第五章 無神論者(第二話)
ただ一輪の花を携え、清志郎は祈りに向かう。
けれどその日、彼を待っていたのは、この村にはいないはずの、美しき女──
それは、後に彼の運命を狂わせる、最初の出会いだった。
墓地への道は、座禅堂の裏手にひっそりと続いていた。
中央には苔むした供養塔があり、竹林に囲まれたその一角は、昼間でもどこか薄暗い。
風が吹くと、ザサササー……と竹がしなり、葉と葉が擦れ合う音だけが空気を満たす。
それ以外の音は、何1つない。
まるで世界から切り離されたようだった。
入口の傍らには井戸があり、竹製の手桶と柄杓が整然と並んでいた。
清志郎は、無言でその1つを取り、井戸の縄を引き、冷たい水を手桶に満たす。
そのまま、朝比奈家の墓へと向かった。
しばらく歩くと、小さな墓石が目に入った。
「朝比奈家」と刻まれたそれは、年月を経て、文字の角も丸くなっている。
清志郎はそっと膝をつき、傍らに手桶を置いた。
柄杓で墓石に水をかけながら、丁寧に汚れを拭う。
手の動きは静かで慎重で、そこには習慣ではなく、祈りのような気持ちが込められていた。
「紗凪……ようやく春がきた。庭の沈丁花が咲いたから、持ってきたんだ」
呟くように言い、手にした一輪の沈丁花を手向けようとした、その瞬間――不意に強い風が吹いた。
「……っ!」
沈丁花が指先をすり抜け、ふわりと宙に舞う。
風に煽られ、花はあらぬ方向へ飛ばされていく。
目を細めてそれを追うと、風下に一人の女が立っていた。
若く、それでいてどこか大人びた気配をまとい、見目麗しい顔立ち。
紫色の藤の花柄の着物を纏い、まるで異国から迷い込んだような気配だった。
(……この村の者ではないな)
彼女は静かに沈丁花を拾い、清志郎が近づく前に手渡してきた。
その仕草には迷いがなく、どこか親しげで――不思議な距離のなさがあった。
「拾っていただき、かたじけない」
礼を述べると、彼女はふわりと微笑んだ。
そして、すれ違いざま、清志郎の耳元でこう囁いた。
「もう、やめたら? ……彼女、そこにいないのに」
「……え?」
思わず振り返ろうとしたが、再び、強い風が吹き抜けた。
砂と葉が巻き上がり、目を開けていられない。
顔を反らせる。
だが――次の瞬間、風が止んだ時には、もう彼女の姿はなかった。
竹の葉が揺れるばかりで、誰の気配もない。
「……なんだったんだ、あの人……」
清志郎は、まるで狐に化かされたかのように、ぽつりと呟いた。
清志郎が墓参りを終え、本堂へ龍之介を迎えに向かうと、住職の宗岳と出くわした。
「清志郎、道善の様子はどうじゃ?……やはり、相当悪いのかのう?」
「……玄庵先生に昨日診ていただいたのですが、もってあと一月ほどと……」
宗岳は、眉をひそめ、深く頷いた。
長年連れ添った友の最期を悟った、その覚悟がにじみ出ていた。
「……いよいよか。お前も道善も、水臭いのう。長い付き合いで、こうして近くにおるというのに……こちらから聞かんと、何も言ってくれんとはな」
清志郎は言葉を返せなかった。
宗岳の言うとおりだったからだ。
「玄庵が時折、顔を出してくれての。悪化しておるらしいとは聞いておったが、そこまでとは……」
宗岳は、村人たちの悩みに寄り添う人物だ。
道善や道場のことも、きっと親身になってくれるだろう。
それでも、仏のように穏やかな者に、自分の弱さを打ち明けるのは、どこか気が引けた。
「こういう時こそ、久々に座禅でもしてみぬか。心を落ち着けるには、よいぞ?」
「……今日は連れを待たせておりますので、また改めて……」
ちょうどその時、宗真と龍之介が連れ立って歩いてくるのが見えた。
この短い時間で、すっかり打ち解けた様子だ。
「おう、清志郎! いやぁ、なかなか味のある仏様を拝ませてもろうたぞ。これから座禅というものも体験してみようと思ってな、ちょうど今から座禅堂に向かうところよ!」
……やはり、連れてくるべきではなかった。
清志郎は小さくため息をつきながらも、観念して二人の後を追った。
座禅堂には、線香のほのかな香りが漂っていた。
宗岳と宗真の指導のもと、龍之介は生まれて初めて座禅に挑んでいた。
初心者である彼は、結跏趺坐は難しく、半跏趺坐の姿勢で法界定印を結んでいる。
一方、清志郎と宗真は結跏趺坐で座し、龍之介の両脇で静かに只管打坐に入っていた。
宗岳は警策を手に、三人の前をゆっくりと歩いている。
「難しく考えんでよい。姿勢が崩れたり、心が乱れたりしても、それを責める必要はない。ただ気づいて、また整えればよいのじゃ」
宗岳は、柔和な笑みを浮かべて龍之介にそう声をかけた。
しかし、場の空気はどこか重い。
その原因は、隣に座る清志郎だった。
彼は無表情のまま、どこか刺すような緊張感を漂わせている。
そのどんよりとした気配は、龍之介にも伝わってくるほどだった。
やがて宗岳が清志郎の前に立ち、彼は合掌して一礼する。
そして、警策で肩を軽く二度、打たれた。
「清志郎……珍しいな」
宗真が、ほとんど聞き取れないほどの声で呟いた。
清志郎はその後も、何度か宗岳に警策を求めるような仕草を繰り返す。
だが、龍之介には、それが心を整えるどころか、むしろ荒れていく様子に見えた。
(……清志郎、お前……)
龍之介がそう思っていた矢先、宗真がたまらず口を開いた。
「清志郎、もうやめろ!見ていられない。……いったいどうしたんだ?」
宗岳も声を低く絞り出すように問いかけた。
「清志郎よ……なぜ、こんなになる前に儂らのところに来なかったんじゃ。……まだ、神や仏が信じられんのか?それに仕える儂らのことも、まだ信じられんのか?」
しばしの沈黙。
そして、清志郎の表情に怒りの色が浮かぶ。
見開いた瞳、震える唇。
歯を食いしばり、こみ上げる感情を必死に押し留めようとする。
だが、それは耐えきれなかった。
「……っ!ええ、信じられませんよ!俺には無理だ!」
突然の叫びに、龍之介は思わず息を呑んだ。
「神仏なんか、いるわけない!本当にいるってんなら、なんで俺の大事な人ばっかり死ぬんだよ……! 両親も、紗凪も……そして今度は道善先生まで……!俺からどれだけ取り上げれば気が済むんだ!」
「仏の姿なんか、見たことあるのかよ!声を聞いたことあるのかよ!……いたとしても、いるのは鬼の方だろ!」
座禅堂が静まり返る。
まるで世界から音が消えたかのようだった。
しばらくの沈黙。
清志郎はうつむいたまま動かず、その表情は見えない。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「……すまねぇな、龍之介。お前の初体験に、水を差しちまって」
そう言うと、清志郎は再び姿勢を正して座し直す。
もう、警策を求めることはなかった。
静かに、ただ、黙って座っていた。




