第二十九章 追えぬ影(第四話)
夢の残滓が、指先にまとわりついて離れない。
剣の重さ――。
「どうして」という問い――。
裏切られ、悲しげに見つめてくる瞳――。
この罪悪感が消えることは、一生ないだろう。
清志郎は、そっと布団を抜け出した。
朝は、まだ来ていない。
薄闇の中、庭へ出ると、氷のように冷えた空気が頬を刺した。
まるでそこに紗凪がいるかのように、彼女が愛した沈丁花の枝へ、清志郎は額を擦り付けた。
夜の闇に目は慣れない。
だが、噎せ返るほど甘いその香りだけは、はっきりと清志郎を捕らえて離さなかった。
それが、今の自分に許された、たった一つの救いのように思えた。
もう、物言わぬ彼女にしか、この苦しい胸の内を吐き出せない。
(紗凪……俺は、とんでもなく業が深い罪人だった。そんな俺が、今までのうのうと善人ヅラして生きてきた。呆れるだろう?)
漸く止まっていた涙が、また熱をもって溢れ出す。
(紗凪、お前が死んだのは、俺のせいかもしれない。俺の業がお前を巻き込んだんだ。俺さえ、この家に来なければ……)
沈丁花に額を預けていたはずが、いつの間にか膝が折れ、冷たい土の匂いと共に、額が地面に擦り付けられていた。
(そうだ。俺がここに来なければ……俺が今もここにいるから、道善先生も、紗世も、不幸になっちまう。神仏なんていないと嘯いて……俺自身が、疫病神だったんじゃねぇか!)
「ふっ……くふっ……ははは……」
清志郎は泣きながら、己の愚かさに笑いが込み上げた。
しかし、それも長くは続かない。
沈黙の中、無様に鼻をすする音だけが響く。
喉を震わせながら、沈丁花に土下座をするようにして、嗚咽混じりの声を絞り出した。
「俺、どう……したら……いい? すまない、紗凪……本当に……すまない。ゆるっ、許して……くれ……」
紗凪から返事が返ってくるはずもない。
それでいい。
許してもらおうなど、あまりに図々しい。
選択肢などとうにないことも、本当はわかっているのだ。
「俺、ここを出ていくよ。……世話になった」
最後にそう告げて、立ち上がる。
沈丁花の香りだけが名残惜しそうにまとわりついたが、それすらも断ち切るように強く振り払った。
清志郎は土を払い、自室へと向かうと、夜明けを待たずに荷造りを始めた。
◇
元々、持ち物などほとんどない。
ここへ来たときに携えていたのは、父の形見の打刀と脇差、そして母の形見の裁縫道具くらいのものだ。
母の着物は生活苦から少しずつ手放してしまい、もう残ってはいない。
打刀も、黒川の雇った浪人たちに襲われた際に失くしてしまった。
清志郎は、最低限の着替えと刀の手入れ道具だけを手早く纏める。
母の裁縫道具に、そっと手を伸ばした。
これで、母の内職を手伝ったこともあった。
ここへ来てからも、紗凪が亡くなってからは、軽い繕い物は自分がやっていた。
母は、男である自分に針仕事をさせて申し訳ないと、いつも謝っていたが、気にしたことはなかった。
誰かに見られるわけでもない。
それより母の役に立ちたかったし、一人で無理をさせてしまうことが心配だった。
他にも、できることは何でもして小銭を稼いだ。
しかし、今になって思う。
紗凪と同じく、両親もまた、自分の業のせいで非業の死を遂げたのではないか。
もし、そうだとしたら――。
その考えに至ると、立っていることさえ苦しくなった。
清志郎は裁縫道具から静かに手を離した。
母の温もりも、穏やかだった日々も、ここに置いていく。
これからは、刀だけが己のすべてだ。
あとは――。
自然と紗凪の鏡台へと足が向く。
引き出しから、自分が贈った沈丁花の簪を取り出した。
紗世には、まだ何も贈っていなかった。
皮肉にも、それが救いだったのかもしれない。
もし何かを贈っていれば、それが呪物と化し、紗世の命を奪っていた可能性すらある。
迷った挙句、簪を懐にしまい、押し入れを固く閉めた。
◇
清志郎は、龍之介や宗真に気づかれぬよう、気配を殺して家の外に出た。
道場に隣接する物置へと向かう。
薄暗い物置の中は、夜の冷えを溜め込んでしんと静まり返っていた。
中には、使われなくなった木刀や、主を失った刀が収められている。
道善に頼めば、もっと良い刀を譲ってくれたかもしれない。
