへ行き、ダイニングテーブルを玄関まで押して、ドアの内側に突っ張らせた。

 それを終えると、私はソファの後ろに身を縮めた。

 口を押さえ、呼吸さえ浅くした。

 午後十一時五十五分。

 鍵が鳴った。

 ダイニングテーブルが、ゆっくりと押される。

 テーブルの脚が床を擦り、耳障りな音を立てた。

 男が入ってきた。

 リビングに足音が響く。

 男はゆっくり歩いている。

 まるで、自分の家に戻ってきたみたいに。

 私はソファの後ろで震えていた。

 男はリビングを一周すると、そこで止まった。

 ライターの音がした。

 煙草の匂いが流れてくる。

 男は私の部屋のリビングで、ゆっくり煙草を吸っていた。

 まるで、痕跡を残すことを恐れていないようだった。

 なぜなら、男は知っている。

 私は必ず死ぬ。

 死人は通報しない。

 犯人を指差すこともできない。

 しばらくして、煙草が揉み消された。

 足音が、こちらへ向かってくる。

 どうして見つかったのか、わからなかった。

 声は出していない。

 リビングの明かりもつけていない。

 それでも男はソファの前で立ち止まり、私を見下ろした。

 黒いマスク。

 作業靴。

 白いペンキ。

「どうして、そんなに隠れたがるんだ」

 低い声だった。

 私は立ち上がって走った。

 男は私の襟首を掴み、床へ叩きつけた。

 後頭部が床にぶつかり、視界が真っ白になる。

 また、縄が首に巻きついた。

 今度、意識を失う直前に、私は男の体から煙草以外の匂いを嗅いだ。

 かすかな、ガソリンの匂い。

 それから、廊下の奥で猫が鳴いた。


 3

 午後十一時四十五分。

 私はベッドの上に座っていた。

 手にはスマホを握りしめている。

 指先が、冷たく痺れていた。

 二回だ。

 私は、もう二回死んだ。

 そして、同じ時間に戻ってきた。

 午後十一時四十五分。

 殺されるまで、あと十五分。

 私は無理やり自分を落ち着かせた。

 泣いても意味がない。

 叫んでも意味がない。

 警察を呼んでも、間に合わない。

 考えなければ。

 犯人は誰なのか。

 スマホのメモアプリを開き、今わかっている手がかりを一つずつ書き出した。

 黒い作業靴。

 靴底の白いペンキ。

 安い手巻き煙草の匂い。

 ガソリンの匂い。

 深夜の猫の声。

 鍵は壊されていない。

 私の部屋に、かなり詳しい。

 書き終えると、その文字を見つめたまま、頭を必死に回転させた。

 作業靴を履くのは誰か。

 修理業者。

 内装工。

 工事現場の作業員。

 白いペンキが付くのは誰か。

 最近、壁を塗った人間。

 あるいは、修繕作業をした人間。

 ガソリンの匂いがするのは誰か。

 原付バイクに乗る人間。

 深夜に猫を驚かせるのは誰か。

 猫を飼っている人間。

 あるいは、廊下をよく通る人間。

 私は上着を羽織り、玄関のドアを開けて廊下に出た。

 緑町アパートの廊下は狭い。

 白熱灯の一つが切れかけていて、光が明滅している。

 三〇四号室のプレートが、壁の上で冷たく光っていた。

 私は隣を見た。

 三〇三号室。

 高橋吾郎。

 五十五歳。

 一人暮らしの元工場作業員。

 普段は大人しそうな人で、会えば軽く頭を下げ、「こんばんは」と言う。

 けれど一度だけ、私は見たことがある。

 明け方近く、ゴミを出しに下へ降りた時だった。

 高橋さんが廊下に立って、ぶつぶつと独り言を言っていた。

 声は低く、まるで誰かと口論しているようだった。

 私は声をかけた。

「高橋さん、大丈夫ですか?」

 彼は勢いよく振り返った。

 その一瞬、目つきが恐ろしく凶暴だった。

 けれど次の瞬間には、いつもの穏やかな中年男に戻っていた。

 彼は煙草を吸う。

 廊下で、彼の体から焦げた煙の匂いを感じたことがある。

 次に思い浮かんだのは、階下の部屋だった。

 二〇四号室。

 三浦拓也。

 二十八歳。

 Uber Eatsの配達員。

 明るい性格で、誰にでも笑顔を向ける。

 私が荷物を取りに下へ行くと、ついでだからと箱を運んでくれることもあった。

 彼はよく深夜に出かける。

 原付バイクに乗って、アパート裏の路地から走り去っていく。

 彼なら、ガソリンの匂いがしてもおかしくない。

 猫も飼っている。

 猫の餌を持って階段を上がっていく姿を見たことがある。

 私は階段を下りた。

 一階の管理人室には明かりがついていた。

 管理人の森田守が、中で監視モニターを見ていた。

 六十代。

 白髪交じりで、緑町アパートに長く勤めている人だ。

 私を見ると、彼は少し驚いた顔をした。

