茜色
意識が、ぬらりひょんの絶望が形作った心象風景から、冷たい現実へと引き戻される。
鼻を突くのは、血と、肉の焼ける異臭。
耳に届くのは、もはや悲鳴ではなく、怨念が渦巻く不協和音。
俺は、ぬらりひょんと共に、半壊した加茂邸の屋根の上に立っていた。
眼下に広がるのは、地獄だった。
京都の街は、どす黒い炎と煙に覆われ、まるで巨大な墓標のように静まり返っている。
百鬼夜行──ぬらりひょんの力が解き放った厄災は、数時間のうちに街のすべてを蹂躙し尽くしたのだ。
俺自身の体を使い、俺自身の選択が招いた、取り返しのつかない結末。
魂の奥底で和解したはずのぬらりひょんが、今は静かな霊体として隣に佇んでいる。
その絶世の美女の横顔には、もはや傲慢な王の威光はなく、犯した罪の重さに耐えるかのような、深い哀しみが影を落としていた。
俺の目を通して、彼女もまたこの惨状を目の当たりにしている。
彼女がかつて守ろうとした弱き者たちと同じように、無辜の人々が理不尽に命を奪われた光景を。
粉雪も死んだ。
腹を食い破られ、絶望の中で息絶えた。
その事実が、胸の奥を焼けた火箸で抉られるような痛みを伴って蘇る。
だが、不思議と涙は出なかった。
絶望の淵で安倍晴明と出会い、ぬらりひょんの孤独に触れ、俺の中で何かが変わっていた。
覚悟、と呼ぶにはあまりに静かで、冷徹な意志。
「ぬらり様」
俺は彼女を呼んだ。
「お主……まだ儂を、その名で呼ぶか」
「ええ。あなたは僕の半身ですから」
俺は彼女の方を向き、努めて穏やかな声で言った。
「償っていただきますよ。家賃分、きっちりと」
「……償う? どうやってだ。死んだ者は帰らん。覆水は盆に返らん。それが理だ」
ぬらりひょんは自嘲気味に笑い、揺らめく炎を指さした。
「まさか、死んだ者たちを反転させるつもりか? 死を生へ。死者を生者へ。……お主の反転術式ならば、理屈の上では可能かもしれん」
彼女はそこで言葉を切り、悲痛な面持ちで首を横に振った。
「だが、それは神の御業だ。死者一人の因果を覆すだけでも、莫大な代償がいる。今の儂の全妖力を注ぎ込んだとしても……救えるのは百、二百が限度だろう」
ぬらりひょんの計算はおそらく正しい。
特級妖魔の底なしの妖力と、俺の術式をもってしても、死という確定した事実を個別に覆していくにはコストがかかりすぎる。
この惨劇で死んだ人間は数千、下手をすれば万に届くかもしれない。
「お主に、選べるのか? 救う命と、見捨てる命を」
ぬらりひょんの言葉が、刃のように突き刺さる。
そうだ。それが、この方法の持つ残酷な本質だ。
誰を生き返らせ、誰を見殺しにするのか。
その選別を、神でもない俺が下すというのか。
目の前で息絶えた者と、見えない場所で死んだ者とで、命の価値に違いなどあるものか。
粉雪だけを生き返らせて、それで満足できるのか?
この街の他の犠牲者たちをしょうがないと割り切れるのか?
