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第二十六章 闇夜の告白(第二話)

龍之介の言葉を最後に、しばし沈黙が部屋を支配した。

背中の向こうで、清志郎が一度、深く息を吸う気配がする。

やがて、心の澱を吐き出すような静かな声で、清志郎はぽつりぽつりと、あの十日間の真実を語り始めた。

しんと静まり返った闇の中、背中越しに清志郎の声が届いた。


「剣嶺館からの帰り道、俺は見知らぬ浪人風情に襲われた。人を斬ることに何の躊躇いもないようだった。その点、俺は……手が震えたよ。道場の師範代が聞いて呆れるだろ?」


その声は小さく、どこか震えていた。

龍之介は目を閉じたまま、静かに返す。


「お前は人を斬るなんぞ初めてだったんじゃ。おまけに相手は複数人。当たり前じゃ。儂かて、初めて人を斬るとなったときは……恐ろしかった。体が上手く動かんかったわ」


「お前でも、そうなのか?」


背後で清志郎が少し身じろぎするのを、龍之介は背中で感じ取った。

驚いているのだろう。


「無論じゃ。清志郎、お前は儂をどんな人間だと思うとるんじゃ?」


「その、なんていうかさ……いつも落ち着いていて、余裕があって、器が大きいというか……なんか大きく見えるんだよ。あ、体のことじゃないぞ」


清志郎の声が少し早口になる。

背中越しでも、彼が気恥ずかしそうにしているのが伝わってきた。


「買い被りすぎじゃ。儂は今日一日で、何度、肝を冷やしたかわかるか?」


「え?い、いや、わかんねぇよ」


清志郎は困ったように返す。


「わからんのか?はぁ、また腹が立ってきたわ」


「怒んなよ」


「冗談が通じぬ男じゃのう」


「人が気にしてることを、サラッと言うなよ」


「なんじゃお前、そんなこと気にしておったのか。はははっ。これはこれは……」


龍之介が笑うと、背中越しに清志郎の苛立ちが伝わってくる。


「うるせぇなぁ。いいから、さっさと続けろよ。話さねぇぞ」


「すまんすまん、そうじゃな……特にさっきの厠へ行った後は、ハラハラしたぞ。お前が正気を失ったとき、お前をこのまま失ってしまうのではなかろうかと、それはもう、恐ろしかったわ。お前がいなくなった夜、お前の日本刀を拾ったときのようにな」


最初は軽い口調だったが、その声は次第に低くなる。

最後は、珍しく消え入りそうな声になっていた。

清志郎はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。


「お前が、最初に探してくれたんだよな。あ、ありがとうな」


「そんなことよりも、清志郎、そのときに負ったのか?あの腹の傷は?」


龍之介の声が真剣さを帯びる。

清志郎は少し間を置いて答えた。


「そうだと言って信じるか?」


「そのつもりで聞いておるのじゃが」


「龍之介……」


布団の中で、清志郎が体を丸めるような気配が背中に伝わってきた。


「初日、お前と風呂に入ったとき、そんな傷はなかったしの。それに、普通はそんな傷を負ったら、まず助からん。誰にやられたのじゃ?何がお前を生かしたのじゃ?」


「いっぺんに聞いてくれるなよ」


矢継ぎ早の問いに、清志郎はため息で応えた。


「誰にやられたのかは、斬り合ってるときは、わからなかった。三人を切り伏せた後、油断しちまったんだよ。隠れていた四人目の存在に気付かなかった。後ろから体に衝撃が走ったと思ったら、腹から剣先が飛び出してやがった。……ああ、俺、ここで死ぬんだと思った。俺の記憶は一度、そこで途切れている」


龍之介は、背中越しに清志郎のそのときの痛みを感じたような気がした。

無意識に拳を握りしめていた。


「では、やはりあのとき……。しかし、あれからわずか十日だぞ。どうやってそこまで回復した?」


「俺を、医者のところに運んでくれた人がいたんだ。それが澄さんだ。正しくは、澄さんの護衛をしている男たちが運んでくれたらしい。運ばれた先の天才医師様が助けてくれたんだよ」


