顕現
儀式の開始を前に、土御門景明の意識は極限まで研ぎ澄まされていた。
千年の長きにわたり土御門家が担ってきた、この世界そのものを支える責務。
その重圧が、当主である景明の両肩に冷たい鉄のようにのしかかる。
地下神殿の空気は淀み、肌を刺すほどの濃密な陰の気で満ちていた。
並の術師であれば、この場に立つだけで正気を失うだろう。
景明は、陰陽府の精鋭六部に視線を送る。
彼らは一分の隙もなく祭壇を囲む六芒星の陣に配置につき、その表情には鋼のような覚悟が刻まれている。
「遥明、ここへ」
己が発した声が、他人事のように冷たく響く。
呼び寄せた息子の顔には、この聖域の異様な雰囲気に呑まれたかのような呆然とした色が浮かんでいた。
安倍晴明の血を引く、唯一の男子。
その事実だけが、遥明という存在の価値の全てだった。
妖力は最下級、術式に至っては正体不明の『反転術式』などという異物。
土御門家の歴史における、紛れもない汚点。
景明は感情を押し殺し、剣呑な響きを声に乗せた。
「――始めよッ!」
景明の鋭い号令が、地下祭殿に轟いた。
呼応して、六人の術師たちが一斉に荘厳な詠唱を紡ぎ始める。
幾重にも重なった言霊が音の壁となり、祭壇の床に描かれた巨大な術式が、まばゆい青白い光を放った。
光の奔流が七つの『封霊箱』を包み込み、注連縄に染みついた千年の怨念を浄化していく。
ジジジ、と黒い煙が上がり、空気が焼けるような匂いが立ち込めた。
景明もまた、両手に複雑な印を結び、己が内なる妖力を練り上げる。
全ては順調だった。
いつも通りの、年に一度の神聖な務め。
そのはずだった。
「遥明! 今だ!」
景明の視線の先で、息子がおずおずと右手を差し出す。
それでいい。
ただ手をかざすだけ。
その時、景明は違和感を覚えた。
遥明の視線が、その伸ばされた手の先が、七つの箱のうちの一つに、異常なほど強く固定されている。
右から、三番目。
他の六つと何ら変わらぬ外見だが、遥明の意識は完全にその一点のみに注がれていた。
他の箱など存在しないかのように、遥明の意識はただ一点、その箱のみに囚われていた。
操り糸に引かれる人形の虚ろさと、恋い焦がれる者の熱情。
相反するはずの二つの気配を同時に漂わせながら、息子は抗いがたい引力によって、その闇へと導かれていく。
景明がその愚行を制止しようと口を開きかけた、まさにその刹那――
ゴクン、と。
祭殿の空気が、脈打った。
発生源は、遥明が手をかざす、右から三番目の封霊箱。
物理的な振動ではない。
空間そのものが、その一点を中心にぐにゃりと捻じれ、歪む。
六部の術師たちが維持していた青白い光の結界が、内側からの予期せぬ強烈な圧迫に耐えきれず、悲鳴を上げるように軋み始めた。
ミシ、ミシミシ……。
ガラスに無数のひびが入るような、乾いた破砕音が地下空間に連続して響き渡る。
遥明は声もなく、ただ自身の右手に視線を落とし、わなわなと震えている。
まるで、己の身に何が起きているのか理解できていないかのように。
だが、景明の脳裏には、雷に打たれたような衝撃と共に、最悪の可能性が閃いていた。
(……反転、術式)
五年前に見た、あの妖儀の結果。
無能の烙印と共に、無いものとして扱ってきた未知の力。
既存のどの体系にも属さない、世界の理から外れた異物。
もし、その力が。
安倍晴明が命懸けで築いた『封印』という絶対の事象に干渉し、その真逆の『解封』へと強制的に覆しているとしたら――?
馬鹿な。
ありえん。
そんな神をも恐れぬ所業が、息子に可能なはずがない。
景明は自らの思考を必死に打ち消そうとした。
だが、目の前で繰り広げられる光景が、その悪夢のような仮説を無慈悲に裏付けていく。
右から三番目の封霊箱。
その表面に何重にも張り巡らされていた朱色の梵字が、一斉に光を失い、焼け焦げたように黒変する。
数千年の時を経てなお強固であったはずの注連縄が、枯れ草のように呆気なく弾け飛んだ。
(解封される……ッ!)