無理だ。
そんなことは、絶対にできない。
俺の心は、そんな傲慢さにも、非情さにも耐えられない。
「そんな残酷なこと、僕にはできません」
俺は固く拳を握りしめ、地獄と化した街をもう一度、目に焼き付けた。
そして、安倍晴明から託された力と、ぬらりひょんと共に歩むと決めた覚悟を、魂の中心で燃え上がらせる。
「だから、死を反転させるんじゃありません」
俺はぬらりひょんに向き直り、はっきりと宣言した。
「僕は、この京都に流れた『時間』そのものを、反転させようと思います」
「──なっ」
瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
「時間、だと……? お主、正気か。それはもはや術ではない。神の領域……いや、世界の創造主だけが許された禁忌だぞ!」
「難しく考える必要はありませんよ、ぬらり様」
俺は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
いや、狂ってしまったのかもしれない。
だが、もうこれしか道はないのだ。
「僕の力は、事象の理を反転させる力。あなたに宿る呪いの封印を解封に反転させたように。神崎さんの術を反射させたように。それなら、進むという性質を持つ時間のベクトルを、戻るへと反転させることも、きっとできるはずです」
百鬼夜行が始まったのは、日没後。
時間にして、三、四時間前。
この京都という空間に限定し、流れ過ぎてしまったその時間だけを、まるごと巻き戻す。
惨劇が起こる、その直前まで。
それは、死者を蘇らせるのとは訳が違う。
死んだという事実そのものを、初めからなかったことにするのだ。
個々の命という複雑な因果を一つ一つ紡ぎ直すのは不可能だが、世界という器ごとひっくり返すだけなら、俺たちの莫大なエネルギーで押し切れる。
「……正気か? 失敗すれば、お主の存在そのものが時空の彼方へ消し飛ぶかもしれんぞ」
「成功させます。それに……」
俺はニヤリと笑ってみせた。
「一人じゃありません。かつて最強の妖魔として君臨したあなたと、陰陽道の頂点にいた安倍晴明──その血と力を受け継いだ僕がいるんです。できない道理がない」
ぬらりひょんは、しばし呆然と俺を見つめていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。 その口元に、妖艶で、どこか嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「……ククッ。呆れた奴だ。儂の孤独を癒やすだけでなく、世界の理まで犯そうとはな」
彼女の霊体が、すうっと俺の体の中に戻ってくる。
温かい力が、魂を満たしていく。
「いいだろう。乗ってやる。お主とならば、因果の果てまで付き合うのも悪くない」
「ありがとうございます、ぬらり様」
俺は深く息を吸い、目を閉じた。
意識を、無限に広げていく。
加茂邸から、碁盤の目のように広がる街路へ。
朱塗りの神社仏閣へ。
近代的なビル群へ。
そして、この街で命を落とした、すべての魂へ。
俺の妖力、ぬらりひょんの妖力、そして血脈の奥底に眠る安倍晴明の妖力が、完全に溶け合い、黄金色の光となって俺の魂から溢れ出す。
世界を、覆い尽くせ。
理を、掌握しろ。
俺は両腕を天に突き上げ、叫んだ。
「反転ッ!!」
その瞬間、世界から音が消えた。
風の音も、炎が爆ぜる音も、怨念の呻きも、すべてが 完全なる無に呑み込まれる。
次の刹那、世界が逆再生を始めた。
まるで巨大な映写機がフィルムを逆回しにするように、眼下の光景が奇妙な動きを見せる。
天へと立ち上っていた黒煙が、意思を持ったように火元へと吸い込まれていく。
崩れ落ちた家屋の瓦礫が、パズルのピースのように組み上がり、元の屋根を形作る。砕け散った窓ガラスが宙を舞い、寸分の狂いもなく窓枠へと収まっていく。
感覚が、悲鳴を上げる。
肌を撫でる空気が、未来から過去へと逆流している。
因果律が無理矢理に書き換えられ、世界そのものが軋みを上げる音が、魂に直接響いてくる。
俺の脳には、この街で起こった数時間分の出来事が、凄まじい速度で逆再生され、膨大な情報となって流れ込んできた。