澄、という名に、龍之介の心臓がかすかに跳ねた。


(清志郎を襲ったのは、澄斬姫ではないのか?助けた?どういうことじゃ……)


「な、なんじゃ、その天才医師様とは?」


龍之介は急いで思考を巡らせた。

顔を見られずに済むのが、今は幸いだった。


「なんでも、本来は大名や豪商しか相手にしないような、蘭学に通じた凄腕らしい。俺みたいな貧乏人は門前払いなんだが、澄さんの口利きで特別に診てもらえたんだと」


できるだけ平静を装いながら、清志郎に尋ねる。


「どうやって、その傷を治してもろうたんじゃ?」


「俺には、よくわかんねぇよ。三日間ほど熱を出して意識を失っていたらしい。意識が戻ったときには痛みはあったが、傷はすでに塞がっていた。回復が早いと驚かれたけど……」


(蘭学の医術だと?そんな馬鹿な……)


腹を貫かれた人間が、十日で動けるようになるなどあり得ない。

それはもはや、治癒ではなく再生だ。


(人知を超えた何かが働いたに違いない。恐らくそれは、澄斬姫の力によるものじゃ)


清志郎は龍之介の沈黙を感じ取ったのか、軽く笑った。


「まぁ、こんな話、やっぱり信じられねぇだろ?」


「いや……確かに、にわかには信じられん話じゃが、実際、お前の傷は塞がっておったからな。異国の医療とは、そんなに進んでおるのかの?」


口ではそう合わせながらも、龍之介の疑念は確信に変わっていく。


「俺だって訳わかんなくて、なかなか受け入れられなかったさ。ただ、澄さんに『先生は天才だから』と言われると、そうなのかなって……。それに、そこには見たこともない物がたくさんあって。多分、異国のものだろうけど」


(澄さんか。完全に信頼しきっておるな。無理もないか。清志郎は澄斬姫のことなど知らんのだ)


「そんな医者が、何故こんなところにおるのじゃ?江戸などで、名を馳せれば良いものを」


「俺もそう思うんだけどさ、複雑な事情があるようだった。あまり存在を人に知られたくないみたいだ。……治療費の代わりに、ときどきその医者に頼まれた仕事をしに行くが、絶対ついてくるなよ」


「な、何をしに行くのじゃ?」


「人助けみたいなもんだって言ってたから、医療に関わることだろ。力仕事かもな」


清志郎の話を聞きながら、龍之介は得体の知れない不安に駆られた。

行かせてはならない――本能的にそう感じた。

だが今、彼を止める手段を持ち合わせていない。


「だからさぁ、龍之介。悪いんだけど、道場の再開を手伝ってくれよ。俺がいないときは、お前に頼みたいんだ。な?いいだろ?」


「ま、まぁ、構わんが……」


「そ、そうか!恩に着るぞ、龍之介!」


背中越しに、ほっとしたような声が聞こえる。


「まったく、お前は見かけに寄らず、世話が焼ける奴だったのじゃな」


「悪かったな。でもさ、俺、お前がまだ旅立ってなくて安心したんだ。あっちにいるときも、気になってたんだ。お前がもう、いなくなっていたら、どうしようって。お前がまだいてくれて、本当に、良かっ、た……」


最後の言葉は、途切れ途切れだった。


「清志郎?」


背後から、すうすうと清志郎の寝息が聞こえてきた。

そっと背後を振り返ると、彼の肩がゆっくりと上下している。


「寝たのか……」


まだ、聞きたいことは山ほどあったが、眠りについた清志郎を起こす気にはなれなかった。

疲れたのだろう、無理もない。

今夜は、予期せぬことが盛り沢山だったのだ。

龍之介はゆっくりと体を起こすと、隣の布団で眠る友の顔を、初めて覗き込んだ。

あどけなささえ残るその寝顔に、安堵と、拭いきれない不安が同時にこみ上げる。


「儂も寝るか。疲れたわ」


また、明日でいい。

今はただ、この友が生きてここにいる。

その事実だけで、十分だった。

そう思いながら、龍之介も静かに横になった。

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