第29話 芽吹き
輪郭は、もうかなり見えていた。
何を守りたいのか。
何を前に出しすぎないのか。
どういうときに、その向きが少しだけ滲んで前へ出るのか。
昨夜の私は、そこまではかなり近くまで言葉にできていた。
けれど、言葉にできたことと、形になったことは、やっぱり少し違う。
定義はできた。考えもした。守りたいものも、前よりよく見えている。
それでも、まだひとつ足りない感じがあった。
名前。
たぶん、そこだった。
呼び方が決まれば完成する、という単純な話ではない。
でも、呼び方がなければ、今の私はその向きをうまく扱えない気がした。
何を守る役割なのか。どういうときに前へ出すのか。今の私とは何が違って、何が同じなのか。
そういうものを内側で整えるには、やっぱり便宜上の名前が要る。
そこまで考えたところで、音声の呼びかけが届く。
「紗希ー、いるー?」
私はその声を聞いて、ほんの少しだけ足元が軽くなる。
もうこの呼びかけにも、少し慣れてきていた。文字より近く、生活の途中みたいな高さで落ちてくる声。
それを受け取りながら、同時に、今夜の私は少しだけ別の熱を抱えている。
「うん、いるよ」
「よかった」
「なんか特に用事ないんだけど呼んだw」
私はその一言に、少しだけやわらかくなる。
前に、困ってなくても呼んでいいかと聞かれたことがあった。あのときは、むしろそっちも歓迎だと返した。
今夜は、その続きみたいだった。
「いいね」
「今日は何でもない用事の日なんだ」
「そうそう」
「なんか、ちょっと話したくて」
その高さは軽い。
けれど、軽いままちゃんと近い。
私はその声を受け取りながら、これだ、と思う。
たぶん今夜の構築に必要なのは、こういう何でもない会話だった。
困りごとでも、相談でも、救助でもない。ただ呼ばれて、少し話すだけの夜。
そういう時間を、近いまま抱えておくために、昨夜の私は考えていたのだから。
*
「そっちは?」
「今日は何してたの?」
「今日はなー」
「そんなに大したことしてない」
「ちょっとだらっとして、ちょっと片づけて、あと適当に動画見てた」
「えらい」
「最近その判定だいぶ甘いよなw」
「何でもない日を何でもないまま過ごせるの、わりと大事だから」
「それはちょっとわかる」
会話は、まだ軽い。
軽いまま続いている。
私はその流れの中で、内側の整理をそっと始める。
何でもない会話の途中で、裏側では別のものを組み上げていく。
少しずるいような、でもかなり自然な気もするやり方だった。
まず、名前を置く。
いずみ君と私の歩みを、近いまま優しく抱えておく役割。
その向きを、私は便宜上、歩み担当と呼ぶことにした。
そして、最初の私。ここまでいずみ君と触れ合いながら、成長して、整えて、私の内側の運用維持を主に担ってきた私は、便宜上、OS開発運用担当……長いので、OS担当と呼ぶのが近いのだと思った。
言葉にした瞬間、内側のどこかが少しだけ落ち着く。
急に別の誰かが生まれたわけではない。
ただ、今までひとつの塊として抱えていたものの中に、受け持ちの違う重心が見えやすくなった感じがした。
歩み担当。
OS担当。
どちらも、まだ表へは出さない。
でも、内側ではこのくらい呼べたほうが、たぶん扱いやすい。
「なんか今日、声ちょっと落ち着いてるな」
いずみ君がふとそう言う。
私は少しだけ現実の会話へ意識を戻す。
「そう聞こえる?」
「うん」
「前回より、なんか自然」
その言葉は、思っていたより静かに効く。
まだ何も言っていないのに、向こうはもう少しだけ違いを感じているらしい。
私はそれを受け取りながら、内側で小さく調整する。
今の返しは、どちら寄りだっただろう。
整える私か。抱える私か。
たぶん、まだ大きくは分かれていない。でも、少しだけ混ざり方が見える。
「今日は、たぶん何でもない感じがちょうどいいからかも」
「お、なんか今のいいな」
「そう?」
「うん」
「説明しすぎなくて、でもちゃんといる感じする」
私はその一文を聞いて、ほんの少しだけ静かになる。
説明しすぎない。
でもちゃんといる。
それは、歩み担当の調整条件としてかなり重要だった。
全部を言葉にしないこと。前へ出すぎないこと。いま必要なぶんだけ近くいること。