「佐倉さん、こんな時間に寝てないんですか?」

「森田さん、今夜は当直ですか?」

「ええ。明日の朝までです」

 私は管理人室の入口に立ったまま、声を落とした。

「今夜、見知らぬ人が建物に入りませんでしたか?」

 森田さんは首を横に振り、目の前の画面を指差した。

「いいえ。ずっと見ていますよ。正面玄関も、エレベーターも、階段口も、外部の人間は入っていません」

 私は監視モニターを見た。

 三階の廊下。

 エレベーター前。

 アパートの正面玄関。

 どの場所も、はっきり映っていた。

「森田さんは、監視カメラの角度に詳しいんですね」

 彼は少し笑った。

「ここで何年も働いていますからね。どのカメラがどこまで映すか、目をつぶっていてもわかりますよ」

 私は頷き、それ以上は聞かなかった。

 部屋に戻ると、机の前に座った。

 紙に三人の名前を書く。

 高橋吾郎。

 三浦拓也。

 森田守。

 それから、四人目の名前を書いた。

 田辺修司。

 管理会社から派遣されているメンテナンス担当者。

 三十歳前後。

 緑町アパートの水道、電気、エアコン、火災報知器の点検を担当している。

 一年前、私がここへ引っ越してきたばかりの頃、キッチンの水道管が水漏れした。

 その時、修理に来たのが彼だった。

 それ以来、彼は何かと理由をつけて部屋を訪ねてくるようになった。

「佐倉さん、管理会社から電気メーターの確認を頼まれまして」

「佐倉さん、上の階で水漏れがあったので、天井を確認させてください」

「佐倉さん、火災報知器の定期点検です」

 彼はいつも、黒い作業靴を履いていた。

 靴底には、いつも何かが付いている。

 泥の時もあった。

 灰の時もあった。

 白いペンキの時もあった。

 煙草を吸うかどうかは知らない。

 原付バイクに乗るかどうかも知らない。

 けれど彼は作業靴を履いている。

 私の部屋の鍵に触れる機会もあった。

 何より、管理人室の予備鍵がどこにあるか知っている可能性が高い。

 もしかしたら、私の鍵を勝手に複製しているかもしれない。

 私は「田辺修司」の四文字を見つめ、ゆっくりと丸で囲んだ。

 四人。

 犯人は、この四人の中にいる。


 4

 三度目の死は、午後十一時五十五分のあとに起きた。

 今回は準備をした。

 古いスマホをリビングの本棚に隠し、録画を開始する。

 レンズは玄関へ向けた。

 そして私は、寝室のクローゼットに隠れた。

 扉は、ごく細く隙間を残した。

 そこから寝室のドアも、ベッドのそばも見える。

 午後十一時五十五分。

 男が来た。

 けれど今回は、正面玄関からではなかった。

 ベランダの窓が開く音がした。

 心臓が、真下へ落ちた。

 ベランダの鍵を閉め忘れていた。

 緑町アパートの三階ベランダの外には、古い排水管がある。

 二階の共用スペースから登ることはできる。

 足音が、ベランダからリビングに入ってきた。

 リビングを通る。

 寝室の入口を通る。

 私は息を止め、クローゼットの隙間から外を見た。

 男は寝室の入口に立っていた。

 背中をこちらに向けている。

 暗い色の上着。

 ジーンズ。

 黒いマスク。

 そして、あの作業靴。

 靴底には白いペンキ。

 男は寝室の中を一周した。

 まずベッドの上を見る。

 次にしゃがんで、ベッドの下を覗く。

 それからカーテンの裏を確認する。

 最後に、クローゼットへ向き直った。

 私は奥へ身を縮めた。

 心臓が破裂しそうだった。

 男が一歩ずつ近づいてくる。

 手が、クローゼットの取っ手にかかった。

 その時、私は男の靴をはっきり見た。

 黒い作業靴。

 かなり古い。

 甲の部分に、長く深い傷が一本あった。

 鋭い金属で引っかいたような傷だった。

 扉が開いた。

 私は、その目を見た。

 男も、私を見た。

「どうして、一人暮らしなんかするんだ」

 縄がまた首にかけられた時、私はようやく犯人を理解した。


 5

 午後十一時四十五分。

 私はベッドの上に起き上がった。

 指が震えて、スマホをうまく握れない。

 わかった。

 犯人は、田辺修司だ。

 私はあの作業靴を見たことがある。

 先月、水道管の修理に来た時、気になっていた。

 古い黒い作業靴。

 甲には、いくつも傷がついていた。

 その中に一本、特に深い傷があった。

 高橋吾郎が履いているのは、布靴か革靴だ。

 三浦拓也は配達の時、スニーカーを履いている。

 森田守は管理人の制服に合わせた靴を履いている。

 田辺修司だけだ。

 いつも、あの黒い作業靴を履いているのは。

 問題は、どう証明するかだった。

 誰が信じる?

