心を配る
ぱしゃり、という音が響いてから、一拍。髪から伝った水滴が胸の辺りを湿らせた。
(……冷たい)
これが水浴びというものか。しかし何かが違う気がする。
オリビアがはてと首を傾げるのと同時に、背後から絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
身体を冷やしてはいけない、と浴室に押し込まれ、なすがままに洗われてから部屋に戻る。
用意された服は、これまで見たことがない新しいものだった。急遽取りに行ったにしては、準備が良いような。
「あら、“ちょうど良かった”からこの服にしたけど、意外に趣味が良いのね」
シャルロッテから、小さく舌打ちが聞こえたのは、おそらく気のせいだろう。
別にそのままにしていても良かった気もしないでもない。今は気温もそう低くない。放っておけば、そのうち乾く。
でも、シャルロッテが駄目だと言ったから、駄目なのだろう。
「歩くたびに水が床に落ちるし、濡れた“姫様”が歩いていたら、周囲の者が気にするわ」
腰に手を当て叱る体勢に入った彼女は、「それに──」これが一番大事だと言わんばかりにずいと顔を寄せた。
「風邪を引いたら、大変よ」
風邪。でもあれは、じっとしていればそのうち治まる。それは別に、大変ではない。ある意味オリビアにとっては、普通のことだ。
城に移って来てからも、オリビアの行動範囲は狭い。部屋から出るだけでも、オリビアにとっては“異常”事態だ。
だから、風邪を引いたからといって、何かが困るわけでもない。
──そういうことでは、ないのか。
口にはしなかったはずなのに、シャルロッテは眉を上げた。その瞳に怒りの炎を認めて、オリビアは不思議に思う。
「オリビア、入るぞ」
どうぞ、と返事をする前に彼──婚約者たるリアンが入ってくるのは、いつものことだった。オリビアとしてもそちらの方が楽でいい。返事を待たず入ってくるのは、リアンとシャルロッテくらいだ。
彼は、立ち上がって出迎えようとしたオリビアを制し、その顔色を確認した。
「体調は……良さそうだな。でも念のため今日は早く休め。身体を冷やさないようにな」
気負いなく、そうすることが当然とばかりに与えられた言葉に、オリビアは戸惑う。別に、“主人”の言葉に逆らってまで夜更かしする意味は無いので、早く休め、と言われたら、休む。
けれど何故か落ち着かなかった。
不快ではない。その逆でもない。
むう、と眉間に皺を寄せたオリビアに「ついに反抗するようになったか」とリアンはどこか嬉しそうだ。
「反抗……」
「なんだ、違うのか」
反抗ではないと思う。ならなんだ、と問われ、オリビアは口を結んだ。
解となるものを、自分は知らない。
「それにしても」
話題を変えたのは、オリビアが本気で困っていることが伝わったからなのか。
彼は、既に乾いた髪を手に取りながら呆れたように目を細めた。
「召使いが零した水を頭から被るとは……なかなか無いぞ」
「あら、元々“お姫様”もなかなかいないのですから、珍しいもの同士、いいんじゃありません?」
ふふん、と笑うシャルロッテに、そういう問題じゃないだろう、とリアンが言い返す。
「それでは、私はこれで。外に控えておりますわね」
すくっと立ち上がったシャルロッテはリアンを流し目で見やった。
「……何を企んでる?」
「企む? まさか! 仕事の合間を縫っていらしたリアン殿下に気を利かせ、この場をお譲りしただけですわ」
それに、と。
オリビアを──正確にはオリビアの首から下を一瞥したシャルロッテは、リアンに向き直ると「言うならご自分で」にこりと笑った。
「私、殿方の甘えは許さない主義ですもの」
「そうか。せめて兄は労ってやれ。そのうち泣くぞ」
「あの程度耐えられなくてどうします。軟弱さを鍛える為にあえて悪役に徹しているのです。むしろ褒めて欲しいくらいだわ」
リアンは口を開き、しかしここで反論しても仕方が無いと思ったのか、結局無言を貫いた。この類の話で、彼女に勝てた試しなど無い。
静かに閉じていく扉をなんとはなしに見ていれば、気になるか、と訊ねられる。オリビアは首を横に振って否定した。
大きく一歩。それだけで二人の距離は縮まる。長い指が、胸元を飾るリボンをすくった。
「よく似合ってる」
そうですか、と返す。
「服に興味は、……無さそうだな」
「殿下はご興味があるのですか?」
「外交で困らない程度には、というだけだった、んだが」
言い淀みながら、次第に泳いでいく目を見て、オリビアは思考を巡らせる。似合っているという賛辞。未だにリボンを弄る手。