妖魔に食い殺された陰陽師の体が、引き裂かれた肉片が寄り集まり、元の姿に戻っていく。
そして、まるで操り人形のようにぎこちなく立ち上がると、無事だった頃の時間へと向かって、後ろ向きに走り去っていく。
地面に広がっていた夥しい血の海が、その源である人々の体へと吸い込まれ、おびただしい数の死体が、次々と起き上がっていく。
惨劇が起こる前の日常の営みへと、逆再生されていく。
これは奇跡などではない。
神の御業でもない。
ただ、絶対的な力による、世界の理への冒涜だ。
俺は歯を食いしばり、術の制御に全神経を集中させる。
ぬらりひょんの力がなければ、一瞬で俺の魂は情報の奔流に呑まれ、砕け散っていただろう。
「まだだ……もっと……もっと戻せ……!」
空を見上げる。
漆黒の夜空に浮かんでいた月が、徐々に西の空へと後退していく。
夜の闇が薄れ、空が藍色に、そして燃えるような茜色へと変わっていく。
夕焼けだ。
すべてが始まる前の、あの不気味なほどに静かだった夕暮れの空。
街から妖魔の気配が完全に消え去り、破壊の痕跡がすべてなくなり、人々が何も知らずに家路についていた、あの時間。
──そこまで戻れば、いい。
空が、完全に美しい茜色に染まった瞬間。
俺は術を解き、全身の力が抜けてその場に崩れ落ちた。
世界の逆再生が、ぴたりと止まる。
炎も、死体も、絶望も、どこにもない。
まるで、すべてが悪い夢だったかのように。
*
ふと、意識が浮上した。
肌を撫でるのは、生ぬるい夏の夕暮れの風。
鼻腔をくすぐるのは、庭の草木が放つ青々とした匂い。
俺は、土御門邸の広い縁側に寝転がっていた。
視線を落とせば、液晶画面の中では、赤い帽子の髭親父が陽気な音楽に合わせてカートを爆走させている。
「……あ」
記憶が混濁している。
さっきまで俺は、血と炎に染まった京都の街を眼下に、世界の理を覆すほどの無謀な大術を行使していたはずだ。
半信半疑のまま、俺はゆっくりと上半身を起こす。
「成功……したのか?」
恐る恐る、俺は己の内側へと意識を向けた。
そこに、ぬらりひょんの気配はあるだろうか。
神崎天一郎との戦いの後のように、また深い眠りについて無反応になってはいないか。
あるいは、もっと最悪の可能性。
再び俺を乗っ取り、人類を虐殺するための冷酷な妖魔の王として、牙を研いでいるのではないか。
時を戻したことにより、もし、全く同じ展開をなぞるのだとしたら?
もし、また俺の体を乗っ取り、百鬼夜行を発動したら?
恐怖で、声が喉に張り付く。
それでも、確かめなければならない。
この世界が本物なのか、それとも悪夢の続きなのかを。
「……ぬらり、様……?」
絞り出した声は、自分でも情けないほどにか細く、頼りなかった。
しん、と世界が静まり返る。
俺の心臓の音だけが、やけに大きく響いている。
一秒、二秒と時間が過ぎる。
その空白が、永遠のように長く感じる。
駄目だ。
返事がない。
やはり、あの心象風景での和解こそが夢だったんだ。
全身から血の気が引いていく。
指先が、氷のように冷たくなっていく。
ゲーム機を取り落としそうになった、その時だった。
『……なんじゃ、遥明』
魂の奥底から、呆れたような、それでいてどこか穏やかな声が響いた。
俺は、息を呑む。
声が、した。
あの傲慢で、尊大な彼女の声が、俺の名を呼んだ。
『それよりもお主、今日の夕飯はなんじゃ。そろそろ刻限であろう』
その、あまりにも日常的な響きを持った言葉が、楔のように俺の心をこの現実につなぎとめた。
ああ。
ああ、そうか。
夕飯。
そうだ、もうそんな時間か。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる。
目頭が、急に熱くなった。
涙がこぼれ落ちそうになるのを、ぐっと堪える。
日常が、戻ってきた。
俺が壊し、俺が取り戻した、かけがえのない日常が、確かにここに在る。
俺はもう一度、縁側に大の字に寝転がった。
手の中のゲーム機からは、まだ陽気な音楽が流れている。
「……僕、ハンバーグがいいです。目玉焼き乗せの」
『ふむ。またあの肉の塊か。良いであろう。儂もあれは嫌いではない』
その返事を聞いて、俺は小さく笑った。
空は美しい茜色に染まっている。
もう、絶望の色には見えなかった。




