第五章 無神論者(第一話)
夜が明ける前に、紗世はそっと部屋を出て、元いた布団へと戻っていった。
二人だけの夜は、そこで静かに終わった。
残された布団のぬくもりだけが、彼女が確かにそこにいたことを物語っている。
そして今、新しい朝が静かに始まろうとしていた。
夜が白み始め、東の空がゆっくりと明るくなっていく。
障子ごしに、その微かな光が差し込み、龍之介の部屋の畳の縁を照らした。
「おい、起きろ龍之介、朝だぞ」
隣の部屋から、着替えを済ませた清志郎が、少しだけ木戸を開けて顔を見せた。
「んぁ……おう、もう朝か……ふぁあ……」
龍之介は、むくっと上半身だけ起き上がると、背筋を反らせて大きくあくびをした。
「まずは、掃除を手伝ってもらうぞ。布団仕舞って着替えてくれ」
「うむ、承知した。世話になっているのだ。何でも言ってくれ」
寝起きにも関わらず、龍之介は嫌な顔1つせず、むしろ頼もしいとすら思わせる笑顔で返してきた。
彼は髭顔の見た目とその貫禄からして、清志郎より、少なくとも五歳以上は年上に見える。
だが、決して偉ぶらず、くったくのない態度に、つい遠慮というものを忘れてしまう。
(素の俺か……)
龍之介が布団を仕舞い、着替えを始めるのを横目に、清志郎は昨日の風呂場での会話を思い出していた。
『儂といるとき、割と素のお前、出てないか?』
(素の俺って何だよ……わかんねぇよ……)
一人思いを巡らせていたが、龍之介から現実に戻される。
「準備できたぞ、清志郎」
「ああ、じゃあ、着いてきてくれ。毎朝やってること、一通り説明するよ」
台所からは、紗世と鈴が朝飯の支度をする音が聞こえてくる。
二人はその間、黙々と掃除に励んだ。
朝飯も終え、膳の片付けが済むと、紗世と鈴は道場へ向かった。
今日の紗世は笑顔も見られ、清志郎は安心した。
相変わらず、道善は粥を殆ど残していたので、清志郎からもすすめてみたが、やはり受けつけてはくれなかった。
粥椀を片付けながら、思わずため息が漏れる。
(先生はもっと強い方だと信じていた。いや、信じたかった。だが、先生もただの人間なのか……)
正直、道善には、どんな逆境にも負けない、強い尊敬できる師であって欲しかった。
病は運命でも、心まで折れるなんて……。
なぜ紗世を残して逝こうとするのか?
あの娘を守るべき立場の者が。
清志郎には、まだ少女の面影が残る紗世の方が、辛い状況にあるのではないかと思えてしまう。
身内の死を経験したのは、道善だけではない。
そんな人間、世の中にいくらでもいるのだ。
(俺だって……)
以前の先生は、あんなに生命力に溢れていたのに。
自分が両親を亡くした時、励ましてくれたのも先生だった。
なのに、どうして……。
紗世を残して、死にたいと思うようになるなんて、一体何がそうさせてるんだ?
「龍之介、俺、ちょっとだけ出てくる」
清志郎は庭で素振りをしている龍之介に声をかけた。
「どこへ行くんだ、清志郎?」
清志郎の手には、一輪の薄桃色の沈丁花が握られていた。
「道安寺だ。近くだよ。昼までには帰るさ」
「寺か?儂も行ってはいかんのか?」
「……小さな寺だぞ」
「一人で素振りしていてもつまらん。それに、この村の様子も見たいしの。連れていけ」
「……わかったよ」
こうして二人は、並んで道安寺への道を歩き始めた。
初春の風が、二人の頬を優しく撫でて、沈丁花の甘い香りを運んでいく。
清志郎の手に握られた一輪の花は、まるで大切な思い出のように、そっと揺れていた。
「その沈丁花は?」
「墓参りに行くんでな。花でもないとと思って……」
「一輪だけか?」
「すぐ、しおれちまうんだよ、こいつは……」
「……」
龍之介は、なら、他の花にすればいいのに……と言いかけてやめた。
ふと並んで歩いている清志郎の方をみたら、沈丁花でなくてはならないような目で、その甘い香りのする一輪を見つめていたからだ。
それで、誰の墓参りなのかも、なんとなく想像がついた。
「あ、そこの角を曲がって真っ直ぐ行くと道安寺だ。近いだろう?」
「おう、あそこか。確かに近いな。よく行くのか?」
「いや……墓がなけりゃ、寺なんか行ったりしねぇよ」
清志郎のなんとなく棘のある物言いに、龍之介は少々違和感を覚えた。
道安寺の門をくぐると、苔むした石畳が続き、静寂の中に木々のざわめきが響いていた。
こじんまりとした本堂が、朝の柔らかな光に包まれている。
「俺は朝比奈家の墓参りしてくるから、お前は本堂でも拝ませてもらえよ。勝手に入っても文句は言われんさ」
清志郎の言葉は、有無を言わさず、お前はついてくるなと言っているようだった。
彼が墓地の方向へ歩みだそうとした瞬間、声をかけてくる者がいた。
「清志郎!おい、清志郎!ずいぶんご無沙汰だな?」
二人が振り向くと、息を切らしながら、こちらへ走ってきた若い僧侶がいた。
「宗真……」
「最近ぜんぜん顔見せないじゃないか。どうしたんだよ?」
「ふん、ひと月に一度は来てるぞ。お前こそ道場に来ないじゃないか。お前が勝てる相手なんかもういないぞ」
二人のやりとりを見て、龍之介は目を細めた。
声の調子、距離感、ちょっとした間合い。どう見ても長い付き合いのようだ。
(へぇ……清志郎にも、こういう間柄の相手がいたか)
そんなふうに思いながら見ていると、宗真が清志郎に尋ねた。
「このお方は?」
「ああ、紹介するよ。昨日から、うちの道場で稽古することになった高坂龍之介殿だ。武者修行中だってさ」
「いや、武者修行と言えば聞こえはいいが、風の吹くまま、気の向くまま……ふらふらと旅をしておるだけでござるよ。昨日は榊殿に意気込んで挑んだものの、見事に負け申した」
ニッと例の人懐っこい笑いを浮かべながら、龍之介は宗真に話しかける。
「清志郎と試合をされたのですか?道善先生と何かご関係でも?」
「そんなんじゃねぇよ。道場破りとばかりに乗り込んできたんだよ。まったく、どういうつもりだったんだよ、あれは?」
清志郎は呆れた顔で眉をひそめた。
「いやぁ、ちょっと焚きつけてみたら面白いかなって思ってな。道場でぬくぬくしてる奴らには、刺激が必要だろ?」
清志郎を横目で見ながら、目を細めてニヤリと笑いながら言う。
「なんだって!?」
龍之介の視線をキッと睨み返す清志郎を、宗真が諫めにかかる。
「お、おい清志郎……」
「あくまで初めて木刀を交える前の話だ。今のお前をそう思うわけがないだろう?」
慌てて、龍之介も眉を八の字にして弁明する。
それでも清志郎は、しばらく龍之介に不服そうな目を向けていたが、ふぅっとまた溜息をつき、宗真に申し出た。
「俺が墓参りしている間、龍之介を本堂にでも案内してくれないか?暇なんだとよ」
「もちろん構わないさ。では、高坂殿、まいりましょう。狭い寺ではありますが、見所も少しはあるのですよ」
「お手を煩わせて、かたじけない。よろしくお頼み申す」
二人が本堂に向かったので、ようやく清志郎は墓地へ足を進めた。
もう、誰も邪魔してくれるなと言わんばかりに。