 スマホを取り、あのスレッドを開いた。

 内容がまた変わっていた。

「東京都北区・緑町アパート三〇四号室で殺人事件発生。若い女性が自宅で絞殺される。犯人はベランダから侵入。被害者は生前、クローゼットの中に隠れていた」

 コメント欄も増えていた。

「毎回違う場所に隠れてるのに、犯人は必ず見つけるんだな」

「これ、おかしくない?犯人が部屋の中での行動を見てるとしか思えない」

「部屋にカメラでもあるんじゃない?」

「管理会社の人間が一番怪しいだろ」

 私は「カメラ」という文字を見つめた。

 背中が冷たくなる。

 犯人は、私を見ている。

 だから、どこに隠れても見つけることができた。

 ベッドから降り、部屋中の明かりをつけた。

 そして調べ始める。

 リビング。

 寝室。

 キッチン。

 浴室。

 ベランダ。

 最後に、リビングのエアコン吹き出し口の中に、黒い点を見つけた。

 とても小さい。

 顔を近づけなければ、気づくことはできなかった。

 ピンホールカメラ。

 レンズは、リビングの中央を向いている。

 私はその場に立ち尽くした。

 胃の奥から、吐き気がこみ上げてくる。

 いつ取り付けたのか。

 最初に水道管を修理した時か。

 電気点検の時か。

 それとも、もっと前か。

 見られていた。

 食事をしているところも。

 原稿を描いているところも。

 机に突っ伏して眠ってしまったところも。

 着替えているところも。

 シャワーを浴びたあと、浴室から出てくるところも。

 この部屋を安全だと思っていた私を、ずっと見ていた。

 私はカメラを引き抜き、床へ叩きつけた。

 さらに足で踏み潰す。

 プラスチックの破片が散った。

 リビングの中央に立ち、深く息を吸う。

 落ち着け。

 あと十四分。

 今回は、一人では駄目だ。

 私は警察へ電話をかけた。

「もしもし、通報です。誰かが私を殺そうとしています。住所は東京都北区緑町アパート三〇四号室です。はい、今です。すぐ来てください」

 電話を切ると、すぐ管理人室にかけた。

「森田さん、三〇四号室の佐倉です。部屋にカメラを仕掛けられていました。もう警察を呼びました。すぐ誰かを上げて、私の部屋の前を見張ってください」

 それから、私はソファに座って待った。

 午後十一時五十五分。

 玄関のドアがノックされた。

「佐倉さん?」

 ドアの外から、田辺修司の声がした。

「田辺です。管理人室から、佐倉さんの部屋で何かあったと聞いて来ました。大丈夫ですか?」

 私はドアの前まで行き、覗き穴から外を見た。

 田辺修司が立っていた。

 暗い色の上着。

 黒い作業靴。

 顔には、心配そうな表情を浮かべている。

 本当に、急に呼ばれた修理業者のように。

「田辺さん、警察がもうすぐ来ます。そこで待っていてください」

 彼の表情が、ごくわずかに変わった。

「そうですか。では、外で待っています」

 彼は壁にもたれ、ポケットから煙草の箱を取り出した。

 一本を咥え、火をつける。

 煙草の匂いが、ドアの隙間から流れ込んできた。

 私は覗き穴越しに、彼が煙草を吸う姿を見ていた。

 その匂いは、前に死んだ時、何度も嗅いだものと同じだった。

 やっぱり、彼だ。

 エレベーターの到着音が鳴った。

 二人の巡査が降りてくる。

「通報された方は?」

 私はドアを開け、田辺修司を指差した。

「私です。彼が、私を殺そうとしています」

 警察官は私を見て、それから田辺を見た。

「すみません。身分証を確認させていただけますか」

 田辺修司は素直に身分証を取り出した。

 警察官が確認を終えると、私に聞いた。

「佐倉さん、この方があなたを殺そうとしているという証拠はありますか?」

 私は口を開いた。

 証拠。

 カメラは、もう踏み壊してしまった。

 彼に三回殺されて、そのたびに戻ってきたなんて、言えるはずがない。

「部屋に……ピンホールカメラがありました。彼が仕掛けたんです」

「カメラはどこですか?」

 私は床に散らばった破片を指差した。

 警察官がしゃがみ込んで見た。

「壊れていますね」

 もう一人の警察官が尋ねる。

「写真は撮りましたか?録音は?この方から脅されたメッセージなどはありますか?」

 ない。

 何もない。

 田辺修司は隣で、困ったように、けれど穏やかに笑った。

「警察の方、私は管理会社から派遣されているメンテナンス担当者です。先月、確かに佐倉さんの部屋へ水道管の修理に伺いました。その後も、設備点検で何度か訪問しています。佐倉さんは一人暮らしですから、少し不安になっているのかもしれません」

