第二十五章 噤む唇(第一話)
帰ってきたはずの夜が、喜びよりも痛みを残してしまった。
清志郎は真実を隠し、宗真は気付いたことを黙し、道善は知るべきことを伏せている。
三つの沈黙が、夜の闇に絡みついていく。
第二十五章 噤む唇(第一話)
一方、紗世は家に戻るなり、宗真の腕の中で声を押し殺して泣き続けていた。
宗真は妹をあやすようにその背を優しく撫で、彼女が落ち着くのをじっと待つ。
やがて、しゃくりあげる肩の震えが収まると、紗世は涙で濡れた顔を上げた。
「ねぇ、宗真さん」
「なんだい?」
「清ちゃんは……私のこと、なんとも思っていないのかしら」
その声はか細く震え、嘘でもいいから否定してほしいという切実な願いが滲んでいた。
宗真はわずかに眉を寄せたが、努めて穏やかな声で答える。
「そんなことはないさ。清志郎が帰ってきたとき、紗世ちゃんに告げた言葉に嘘はなかった。本当に嬉しそうな顔をしていたよ。ただ……」
宗真は言い淀み、ふと視線を逸らした。
その仕草が、紗世の胸に新たな不安の種を蒔く。
「ただ?」
「……あいつは、まだ紗凪ちゃんの……お姉さんのことを、心の中で終わらせていなかったんだと思う。亡骸にも会えなかったから、整理がつかなかったんだろう。酒のせいで、それが不意に出てしまったんだ」
「それは、つまり……まだ、お姉ちゃんのことが好きだということ、ですよね?」
「そう思いたくなる気持ちもわかる。だが、あいつはちゃんと前に進もうとしている。いつも紗世ちゃんのことばかり考えているよ」
「どうして、そんなことがわかるのですか?」
「今日のあいつは確かにおかしかったが、普段会うときは紗世ちゃんの名前しか口にしないんだ。お姉さんの話は、命日くらいしかしない」
「え……そ、そうなんですか?」
「ああ。意外だったかい?」
――意外だった。清志郎と宗真が会えば、姉を含めた三人の懐かしい昔話に花を咲かせているのだとばかり思っていた。
「はい……。だって、宗真さんと清ちゃんとお姉ちゃんは、とても仲が良かったから……」
「まあな。子供の頃はいつも三人でつるんでいた」
紗世は、ずっと胸の内にあった最大の不安を口にする。
「私、ときどき怖くなるんです。清ちゃんは、道場のために、私と一緒になろうとしているだけなんじゃないかって……」
「だとしても、好意の一つもない相手と添い遂げようとはしないさ。紗世ちゃんだからこそ、側にいたいんだよ。今回だって、ちゃんと帰ってきたじゃないか」
紗世は少し考えてこくりと頷いたが、その表情から迷いは消えない。
そして、思い出したように顔を上げた。
「あの……『澄さん』というのは、誰なのでしょう?」
「え……」
その名を聞いた瞬間、宗真の表情が凍りついた。
だが、彼はすぐに柔和な笑みを取り繕うと、ことさらに明るく言った。
「澄、か。いや、聞いたことがない名だな。この十日で出会った誰かじゃないか?ほら、看病してくれた人とか」
「でも清ちゃん……その澄さんという人を、すごく求めているように見えたの」
「体が弱っているときは、誰だって心細くなるものさ。きっと悪い夢でも見て、誰かに縋りたくなったんだろう。心配することなんて何もないよ」
宗真はそう言って、紗世の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だって。財布に二十文しか入っていない男に言い寄る物好きなんて、そうはいないよ」
「ふふっ……それも、そうですね」
紗世がようやく笑顔を見せたのを確認し、宗真は道安寺へ帰ることにした。
清志郎のことは龍之介に任せよう。
それよりも――。
(澄……。間違いない、澄斬姫――)
朝比奈家の門を出た宗真は、夜の闇の中で振り返った。
澄斬姫が清志郎に接触した理由は何なのだろうか?
そして、彼に何をしたのか?
(しばらくは目を離せないな。父上にも、すぐに知らせねば)
家から漏れる暖かな光とは裏腹に、宗真の胸には冷たい胸騒ぎが広がっていた。
◇
龍之介に敷いてもらった布団の中で、清志郎は身を丸めていた。
龍之介が部屋を出ていく気配がする。
礼の一つも言うべきなのだろうが、気まずさが勝って何も言えなかった。
(すまない、龍之介……紗世さん、宗真も。俺は、何をやっているんだ。こんなはずじゃなかった。なぜ、もっと上手くやれなかった……みんなを傷つけるつもりなんて、なかったのに)
言い訳のための作り話は、いくらでも考えていたはずだった。
なのに、皆の顔を見たら、その言葉は喉の奥に張り付いて出てこなかった。
(紗世さん、泣いていたな……。俺が、泣かせたんだ。だから龍之介もあんなに怒って……。ああ、俺は一体何をどこまで口走ったんだ?よく思い出せねぇ。最悪だ。どうすればいい……)
布団を頭まで被ったとき、龍之介が再び部屋に入ってくる音がした。
清志郎の体が一瞬にして強張る。
「今夜は、ここで寝かせてもらうぞ」
思いもよらない言葉に、清志郎は布団の中で硬直した。
「……な、なんだって?」
布団から顔を出し、睨みつけるように問いただす。
「どういうつもりだよ?」
「お前のことだ。夜中にまたいなくなられては困る」
龍之介は淡々と答えながら、清志郎の隣に自室から持ってきた布団を敷き始めた。
「おい、俺はもうどこにも行かねぇって!」
「悪いが、今のお前は信用できん。何一つ、真実を語っておらぬのじゃからな」
「今はまだ話せないと、そう言っただろう!」
「ああ。何も話さなくていい。じゃが、今夜はここで寝かせてもらうぞ」
その有無を言わさぬ口調に、清志郎は折れるしかなかった。
「……好きにしろっ」
吐き捨てるように言うと、清志郎は龍之介に背を向け、その気配から逃れるように固く目を閉じた。
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