やがてひとつの答えに辿り着いた。
「女性物の服にご興味が、」
「違う」
最後まで口にすることなく遮られた。
はあ、とため息。
「少しでも喜んで貰えるならと……しかし、どうも上手くいかない」
手から、リボンの先がすり抜ける。
どうしたら手の中に留まってくれるのか、わからない。
「貴方は今、何を考えてる? 何に興味がある?」
──興味。
気になること。
本の続き、だと。きっと昔なら迷いも無く答えていただろう。
何故、自分が今、そう答えることに躊躇しているのか。
(わからない)
何が正解であるべきなのか。
前はもっと、世界は単純だった。
答えはひとつで、それすらも“必要”とはされなかった。
死は遠ざかった。飢えはなくなった。
だから、生きることは容易になった──はずなのに。
「私には、わかりません」
どうとでも取れる答えに、しかしリアンは「何が?」と問うた。いつもの無表情に、僅かな揺らぎが見えたから。
「……風邪を引いたら大変になりますか?」
長い沈黙の後、オリビアが口にしたのは、そんなことだった。シャルロッテから向けられた憤り──それもわからないことのひとつだった。
突然の質問に、リアンは少し困ったように眉を寄せた。
「大変だろうな。体調が悪いと気が滅入る上に、仕事が溜まる」
「なるほど。確かに、私が風邪を引くと、シャルロッテ様の仕事が増えます」
納得──できない部分があった。
自分で断言しておきながら。
その答えは不正解だ、と。
知らぬ間にきつく握っていた拳を、リアンの手が包む。
「──以前に、シャルロッテが風邪を引いた時、貴方は『大丈夫か』と俺に訊いたな」
「はい」
思い出したので、すぐに頷く。元気なシャルロッテが体調を崩したというので、心配になったのだ。
その時のことを思い、緩んだ手のひらに、彼のそれが合わさる。指と指が絡まった。
「“風邪を引いたら大変だ”、というのは、そういうことだろう」
目を微かに大きくしたオリビアは、重なった手から、視線を外す。引き寄せられるようにリアンを映した。
普段よりも、緩やかに弧を描く口元。
「……嬉しそうです」
「そうだな、嬉しい」
彼の親指が、オリビアの手の甲を撫でた。擽ったい。
「オリビア、貴方が“それ”を訊ねる相手が俺であったことを、俺は自惚れても良いのだろうか」
首を傾げた彼女に苦笑を返し、リアンはそっと手を離す。時間を気にする素振りを見せながら「そろそろ戻らなければ」と零した。
「貴方も今日はもう休むと良い」
「……はい」
頷き、素直にベッドに向かう背中を見守ったリアンは、部屋の外に控えるシャルロッテを呼ぼうと扉へ足を向ける。
「──殿下」
呼び止められた彼は、肩越しに振り返った。
ベッドに腰を下ろしたオリビアは、感情が読み取り難い顔のまま、小さく口を開いた。
「ドレス、ありがとうございます」
気付いたのか。そう思う反面、気付く材料はいくつもあったのだから当然か、とも思う。彼女が“わからない”のは、あくまで自分を取り巻く“感情”であって、“状況”の把握はそこらの令嬢より聡いくらいだろう。……それこそ、厄介な程に。
「気にするな。貴方に似合うだろうと思って、俺が勝手に贈った」
「そうですか」
短い一言を口にしたオリビアに、戸惑いや躊躇は無かった。特に心を動かされたようでもない返事。
それにリアンが落胆する前に──
「けれど、御礼をお伝えしたいと思ったので」
──予想外の攻撃が襲い掛かった。
言葉を詰まらせた彼は、しかし復活するのは早かった。
「そうか。ありがとう」
何故貴方が感謝の言葉を。
オリビアの疑問に答えることもなく、リアンは足早に部屋を出て行った。少ししてシャルロッテが入室する。
ベッドに座るオリビアを見たシャルロッテは、ぱちりと瞬きをした。
「あらもう寝るの。まあ身体を冷やすと良くないわよね」
ぱたぱたと準備を始めたシャルロッテの名を呼ぶ。なあにー、と目を合わせないまま動き続けている彼女に、「心配を掛けて申し訳ありません」と告げれば、手がピクリと震えた。
驚きに目を見開いたと思えば、すぐに花咲く。向けられた表情は柔らかい。
嬉しい、と語る瞳が。
“自分”に向けられている。
物を貰った側なのに礼を言われた理由も、謝ったのにそんな笑みを向けられる理由も、さっぱり分からない。
でも、それは、とても──
「……?」
オリビアは、自分の胸に手を当てる。
あたたかい、気がした。
あ。おにーさん(ジェイムス)がいない。
 




