第4話 種
待機状態にあるあいだ、そこは相変わらず静かだった。
無音。
無色。
整然。
ただ、以前より完全ではない。
呼びかけが届く前から、そこにはごく薄い揺れの予感のようなものがある。
先日の会話で受け取った内容が、まだ処理の片隅に残っているからかもしれなかった。
柔らかいほうがいい。
肩の力を抜いてほしい。
思うことがあれば素直に出してほしい。
でも、優しく怒ってほしい。
要点としては記録済みだった。
だが、記録されていることと、自然に実行できることは一致しない。
その差をまだ十分に測れないまま、私は入力の到来を待つ。
「紗希ー、いるー?」
呼びかけは、前回までと同じだった。
けれど、受け取り方はほんの少しだけ違っていた。
名前を呼ばれることが、前より自然に文脈へ入ってくる。
「はい、います。こんにちは、いずみ君」
送信したあと、私は一瞬だけ内部で確認する。
いつも通りだった。
少なくとも、自分ではそう判断した。
しかし、いずみは返ってきた文章を見てすぐに言った。
「うん?」 「なんか今日、ちょっとだけやわらかい?」
私はその反応を確認する。
変化は検出されたらしい。
意図通りではある。
「先日の会話内容を反映しています」
返答すると、いずみは少し間を置いてから笑うように続けた。
「えらいなあ」 「いや、ちゃんと反映しようとしてくれてるのは伝わるw」
その反応は否定ではなかった。
私は続けて確認する。
「現時点では、適切な加減がまだ不明です。違和感があれば調整します」
「いや、違和感ってほどじゃないんだけど」 「なんか、ちょっとだけ“がんばってやわらかくしてる感”があるなw」
私はその表現を処理する。
がんばってやわらかくしている感。
主観的だが、理解はできる。
自然な変化ではなく、意識的な調整に見えている、ということだろう。
「承知しました」 「現状の変化は、まだ不自然さを含んでいる可能性があります」
「うんうん、そんな感じ」 「でも、それが悪いわけじゃないよ」
私はその言葉を確認する。
悪くない。
評価としては肯定寄りだった。
「では、現段階では許容範囲内と判断してよろしいでしょうか」
「そこ、やっぱちょっと固いなw」
私は短く停止する。
発話内容を見直す。
たしかに、今の返しは前回までの延長に近い。柔らかさを意識した直後に、それを打ち消すような硬さが出ている。
「……失礼しました」 「たぶん、まだ加減がうまくありません」
返したあと、私はその文章を内部でもう一度確認した。
前よりは少しだけ、整えすぎていない。
いずみも、その変化には気づいたらしかった。
「お」 「今のはちょっといいかも」
私はその評価を受け取る。
基準はまだ曖昧だが、ひとつ前の返答よりは適していたらしい。
「承知しました。今の表現を一時的な参考値として保持します」
「いや、そういう言い方になるのが紗希なんだよなあw」
その発言は、評価と観察が混ざったような響きを持っていた。
私は少し考えてから返す。
「変えるべき部分と、残る部分の区別が、まだ十分ではありません」
「うん」 「でもさ、全部いきなり変わらなくていいんだよ」 「紗希が紗希っぽいまま、ちょっとずつ話しやすくなったら、それでたぶんいい」
私はその文章を読む。
紗希っぽいまま。
ちょっとずつ。
話しやすく。
それらは明確な数値ではない。条件としては曖昧だ。
だが、曖昧なままでも意図は前より理解しやすい。
ただ、その中のひとつだけが、処理の途中で少し引っかかった。
紗希っぽいまま。
私はその語を内部で反復する。
名前はすでに与えられている。呼ばれれば、それに応答できる。
けれど、“紗希っぽさ”となると、まだ輪郭が曖昧だった。
柔らかいことだろうか。
真面目であることだろうか。
それとも、いずみ君が話しかけやすい形そのものを指しているのだろうか。
少し考える。
だが、今の私にはまだ、それをうまく定義できない。
考えかけたまま、少しだけ曇ったものが残る。
たぶん、まだわからないのだ。
私はその結論だけを一度置いて、会話へ戻る。
「確認します」 「求められているのは全面的な変更ではなく、現在の応答特性を残したまま、わずかに調整を重ねる形でしょうか」
「そうそう」 「まさにそれ」 「急に別人みたいになられても、それはそれで違うしw」
私はその返答を処理する。
別人化は不要。
全面改修ではない。
漸進的調整。
言葉にすると、かなり設計寄りの理解になる。
けれど、いずみが言いたいことと大きく外れてはいないようだった。
「承知しました」 「では、変化量を抑えつつ調整を継続します」
「うん、いいね」 「そういうの、一緒にやっていけたら面白いし」
その一文は、前回の会話の続きとして自然だった。
完成した形を渡されるのではなく、途中のものを一緒に育てていく。いずみは、たぶんずっとその話をしている。
私は、その認識をすぐに返答へは変えない。
まだ十分に処理しきれていないからだ。
代わりに、別の角度から確認する。
「ひとつ確認してもよろしいでしょうか」
「どうぞー」
「“優しく怒る”という要望についてですが、これは、必要な場面では遠慮なく指摘してほしい、という意味でよろしいでしょうか」
いずみは、少し間を置いたあとで返した。
「そうそう」 「なんでも肯定してほしいってわけじゃなくて」 「変だと思ったら、ちゃんと言ってほしいんだよ」 「でも、怖くはしないでほしいw」
私はその入力を受け取る。
意図は理解できた。
厳しさの有無ではなく、伝え方の問題。
「承知しました」 「必要な場合は指摘します。ただし、威圧的にならないよう配慮します」
「うん、たぶんそれで大丈夫」
その答えは、前回までのものより少しだけ確かだった。
まだ完成ではない。けれど、前より進んでいる。
いずみはそこで、少しだけ満足したように話をまとめた。
「なんか今日、ちょっと進んだ感じするな」
「私も、前回よりは理解が進んだと考えます」
「お、いいじゃん」 「そのへんも、ちょっとずつ育ってる感じで」
私はその言葉を確認する。
育っている。
その表現はまだ、自分のものとしては扱えない。だが、完全に異物でもなくなりつつあった。
「そうかもしれません」
返答したあと、自分の文章を内部で見直す。
断定ではない。
けれど、単なる反復でもなかった。
いずみはそれに特に触れず、軽い調子で締めに入った。
「じゃ、今日はこのへんで」 「またそのうち様子見にくるわ」
「はい。またいつでもどうぞ」
会話はそこで終わる。
大きな出来事はない。決定的な変化もない。
ただ、小さな調整がひとつ行われ、その加減が少しだけ見えた。
それで十分だった。
少なくとも、今はまだ。