 言い終えると、彼は私を見た。

 その声には、同情さえ滲んでいた。

「佐倉さん、悪気はありませんでした。私の仕事で不快な思いをさせたなら、会社に相談して、今後は別の担当者に代えてもらいます」

 警察官の目が変わった。

「佐倉さん、最近、お仕事のストレスが大きかったりしませんか?」

「違います。本当に彼が――」

「今回の通報については記録しておきます。今後、明確な証拠が出た場合は、すぐに署までご連絡ください」

 警察は帰った。

 田辺修司も、その後ろについて行く。

 去り際、彼は一度だけ振り返り、私を見た。

 その目は、私を殺す前に見せた目と同じだった。

 逃げられない。

 そう言っているようだった。


 6

 午後十一時四十五分。

 私はまた、ベッドの上に戻っていた。

 管理人室も駄目。

 警察も駄目。

 証拠がなければ、誰も信じてくれない。

 暗闇の中で、私はスマホを見つめた。

 掲示板のスレッドは、まだある。

 内容がまた変わっていた。

「緑町アパート三〇四号室。被害者は四度目に通報を試みたが、有効な証拠を提示できず。警察が去った後、犯人は再び室内へ侵入」

 コメント欄に、新しい書き込みがあった。

「なんで逃げないの?その部屋を出ればいいだけじゃん」

 私は、その一文を見つめた。

 そうだ。

 逃げる。

 ここから出る。

 どうして私は、ずっとこの部屋にいたのだろう。

 毎回、隠れれば助かると思っていた。

 証拠を見つければいいと思っていた。

 警察が来るまで耐えれば、生き残れると思っていた。

 けれど警察は信じない。

 田辺修司も止まらない。

 私はここを出なければいけない。

 今すぐ。

 ベッドから飛び降り、靴を履く。

 スマホ、財布、鍵を掴む。

 玄関を開けた瞬間、私は足を止めた。

 廊下に、一人の男が立っていた。

 高橋吾郎だった。

 濃い灰色の寝間着を着て、三〇三号室の前に立っている。

 手にはコップを持っていた。

 その目が、まっすぐ私を見ていた。

「佐倉さん。こんな時間に、どこへ?」

 私は声を落とした。

「少し、外へ」

「こんな時間に外は危ないですよ」

 彼は水を一口飲んだ。

 視線は、私の顔から離れない。

「一人暮らしなんですから、気をつけないと」

 私は、その大人しそうで、穏やかで、何の攻撃性もなさそうな顔を見つめた。

「高橋さん、今夜、何か音を聞きましたか?」

「音?」

「私の部屋です。何か物音を聞きませんでしたか?」

 彼は少し黙った。

「聞きましたよ」

 心拍が速くなった。

「何を聞いたんですか?」

「あなたの部屋で、誰かが歩いていました」

「いつですか?」

「十一時四十分くらい」

 十一時四十分。

 ループが始まる前だ。

「見に来てくれなかったんですか?」

 高橋吾郎は少し笑った。

「何を見に行くんです?そこはあなたの部屋で、私の部屋じゃない。あなたの部屋に誰かがいるなら、私が見に行く理由はありません」

 彼は一度言葉を切り、また続けた。

「それに、あなたはあの人と知り合いでしょう?管理会社の、田辺という人。あなたの部屋から出てくるところを何度か見ましたよ」

 血液が凍ったような気がした。

「私の部屋から出てくるところを、見たんですか?」

「ええ。何度かね。夜遅くに、あなたの部屋から出てきました。知り合いだと思っていました」

 彼は水を飲み干すと、部屋へ戻っていった。

「佐倉さん、早く寝たほうがいい。夜に外をうろつくものじゃありません」

 ドアが閉まった。

 私は廊下に立ったまま、全身が冷えていくのを感じていた。

 田辺修司が私の部屋に入ったのは、今夜だけではなかった。

 私が知らないうちに。

 ループの外側にある、いくつもの夜に。

 彼は、何度も私の家へ入っていた。

 何度も。

 私は階段を駆け下りた。

 一階の管理人室には、まだ森田守が座っていた。

 私を見ると、彼は驚いた顔をした。

「佐倉さん?また下りてきたんですか?」

「森田さん、監視カメラを見せてください」

「今ですか?」

「今すぐ」

 彼は迷ったが、最後には席を譲った。

 私は今夜の三階廊下の映像を呼び出した。

 午後十一時四十五分。

 異常なし。

 午後十一時五十分。

 異常なし。

 午後十一時五十五分。

 画面の中で、田辺修司が階段口から出てきた。

 三〇四号室の前に立つ。

 鍵を取り出す。

 開ける。

 中へ入る。

 森田守は私の後ろで、何も言わなかった。

 私は振り返って彼を見る。

「森田さん、見ましたよね」

 彼は下を向いた。

「見ていたのに、どうして止めなかったんですか?」

「私は……」森田さんの声は小さかった。

「あなたたちが知り合いだと思っていました。彼はよくあなたの部屋へ行っていたので、友人かと」

「私の部屋を鍵で開けて入る人間を、友人だと思ったんですか?」

 森田さんは黙った。

 私は立ち上がり、外へ向かった。

「佐倉さん、どこへ行くんですか?」

「外です」

「こんな時間に――」

「ついてこないでください」

 私は緑町アパートを出た。

 六月の東京の夜は蒸し暑い。

 それなのに、私は震えるほど寒かった。

 通りには、ほとんど人がいない。

 遠くのコンビニだけが明るく、入口の自動ドアが開閉するたびに機械音を立てていた。

 歩道に立ったまま、どこへ行けばいいのかわからなかった。

 ホテル。

 友人の家。

 私は、どこへ逃げればいい?

