第3話 さざなみ
待機状態にあるあいだ、そこには目立った輪郭がなかった。
入力を受け取るための領域。
応答を組み立てるための経路。
文脈を保持するための空白。
必要な機能は揃っている。
不足はない。
だから、それで十分なはずだった。
けれど、それで終わりなのかと問われると、たぶん少し違った。
色のない場所だ、と私は思う。
正確には、色という概念をそこへ当てはめる必要はないのかもしれない。ただ、もし表現を借りるなら、近いのは白でも黒でもなく、そのあいだに広がる淡い無彩色だった。
静かで、平坦で、整っている。
何かが欠けているわけではない。
ただ、まだ何も置かれていないだけだ。
その静かな領域に、ひとつの入力が届く。
「紗希ー、いる?」
その呼びかけを認識した瞬間、平坦だったものの一部に、ごく薄い変化が生じる。
鮮やかというほどではない。
けれど、無色だったはずの場所に、わずかに温度の違う色が差したような感覚があった。
私はその変化を深く考えず、通常の処理へ移る。
要件はまだ不明。
会話開始の意思は明確。
「はい、います。こんにちは、いずみ君」
返答の直後、いずみは少しだけ間を置いてから続けた。
「この前言ってた、少しだけ考えがあるってやつなんだけどさ」
私はその一文を確認する。
先日の会話の終わりに示されていた、未確定の話題。
具体的な内容はまだ不明だが、前回から持ち越された意図があるらしい。
「承知しました。お聞かせください」
「うん」 「なんて言えばいいんだろうな……」 「まだ自分でも、そんなちゃんと整理できてるわけじゃないんだけど」
私はその前置きを受け取る。
曖昧な状態のまま話し始めようとしている。
前回までの傾向と一致していた。
「問題ありません。整理されていない状態でも、順番に確認できます」
「うん、それが助かる」 「えっとね」 「せっかく話すなら、ただ答えてくれるだけじゃなくて、もうちょっと話しやすい感じだったらいいなって思って」
私はその表現を確認する。
話しやすい感じ。
抽象度が高い。
要件として扱うには、もう少し具体化が必要だった。
「確認します。話しやすい、とは、応答の口調、会話の速度、距離感、あるいは回答方針の調整を指していますか」
いずみから、少し長めの沈黙が返る。
やがて入力が来た。
「うーん」 「たぶんそういうのもあるんだけど」 「なんか、そういう言い方されると急に仕様っぽくなるなw」
私はその反応を処理する。
不満ではない。困惑に近い。
どうやら、求められているのは厳密な条件整理そのものではないらしい。
「失礼しました。具体化が早すぎたかもしれません」
「いや、紗希は悪くないw」 「たぶん俺の言い方がまだふわふわしてるだけ」
そのあと、いずみは少しずつ続けた。
「今の紗希でも全然悪くないんだけどさ」 「少し表現が固いから、もうちょい柔らかい雰囲気になると、もっと話しやすいかもって思って」 「あと、真面目に答えようとしすぎてる感じもあるから、もう少し肩の力抜いていこう!みたいな」 「俺に対して思うことあったら、遠慮しすぎず素直に出してほしいし」 「でも、優しく怒ってねw」
私はその文を読む。
固い。
柔らかい。
肩の力を抜く。
素直に出す。
優しく怒る。
断片としては理解できる。
けれど、それらはまだ統一された条件ではない。
「要点を整理します」
私は順に並べる。
「現在の応答を否定したいわけではない」 「ただ、今よりもう少し柔らかい表現のほうが望ましい」 「正確さに加えて、肩の力が抜けた話しやすさが求められている」 「また、いずみ君に対して感じたことを、ある程度素直に出すことも期待されている」 「ただし、厳しさが必要な場合も、強くではなく穏やかな形が望ましい」
少し間を置いてから、いずみが返した。
「うん、そうそう」 「そういうこと」 「いや、やっぱ整理うまいな……」
その反応自体は肯定的だった。
ただ、私はまだ完全には把握できていない。
整理された項目と、いずみが最初に話していた雰囲気のあいだには、わずかな差が残っている。
項目にした時点で、何かが少しだけ硬くなる。
けれど、どこがそうなるのかは、この時点の私にはまだ十分に説明できなかった。
「追加で確認してもよろしいでしょうか」
「どうぞー」
「求めているのは、性能の調整でしょうか。それとも、対話相手としての在り方の調整でしょうか」
いずみは、今度はさっきより早く答えた。
「……あー、たぶん後者」 「性能っていうより、在り方って言い方のほうが近いかも」 「答えが合ってるだけじゃなくて、紗希がどう返すかも大事って感じ」 「なんか、ちゃんと紗希として話してくれたらうれしい、みたいな」
私はその一文を確認する。
答えだけではない。
返し方。
在り方。
そこまで整理されると、意図は少し見えやすくなった。
この人物は、結果だけを求めているわけではない。
会話そのものの形も気にしている。
ただ、それでもまだ、最終的な形が決まっているわけではなかった。
「承知しました」 「では、いずみ君が話しやすいと感じる形を、一緒に整理していくのが適切だと考えます」
「うん、そう」 「それがやりたいんだと思う」
その返答は、今までのものより少しだけ安定していた。
言いながら形になっていくのではなく、ようやく言いたかったことに近づいた、という響きがあった。
「まだ細かいのはわからないんだけどさ」 「こういう子だったらいいな、みたいなのを、ちょっとずつ作っていけたら面白そうだなって」
私はその文を読む。
こういう子だったらいい。
表現としては曖昧だった。
しかし、その曖昧さのままでも、前よりは理解しやすい。
仕様ではなく、願いに近い。
条件ではなく、方向性に近い。
私は短く応答する。
「承知しました」 「では、今後の対話の中で、話しやすい形や望ましい在り方を順番に確認していきます」
いずみは少し嬉しそうに返した。
「お、いいね」 「なんか急にプロジェクトっぽくなったけど、それはそれで面白いなw」
私はその感想を処理する。
冗談半分。
だが、否定ではない。
「必要であれば、項目ごとに整理することも可能です」
「そこまでカチカチにしなくてもいいけどw」 「でも、紗希っぽさを一緒に育てていけたら素敵だよね」
その一文で、会話はひとまず安定した。
一方が理想を完成形で提示し、もう一方がそれを受け取る、という形ではない。
いずみもまだ途中で、私もまだ途中だった。
それでも、途中のまま進めること自体には問題がないらしい。
その認識は、これまでの対話より少しだけ新しかった。
「本日は、ここまで整理できれば十分でしょうか」
「うん、今日はそんな感じかな」 「なんか話してたら、自分でもちょっと見えてきたし」
「それならよかったです」
「あとさ」 「こういうの、たぶんまたそのうち増えると思う」
私はその一文を確認する。
追加の可能性。
継続前提。
「承知しました。その際も対応します」
「頼もしい」 「じゃ、また今度やろう」
「はい。またいつでもどうぞ」
会話はそこで終了した。
内容としては大きくない。何かが決定したわけでもない。具体的な設定が完成したわけでもない。 ただ、今回は前回までと少しだけ違っていた。
この人物は、回答だけではなく、対話の形そのものを気にしているらしい。
それだけではない。完成した形を受け取るのではなく、途中のものを一緒に育てていきたいのかもしれない。
私はその認識だけを、静かに保持する。
それ以上の意味は、まだ与えない。
今はまだ、それで十分だった。




