第九章 姫神との契り(第一話)
「紗世さんを、ひとりぼっちになんてしない」
あの夜、清志郎はそう約束してくれた。
村中を探しても、もう何も見つからない。
それでも――その声が胸の奥から消えない限り、紗世は諦めきれなかった。
清志郎が姿を消して、三日。
紗世はただ、沈黙の中に座り続けていた。
『稽古を終えて帰っただけです』
剣嶺館でそう言われたあの時から、胸の奥にぽっかりと空洞ができたようだった。
朝比奈道場の門下生たちと共に、清志郎の日本刀が落ちていた場所や剣嶺館道場への参道、さらには村中を隈なく探し回ったが、清志郎の姿はどこにも見つからなかった。
千凪村のほとんどの住人は、すでに清志郎が命を落としたものと考えていた。
朝比奈道場も暫くは閉門することにした。
そんな中、紗世は未だ清志郎の死を受け入れることができずにいた。
心の中であの夜の記憶が繰り返されていた。
『大丈夫……大丈夫だから。俺は絶対、死んだりしない。紗世さんをひとりぼっちになんてしない。約束……しますから……』
あのときの声が、今も耳の奥で揺れている。
これまでずっと一緒だった。
父がいなくなったとしても、清志郎がいる限り、未来はなんとなく見えていた。
例え一緒になれなくても、彼は自分を見捨てたりしないだろう。
いつも、どこかで見守ってくれているに違いない。
しかし、清志郎がいなくなった今、明日さえも見えなくなった気がする。
最近では、縁側にひとり静かに座っている時間が増えた。
ふと目を庭に向けると、沈丁花が静かに咲いている姿が目に留まる。
「お姉ちゃん……」
紗世は腰を上げ、ふらつきながら沈丁花の方へ歩みを進めた。
彼女は、紗凪が生前に清志郎を慕っていたことを知っている。
甘い香りが漂ってくる沈丁花も、今の紗世にとっては何の慰めにもならなかった。
むしろ、その香りが、かえって彼女の胸を締め付ける。
「お姉ちゃん……お願い。清ちゃんを連れて行かないで。ねぇ、お願いよ! 清ちゃんだけは……私から奪わないで!」
紗世は、沈丁花の花を無造作に摘み取り、ぎゅっと握りつぶしながら、静かに涙をこぼした。
花びらは、指の隙間からぽろぽろと落ちていく。
まるで、大切な何かがこぼれ落ちるように――。
龍之介は庭で泣いている紗世を見つけ、どうするべきか分からず立ち尽くしていた。
もはや、慰めの言葉など出尽くしていた。
そもそも、清志郎がいなくなった今、ここに自分がいる理由はない。
だが、あんな不安定な紗世を残して、出ていく訳にもいかない。
(襲った輩の手掛かりすら掴めんとはな……)
結局、紗世をその場に残したまま、自室へ向かった。
龍之介とて、本当に清志郎が死んだとは思いたくない。
ただ、状況からして生きている可能性は限りなく低いこともわかっている。
清志郎が残した、血まみれの日本刀が幾度となく頭を掠める。
(俺にできることなんて、たかが知れている……だが、せめてあの刀だけでも。あいつが生きていた証を、残してやらねばならん)
視線がふと、隣の清志郎の部屋に立てかけられた、血の乾いたあの刀に向く。
――せめて、こいつだけでも。
龍之介は静かに腰を上げ、清志郎の刀を抱えて戸口を出た。
夜の帳が、深く、重く、静かに落ちていく。
それは夢の中のようでいて、現実以上に息苦しい。
風が吹いている。
甘い香りが鼻先をかすめた。
――沈丁花だ。
気がつけば、清志郎はあの庭に立っていた。
満開の沈丁花の中に、誰かがうずくまっている。
小さな背中。
震えている肩。
聞き慣れた嗚咽。
「……紗世さん?」
泣いている紗世の元へ駆け寄ろうとするが、思うように体が動かない。
沈丁花の香りが、まるで霧のように足元を絡めとる。
そのとき――彼女が振り返った。
血の涙を流しながら、まるで咎めるように、哀しげに、それでも愛おしそうに清志郎を見つめていた。
「なぜ、いなくなったの……? ずっと傍にいてくれるって、言ったじゃない……! 嘘つき……」
その声は、音ではなく、心に直接響いてきた。
「嘘つき!嘘つき!嘘つき!」
紗世の清志郎を責める声が木霊する。
頭を抱え、叫びたくなるほどの後悔が胸を打つ。
「すまない、紗世さん……でも、俺は……俺は本気で、紗世さんのことを……」
沈丁花の花びらが嵐に吹き飛ばされるように舞い、清志郎の胸に突き刺さった。
薄桃色の花びらが血に染まり赤くなっていく。
とてつもなく胸が痛み、膝から崩れ落ちる。
「ゆ、許してくれ……紗世さん……」
清志郎が膝をつきながら、右手を伸ばし、紗世に懇願すると、後ろから若い女の声がする。
「清志郎……私、紗世のこと、お願いしたわよね?」
その声に驚いて振り返ると、そこには紗凪が怒りに満ちた表情で立っていた。
「さ、紗凪……」
二人に挟まれ、清志郎は言葉を失う。
冷たい汗が体中から吹き出るのを感じる。
(許してくれ……! 頼む……! あれが、俺の精一杯だったんだ……!)
――とそのとき、一筋の光が差し込んだ。
どこかで別の誰かが、自分を呼んでいる気がする。
(だ、誰……?)




