第十三章 夢と現の狭間(第二話)
記憶の混濁に苦しむ清志郎。
彼が悪夢と現実の狭間で揺れ動く中、澄は変わらぬ優しさで彼を包み込む。
「あなただからよ」――その言葉に隠された真意に、清志郎はまだ気づかない。
彼女の温もりが、彼を光へと導くのか、それとも更なる闇へと誘うのか。
物語は、まだ始まったばかりだ。
清志郎は、昼近くになって、重たい瞼をようやく開けた。
(あれ?いつの間に寝たんだ俺?今、何刻だ?)
清志郎は戸惑いながら上体を起こし、障子の小窓に手をかけた。
そっと開けると、柔らかな春の日差しが部屋に流れ込み、外の空気がほんのりと温かさを帯びているのを感じた。
眩しさに思わず目を細める。
(もう、昼じゃないか!)
必死に記憶を辿る。
(そうだ、確か黒川の夢を見たんだ。それから朝まで眠れなくて……今のように障子を開けて……?)
それから先が、どうしても思い出せない。
(……ということは、朝方、眠ってしまったのか?)
そう頭の中で考えがまとまったとき、戸の向こうから澄の声がした。
「清志郎さん、起きていらっしゃいますか?」
(澄さん……来てくれたのか)
清志郎は、今日も澄が訪れてくれたことに深い安堵を覚え、返事を返した。
「はい。起きてます」
「入ってもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
盆を持った澄が戸を開け、にこやかに微笑む。
「よかった。今度は起きていらして。おはようございます、清志郎さん。よく、眠っていらっしゃいましたね」
「……もしかして澄さん、朝から来てくれてたんですか?」
「ふふっ。何度、名前を呼んでも起きないから心配したのよ。熟睡していたのね」
「すまない、澄さん。夜、一度起きたら、眠れなくなって……」
頭がはっきりしてくるにつれ、清志郎は黒川の悪夢をありありと思い出してきた。
と、同時に一気に悪寒が、清志郎の体を突き抜けた。
体が一瞬にしてこわばる。
「もしかして、嫌な夢でも見たの?」
盆を置きながら、澄がたずねてくる。
「……ちょっと」
悪夢が完全に蘇り、掛け布団を掴む手に力が籠る。
全身から、じっとりと嫌な汗が噴き出してきた。
「あんなの見ちゃったからよ。だから、見ない方がいいって言ったのに」
「澄さんの言うとおりです。見なきゃ、よかった。情けない、です」
俯いた清志郎の体が、小刻みに震えだす。
「清志郎さん?」
「俺、自分が思ってたより、ずっと……」
澄の手が、震える清志郎の手に、そっと重ねられる。
温かい――孤独に耐えた昨晩、求めて止まなかった温もりだ。
涙が溢れそうになる。
「……ずっと、弱い奴だった」
「ごめんなさい。あんな事があった後に、あなたを一人にするべきじゃなかった」
「ははっ、それじゃ、俺、子供じゃないですか」
「弱り目に祟り目とはこのことね。混乱するのも無理ないわ。体が弱ってるときは、なおさらのこと」
「……」
「だから、ご自身のこと、そんな風に思わないで。誰だって、そんなに強くはないものよ」
澄の滑らかな手が、清志郎の頬に触れる。
澄の慰めに、清志郎の堰を切ったように涙が溢れた。
しかし、なぜか妙な胸騒ぎが走った。
――前にも、こうして澄の前で涙を流した気がする。
(いや、そんなはずは……)
清志郎は俯いたまま、ぽつりと小さく呟く。
「まさか、これも夢じゃないよな?」
澄が少し驚いたように聞き返す。
「え?夢?」
「そう、夢の中……夢なのか、現実なのか……その境目がわからなくなってきてるんだ。俺、本当に生きてるのか、それとももう死んでるのか……何もかも曖昧で、怖いんだ」
「清志郎さん……」
「あいつが、黒川が言うんです。俺から死んだ奴の匂いがするって……俺は死んでるって」
清志郎は、怯えながら澄に問う。
「澄さん……ここは、現実ですよね?俺、ちゃんと生きてますよね?」
なぜだかわからないが、澄の返事を聞くのがひどく怖かった。
――返事がなかなか返ってこない。
(やはり、これも夢?いつから?)
清志郎の恐怖が高まっていく。
そのときだ――彼女のもう一方の手がそっと背中に回され、もう片方の頬にも柔らかな熱が伝わってきた。
気づけば、澄の頬が清志郎の頬に触れ、彼女の吐息が間近に感じられる。
「す、澄さん!?」
「大丈夫よ。あなたはちゃんと生きてるわ」
その声は、耳ではなく、重なる頬を通して、胸の奥に直接響いてくるようだった。
「大丈夫、大丈夫よ。私の体温、感じるでしょ?」
「あ、ああ……」
「ここは現実よ。あなたは、そこでちゃんと生きてる。死んでなんかいない。私もあなたの体温、ちゃんと感じているもの。それとも、私の言うことが信じられない?」
「そんなわけ……ないよ」
清志郎の鼓動が激しく高鳴る。
澄によって、自分の命が新たに生まれ変わったように思えた。
「澄さんが嘘つくわけない。ありがとう、澄さん……だめだな、俺、澄さんに依存しすぎだ。自分でもわかってるんだ……こんなんじゃだめだって」
「なに言ってるの。私は構わなくてよ。私だって、誰にでもこんな風に接するわけではないわ。あなただからよ」
「え?それ、どういう……」
「さあ、お薬を飲んで、お粥も召し上がって。今日はお庭に出てみましょう。きっと気分が晴れるわ」
「庭に?出ていいんですか?」
「そろそろ、歩ける頃合いだって、風間先生がおっしゃっていましたわ」
澄の温もりが離れた瞬間、胸にぽっかりと穴が空いたような寂しさが広がった。
けれど、その穴は、外に出られる期待と澄の微笑みで、ゆっくりと光に満たされていった。




