第十章 命の価(第一話)
どれほどの時が経ったのか。
ふと目覚めた清志郎は、深い闇の中に取り残されていた。
灯りはかすかで、天井の木目さえぼんやりとしか見えない。
耳を澄ませば、まるで誰もいないかのような静寂――だが、その静けさが、むしろ異様だった。
ここは本当に医者の家か? それとも……何か別の場所か?
「んぅ……」
澄が去ってから、どれくらい経っただろうか。
日が完全に暮れた頃、清志郎はゆっくりと目を開いた。
ひどく悪い夢を見た気がする。
けれど、靄がかかったように思い出せない。
清志郎は重いまぶたを指でこすり、無理やり目を開けた。
(薄暗い……それに、静かだ……誰もいない?)
仄かに天井の木目が浮かび、顔を横に向ければ、小さな灯りが部屋をぼんやり照らしているのがわかった。
自分が横になっているのはベッドの上のようだ。
夢ではない、現実にいるのだと認識すると、眠る直前の記憶をたぐり寄せようとした。
(確か、澄さんが着替えるのを手伝ってくれて、それから……)
清志郎の記憶はそこで途絶えている。
(くそっ、思い出せない。着替え終えてすぐ、また眠っちまったのかな?)
熱はようやく引いたようだ。
今までぼやけていた輪郭がはっきりとしてくると、清志郎は自分が置かれた現実を把握しようと意識を集中させた。
(この部屋、変わってるな……あの医者、蘭学もかじっていると言っていたか。だとすれば、この設えも異国風というわけか?そもそも、ここはどこだ?千凪村から近いのか?こんな場所があるなんて、聞いたこともなかったぞ)
清志郎は、刺された脇腹にそっと手を当てた。
「……くっ」
( 痛みは残るが、だいぶ和らいでいる……起き上がれるか?)
体の右側を軸にして一度うつ伏せになり、両手で上体を押し上げる。
ずっと何も食べず、動いてもいないせいか、腕に力がなかなか入らない。
それでも、なんとか正座の姿勢まで持っていけた。
ベッドの横の小さな台に、澄が置いていってくれたであろう湯のみがある。
手を伸ばすと、白湯はすっかり冷めてしまっていたが、喉が渇いてカラカラだったので、構わず口にした。
(澄さんは、何故あんなに俺に構うんだ?知り合いでもないのに、俺によくしたって、何の得にもならないだろ……)
湯を飲み干すと、ふぅっと小さく溜息をついた。
(金持ちってのは心に余裕があるのかねぇ?黒川みたいな奴もいるけどよ。……そう言えば黒川、あの日、稽古に来ていなかったな。まさか!……いや、いくら気に食わないからって浪人を雇ってまで殺しにくるか?……いずれにせよ、わかってるのは俺の腹を刺した奴は、まだ生きてるってことだ)
清志郎はベッドから、そっと足を下ろし、ふらつきながらも立ち上がった。
澄も風間も、命の恩人であることに間違いはないが、どうも完全に信用できない。
誰もいない今のうちに、この屋敷がどんな場所なのか確かめたかった。
清志郎が戸に手をかけ、できるだけ音を立てぬよう部屋を出ると、そこは長い廊下だった。
壁に固定された行灯が等間隔で足元を照らしているが、闇はその先を飲み込んで見通せない。
ふらつく足取りで、壁に手をつきながらゆっくりと進む。
薬草とは違う、どこか甘い花の香りが漂っていた。
(玄庵先生のところとは大違いだ。本当に医者の家か?やけに静かだが、俺の他に病人や怪我人はいるのか?)
歩き始めてすぐ、最初の戸に差し掛かった。
そっと隙間から中を覗く。
真っ暗で人の気配はない。
さらに戸を開け、廊下の光で中を照らすと、ぼんやりとベッドが浮かび上がった。
(俺が寝かされていた部屋と同じか)
戸を静かに閉め、さらに奥へと向かう。
2つ目の戸に手をかけようとしたときだった。
「目を離した隙に、よその部屋を覗くなんて、感心しないな」
「……!」
(こ、子供の声!)
清志郎が驚いて振り返ると、十歳ほどの少年が腕を組んで立っていた。
「俺は、風間先生の助手を務める新太だ。あんたの様子を見てこいと言われたが、まさか抜け出して院内を嗅ぎまわっているとはな……」
「あ、い、いや、誤解しないでくれ。嗅ぎまわってるなんて、そんな……」
「ふん、元気そうで何より。先生、呼んでくるよ。ベッドに戻るなら、今のうちだな」
新太はそう言い捨てると、清志郎に背を向け、さっさと行ってしまった。
(なんなんだよ、あの小僧……)
風間に子供の助手がいるだけでも驚きだというのに、あの子供らしからぬ物言い。
清志郎は呆気に取られ、小さな背中が闇に消えるまで、ただ見送ることしかできなかった。
静まり返った廊下に、コツ、コツ、と乾いた足音だけが残っていた。




