序章 緋色の雨―春告鳥は還らない
静けさの中に、始まりの気配が落ちる。
鳴かぬ鶯と、動かぬ竹箒。
その朝は、やがて訪れる別れを、どこかで知っていた。
桃の枝に、鶯が一羽とまっていた。
まだ咲ききらない花の間から、細いくちばしが空を向いている。
榊清志郎は、道場の縁に立ち、竹箒を手にしていた。
手は止まっている。
竹箒を動かせば、鳥は逃げてしまう気がした。
鳥が鳴くのを待っているわけではなかった。
ただ、なんとなく、この静寂を崩したくなかった。
「清ちゃん、さぼらないの!」
声が響いた。
ここ朝比奈道場の剣術師範である朝比奈道善の娘、紗世だった。
少しだけ跳ねるような声。
鶯は驚いたように羽を震わせ、空へ逃げた。
清志郎は、目でその軌跡を追った。
一瞬、あっと口をわずかに開いたが、紗世のせいには出来なくて、言葉にはしなかった。
そして静かに、竹箒を動かしはじめた。
飛び立った鶯は、またあの枝にとまることがあるのだろうか。
いや、多分ないだろう。
旅立った者が戻ってきてくれた事はない。
「もうすぐ朝飯だから、早く終わらせて来てよね。干物まで焼いたんだから」
清志郎は紗世の方を振り返り、嬉しそうに笑顔を見せた。
干物は清志郎の好物だが、高価なため滅多に朝飯には出てこない。
「本当?紗世さん。手抜きしてでも、早く終わらせますよ」
清志郎は十歳近く年下の紗世にも敬語を使う。
師範代の身であるにも関わらずだ。
清志郎の両親は早くに亡くなり、親戚の朝比奈家に居候という身だった。
道善が引き取ってくれなければ、今頃どうしていたことか。
道善は清志郎にとって、父代わりであったが、それよりも尊敬する剣術の師匠であった。
徳川の世となり、もう武士が戦に出る機会も無くなったが、清志郎は剣術が好きだった。
自分には、それ以外、何もないと思っていた。
――それから、わずか数カ月後。
妖刀・緋雨丸――かつて神の御業と恐れられたその刀は、斬った者の血を洗い流すかのように、鍔の下から静かに水を流し続けていた。
持ち主は刀を片手で何度か振る。
空を切るたび、血と水が弧を描き、周囲に降り注ぐ。
それはまるで、血の雨を撒き散らしているようだった。
刀が清められ、満足したのか、持ち主はようやく納刀する。
「……間違いない、あの刀は……」
赤黒い飛沫の向こうに、大柄な剣士が立っていた。
「清志郎……お前はまさか、清志郎なのか?」
かつての剣友、高坂龍之介は恐る恐る問う。
だが、その妖刀を手にした男は、かつての清志郎よりも若い。
輪郭は細く、肌艶さえ違って見えた。
それでも面影は確かにあった。
その男は、しばらく龍之介を見つめていた。
そして、低く静かに口を開いた。
「……なぜ、俺の名を知っている? お前は誰だ?」
その瞬間、龍之介の胸に冷たい風が吹き抜けた。
これは、本当にあの清志郎なのか。
それとも――何か別の存在なのか。
「澄斬姫 ―女神の妖刀― 序章」完