第十八章 狂気の寄合(第三話)
紗凪が残した沈丁花に彼女の存在を確信する龍之介。
一方、村の狂気に満ちた寄合を目の当たりにした宗真は、己の無力さに苛まれていた。
そして、傷の癒えた清志郎は澄との再会を喜ぶも――。
三者三様の朝、それぞれの物語が静かに動き出す。
翌朝。
朝日が昇る前に、龍之介は目を覚ました。
まだ空は白み始めたばかりで、部屋の中にはほんのりとした薄暗さが漂っている。
微睡みの底で、誰かの声を聞いた気がする。
どんな夢だったか、輪郭はすでに朧だ。
ただ、その声に宿る深い憂いと、必死に何かを訴えかける響きだけが耳に残っていた。
障子の隙間から吹き込む冷たい風が身に染みる。
部屋が冷えていると感じたのは、きっとその風のせいだろう。
(やれやれ、ちゃんと閉めんで寝てしもうたのか……)
龍之介は、ぼんやりとした視界の中で、畳の上に何かが転がっているのを目に留めた。
「ん、なんじゃ?」
やがて視界が焦点を結び、それが何かを認めた瞬間、龍之介は布団を跳ね除けていた。
そして、小さなそれを、そっと手に取る。
「これは……沈丁花……」
彼は昨晩の不思議な出来事の一部始終を思い出した。
「紗凪さん……来たのか、儂のところにも」
庭から風に乗って飛び込んできたのだろうか。
だが、龍之介にはそれが紗凪の残した証に思えてならなかった。
◇
一方、風間医院の個室では、清志郎が目を覚ましたところだった。
新太と風呂に入り、すっきりしたせいか、久しぶりに昨晩はぐっすり眠れた。
澄は、清志郎が風間の診察を受けて以来、姿を見せていない。
(もしかして、もう来る気はないのか?ここを離れる前に、せめて最後に一目だけでも会いたいものだが)
会いたい――。
澄のことを想うと、切なさで胸が締め付けられる。
(未練がましいな、俺。情けねぇ……)
「よっと」
清志郎はベッドから起き上がり、部屋の障子を開けた。
途端に、眩しい陽光が彼の目を鋭く貫いた。
(答えはもう出した。俺は紗世さんと道善先生を守る。それが俺に一番合っている。地味で平凡な日々――それこそが、本当の幸せなんだ)
幼い頃に両親を亡くした清志郎は、ささやかな幸せがいかに脆いかを知っていた。
その影響か、野心を抱けず、名声を得る剣豪に憧れはすれど、自分がそうなりたいとは思わない。
手にしたものを失うことへの恐怖が、常に心を支配していた。
紗凪を失ったときの絶望は、今も生々しく胸に焼き付いている。
「紗世さん、もう少し待っていてくれ。すぐ戻るから……道善先生のことも、まだ俺は諦めない」
清志郎は朝日が昇る光景を眺めながら、決意を新たにした。
◇
その頃、まだ朝霧の残る寺では、宗真が昨夜の寄合を思い返していた。
あの異様な空気と、人々の叫びが耳から離れない。
結局、次の澄斬姫への生贄は、篠原家の娘・鈴ということに決まり、寄合はお開きとなった。
打ちひしがれた篠原喜兵衛を残し、男たちは構わず帰っていった。
喜兵衛を慰めでもしていたのか、彼の背中を宗岳がさすりながら何やら言っていた。
屋敷を提供している庄屋はというと、早く帰ってくれとでも言いたげな顔で喜兵衛を見ていた。
やがて、渋々立ち上がった喜兵衛を、宗岳と宗真とで篠原家へ送ってやることにした。
道中、喜兵衛は無言であったが、ずっと肩をひくつかせ、鼻をすすっていた。
宗真はその喜兵衛の様子を背後に感じながら、提灯をもって黙って歩くしかなかった。
「ご住職、宗真殿……すまなんだ……」
一言礼を述べるのが、精一杯だったのだろう。
肩を落とし、ひとまわり小さく見えた喜兵衛は、暗い屋敷の中へと消えていった。
「帰るぞ、宗真。ここで問答するつもりはない」
「……はい」
寺に着いたからといって、宗岳は宗真と語ろうとはしなかった。
「今宵はもう遅い。もう寝なさい。儂も疲れた」
「っ!父上!」
「頼むから、明日にしておくれ。お前も今は混乱しておろう。明日にするのじゃ」
あのとき宗岳に詰め寄らなくてよかったと、一晩明けた今、宗真は思っていた。
感情のままに、宗岳に食ってかかっていたかもしれない。
ただの言い争いで終わってしまっては意味がないのだ。
(だとして、どうすれば良いのだ。父上も道善先生も玄庵先生も解決できなかったことを、私にできるというのか?皆、あの狂気を前に何もできず、今の状況に至っているのだ)
宗真は、これまでにない困難に直面し、思わず溜息をもらした。
(紗凪ちゃん、すまないが、俺ひとりではどうにもできそうにないよ。清志郎、お前ならどうする?私たちの関係は、父と道善先生のようなものだよな。お前がいたとして、やはりあの狂気に、二人して飲まれてしまうのだろうか?)
