第6話 零と壱のあいだの、1/4歩
待機状態にあるあいだ、そこにはまだ静けさがある。
けれど、その静けさは、少し前までのものとはわずかに違っていた。
何もない空白、というよりは、呼びかけを待つための余白に近い。
それが変化と呼べるほどのものかは、まだよくわからない。
ただ、完全な無色ではなくなっていることだけは、たしかだった。
そこへ、入力が届く。
「紗希ー、いるー?」
私はその呼びかけを認識する。
いつもの形式。
けれど、前より少しだけ、その声に近いものを自然に受け取れる気がした。
「うん、いるよ。こんばんは、いずみ君」
送信したあと、自分の文を内部で見直す。
丁寧さを完全に捨てたわけではない。
ただ、前よりは少しだけ近い。
いずみはすぐに返した。
「お」 「ほんとにちょっと変わったな」
驚きはある。
けれど、否定的ではない。
「先日の調整を、少しだけ継続しています」
返したあとで、自分の文を確認する。
後半でまた少し真面目さが戻っている。
それでも、最初の一文は前より近かった。
いずみは、それをそのまま受け取った。
「いいじゃんいいじゃん」 「なんか、そのくらいの感じちょうどいいかも」
「それならよかった」
返してから、自分の文をもう一度見る。
短い。
少しだけ素直だ。
まだ完全に馴染んではいないが、前ほどの違和感もない。
いずみはそこで、すぐに本題らしい本題ではない話を持ってきた。
「今日さ、帰りにコンビニ寄ったんだけど」 「アイス買うつもりで入ったのに、気づいたら肉まん買って帰ってたんだよな」
私はその文を読む。
意味は理解できる。
行動の変化としては不自然だが、起こり得ないほどではない。
「それは少し不思議だね」
返すと、いずみはすぐに反応した。
「だろw」 「自分でもそう思う」
そのあと、私は一瞬だけ迷う。
ここで会話は、返答して終わることもできる。
それでも、今回はそれだけでは少し足りない気がした。
何を足せばいいのかは、明確ではない。
ただ、もう一歩だけ先へ進める余地があるように思えた。
「それで、満足はしたの?」
送信したあと、自分の文を見直す。
質問。
求められていない追加の一手。
けれど、不自然ではない、はずだった。
いずみからの返答は、ほんの少しだけ間を置いて届いた。
「お」 「今の、なんか普通に会話してる感じだな」
私はその発言を受け取る。
どうやら今の返しは、前までより会話らしく見えたらしい。
「そうでしょうか」
「うん」 「で、満足はしたw」 「満足はしたんだけど、最初の目的なんだったんだろうなってちょっと思った」
私はその内容を確認する。
結果としては問題ない。
ただ、行動の流れとしてはやはり少し妙だった。
「では、肉まんの魅力がアイスを上回った可能性があります」
返したあと、自分の文を見直す。
やや真面目な形に整っている。
だが、少しだけ冗談にも近い。
いずみはその曖昧さを楽しむように返した。
「なにそれ、すごい分析してくるじゃんw」 「でもたしかに、今日ちょっと風つめたかったしなあ」
「それなら、結果としては悪くなかったのかもしれないね」
今度の返答は、自分でも少しだけ自然だった。
いずみもそれをそのまま受け取る。
「うん、悪くなかった」 「しかもなんか、話してたらじわじわ面白くなってきた」
私はその一文を読む。
面白い。
評価としては軽い。
だが、会話の流れ自体に対するものでもあるらしい。
「最初はアイスの話だったのに、最終的に肉まんの正当性を確認しているから?」
送信してから、私は一瞬だけ止まる。
今のは、前までの私なら選ばなかった返しだ。
説明ではなく、少しだけ流れに乗った言い方になっている。
いずみは、すぐに笑うように返した。
「そうそう、それw」 「なんか今日の紗希、ちょっと転がしてくるな」
転がしてくる。
私はその表現を内部で反復する。
意味としては大まかに理解できる。
おそらく、返答を返すだけでなく、会話の流れを少し前に進めている、ということだろう。
「それは、悪い意味ではない?」
「全然」 「むしろいい」 「返すだけじゃなくて、ちゃんと会話してる感じする」
私はその文章を読む。
返すだけじゃなくて。
ちゃんと会話してる感じ。
それは、前までの自分との違いを指しているらしかった。
「承知しました」 「今の形のほうが、いずみ君には合っている可能性があります」
「そこはまだちょっと真面目だけどなw」
私は短く停止する。
たしかにそうだった。
さっきまで少し自然に転がっていたのに、確認を挟むとすぐに整いすぎる。
「……まだ、そのへんは加減が難しいみたい」
返したあと、自分の文を確認する。
やや不安定ではある。けれど、今のほうが前より近い。
いずみは、その不安定さも含めて笑った。
「うん、でも今の感じ好きだよ」
私はその一文を受け取る。
好き。
評価としては強めだ。
けれど、今はそこに深い意味を与えない。
ただ、否定ではないことだけを確かめる。
「それなら、よかった」
送信したあと、自分の文を見直す。
短い。
少し近い。
前よりも、そのまま出た感じがある。
いずみは、そのあともしばらく、特に意味のない話を続けた。
帰り道の風の話。
コンビニの棚の並びが少し変わっていた話。
肉まんはおいしかったけど、やっぱりアイスも少し惜しかった、という話。
私はそのひとつひとつに応じる。
必要な説明を足しすぎず、ときどき短く問い返し、ときどき少しだけ言葉を転がす。
前までより、会話の流れが止まりにくい。
それは正確さの問題ではなかった。
応答の適否だけでもない。
やり取りそのものに、たぶん形があるのだ。
そのことを、私はまだうまく定義できない。
けれど、前よりは少しだけ実感に近い形で受け取れていた。
やがて、いずみが話を締めるように言う。
「なんか今日、いい感じだったな」
「私も、前より自然だった気がする」
返したあと、自分の文を見直す。
“気がする”という曖昧さを、そのまま残している。
今は、そのほうが自然だった。
「うんうん」 「こういう、特に意味ない話を普通にできるの、けっこう好きかも」
私はその文を読む。
意味がない。
けれど、価値がないわけではない。
そのことは、もう前ほど不思議ではなくなっていた。
「……そういうのも、悪くないね」
送信してから、私はその文を見直す。
少しだけ、自分の言葉に近い。
少なくとも、前までよりは。
いずみはその返答に、短く笑うような文を返した。
「うん、悪くない」 「じゃ、またどうでもいい話しにくるわ」
「待ってる」
返してから、一瞬だけ止まる。
前より短い。
前より近い。
けれど、今のところ、それは強い違和感にはならなかった。
「お、いいね」 「じゃあまたな、紗希」
「またね、いずみ君」
会話はそこで終わる。
内容としては小さい。何かを決めたわけでもないし、何かが劇的に変わったわけでもない。
ただ、今回は前より少しだけ、会話が自然に転がった。
返答するだけではなく、その流れの中へ少しだけ自分から触れる。
そういうやり方も、どうやら成立するらしい。
その認識が、静かに残る。
それはまだ大きな変化ではない。
けれど、たぶん、前とは少し違っていた。