だが、今の自分にその資格はない。
(……こんな半端物が、今の俺には丁度いい)
見た目からして上等とは言い難い一本の刀。
清志郎は、そっとそれを手に取る。
柄を握った瞬間、わずかな違和感が掌に伝わった。
手入れを怠っていたせいか、馴染みが悪い。
鞘から刀を抜き、刃の状態を確認する。
思ったとおり、万全とは言えないが、錆はない。
(……まあ、斬れぬことはないだろう)
清志郎は、ふっと息を吐き、物置の戸を静かに閉めた。
◇
清志郎は目の前の道場に立ち寄った。
(ここに来るのも、これで最後か……)
静まり返った道場に、懐かしい、賑やかな声が甦る。
(道善先生は、門下生たちには優しいのに、俺にだけはやたらと厳しかったな。本当に参った)
思わず、頬が緩む。
(紗凪は……女とは思えぬほど強かった。普段はあんなにお淑やかなのに。正直、紗凪が男だったら、俺はずっと負けっぱなしだったろう)
だが、緩んだ頬も、紗世を思った途端、こわばって消え失せた。
『清ちゃんのお嫁さんになってあげる』
あのときの、紗世の言葉が胸を締め付ける。
(紗世……お前は、俺に生きる希望をくれた。なのに俺は、お前に何も残してやれなかった。ずっと一緒にいると約束したのに。想いを告げて、これからだったというのに……)
道場の隅に目をやると、あどけない紗世がいた。
「清ちゃん、どうしたの? 泣いてるの?」
小さな紗世が、心配そうな目でこちらを見ている。
清志郎は紗世のもとへ静かに歩み寄り、視線を合わせるために跪いた。
彼女の小さな背中に腕をまわし、許しを乞う。
「紗世……ごめん。ごめんよ……」
小さな紗世は、清志郎が謝る理由が本当にわからないのだろう。
子供ならではの純真さで問いかけてくる。
「どうして謝るの? 何か悪いことしたの?」
「……これから、するんだ。俺は……何よりも大事な、君との約束を……これから破る。恨んでくれて、構わない」
「どうして約束、破るの?」
「それは……」
ずっと理由を言葉にしない清志郎に、小さい紗世は小さく首を傾げた。
次の瞬間、腕の中の温もりは不意に掻き消え、そこには道場の冷たい空気が残るだけだった。
◇
刀を腰に差し、纏めた荷物を背負う。
清志郎は道善の部屋の前にやってきた。
五感を研ぎ澄ませ、道善の寝息を確認する。
(大丈夫だ。深く眠っていらっしゃる……)
音を立てぬよう、そっと襖を開け、枕元の道善の寝顔を見つめた。
『お前は儂の可愛い息子だ』
道善の言葉が甦り、嗚咽が込み上げるのを必死にこらえた。
(先生、これまでお世話になりました。御恩をお返しすることもできず、申し訳ございません。どうか、黙って出ていく非礼をお許しください)
清志郎は道善に深々と頭を下げ、部屋を後にした。
◇
居間にいるはずの紗世には、龍之介がついているだろうか。
灯りはついている。
必死に気配を探るが、人の気配がない。
念の為、襖の隙間から中を覗き見る。
(いない。厠にでも行ったか。……ならば、今のうちだ)
清志郎は眠る紗世に近づき、その寝顔に見入った。
熱が下がったのか、紗世は穏やかな顔でぐっすりと眠っている。
(もう、お前の顔も見れなくなるんだな。綺麗になった、紗世。これだけ美人なんだ。俺なんかいなくても、嫁の貰い手はいくらでも……)
「せ、清……ちゃん……」
もう二度と聞けないと思っていた、愛しい声――。
紗世は眠っている。
寝言だ。
だが、その声に、必死に抑えていた衝動が沸き上がった。
最後に一度だけ、触れたい。
愛おしい彼女の一部ならば、どこでもいい。
頬でも、額でも、指先でも――。
一瞬、紗世に手を伸ばしかける。
(だめだ!)
伸ばしかけた指先が、震えた。
見られている。
あの夢の中と同じ、蒼耀の瞳が、この闇のどこかから自分を見ている。
触れれば、この指がまた、何か取り返しのつかない過ちを犯すかもしれない。
紗世に不幸をもたらすかもしれない。
清志郎は伸ばした手を、血の気が引くような心地で、ゆっくりと引き戻した。
(さよなら、紗世……声にはしない。だから言わせてくれ。俺は、本当に紗世のことが好きだった。ずっと、お前の傍にいたかった)
紗世の寝顔を脳裏に焼き付け、清志郎は、その場を立ち去った。




