第二十五章 噤む唇(第三話)
凍てつくような冬の夜。
澄み渡った夜空には、まるで宝石を砕いて散らしたかのように、無数の星々が瞬いていた。
厠から戻った清志郎は、空を仰ぐ龍之介につられるように天を見上げる。
それは吸い込まれるほど美しい光景だったが、彼の心を温めるには至らなかった。
この十日間、彼にとって夜は安らぎではなく、悪夢と苦悩の同義語でしかなかったのだ。
「待たせたな、お前も行ってこい」
「いいよ、俺は」
「行ってこい。後で行くとなったら、また儂が付き添わねばならん。ほら、はよ行け」
(これじゃあ、兄貴に面倒みられてるガキじゃねぇか……)
清志郎は諦めたように、軽く溜息をついた。
「わかったよ。行ってくりゃいいんだろ」
厠から戻ると、龍之介が夜空を仰いでいた。
清志郎もつられるように空を見上げる。
星々が夜空に鏤められ、凍てつくほど美しく瞬いている。
「綺麗だな。夜空をこうして、じっくりと見るのは久しぶりだ」
「清志郎、この十日間、お前はどんな夜を過ごしておったのじゃ?」
風間医院の夜が蘇る。
黒川の声、胸を締め付けた澄への想い――眠れぬ夜ばかりだった。
「そうだな……悪夢を見る夜もあれば、眠れない夜もあったな。ちょっと夜が、嫌いになっちまったよ。お前は?」
「儂もじゃ。眠れぬ夜が続いた。全部お前のせいじゃ」
「わ、悪かったな」
「儂より、紗世さんに謝れ」
「わ、わかってる。なぁ、龍之介……俺は、紗世さんに、どこまで……」
そのとき、龍之介の背後にある半月が、視界に鋭く差し込んだ。
胸が掴まれる。
脳裏に、女の声が直接触れてきた。
『あなたを……あなたの半分を、私にくれない?』
頭の奥で、聞いたことのない澄の声が囁き、反響する。
甘く、切なく、まるで耳元で直接語りかけるような声。
そして、追い討ちをかけるように、自分の声までもが響き渡る――。
『俺の半分は君に捧げるよ。俺は一生、澄さんのことを密かに想い続ける』
(何だこれ?こんな会話をした覚えは……)
記憶なのか、幻聴なのか、はたまた夢の中にいるのか、清志郎の頭は混乱してきた。
頭を抱えだした清志郎の異変を察知した龍之介は、血の気が引くのを感じた。
「清志郎!おい、しっかりしろ!」
龍之介は肩を掴む手に力を込めた。
揺さぶっても、呼びかけても、彼の目は虚空を彷徨うばかり。
「……半分、そう、そうだ。俺の、半分は……姫様の、もの……」
意味を成さない断片的な言葉が、夜の静寂を不気味に揺らした。
龍之介の胸を、じわりと恐怖が這い上がる。
友がこのまま戻らないのではないかという不安が、龍之介の理性をかき乱した。
「なっ、何を言うとるんじゃ、清志郎っ。正気に戻れ!おい、聞いておるのか!」
龍之介は一瞬だけ躊躇した。
だが、このままでは、彼は戻らないかもしれない!――そう思った。
「清志郎ぉ!」
――ぱぁんっ!
静まり返った庭に、乾いた音が響いた。
龍之介は覚悟を決め、渾身の力で清志郎の頬を打ち据えたのだ。
清志郎は体勢を崩し、地面に手をついたまま動かない。
龍之介はその反応を固唾を飲んで見守る。
「……いぃぃ痛ってぇ~。な、なんだよ……これは、どういう状況だ?」
清志郎は痛む頬を押さえ、目を白黒させていた。
龍之介は安堵し、張り詰めていた息を、大きく吐き出した。
「せ、清志郎、大丈夫か?」
声のする方を向くと、そこには龍之介の心配そうな顔があった。
清志郎の顔を見ると、彼は膝を折り、彼の目の前に手をついた。
「龍之介……。俺は一体……」
「あぁあぁぁぁ~、どうなるかと思ったぞ、清志郎~っ。この馬鹿者が!」
龍之介は、清志郎の両肩を両手で掴み迫ってきた。
「お、おい、ひっつくなよ」
清志郎は龍之介を軽く押し返し、二人は立ち上がる。
「というか、ここには、お前と俺しかいないよな。俺、お前にぶたれたってことで合ってる?すげぇ痛いんだけど」
清志郎は怒ってはいないが、痛む頬をさすりながら、少し反抗的な目で龍之介を見た。
「お前が急に、おかしくなってしもうたから、仕方がなかったんじゃ。儂は悪くない!」
「お、俺……何か言ってたか?」
清志郎が怯えたような瞳で尋ねる。
龍之介の胸に、再び迷いが生まれる。
(やはり覚えておらぬか……)
「自分の半分は、姫様のものだとかなんとか……姫様とは誰のことじゃ?」
危険かもしれぬと思いながらも、龍之介は訊いた。
「ひ、姫様?俺がそんなことを?……わからない。そんな身分の違う女に遭遇する機会なんてねぇし」
不安そうに揺れる瞳。
龍之介は努めて平静を装う。
「まぁ、そうじゃよな。ひとまず部屋へ戻るぞ。冷えてきおった」
「あ、ああ」
(姫とは、澄斬姫のことに違いなかろう。清志郎、お前はもう祟り神に、囚われておったのだな……)
部屋に戻る途中で、沈丁花の花が、龍之介の目に留まった。
先日聞いた紗凪の声が蘇る。
まどろみの中で聞いたはずなのに、不思議と鮮明に耳に残っている。
『清志郎を……彼を……あの子から守ってあげて』
(普通に受け取ると『あの子』とは、澄斬姫のことじゃよな?)
『あの子も……可哀そうな子なの……。けれど、このままでは、あの子も、清志郎も……』
(可哀そう?それに何故、紗凪さんは、澄斬姫のことを『あの子』と呼ぶのじゃ?)
龍之介の頭の中は、疑問で溢れかえっていた。
これまで物の怪や怪異の類を、端から信じぬ性質の龍之介だったが、目の前で起きた清志郎の異変は、彼の信条を根底から揺るがすには十分すぎた。
紗凪の言葉が、今や疑いようのない現実味を帯びて迫ってくる。
(紗凪さん、儂とて清志郎を守りたい。だが、儂は剣の腕が少しばかり立つだけの、特別な力など何もないただの男だ。この身一つで、人ならざるものから、どうやって友を守れというのだ……)
龍之介は、再び星空を見上げた。
夜空に瞬く星々はいつもより遠く、まるで手の届かぬ高見から、彼らを見下ろしているかのようだった。