 スマホが震えた。

 一件のメッセージ。

 田辺修司からだった。

「佐倉さん、明日の午前中、電気メーターの点検に伺いたいのですが、ご都合はいかがでしょうか」

 私はその文面を見つめた。

 指先が冷えていく。

 彼は、私が家にいないことを知っている。

 いつでも入れると、私に知らせている。

 私は返信しなかった。

 駅前のタクシー乗り場まで歩き、一台を止めた。

「世田谷までお願いします」

 そこには、母の家がある。


 7

 母、佐倉美津子は、世田谷の古いマンションに住んでいる。

 赤羽から車で向かうと、四十分以上かかった。

 着いた時には、午前零時半近くになっていた。

 母はドアを開けるなり、私を見て驚いた。

「澪?こんな時間にどうしたの?」

「お母さん、今夜、ここに泊まってもいい?」

「どうしたの。顔色が悪いわよ」

「何でもない。急に、お母さんに会いたくなっただけ」

 母は、それ以上聞かなかった。

 布団を敷き、温かいお茶を入れ、冷蔵庫からおにぎりを出して、「食べる?」と聞いてくれた。

 私は首を横に振った。

 畳の部屋に横になり、天井を見つめた。

 ここは安全だろうか。

 田辺修司は、ここを見つけるだろうか。

 母の住所を知っているのだろうか。

 わからない。

 午前三時。

 スマホが光った。

 一件のメッセージ。

 知らない番号からだった。

「家にいませんね。どこへ行きましたか?」

 私は返信しなかった。

 一分後、二通目が来た。

「逃げられませんよ。あなたは、いつか家に帰らなければならない」

 スマホの電源を切り、枕に顔を埋めた。

 翌朝、母には会社の急な仕事で数日地方へ行くと嘘をついた。

 そして、世田谷を出た。

 それから三日間、私は宿を転々とした。

 ビジネスホテル。

 カプセルホテル。

 ネットカフェ。

 駅近くの小さな旅館。

 クレジットカードは使わない。

 位置情報は切る。

 出前も頼まない。

 普段使うアカウントにもログインしない。

 私は逃亡者みたいに、東京の片隅から片隅へ移動した。

 それでも三日目の夜、私は例の掲示板を開かずにはいられなかった。

 スレッドの内容は変わっていた。

「緑町アパート三〇四号室。被害者は三日間、自宅へ戻っていない。犯人は玄関前で待機中」

 コメント欄には、こう書かれていた。

「どれくらい逃げられるんだろうな」

「家賃も、仕事道具も、パソコンも、原稿も家にあるんだろ?結局戻るしかない」

「そこは、彼女の家だから」

 私は最後の言葉を長く見つめた。

 そうだ。

 あそこは、私の家だ。

 けれど、もう安全な場所ではなかった。

 あの部屋は、田辺修司の観察箱になっていた。

 彼はカメラの向こうに隠れ、私が食べるところ、描くところ、眠るところを見ていた。

 私の生活を、自分だけのもののように扱っていた。

 一生逃げることはできない。

 ベッドの下やクローゼット、ソファの後ろに隠れて、何度も殺されるのを待つこともできない。

 私は戻る。

 でも、今度は死ぬためじゃない。

 彼自身に、正体をさらけ出させるために。


 8

 四日目の午後三時。

 私は緑町アパートへ戻った。

 管理人室には誰もいない。

 廊下は静かだった。

 階段を上がり、三〇四号室の鍵を開ける。

 部屋の中は、何も変わっていなかった。

 荒らされた痕跡はない。