直後、箱の隙間から、どろりと濃密な何かが溢れ出した。
それは煙のようであり、液体のようでもあった。
無色透明でありながら、光を吸い込み、周囲の闇よりもなお深く昏い、存在感の塊。
特級妖魔。
その魂の片鱗。
「ひっ……!」
「う、うわあああああっ!」
背後で、六部の術師たちが悲鳴を上げた。
歴戦の陰陽師である彼らが、恐怖のあまり腰を抜かし、あるいは失禁している。
無理もない。
溢れ出したそれは、生物としての格が違いすぎる。
その黒い霧は、まるで意思を持つ蛇のように宙を泳ぎ、一直線に、引き寄せられるように――遥明の胸の中心へと、音もなく侵入した。
「ぐっ……あ……っ!」
遥明の喉から、圧し潰されたような苦悶の声が漏れる。
その小さな体が弓なりに反り、凄まじい妖力の奔流が、彼の内側から迸った。
千年の時を経て解放された、災厄の息吹。
もはや結界の体を成していなかった青白い光が完全に砕け散り、衝撃波が地下祭殿を席巻した。
「ぐっ……おおおおおッ!?」
景明ですら、吹き荒れる暴風に片腕で顔を覆い、後退を余儀なくされる。
これは単なる風圧ではない。
濃密すぎる妖気が物理的な質量を持って、空間を圧迫しているのだ。
封霊箱は、内側からの圧力に耐えきれず、完全に砕け散っていた。
朦朧とする意識の中、景明は何とか身を起こす。
肺腑を焼くような濃密な邪気が、呼吸を妨げる。
静寂が戻った祭壇の中央。
「…………」
そこに、先ほどと変わらず、遥明が立っていた。
だが、もはやそれは、景明の知る息子ではなかった。
遥明の瞳は、どこまでも深い闇色に染まっていた。
その奥底で、妖艶な金色の光が揺らめいている。
子供特有のあどけなさは消え失せ、代わりに浮かんでいたのは、千年の時を生き抜いた者だけが纏う、圧倒的な威圧感と、底知れぬ妖艶さ。
そして、「それ」は笑った。
息子の唇を歪め、三日月のような笑みを浮かべた。
『――ふぅ』
吐息一つ。
ただそれだけで、地下祭殿の空気が甘く、腐敗した果実のような香りに満たされる。
『久しいのう。現世の空気というのは。……少々、埃っぽいが』
声帯は遥明のものだ。
だが、その抑揚、語尾、響きに含まれる魔性さ。
それは、かつて文献の中でしか知らなかった、伝説の災厄そのものだった。
「貴様……ぬらりひょん、か」
景明の声は、震えを押し殺すので精一杯だった。
特級妖魔、ぬらりひょん。
「百鬼夜行」の主にして、妖魔の頂点に君臨する女帝。
(取り憑いたのだ……遥明の体に)
景明は瞬時に状況を分析した。
晴明の封印によって、ぬらりひょんの肉体は千年前に消滅している。
残っていたのは魂のみ。
実体を持たぬ精神体だ。
箱から出たところで、依り代となる肉体がなければ現世に留まることはできない。 だからこそ、最も近くにいた、そして最も相性の良い「器」を選んだのだ。
景明の脳裏に、ある懸念が過ぎると、全身から血の気が引くのが分かった。
(まずい……このままでは、自害される!)
