第二十六章 闇夜の告白(第一話)
闇に呑まれかけた清志郎の心に、龍之介の声が、そっと灯をともした。
逃げたい過去も、隠した傷も、見透かすような眼差し。
その手が、閉ざされた扉に触れた瞬間——清志郎はもう、真実を語らずにはいられなかった。
再び訪れた静寂の中、隣の布団で背を向けて寝ている相手に対し、意外にも先に口を開いたのは清志郎の方だった。
「なぁ、龍之介……」
「なんじゃ?」
「さっきも聞こうと思ったんだけどさ、俺、紗世さんに……その、何を、どこまで言っちまったんだ?」
龍之介は驚きも怒りも見せず、ただ静かに聞き返した。
「覚えとらんのか?」
「あ、ああ、あまり……。酷ぇこと言ったんだよな?」
「まぁな」
「な、何て言ったんだ?」
「言ったというか、紗世さんの姿を見て、お前は他の女の名を口にしたんじゃ。紗世さんをその女と間違えてな」
「――!」
清志郎は緊張に襲われ、布団をぎゅっと握りしめる。
「紗凪さんはともかく、『澄』とは誰じゃ?」
龍之介の低い声に、清志郎は一瞬、心臓が止まったかと思った。
「お、俺は、澄さんの名を出したのか!なぁ、俺は何て言ったんだ、紗世さんに!」
布団から跳ね起きた清志郎を、龍之介は半身を起こしてゆっくりと見据えた。
「何か、その女とやましいことでもあったのか、清志郎?」
「ち、違う!そんなんじゃない!俺は、紗世さんを裏切ったりなんてしていない!」
龍之介はしばらく清志郎を見つめていたが、これ以上興奮させては障ると判断したのか、諭すように言った。
「落ち着け、清志郎。布団に入れ。体が冷える」
「……あ、ああ」
促され、清志郎はまた龍之介に背を向けて布団に潜り込んだ。
だが、動悸は収まらない。
「……で、間違えたって、どんな風に?」
「その女は、この十日間お前をずっと看病しておったのか?」
「そ、そうだけど」
「傍におってもらえたのが、よほど心強かったのか?まるで、その女なしでは息もできんような様子じゃった」
「息も、できない……?」
龍之介の言葉が、鋭い棘となって胸に刺さる。
認めたくはない。
だが、その言葉は図星だった。
(確かに、俺は澄さんに依存していたのかもしれない。いや、していた。でなければ、あの風間医院での嘘みたいな出来事を、受け入れられただろうか?)
風間医院で、澄に弱音を吐いた記憶が蘇る。
彼女の温もりの中で囁かれた言葉に、どれほど救われたか。
だが、もう澄に会うことはない――。
紗世を選んだ以上、会ってはいけないのだ。
あの救済は、二度と手に入らない。
恋心だけでなく、張り詰めた精神を預けられる場所さえも、風間医院に置いてきたことに改めて気づかされた。
「あとは、何が現実かわからんというようなことを言っておったな。さっきも儂の前で言うておったが」
「……それだけか?」
「それだけじゃが……紗世さんとしては、亡き姉に間違えられ、否定すれば今度は澄という女に間違えられ、踏んだり蹴ったりじゃわ。まるで紗世さん自身など眼中にないと言わんばかりではないか。彼女の悲しみは計り知れんぞ」
「そう、だよな。なんで、俺、そんなこと……。どうすればいい?」
ただ謝って済む問題ではないことは、清志郎にもわかっていた。
紗凪でもなく、澄でもなく、紗世を愛していると証明しなければならない。
だが、今の自分に何ができるというのか。
「清志郎、お前、本当に紗世さんのことが好きか?」
「な、何故そんなことを聞くんだ?当たり前だろ」
「なんじゃ、その当たり前というのは?儂にはまるで、お前がそう思い込もうとしているように聞こえるぞ」
「え?」
「聞き方を変えるか。清志郎、お前、まだ紗凪さんへの未練が断ち切れておらんじゃろ?」
「そ、それは……でも、俺は紗凪に誓ったんだ。紗世さんを幸せにするって」
「紗凪さんの代わりとしてか?」
「っな!」
反論しようと身構えた清志郎を、龍之介が言葉で制する。
「黙って聞け。紗世さんを前に、彼女の名が出てこんかったのが何よりの証拠じゃ。お前は確かに紗世さんのことを大事に思っておるよ。じゃが、それは……」
龍之介が核心を突こうとしたとき、清志郎は遮った。
「だ、黙れよ!そんなこと、お前にわかってたまるかよ!」
だが、龍之介の追及は止まらない。
「では、澄という女はどうだ?お前、その女に惚れたろう?」
「……」
「清志郎、勘違いせんでくれ。儂はお前を責めたいわけではないのじゃ。ただ、儂らは友じゃろう?誰にも話せんようなことでも、儂には話してくれんか」
龍之介の穏やかな声は、夜の闇よりも深く、そして優しかった。
その響きに、清志郎の張り詰めていた糸がふっと緩む。
誰かに聞いてもらわなければ、この重圧で押し潰されてしまう――本能がそう告げていた。
「お前ってさぁ……変な奴だよな」
「ん?」
「お前と一緒にいた時間なんて、ほんのわずかなのに。何故だろうな。昔からずっと知っていたかのような……なんて言うのかな、安心するっていうか」
「ほう。お前まさか、儂に一番惚れておるのか?」
「んなわけねぇだろ!」
「くくっ、まぁいい。順序立てなくてよい。話せるところから、吐き出してみろ」
清志郎は一度、深く息を吸った。
この男になら、話せる。
清志郎は堰を切ったように、ポツポツと自分の身に起こった不可解な真実を語り始めた。




