第三十章 夜明けの門(第一話)
夜が、ようやく白み始めていた。
東の空が薄紫に染まり、星々が一つ、また一つと消えていく。
名残惜しいが、出ていくのなら、誰にも見られていない今しかない。
どこからか、春告鳥の鳴く声が微かに聞こえた気がした。
決意を新たにし、朝比奈家の門を出ようとした、そのときだった。
「……待て、清志郎。このまま勝手に消えるつもりか?」
背後から掛けられた声に、清志郎の肩がびくりと跳ねる。
責めるでもなく、咎めるでもない。
ただ事実を突きつけるような声音だった。
彼の姿を目にすれば、きっと頼りたくなってしまう。
これ以上、誰も巻き込めない。
振り返らずに、自分を友だと言ってくれた、唯一無二の剣友に懇願する。
「龍之介……お前には残ってくれと頼んでおきながら、こんな真似は悪いと思っている。だが、俺にはもう、こうするしかないんだ。……頼む。このまま、行かせてくれ」
「蒼耀の件は、儂も力を貸すと約束したではないか。儂を信用出来ぬか?」
その問いに、清志郎は歯を食いしばり、頭を振った。
「そんなわけねぇだろ。けど、事情が変わったんだ」
絞り出した言葉は、驚くほど弱々しかった。
「何じゃ、その事情とは?」
龍之介の足音が、背後から近づいてくる。
「来るな! それ以上、俺に近づくな!」
いきなり声を上げられ、龍之介の歩みが止まる。
「清志郎……」
「来ないでくれ。俺は、お前に釣り合うような人間じゃなかったんだ。最低な……最低な罪人だったんだよ。……皆、俺のせいで死んじまったんだ」
龍之介は、清志郎の言葉に戸惑いながらも、この短時間のうちに彼に何があったのかを必死に探る。
「な、何を言っておる、清志郎? まさか、また蒼耀に会うたのか? 今度は何と脅されたのじゃ?」
「……思い出したんだ」
「思い出した?」
「ああ。聞いて驚くなよ。……俺はなぁ、前世で蒼耀様を殺したんだ。この手で主を……神を殺した大罪人だったんだ! 俺の周りで不幸に見舞われた人間は、つまり俺の業に巻き込まれたって訳さ」
清志郎はうつむき加減で、自分の両の掌を見つめながら、何か汚いものでも吐き出すように言った。
「かっ、神を……殺した?」
清志郎の思わぬ告白に、さすがの龍之介も息をのみ、言葉を失った。
「龍之介、お前には……迷惑ばかりかけた。村の者でもないのに、厄介事に巻き込んじまってよ。……すまなかったな。達者でな」
龍之介の顔を一度も見ずに、清志郎は足早にその場を立ち去ろうとする。
「ま、待て! 待たんか、清志郎!」
龍之介は、急いで清志郎の肩に手を伸ばそうとした。
そのときだ。
長年付き合ってきた、もう一人の友の声がした。
「それが本当なら、尚更、勝手に出て行かれては困るな、清志郎」
追手が二人になり、折角前に歩み始めた足を止めざるを得なかった。
「……宗真。どこから聞いてた?」
「まぁ、大体はな。まったく。いい加減こっちを向け、清志郎! この捻くれ者め」
まるで茶化すような物言いに、思わず清志郎は振り返ってしまった。
「聞いてたんなら……頭のいいお前ならわかるだろ? 蒼耀様は裏切った俺を、恐らくどこまでも追ってくる。そして、俺に関わる人間に災いをもたらす。俺がそれで苦しむからさ。ただ、殺すだけじゃ満足できないんだろうよ。俺がそれに耐えられなくなったとき、漸く殺すつもりなんだ」
「そんな、まどろっこしいことをするかのう?」
顎髭を弄りながら、到底理解できないといった様子で龍之介が疑問を口にする。
ハァと重い溜息をつき、清志郎は返答する。
「蒼耀様は、お前みたいに単純じゃねぇんだよ!」
「なんじゃと? お前に言われたくないわ清志郎。何だかんだ、家出するんじゃないかと、儂はお前の行動を読んでおったぞ。単純なのはお前の方じゃ。お前は本当にわかりやすいわ」
「!! ……っだと! ……と、とにかく、俺は村を出る。ここには居られない。じゃあな」
反撃されて、ぐうの音も出ない。
先刻までの張り詰めた空気は何処へやら、まさかこんなお粗末な別れ方になろうとは。
清志郎は前を向き、ズカズカと歩き出した。
「なぁ、清志郎。神はいたろう?」
「!」
宗真の言葉に再度、歩みが止まってしまった。
「この際だ。仏もいないか確かめてみないか?」
「は、はぁ? 何言ってんだ。どうやって、そんなことできるってんだよ?」
「少なくとも、お前を守ろうとしてくれている仏が、一人いらっしゃるのは確かなんだよ。私も、龍之介も、その声を聞いた。お前を守ってくれと言っていたよ」
「……ど、どういうことだ?」
「あれは……お前が失踪しておるときじゃった。お前の行方が一向にわからず、もう死んだのではないかと諦めかけておったときじゃった」
「……だ、誰だよ? そんな変わり者の仏さんは?」
「紗凪ちゃんだよ、清志郎」
「……! さ、紗凪、が……そんなことって? ゆ、夢でもみたんじゃねぇのか?」
「お前は、儂や宗真、そして紗凪さんまで疑うのか?」
「い、いや。けど……」
「紗凪ちゃんは、亡くなってからも、ずっとお前を見守っているんだよ」
「……」
「寺へ行け、清志郎。父には話を通してある。お釈迦様とは言わぬ、紗凪ちゃんと語り合ってみないか? 紗世ちゃんの様子も、毎日教えてやるよ」
「そ、宗真……」
清志郎の瞳に、宗真の優しい笑顔は、登ってくる朝日のように眩しかった。
一体どこまで先回りして、自分のことを考えてくれたのだろうか。
彼の言葉の一つ一つが、身に染みる。
涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。
「それに清志郎。なんじゃ、その古い刀は。その手入れされとらん刀では、雇い手があるか怪しいものじゃ」
「し、仕方ねぇだろ。前のは、どっかいっちまったし」
「お前の刀な、儂が山で拾って、研ぎに出しておる。後で研ぎ屋に取りに行け」
堪えていたものが、じんわりと清志郎の瞳から溢れ出す。
「……ほ、本当か、龍之介……あ、あれは……あれは、父の形見だったんだ」
「おお、そうじゃったか。研ぎに出した甲斐があったというものじゃ」
「龍之介……宗真……」
清志郎の声が震える。
「お前ら、なんでそこまで……わかってんのかよ。俺に関わると、命を……落とすかもしれねぇんだぞ」
二人の好意が胸に染みる。
だが同時に、清志郎の心は激しく揺れていた。
この二人を巻き込んで良いのかと。
もし、大事な二人の友に何かあったら――。
その不安が拭い去れなかった。
そんな清志郎の心の内を知ってか、龍之介は堂々とした態度で接してくる。
「大丈夫じゃ。儂らはそんなにヤワではないわ。のう、宗真」
宗真もまた、己の覚悟を述べる。
「ああ。覚悟ならできているよ。それに、私は僧だ。仏の道に恥じぬ生き方をしたい」
「くっ……お、お前ら……馬鹿、だろ……ど、どう、なっても……知らねぇ、ぞ……知ら、ねぇから、なっ」
朝日が昇り、日が差した。
清志郎の瞳から溢れ出し、頬を伝い落ちるものが、龍之介と宗真の目に、キラキラと輝いて見えた。