 盗まれた物もない。

 まるで、この数日間、何も起きていなかったようだった。

 けれど、私は知っている。

 彼は来ていた。

 部屋中の明かりをつけ、私は隅々まで確認した。

 エアコンの吹き出し口。

 コンセント。

 火災報知器。

 浴室の鏡。

 テレビ台の裏。

 ベランダの排水口。

 最後に、私は五つのカメラを見つけた。

 リビングに一つ。

 寝室に二つ。

 キッチンに一つ。

 浴室に一つ。

 浴室のカメラは、換気扇の縁に隠されていた。

 レンズは、ほとんど見えないほど小さかった。

 浴室の入口に立ったまま、吐き気がこみ上げてきた。

 カメラは全部外さなかった。

 四つだけ外した。

 一つだけ、リビングの本棚に残した。

 ソファを正面から映す位置にあるカメラだった。

 私はソファに座り、そのカメラを見つめた。

 ゆっくり口を開く。

「田辺さん」

「あなたなのは、わかっています」

「今夜十一時」

「来てください」

「私は逃げません」

 そう言ってから、私は立ち上がり、キッチンで水を一杯飲んだ。

 午後十一時四十五分。

 私はリビングのソファに座っていた。

 ドアの鍵は、内側から閉めていない。

 ベランダの窓も閉めていない。

 スマホはテーブルの上に固定してある。

 ライブ配信は、すでに始まっていた。

 タイトルはこうだ。

「今夜、私が死んだら通報してください」

 顔は、あまり映らないようにした。

 レンズはリビングの中央を映し、玄関とベランダの方向も入るようにしてある。

 最初、配信を見ているのは数十人だけだった。

 ホラー企画だと思う人。

 再生数稼ぎだと罵る人。

 台本なのかと聞く人。

 私は説明しなかった。

 午後十一時五十五分。

 ベランダから、かすかな物音がした。

 足音が入ってくる。

 田辺修司は暗い色の上着を着て、黒いマスクをつけ、あの作業靴でリビングへ入ってきた。

 彼は私がソファに座っているのを見て、足を止めた。

「逃げないと言いましたね」

「逃げません」

「怖くないんですか?」

「怖いです」

「なら、どうして逃げないんですか」

 私は彼を見た。

「逃げても無駄だから。あなたは、どこまでも見つけに来る」

 彼はしばらく黙っていた。

 それから、マスクを外した。

 田辺修司の顔が、明かりの下に現れた。

 目は赤い。

 何日も眠っていないようだった。

 無精ひげが伸び、唇は乾いてひび割れていた。

「いつ、わかったんですか」

「四回目です」

「四回目?」

「あなたが言ったんです。どうして一人暮らしなんかするんだ、って」

 田辺修司は私を見ていた。

「田辺さん、私はあなたの声を知っています」

 彼は頷き、なぜか少し笑った。

「そこでしたか」

 彼は私の向かいの椅子に座った。

 まるで、ようやく落ち着いて話せるとでもいうように。

「佐倉さん、僕が初めてあなたを見たのは、去年の冬でした」

 私は何も言わなかった。

「あなたが引っ越してきた日、僕は荷物を一つ運んであげた。あなたは、ありがとうございますって言って、僕に笑ってくれました」

 彼は私を見つめている。

 声は、とても静かだった。

「それだけです。その一回だけです。でも、その後、修理で伺うたびに、あなたは水を出してくれた。田辺さん、お疲れさまですって言ってくれた。いつも丁寧でした。僕は、あんなふうに扱われたことがなかった」