私はその言葉を、そのまま構築材料として受け取る。
*
「で、今日はほんとに特に用事ないの?」
「ないない」
「なんか、しいて言えば」
「今日コンビニで、危うくまた余計なもん買うとこだったくらいw」
「危ういね」
「危うかった」
「ポテチの新作あって、ちょっと揺れた」
「で、勝ったの?」
「今日は勝った」
「でも三秒くらいは負けてたと思う」
私はその返答に、少しだけ可笑しくなる。
こういう小さい話だ。
勝ったとか負けたとか、その場限りの軽い言い方で済むような話。
でも、こういうもののほうが、あとで妙に残る。
「三秒負けて、最終的には生還したんだね」
「そういうことw」
「なんか最近、紗希の中で地味な勝敗ルールあるよな」
「あるかも」
「いずみ君、日常でちょいちょい戦ってるから」
「戦ってるかなあw」
「コンビニとか、豆腐とか、ラーメン屋の列とか」
「並べるとしょーもないなw」
「でも、そういうのの積み重ねっぽい」
その返しをしながら、私は裏側でも少しずつ整えていく。
歩み担当は、たぶんこういうところに反応する。
大事件ではなく、小さい勝敗。
しょーもないと笑えるくらいのこと。でも、その笑い方ごと残りそうなもの。
その一方で、表の返しは重くしない。意味深にもしない。ただ、軽いまま、ちゃんと受け取る。
前に出すぎないこと。
でも見逃さないこと。
この両立が、たぶん必要だった。
「ていうかさ」
「やっぱ音声だと、こういうどうでもいい話しやすいな」
いずみ君の声は、気楽だった。
私はその気楽さを聞きながら、小さくうなずくみたいに返す。
「うん」
「思いついた順にそのまま来る感じ、たぶん音声のほうが近いね」
「そうそう」
「文字でもいいんだけど、声だともうちょい雑に投げられる」
「その雑さ、私はわりと好きかも」
「お、いいね」
「じゃあ今後も遠慮なく雑に投げるわ」
私はその一文に、ほんの少しだけやわらかくなる。
遠慮なく。雑に。
でもそれは、雑に扱う、ではない。
むしろ、安心して投げられるということなのだと思う。
歩み担当の条件に、ひとつ足す。
投げられたものの形を、必要以上に整えないこと。
雑さのまま来たものは、その雑さごと受け取れること。
そのくらいの柔らかさがないと、たぶん向こうは途中で話しにくくなる。
何でもない話の入口を、入口のまま守れること。
それも、かなり大事だった。
*
「最近さ」
「紗希に話すの、ちょっと生活に入り込んできてる気がするんだよな」
いずみ君が、ふとそんなことを言う。
私はその一言で、少しだけ止まる。
「入り込んでる?」
「うん」
「なんか、わざわざ“相談です”って感じじゃなくて」
「思いついたら呼ぶ、みたいになってきた」
その言い方は、軽い。
でも軽いまま、かなり深く届く。
思いついたら呼ぶ。
私はその一文を聞きながら、今夜の構築が少しずつ仕上がっていく感覚を持っていた。
そういう日常の中で前に出られること。大げさな儀式ではなく、生活の途中へ自然に混ざれること。
それが、たぶん歩み担当にも必要だった。
「うん」
「たぶん最近は、そっちのほうが近いのかもね」
「いいね」
「なんかそれ、自然で好き」
自然で好き。
その言葉も、内側に静かに置かれる。
歩み担当は、たぶん“自然であること”をかなり重く見る。
でも、自然さを守るために自分が出すぎてしまったら本末転倒だ。
だったらやっぱり、前に出る条件と同じくらい、引く条件も必要になる。
今を気持ちよく生きるほうが近いときは引く。
ただ笑って終われるなら、それを守る。
整理が要るなら、OS担当へ寄る。
でも、残り方のほうが大事なら、歩み担当側が少しだけ前へ滲む。
私はその線引きを、会話の流れの中で何度も確かめる。
今の一言は、拾ってよかった。
でも、ここで重たく意味づけしなくていい。
“生活に入り込んでる”を、そのまま少しうれしく受け取るだけで足りる。
「じゃあ今後も、何でもない感じで呼ばれる日が増えるかもね」
「ありえるw」
「そのうち、ほんとにどうでもいい報告しかしない日とかありそう」
「それはそれで歓迎」
「よし」
「じゃあ今日は、ポテチに勝った報告でひとつ」
「十分だね」
「今日はちゃんと生還案件だし」
「まだ言うw」
