表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/66

第五章 無神論者(第二話)

ただ一輪の花を携え、清志郎は祈りに向かう。

けれどその日、彼を待っていたのは、この村にはいないはずの、美しき女──

それは、後に彼の運命を狂わせる、最初の出会いだった。

墓地への道は、座禅堂の裏手にひっそりと続いていた。

中央には苔むした供養塔があり、竹林に囲まれたその一角は、昼間でもどこか薄暗い。

風が吹くと、ザサササー……と竹がしなり、葉と葉が擦れ合う音だけが空気を満たす。

それ以外の音は、何1つない。

まるで世界から切り離されたようだった。


入口の傍らには井戸があり、竹製の手桶と柄杓が整然と並んでいた。

清志郎は、無言でその1つを取り、井戸の縄を引き、冷たい水を手桶に満たす。

そのまま、朝比奈家の墓へと向かった。


しばらく歩くと、小さな墓石が目に入った。

「朝比奈家」と刻まれたそれは、年月を経て、文字の角も丸くなっている。

清志郎はそっと膝をつき、傍らに手桶を置いた。


柄杓で墓石に水をかけながら、丁寧に汚れを拭う。

手の動きは静かで慎重で、そこには習慣ではなく、祈りのような気持ちが込められていた。


「紗凪……ようやく春がきた。庭の沈丁花が咲いたから、持ってきたんだ」


呟くように言い、手にした一輪の沈丁花を手向けようとした、その瞬間――不意に強い風が吹いた。


「……っ!」


沈丁花が指先をすり抜け、ふわりと宙に舞う。

風に煽られ、花はあらぬ方向へ飛ばされていく。


目を細めてそれを追うと、風下に一人の女が立っていた。

若く、それでいてどこか大人びた気配をまとい、見目麗しい顔立ち。

紫色の藤の花柄の着物を纏い、まるで異国から迷い込んだような気配だった。


(……この村の者ではないな)


彼女は静かに沈丁花を拾い、清志郎が近づく前に手渡してきた。

その仕草には迷いがなく、どこか親しげで――不思議な距離のなさがあった。


「拾っていただき、かたじけない」


礼を述べると、彼女はふわりと微笑んだ。

そして、すれ違いざま、清志郎の耳元でこう囁いた。


「もう、やめたら? ……彼女、そこにいないのに」


「……え?」


思わず振り返ろうとしたが、再び、強い風が吹き抜けた。

砂と葉が巻き上がり、目を開けていられない。

顔を反らせる。


だが――次の瞬間、風が止んだ時には、もう彼女の姿はなかった。

竹の葉が揺れるばかりで、誰の気配もない。


「……なんだったんだ、あの人……」


清志郎は、まるで狐に化かされたかのように、ぽつりと呟いた。




清志郎が墓参りを終え、本堂へ龍之介を迎えに向かうと、住職の宗岳(そうがく)と出くわした。


「清志郎、道善の様子はどうじゃ?……やはり、相当悪いのかのう?」


「……玄庵先生に昨日診ていただいたのですが、もってあと一月ほどと……」


宗岳は、眉をひそめ、深く頷いた。

長年連れ添った友の最期を悟った、その覚悟がにじみ出ていた。


「……いよいよか。お前も道善も、水臭いのう。長い付き合いで、こうして近くにおるというのに……こちらから聞かんと、何も言ってくれんとはな」


清志郎は言葉を返せなかった。

宗岳の言うとおりだったからだ。


「玄庵が時折、顔を出してくれての。悪化しておるらしいとは聞いておったが、そこまでとは……」


宗岳は、村人たちの悩みに寄り添う人物だ。

道善や道場のことも、きっと親身になってくれるだろう。

それでも、仏のように穏やかな者に、自分の弱さを打ち明けるのは、どこか気が引けた。


「こういう時こそ、久々に座禅でもしてみぬか。心を落ち着けるには、よいぞ?」


「……今日は連れを待たせておりますので、また改めて……」


ちょうどその時、宗真と龍之介が連れ立って歩いてくるのが見えた。

この短い時間で、すっかり打ち解けた様子だ。


「おう、清志郎! いやぁ、なかなか味のある仏様を拝ませてもろうたぞ。これから座禅というものも体験してみようと思ってな、ちょうど今から座禅堂に向かうところよ!」


……やはり、連れてくるべきではなかった。

清志郎は小さくため息をつきながらも、観念して二人の後を追った。


 


座禅堂には、線香のほのかな香りが漂っていた。

宗岳と宗真の指導のもと、龍之介は生まれて初めて座禅に挑んでいた。

初心者である彼は、結跏趺坐は難しく、半跏趺坐の姿勢で法界定印を結んでいる。

一方、清志郎と宗真は結跏趺坐で座し、龍之介の両脇で静かに只管打坐に入っていた。

宗岳は警策を手に、三人の前をゆっくりと歩いている。


「難しく考えんでよい。姿勢が崩れたり、心が乱れたりしても、それを責める必要はない。ただ気づいて、また整えればよいのじゃ」


宗岳は、柔和な笑みを浮かべて龍之介にそう声をかけた。

しかし、場の空気はどこか重い。

その原因は、隣に座る清志郎だった。

彼は無表情のまま、どこか刺すような緊張感を漂わせている。

そのどんよりとした気配は、龍之介にも伝わってくるほどだった。

やがて宗岳が清志郎の前に立ち、彼は合掌して一礼する。

そして、警策で肩を軽く二度、打たれた。


「清志郎……珍しいな」


宗真が、ほとんど聞き取れないほどの声で呟いた。

清志郎はその後も、何度か宗岳に警策を求めるような仕草を繰り返す。

だが、龍之介には、それが心を整えるどころか、むしろ荒れていく様子に見えた。


(……清志郎、お前……)


龍之介がそう思っていた矢先、宗真がたまらず口を開いた。


「清志郎、もうやめろ!見ていられない。……いったいどうしたんだ?」


宗岳も声を低く絞り出すように問いかけた。


「清志郎よ……なぜ、こんなになる前に儂らのところに来なかったんじゃ。……まだ、神や仏が信じられんのか?それに仕える儂らのことも、まだ信じられんのか?」


しばしの沈黙。

そして、清志郎の表情に怒りの色が浮かぶ。

見開いた瞳、震える唇。

歯を食いしばり、こみ上げる感情を必死に押し留めようとする。

だが、それは耐えきれなかった。


「……っ!ええ、信じられませんよ!俺には無理だ!」


突然の叫びに、龍之介は思わず息を呑んだ。


「神仏なんか、いるわけない!本当にいるってんなら、なんで俺の大事な人ばっかり死ぬんだよ……! 両親も、紗凪も……そして今度は道善先生まで……!俺からどれだけ取り上げれば気が済むんだ!」


「仏の姿なんか、見たことあるのかよ!声を聞いたことあるのかよ!……いたとしても、いるのは鬼の方だろ!」


座禅堂が静まり返る。

まるで世界から音が消えたかのようだった。

しばらくの沈黙。

清志郎はうつむいたまま動かず、その表情は見えない。

やがて、ぽつりと口を開いた。


「……すまねぇな、龍之介。お前の初体験に、水を差しちまって」


そう言うと、清志郎は再び姿勢を正して座し直す。

もう、警策を求めることはなかった。

静かに、ただ、黙って座っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