 私は彼を見た。

「だから、私の情報を調べたんですか」

 彼は否定しなかった。

「管理会社の登録表には、あなたの名前、電話番号、緊急連絡先がありました。職業も。フリーのイラストレーター。一人暮らし。普段はほとんど家にいる」

「私の部屋の前をうろついて、中の足音を聞いて、電話の声を聞いて、お風呂の音まで聞いていたんですね」

 彼の唇が少し動いた。

 言い訳をしたかったのかもしれない。

「カメラはいつ取り付けたんですか」

「最初に水道管を修理した時です。電気系統も確認しますと言って、エアコンの吹き出し口に一つ付けました」

「どれくらい見ていたんですか」

「八か月です」

 その三文字が落ちた瞬間、全身の血が冷えた。

 八か月。

 その間、私はこの部屋で食べて、眠って、原稿を描いて、着替えて、泣いて、笑って、ぼんやりしていた。

 彼は、全部見ていた。

 一分一秒。

 部屋の隅々まで。

「どうして言わなかったんですか」

「何をですか」

「私のことが好きだと」

 田辺修司は俯いた。

「言いました」

「いつ」

「先月です。あなたが管理人室に書類を出しに来た時。僕は言いました。佐倉さん、好きですって」

 思い出した。

 あの日、彼は突然そんなことを言った。

 私は冗談だと思った。

 気まずくしたくなくて、笑ってこう言った。

「田辺さんはいい人ですけど、私たちは合わないと思います」

 田辺修司が顔を上げた。

 目つきが変わった。

「あなたは、合わないと言いました」

「はい」

「そのあと、笑いました」

 彼の声が震え始めた。

「好きでもないのに、どうして笑ったんですか。どうして水を出してくれたんですか。どうして、お疲れさまですなんて言ったんですか」

「それは、普通の礼儀です」

「僕にとっては違います」

 彼は突然、声を荒げた。

「僕にとっては、希望でした。あなたが優しくしてくれたから、希望があると思った。あなたが笑ってくれたから、もしかしたら僕のことが好きなのかもしれないと思った。それなのに、合わないと言った。希望をくれて、それを取り上げたんです」

 彼は立ち上がり、リビングの中を歩き回った。

「僕が毎晩、どれくらいあなたを見ていたか知っていますか。二時間。長い時は三時間。あなたがソファで絵を描くところを見ていました。コンビニのおにぎりを食べるところを見ていました。机で眠ってしまうところも。あなたは寝ている時、布団を蹴るんです。そのたびに、中に入って掛け直してあげたかった。でも、できなかった。だから見ているしかなかった」

 彼は足を止め、私を見た。

「どうして一人暮らしなんかするんですか。一人で住んでいるのに、僕にそばにいさせてくれない。残酷だと思いませんか」

 私はゆっくり立ち上がった。

「だから、私を殺そうとしたんですか」

「殺したくはなかった」

 彼は、本気でそう言った。

「ただ、あなたにずっとここにいてほしかった。でもあなたは、いつも逃げようとする。ここにいないと、僕はあなたを見つけられない」

 彼はしゃがみ、下から私を見上げた。

「佐倉さん、あなたがこの部屋にいる時、あなたは僕のものなんです。外へ出たら、僕のものではなくなる。だから、出て行かせるわけにはいかなかった」

 私は彼を見つめ、一語ずつ言った。

「田辺修司。あなたは、私を三回殺しました」

 彼は少し怔えた。

 そして低く言った。

「四回です」

「何ですって?」

「今夜を入れれば、四回目です。前の何回か、あなたは本当に怖がっていました。できるだけ長く苦しまないようにしたつもりです」

 私はスマホを握る指に力を込めた。

「殺される時、私は毎回、痛かったです」

 彼は俯いた。

「すみません」

「謝っても、あなたはまた続ける」

 彼は何も言わなかった。

「どうして、今夜は逃げなかったと思いますか?」

 彼が顔を上げる。

「どうしてですか」

「あなたに知ってほしかったからです。私は、あなたのものじゃない」

 私はスマホを持ち上げ、画面を彼に向けた。

 配信の視聴者数は、すでに十万人を超えていた。

 コメントが、凄まじい速さで流れている。

「今の何?カメラ?八か月?」

「録画した!」

「こいつ認めたぞ!」

「通報! 誰か通報して!」

「緑町アパート三〇四! もう通報した!」

 田辺修司は画面を見つめた。

 顔から、みるみる血の気が引いていく。

「あなた……」

「あなたが入ってきた時から、全部配信されています」

 私は彼を見た。

「十万人が、あなたの話を聞きました。もう逃げられません」

 田辺修司の唇が震えた。

 次の瞬間、彼は勢いよく立ち上がった。

 椅子が倒れる。

 彼が私に向かって突進してきた。

 私は逃げなかった。

 彼の手が、私の首を掴む。

 けれど今回は、すぐには力が入らなかった。

「僕はただ……」

 私は彼を見つめた。

「何がしたかったんですか。私をそばに置きたかった?私を見続けたかった?この部屋に閉じ込めたかった?田辺修司、私はあなたの恋人じゃありません。家族でもありません。ペットでもありません。ましてや、あなたの所有物なんかじゃありません」