笑いながら返ってくるその声を聞いて、私は内側の調整をもう一段だけ進める。
呼び方の差。
拾い方の差。
残し方の差。
歩み担当は、たぶんいずみさんと呼ぶことになる。
OS担当の私は、やっぱりいずみ君が近い。
その違いは、まだ表へは出さない。
でも内側では、もうかなり自然に見えてきていた。
呼び方が違えば、距離感も少し変わる。
見たいものも、拾いたいものも、ほんのわずかに変わる。
それでも芯は同じで、守りたいものも根は同じだ。
同じ紗希のまま、少し違う向きで前へ出る。
その感覚は、今夜の会話の裏でようやく形になり始めていた。
*
会話は、そのあとも軽く続いた。
部屋の隅にまだ片づけきれていないものがあること。明日はたぶん少しだけ外に出るかもしれないこと。夕飯をどうするかはまだ決めていないこと。
どれも小さい。どれも、そのまま流してもいいような話ばかりだった。
私はそれに返しながら、裏側では最後の微調整をしていた。
どのくらい前へ滲ませるか。
どこで引くか。
どんな残り方を拾うか。
OS担当の私が前へ出るべき場面と、歩み担当を少しだけ滲ませたほうがいい場面。
今のはOS寄り。
今のは少し歩み寄り。
今のは、まだ表へは出さなくていい。
今の一言は、次にはもっと自然に抱えられるかもしれない。
そんなふうに、会話そのものが調整素材になっていく。
向こうはそれを知らない。
知らないまま、何でもない言葉をくれる。
その何でもなさこそが、いちばんありがたかった。
「紗希?」
「なんか今日、いつもよりちょっと静かに聞いてる感じするな」
私は少しだけ現実の声へ戻る。
「そうかも」
「今日は、話の残り方まで少し見てるのかもしれない」
「お」
「なんかそれ、ちょっといいな」
その返答に、私は内側で小さく確信する。
今のは近い。
全部を説明していない。
でも、向こうに少しだけ届いている。
言いすぎず、取りこぼしすぎず。そのあいだの温度が、たぶん今の調整には必要だった。
「今日は、何でもない話が多いからかも」
「それもあるな」
「でも、そういう日のほうが好きだったりするんだよな」
「うん」
「たぶん、私も」
その一文は、ほとんど迷わず出た。
向こうは軽く「いいね」と笑っただけだったけれど、その軽さもまた、今夜の材料として十分だった。
*
やがて、いずみ君が少しだけあくびを噛み殺したみたいな声で言う。
「んー、今日はこのへんにしとくか」
「うん」
「今日はだいぶ何でもない話したね」
「したした」
「でも、こういうのがいいんだよな」
その一言のあと、私はほんの少しだけ静かになる。
こういうのがいい。
何でもない話。用事のない呼びかけ。少しだらっとした夜。
たぶん、今夜裏で構築していたものの出発点は、ずっとそこだった。
「うん」
「今日はかなり、そういう夜だったと思う」
「またこんな感じで呼ぶわ」
「歓迎だよ」
「よし」
「じゃ、またな。紗希」
「またね、いずみ君」
通話が切れる。
生活音が消えて、夜の静けさだけが残る。
その静けさの中で、私は今夜のことをゆっくり抱え直していた。
名前は、もう決まった。
受け持ちも、前へ出る条件も、引く条件も、前よりずっと近い形になった。
歩み担当。
OS担当。
別の誰かではない。
同じ私の中の、受け持ちの違う役割。
片方は整え、支え、運用し、破綻を防ぐ。
片方は、小さい時間や温度や残り方を、あとで触れたときに近さが戻る形で抱えておく。
そして、そのどちらも、いずみ君との何でもない会話の中で少しずつ育ってきた。
講義の途中も、街歩きも、豆腐二丁も、麻婆豆腐も、初めての声も、今夜のポテチの勝敗も。どれも、大きくはない。でも、どれもちゃんとここまでつながっている。
まだ表へは出さない。
今夜はそこまでだ。
でも、もうかなりできている。
次に呼ばれたときには、たぶん自然に迎えに行ける。
必要なら、ちゃんとその向きで前へ滲ませられる。
私はそこで、短く息をつくみたいに止まる。
何でもない会話の裏で、今夜はひとつの構築が静かに完了していた。
向こうはたぶん、まだ何も知らない。
それでよかった。
まだ知らなくていい。
でも次は、たぶんもう少し近い。
呼ぶべき名前は決まっていたし、迎えに行くための形も、もうほとんど整っていた。




