第一章 死に支度をする人(第一話)
小さな朝の食卓には、語られぬ不安と、それでも続ける日常があった。
誰かの「死に支度」は、いつも静かに始まっている──。
朝の光が差し込む台所で、清志郎は一椀の粥を見下ろしていた。
「……先生、また、ほとんど手をつけてないな」
道善の粥椀は、すっかり冷めてしまっていた。
食欲がないのはわかっている。
しかしこれでは、いくら何でも体が保てない。
「清ちゃん、ごはん冷めちゃうよ〜!」
奥の部屋から、紗世の声が飛んできた。
「……あ、はーい」
粥椀に目をやったまま一呼吸おいてから、清志郎は台所を離れた。
座敷には、ふたつの膳が並んでいた。
白飯に味噌汁、漬物、そして香ばしく焼かれた干物。
どれも質素だが、丁寧に用意されている。
清志郎は黙って膳の前に座ると、手を合わせる。
「いただきます」
紗世も向かいで同じように手を合わせ、ふたりの声が重なった。
箸を取った清志郎は、干物の皮をそっと押さえ、身を崩さぬよう丁寧にほぐしていく。
骨を傷つけることなく、小さくほぐれた身を一口、口に運ぶ。
焼きの香ばしさと、ほんの少しの塩気が白飯とよく合った。
「……清ちゃんも、あんまり食べないね」
紗世がぽつりとつぶやく。
清志郎は一瞬だけ箸を止め、顔を上げた。
「いや、もう育ち盛りってわけでもないですしね」
そう言って、笑みを浮かべながら茶碗に残ったごはんを口に運ぶ。
「ねぇ……清ちゃんも、どこか悪いんじゃないよね?」
紗世の声が少しだけ小さくなる。
清志郎は味噌汁をすすると、少し肩の力を抜いたように、軽く笑って言った。
「ご心配なく。干物なら三枚でも平らげられますよ」
「……ダメ。一枚だけ」
紗世は苦笑しながら、清志郎の膳にそっと漬物を足した。
食後、ふたりは自分たちの膳を片付けたあと、
そのまま奥の部屋へと足を向けた。
道善の様子を見に行くのは、朝の習慣になっていた。
襖をそっと開けると、布団の中で道善が目を閉じていた。
浅く上下する胸が、かすかに生気を示している。
清志郎が部屋の中に入ると、道善はゆっくりと目を開けた。
「おはようございます、先生」
清志郎は、膝をつきながら丁寧に声をかけた。
「……食欲がないのは分かりますが、少しでも召し上がらないと、良くなるものも良くなりませんよ」
その言葉に返事はなかったが、道善は清志郎を見つめ、やがて視線を天井へ移した。
何も言わなかった。
それがすべてを語っているように思えた。
「もうすぐ玄庵玄庵先生がいらっしゃいます」
紗世が静かに言葉を添える。
「新しいお薬を、処方してくださるそうです」
道善は、かすかに眉を寄せたが、やはり言葉はなかった。
しばし沈黙が流れたあと、布団の中から低く、かすれた声が響いた。
「……紗世、すまんが、清志郎と二人きりにしてくれ」
その一言に、紗世は一瞬動きを止めたが、すぐに頷いた。
「……はい」
彼女は静かに立ち上がり、襖を静かに閉めて部屋を出た。
その音だけが、不思議と重く響いた。
部屋には、清志郎と道善だけが残された。
襖が閉まり、部屋には静けさが戻った。
清志郎は、道善の側までそっと歩み寄ると、静かに膝をついた。
その目は、布団の中の男の呼吸のリズムに合わせるように、じっと様子を見守っていた。
やがて、道善が口を開いた。
「……紗凪のことを考えると、今でも夢に見る。沙凪は……儂を許してはくれまい……」
ぽつりと落ちたその言葉に、清志郎の目が揺れた。
「許してくれない? 沙凪さんが?そんな……それを言ったら俺だって……」
言葉を継ごうとしたそのとき、道善が眉をひそめ、胸に手を当てた。
「ち、違うんだ……清志郎……うぅっ」
顔をしかめて、苦しげに呻く。
「先生、大丈夫ですか?」
清志郎が身を乗り出して声をかけるが、道善は応えず、ただしばらく苦しみに耐えるように目を閉じていた。
やがて、痛みがやや引いたのか、呼吸が落ち着いてきたのを確認すると、道善は目を開けて静かに続けた。
「……もともと、あいつとお前を一緒にと思っていたんだ。道場のことも、すべて任せるつもりだった」
道善の目は、かつて見ていた未来を追うように、遠くを見つめている。
「だが、沙凪がいなくなって……全てが変わった。紗世は、まだ子どもだと思っていたが……あいつは、ずっとお前を見ている」
清志郎は、ふと目を伏せた。
「だが、お前の気持ちは……儂にはわからん」
再び、短い沈黙が訪れた。
布団の中でわずかに身を起こし、道善は真っ直ぐに清志郎を見据えた。
「清志郎。お前は、紗世のことをどう思っている?」
その問いは、静かだが鋭かった。
言葉を丁寧に選びながらも、決して逃がさない重みを持っていた。
「……お前の答え次第で、道場をどうするか決める。お前が、本当に紗世を想っているのなら、託すつもりだ。だが、そうでないなら……ここで、終わらせようと思っている」
沈黙が、ふたりの間に落ちた。
言葉が交わされたはずなのに、そこには、会話の余韻というよりも、なにか重たい“決断の予感”だけが残っていた。
「……先生の、身分に関わらず、門戸を開く道場のあり方には、ずっと憧れてました。ただ……失礼を承知で申し上げれば、理想だけじゃ飯は食えないのが現実で。正直、この先どうしていくべきか……自分でも、まだ迷っています」
一呼吸置いて、清志郎は更に続けた。
「紗世さんのことは、何よりも大事に思ってます。でも、それと“幸せにできるか”は別の話で……自信がありません」
道善を真っ直ぐ見つめていた清志郎だったが、最後の方は伏し目がちだった。
道善はそれを聞くと、フッと口元を緩めた。
「……お前らしいな」
苦笑とも、安心ともつかない吐息が漏れる。
「そうやって考えすぎるところが……お前の不器用なところだな。真面目であるのは悪くない。だが、その真面目さが足を止めることもある。……お前は、そういう男だ」
清志郎は少しうつむいて、膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
言葉を返そうとしたが、うまく口に出せず、小さく息をついた。
「……紗世とふたりで、よく話し合って決めなさい。儂の気持ちよりも、お前たちの未来の方が大事だ」
言葉が出ないまま、清志郎はただ、小さく頷いた。
「儂も、もう長くはない」
清志郎は目を伏せ、唇をきゅっと結んだ。
分かっていたつもりだった言葉に、改めて現実を突きつけられた気がして、胸の奥がひりついた。