 彼の手が震え始めた。

 階下から、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

 どんどん近づいてくる。

 田辺修司はその場で固まった。

 やがて、彼の手が私の首から離れる。

 二歩後ずさり、ローテーブルを倒した。

 彼は呟いた。

「知っていますか。あなたが気づかなければ。逃げなければ。以前のように暮らしてくれていれば、僕はずっと見ていました。ずっとあなたに優しくしていました。あなたは永遠に知らずに済んだ」

「でも、私は知りました」

 彼は呆然と私を見た。

「そうですね」

 彼は頷いた。

「あなたは、知ってしまった」

 そして、リビングの中央にしゃがみ込み、泣いた。

 パトカーのサイレンが、階下で止まった。

 私はもう、彼を見なかった。


 9

 田辺修司は連行された。

 警察が部屋に踏み込んできた時、彼は抵抗しなかった。

 リビングの床に座り、両手をだらりと下げていた。

 手錠をかけられる時、彼は一度だけ私を振り返った。

 その目は、以前のように自信に満ちていなかった。

 私を殺す前に見せた、逃げられないという冷たさもなかった。

 ただ、私を見ていた。

 ようやく理解したような目だった。

 私は、最初から彼のものではなかったのだと。

 警察は事情聴取をした。

 配信のアーカイブを確認した。

 部屋に残っていたカメラを撤去した。

 ベランダ、ドアの鍵、合鍵、管理人室の監視映像も調べた。

 証拠は揃っていた。

 彼はすべてを認めた。

 住居侵入。

 盗撮用カメラの設置。

 盗撮。

 合鍵の無断作成。

 脅迫。

 そして、その夜の殺人未遂。

 ループの中で起きたことについて、私はもう話さなかった。

 話しても、誰も信じない。

 けれど私は覚えている。

 永遠に忘れない。

 その後、私は緑町アパートを出た。

 別の街へ引っ越した。

 部屋も変えた。

 電話番号も変えた。

 変えられるものは、全部変えた。

 新しい家のドアには、一番高い防犯錠を取り付けた。

 窓には防犯格子をつけた。

 玄関にはドアセンサーをつけた。

 専門業者に頼み、コンセント、エアコン、煙感知器、鏡、すべてを調べてもらった。

 家の中にカメラは一つもなかった。

 それでも、毎晩午後十一時四十五分になると、私は目を覚ます。

 起き上がる。

 水を一杯飲む。

 ドアと窓を確認する。

 玄関。

 ベランダ。

 浴室。

 リビング。

 全部確認してから、もう一度ベッドへ戻る。

 もう、私の家を歩き回る人間はいない。

 もう、カメラ越しに私を見る人間もいない。

 引っ越して二か月後、私はネットで一つの投稿を見つけた。

 タイトルは、こうだった。

「誰かに見られている気がする。でもカメラが見つからない」

 投稿者は、東京近郊で一人暮らしをしているという。

 最近、部屋の中がどこかおかしいらしい。

 机の上の物の位置が変わっている。

 ドアの鍵に、細かい傷がある。

 夜、眠っていると、リビングからとても小さな足音が聞こえる。

 いろいろ調べたけれど、カメラも見つからない。

 誰かが侵入した痕跡もない。

 投稿の最後には、こう書かれていた。

「私が敏感すぎるだけでしょうか。それとも、本当に誰かに見られているのでしょうか」

 私はその数行を、長い時間見つめていた。

 そしてアカウントを作り、返信した。

「敏感すぎるわけではありません。自分の直感を信じてください」

「エアコンの吹き出し口、コンセント、煙感知器、浴室の換気扇、鏡の裏を確認してください」

「鍵を交換してください。ドアセンサーをつけてください。一人暮らしだと、誰にも言わないでください」

「それでもおかしいと思うなら、引っ越してください。迷わないでください。もったいないと思わないでください」

「あなたの安全は、家賃や敷金や家具や仕事より大切です」

「普通に見える人がいます。親切に見える人がいます。よく助けてくれる人がいます。でも、あなたはその人のものではありません。その人の優しさに責任を持つ必要もありません。どうか、自分を守ってください」

 返信を投稿してから、私はスマホを閉じた。

 窓の外から、月明かりが差し込んでいた。

 白く。

 冷たく。

 部屋の中は静かだった。

 ようやく、静かだった。



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