字が読めないんですが
わくわくの新学期。
──のはずだった
(私ってなにかな。ここってどこかな)
「座席表をどうぞ」
いきなり後ろから声をかけられた。振り返ると、エリックがいる。
「あっ、あり──」
「どうぞ」
エリックは投げるように紙を渡すと、軽蔑の目を向けて去っていった。
(感じ悪いな)
苦笑いをしているクリステルの耳に、女子たちのささやき声が入ってきた。
「まあ、エリック様ですわ。今日も相変わらずお美しい」
「わざわざ座席表を配ってくださるなんて、お優しいわ」
なんだろう、寒気がする。
(まあ、趣味が合わないだけだ)
座席表を見ると、何やらぐちゃぐちゃっとした文字らしきものが書いてある。
手書きのようで、なんとか覚えてきた自分の名前すら、見つけられない。
(……ヤバい。これ、どうやって探すの?)
誰かに尋ねようにも、流石に字が読めないのを知られるのは恥ずかしい。
助けを求めてあたりを見回すと、茶髪の少女と目があった。
半ば走るように彼女の席に行くと、紙を差し出す。
「ごめん、私の名前がどこにあるか、教えてくれない?」
少女は驚いたように目を見開きながらも、指し示してくれた。
「ありがとう」
逃げるように席につく。
──けれども隣の席だったので、逃げることはできなかった。
「どうして私にきいたの? 自分で確認すればいいじゃない」
(どうしようどうしようどうしよう──)
頭の中が、大量の「どうしよう」で埋め尽くされる。
息を吸って気持ちを落ち着けると、なんとか笑みを作った。
「目が悪いんだけど、メガネを忘れちゃったの」
嘘ではない。4年差が大きいのか、視界は前よりぼやけていた。
「そうだったの。席、前にしてもらう?」
ありがたいが、席がどこになっても、字が読めないことはどうしようもない。
「……ううん、大丈夫。遠くは見えるから」
(あれ、それって老眼の症状じゃない?)
少女は老眼のツッコミを入れることはなく、にこっと愛想よく笑った。
クリステルも、つられてはにかんだ笑顔を浮かべた。何気なく反対側の隣を見た。
「……またあなたですか」
エリックだ。相変わらず感じが悪い。
しかも、2人で同じ机を使うので、距離が近い。
「よ、よろしくお願いします」
「……はぁ」
エリックは小さくため息をつくと、一瞬だけ、クリステルをじっと見た。
その後、何も言わずに手元の本に目線を落とす。
(一日も乗り切れる気がしない……)
程なくして、先生らしき初老の婦人が入ってきた。
「皆さんの担任になりました、アンドレ・ラフォンです」
先生はにこりともしずに淡々と話を続けていった。誰も口を開く人はいなかった。
「……では出席を取ります」
もとから静かだった教室が、とうとう沈黙の域まで達した。
クリステルは無意識に背筋を伸ばす。
「ベルナット・ボソン」
「はい!」
教室に、元気な声が響いた。隣の焦げ茶髪の少女から。
あいうえお順ではなさそうだ。いつ呼ばれるかわからない。
心臓がドクンドクンとうるさい。
「……クリステル・シャトラン」
一瞬、何も考えられなくなる。
(もう返事していいの? 立った方がいい?)
教室中の視線が、クリステルに集まった。
「は、はい!」
わずかに遅れて返した声は、自分でもわかるほどにぎこちなかった。
一瞬の間。
それでも先生は何も言わず、次の名前を呼び始めた。
(……セーフ)
震える息を吐く。
──その瞬間だった。
「……本当に、クリステル・シャトランなんですか?」
ぼそっと。
その言葉が耳に届いた瞬間、さっきまで激しく鳴っていた心臓が止まった。
声がした方に振り向くと、エリックがこちらを見ていた。
その目は、軽蔑でも怒りでもなく、何かを測るような、静かな目だった。
(……バレた?)
クリステルは、また激しく動き始めた胸を押さえながら思った。
今ここで反応したら、余計に怪しまれる。
(あとで……あとで考えればいい)
無理やり思考を切り替える。
「では、教科書の三ページを開いてください」
机の上に置かれたそれに、ゆっくりと手を伸ばす。そして、震える手でページをめくる。
(……読めない)
並んでいるはずの文字が、ただの記号のようにしか見えない。
さっきまでの緊張とは違う、じわじわとした焦りが胸を締めつける。
(これ、どうするの……?)
「では、この式を──」
黒板に、何かが書かれていく。
(……あれも、読めない)
ノートを開く。
とりあえず、見えたままを書き写そうとする。でも、すぐにその手を止めた。
こんなことをしても意味がない。
何を書いているのか分からないまま、ただ線をなぞっているだけ。こんなの、塗り絵と一緒だ。
(はは、ロシア語の筆記体レベルでわからん)
頭を抑えて、もう一度、震える息をはいた。
(詰んだかもしれない)
キーンコーンカーンコーン。
授業の終わりを告げるチャイムが聞こえる。この音だけは先世と一緒だったので、とてもホッとした。
「シャトランさん、一緒に食堂にいかない?」
ベルナットがにこやかに誘ってくれる。
食堂の存在も知らなかったクリステルにはありがたい話だが、丁重にお断りをした。
(とりあえず、図書室行こう)
なるべくエリックと目を合わせないように、コソコソと教材を抱えて出入り口に向かった。
廊下に出ると、ざわざわとした声が一気に押し寄せる。
その中で、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「……どうして」
足を止めずに、歩き続ける。
少し先の窓の側に、ヴァランティーヌが立っていた。
堂々とした様子は欠片もなく、小さく「どうして」と繰り返している。
「──こんなに早いの」
(何がだろう。ドレスが届くのが、とか?)
優雅なのが羨ましい。
でも、次にヴァランティーヌが口にしたのは違う言葉だった。
「まだ攻略対象者も揃ってないのに──」
一瞬、ヴァランティーヌの声以外、聞こえなくなった。
(攻略……対象者?)
すぐに通り過ぎてしまって、続きは聞き取れなくなってしまう。
(……なんでその言葉を、公爵令嬢が知っているの?)
それでも足は止まらず、勝手にクリステルを図書室に運んでいった。
そんな胸のざわめきも、教材を開いた途端に消えていった。
代わりにうずくまりたくなるほどの焦りと恐怖に襲われる。
字がわからない。
ことに加えて4年進んだ勉強。
プラス違う国の勉強。
問題は山積み。
問題は、理解不能な字だけではない。
国が違えば、地理は変わる。歴史も、習う外国語も。
このままでは、取り返しがつかなくなる。
クリステルはため息をつくと、腕を組んでのけぞった。
「あ゙〜、どうすっかな〜」
2話目も読んでくださって、ありがとうございます。
よければ、続きもお付き合いください。