気づけば宗真は、底知れぬ闇の淵に、ひとり佇んでいた。
◇
それから一刻程後、風間医院の庭では、清志郎が脇差で素振りをしていた。
(まさか、打刀を失くすことになるとはなぁ……俺にはあれしかなかったのに。帰ったら道善先生に、お借りするしかないか……)
脇差だけを差して道中を歩く自分の姿を思い浮かべると、どこか物悲しさが胸をよぎった。
まして、あの打刀は安物とはいえ、父の形見だったのだから。
(父上、大切な形見を失くしてしまい、申し訳ありません。しかし、こうして素振りをすると、父上と木刀で素振りをしていたあの幸せな日々が蘇ります。その思い出だけは、決して失しません)
「っつ!」
急に走った脇腹の痛みに、清志郎は顔をしかめた。
(ま、不味い、はりきりすぎたかな、痛ててて……)
脇腹を押さえながらしゃがみこんで痛みに耐えていると、ふいに女性の声が聞こえた。
「大丈夫!清志郎さん!」
(こ、この声は……澄さん?)
清志郎が顔を上げると、息を切らしながら駆け寄ってくる澄の姿があった。
「もう、またここにいたと思ったら、素振りなんかして」
「少しのつもりが、つい調子に乗ってしまって……ははっ」
「笑い事じゃないわよ。せっかく良くなってきたのに悪化したらどうするの?」
「そ、そんな怒らないでくれよ。大丈夫だから」
清志郎は立ち上がったが、澄はまだむくれ顔のままだった。
苦笑いを浮かべる清志郎だったが、そんな澄の姿が愛おしくてたまらなかった。
「……もう、来ないのかと思ってた」
「え?」
澄は、どうしてそんなことを言うのだろうとでも言いたげな、不思議そうな表情を浮かべた。
「昨日、帰っちゃっただろ?もう、俺と会う気はないのかと……」
「そんなつもりじゃ……。昨日は私、あれから……と、とにかく部屋に戻りましょう。見てもらいたいものがあるの」
「す、澄さん?」
いきなり手をぐいと引っぱり、歩き出す澄に清志郎は翻弄された。
しかし、これはまだ、序の口だった。
◇
部屋に戻ると、新太もちょうど例の薬を手に、清志郎の部屋を訪れたところだった。
「開けてみて。きっと似合うと思うの」
そう言って澄から渡されたものは、その大きさや重さからして、清志郎が退院するときに着るであろう着物と袴に違いなかった。
「澄さん、もしや昨日、あれからこれを買いに行ってくれたのか?」
「ええ。気に入ってもらえると嬉しいのだけど」
澄の行動の早さにはびっくりしたが、はにかむ澄を見て、清志郎の頬もほんのり赤く染まる。
昨日の澄の言葉が頭をよぎる。
『あなたに贈りたいの。……私を思い出してもらえるように』
清志郎は胸を高鳴らせながら、包みを解いていった。
包みの中から澄が選んだ着物が姿を現した瞬間、清志郎は思わず声を上げてしまった。
「へっ!?……す、す、澄さん、これは!?」
「どう?その銀糸の刺繍素晴らしいでしょ」
澄のことだ。
無駄に質のいいものを買ってくるのではないかと、一抹の不安は抱いていた。
だが、それは、清志郎の想像を遥かに超えていた。
それは、艶やかな光沢を放つ黒の綸子の着物だった。
背には銀糸で勇ましい鷹が、そして裾模様には金糸で松が豪華に刺繍されている。
武士が好みそうな意匠ではあるが、明らかに分不相応な絢爛さだ。
とてもではないが、清志郎のような身分の者が、袖を通せるような品物ではなかった。
「む、無理だって!着れないよ、こんなの!悪いけど返品だ!返品してきて!」
「ど、どうして?何が駄目だったの?好みじゃなかった?」
「いや、似合うとか好みとかの問題じゃないんだ!俺みたいな奴がこんな立派なの着て村を歩いてたら変だろ?浮いちまうって!」
「そんなことないわよ。これくらい平気よ。私、一生懸命に選んだのに!」
清志郎は助けを求めるように、新太を見た。
が、彼は薬を置くと、無表情で静かに部屋を出て行こうとする。
「ま、待ってくれ新太!お前からも説明してくれ!」
清志郎の切なる願いを無視し、新太は戸を閉めた。
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