特級クラスの強大な妖力を持つ者は、死してもなお、輪廻の輪に戻ることができる。
そして数十年、数百年を経て、再び力を持ってこの世に転生するのだ。
かつて安倍晴明が、彼らを討伐せず、あえて自らの命と引き換えに封印という手段を選んだ理由がそこにある。
殺してしまえば、いずれ蘇る。
だからこそ、魂を現世に縛り付け、輪廻の理から切り離し、永遠に飼い殺すしかなかったのだ。
だが今、封印は解かれ、魂は自由になった。
このまま遥明の体を破壊し、自ら死を選べば――彼女は真の自由を得て、いずれ完全体として復活する。
この国を滅ぼす災厄として。
「自害だけは……それだけは、させんッ!」
景明が叫ぶのと、目の前の遥明が動くのは同時だった。
いや、動いたわけではない。
ただ、その小さな手を軽く振っただけだ。
『……騒がしいのう』
「……っ!?」
不可視の衝撃波が、間一髪、景明の脇を通り抜けた。
背後で布陣していた六部の一人が、悲鳴を上げる間もなく壁まで吹き飛ばされ、叩きつけられる音が響く。
「なっ……!?」
ぬらりひょん――遥明の体を乗っ取った怪物は、クスクスと喉を鳴らし、 自分の手を興味深そうに眺めている。
『ふむ……弱く、脆い器だ。指一本動かすにも、壊れぬよう気を使わねばならん。だが……ふふ、悪くない匂いじゃ』
彼女は自身の胸元に手を当て、陶酔したように目を細めた。
『この魂、この歪み……。晴明の血を引きながら、陰陽の理を外れた異端の光。実に儂好みじゃ』
「……貴様、自害せぬなら……何をする気だ」
景明は油断なく印を結びながら問うた。
冷や汗が頬を伝う。
『何をする、か。……そうよのう』
彼女は小首を傾げ、艶然と微笑んだ。
その笑顔は、五歳の子供の顔でされているとは信じがたいほどに、毒々しく美しい。
『本来ならば、さっさとこの脆い籠を壊し、輪廻の海へ還るところじゃが……』
景明の背筋が凍る。
彼女はその気になれば、いつでも遥明の命ごと、自らの魂を解放できる。
『気が変わった。せっかく千年の眠りから覚め、こうして窮屈な箱から出られたのじゃ。すぐに死ぬのも味気ない』
彼女は一歩、景明へと歩み寄った。
たった一歩。
それだけで、景明の全身の細胞が逃げろと警鐘を鳴らす。
『少し、遊んでやるか』
その言葉を聞いた瞬間、景明は動いた。
迷っている暇などない。
相手が楽しもうとしている今こそが、唯一の好機。
景明の思考が、雷光のごとき速度で回転する。
【封印】のスペシャリストである六部に、戦闘能力は期待できない。
己一人で、特級妖魔を、それも息子の体を人質に取られた状態で、どうにかせねばならない。
動きを止め、時間を稼ぐ。
その間に、最善の策を――否、最悪を回避する術を考える。
「──縛ッ!」
景明は印を結ぶことすら省略し、言霊のみで術を放った。
陰陽四法術に分類される【呪縛】の術──「縛」。
敵の動きを物理的に拘束する、陰陽師の基本技。
だが、基本であるからこそ、術師の力量が如実に反映される。
土御門家当主である景明が放つ縛は、並の上級妖魔であれば瞬時に身動き一つ取れなくさせる域に達する枷。
たとえ相手が特級であろうと、受肉したばかりの不安定な状態ならば、数秒は動きを止められるはずだ。
妖力で編まれた見えざる縄が、ぬらりひょん──遥明の体へと殺到する。
これで数秒は稼げる。
そのはずだった。
しかし、景明の術は、ぬらりひょんに届くことすらなかった。
まるで燃え盛る太陽に雪の結晶が触れるかのように、妖力の縄は、ぬらりひょんが纏う濃密な妖力に触れて、霧散した──。
景明は二の句が継げなくなった。
解呪されたのではない。
防御されたのでもない。
ただ、圧倒的な妖力の質量差によって、無効化されたのだ。
ただ、そこに存在するだけで景明の全力の術が、その存在を維持することすらできずに破棄された。
『……ん?』
ぬらりひょんは、きょとんとした顔で、自らの周囲に漂う光の残滓を見つめた。
そして、つまらなそうに鼻を鳴らす。
『なんじゃ、今のは。蚊が止まったのかと思うたぞ』
「――ッ」
『効かぬわ、たわけ。そのような低級な呪縛なんぞ……儂を誰だと思うておる』
彼女は冷ややかな瞳で景明を見下し、侮蔑した。
身長差など関係ない。
そこにあるのは、生物としての圧倒的な格の差だ。
『ぬらりひょんぞ』
その一言と共に放たれた威圧に、景明の膝が笑った。
正直なところ、立っているのがやっとだ。
当主としての矜持がなければ、その場に平伏していただろう。
景明の【呪縛】術は、上級に分類される高度な陰陽術だ。
それを低級と断じ、息をするように無効化する怪物。
これが、特級妖魔。
これが、千年前の世界を支配していた、夜の王の力。
「化け物め……」
景明の口から、無意識に乾いた言葉が漏れた。
その言葉を聞き、ぬらりひょんはニヤリと口角を吊り上げた。
『褒め言葉として受け取っておこう。……さて、晴明の子孫よ。今ので終わりではあるまい? もっと儂を楽しませてくれるのであろうな』
景明は唇を噛み締め、口内に広がる血の味を感じながら、絶望的な状況を打破する次の一手を必死に模索していた。




