誘拐
ロウディーン帝国皇帝主催の剣術大会。剣の腕を競う大会会場の観覧席にて、美の女神の如き一人の青年が銀色の髪に光を受け輝かせている。最前列の特等席にいるその彼の周囲には、甘い芳香に惹かれる多くの娘らが集まっていた。
宝石のように輝く翡翠色の瞳。その瞳の持ち主はロウディーン帝国で一・二を争う美貌の青年で、その青年の熱い眼差しが注がれる先にあるのは、腰まで伸びた漆黒の髪を簡素に結い上げた一人の女性だけだ。白く細い項にかかるおくれ毛が艶めかしく男の欲をそそる。多くの獣がいる中でどうしてこうも無防備になるのかと、切な気に青年が溜息を落とせば、周囲にいた観覧者たちが色香にやられ、男女を問わずに意識を失い次々と倒れた。
愛しい愛しい義姉上、あなたの瞳が悪魔から逸れる時間はあなたにとって安らぎのひと時となるでしょう。けれど何故、その瞳が向かうのが私ではないのか―――
美し過ぎる顔に薄く微笑みを湛えたイシャルだが、表情とは裏腹に心では嫉妬の炎を燃やしていた。それはなぜか。どうしてか。簡単なことだ。イシャルがこの手で守り、いつの日か必ず悪魔から救い出すと決意した愛しい義姉上が、新たに出現した敵と楽しそうにお話をしているからなのだ。愛しい義姉上の側、人差し指の第一関節程の距離しか開けずに隣に腰を下ろす忌々しい男。ライゼオールという男の存在にイシャルが気付いた時は既に遅く、男にはリアの隣に居場所を獲得されてしまった随分と後であった。
この男、ザガートとの結婚の事実を知ったリアが恐れ慄き、死の淵を彷徨っていた時にその場にいたらしいのだが、あの場で治療したイシャルには男の記憶が全くなかった。気弱で頼りなかった二年前、今とてザガートは恐ろしいが、リアの為だけに黒騎士団の過酷な訓練に耐えた肉体は瞬く間に立派に成長し、今となっては病弱だった頃の面影はない。だがこの男はイシャルを克明に記憶していた。『あれ、君はあの時リアに縋り付いて泣いていた子だよね?』と昨夜の初対面で言われたときは秘密を握られている気分に陥ると同時に、イシャルはライゼオールを敵とみなして警戒を深めた。
このライゼオールという男、リアにはラゼルと名乗っているが隣国ファブレシアの第四王子だ。身分も明かさない怪しさ満点の男がリアの親友を名乗っているのであるから驚きである。そしてリアはラゼルの言葉を信じていた。そのせいであの悪魔も手出しができず、周囲に負の空気をまき散らし被害者続出しているというのに、心優しく人を疑う事を知らない愛する義姉上は、ライゼオールという嘘つきなこそ泥を信用しきってしまっている。彼は王子である事実をいつまでたってもリアに隠し続けているのだ。理由は簡単。孤児として生まれ育ったリアは身分というものに過剰反応を示すからである。ラゼルと名乗る男がファブレシアの王子と知れば、恐らくリアの見る目は親友から王子へと変化するだろう。いい気味だ、さっさと暴露してやろうとしたイシャルだが、するとそこへライゼオールが意味あり気な視線を送ってくるようになった。まさか―――そのうちリアを強奪しようと抱くイシャルの野望に気付いているのではないかと考えると、どうにも手が出せなくなってしまい現在に至る。いっそのこと嫉妬に狂ったザガートに切り殺されてしまえと強く願うが慌てて否定する。親友と認める男が夫の手で殺さたらリアが心を痛める結果に陥ってしまうではないか。嘆き悲しむリアを胸に抱き慰める役目を得るのは喜ばしいが、ただでさえ過酷な運命におかれたリアをこれ以上悲しませるのは本意ではない。
恋い焦がれる視線を送り続けていたリアが不意に振り返り、イシャルは慌てて平静を装い人畜無害で柔らかな微笑みを浮かべた。
「イシャル様は試合に参加されないんですか?」
「私は兄上より、義姉上をお守りするよう強く命じられていますので。」
ちらりとリアに近づきすぎるラゼルへ視線をやれば、ラゼルはわざとらしくきょとんと眼を丸くする。この男、不躾にも昨夜突然ザガートの屋敷を訪ねて来たと思ったら、四年に一度開催されるロウディーン帝国剣術大会を見学したいからとリアを頼ってやって来たのだ。前回の四年前には隠れて観覧している様を目撃されているが、今回は親友という立場を利用して最前列の特等席で偵察する気満々だった。ザガートの妻であるが貴賓席を選ばなかったのはリアの謙虚さからである。昨夜、ザガート不在の屋敷で悪魔帰宅までの短い逢瀬を楽しんでいたイシャルとしてはそれを邪魔されただけではなく、本来なら今頃リアの隣を陣取って観覧を楽しんでいたのは自分の筈であったのにとラゼルを呪った。
「優勝者はザガート殿と対戦を許されるんだよね。資格があるのに出ないなんて勿体ないなぁ。」
「私が兄上に適うとでも? それにもし貴方に出場資格があったとしても、兄上の足元にも及ばぬまま決着がつくでしょう。結果は解り切っています。」
「勿論、当然だよ。でもそれでいいんだ、剣を交えられるなら。挑戦したいと思わないの、あのザガート殿だよ。いいなぁいいなぁいいなぁ……僕も出たかったなぁ……」
純粋にザガートと剣を交えたいラゼルは、両腕を頭の後ろに回して両足をばたつかせる。二十を過ぎた青年がとる態度ではないが、駄々をこねる気持ちが理解出来るリアとしては眉を下げざるを得ない。
「異国の人はどうしても駄目なの?」
「うん、そう。この大会は騎士団の入団試験も兼ねているから。」
騎士という職業に就くには少年期に試験を受け、合格した者は従騎士として修業を始める。貴族出身者は下働き同然の従騎士を免除される場合が多いが、大抵の騎士はそうやって下積みをしてから成長して行くものだ。けれど帝国としてはザガートという強大な力を有してはいても、本当に実力のある人間を一人でも多く囲っておきたいのが本音である。それに騎士としての修業を積んでいなくても、帝国お抱えの騎士団に所属できるのは実力のある者にとって魅力的な話だ。大会で認められれば余程素行が悪くない限り騎士として入団が許される。帝国に属する騎士団は給料もいいのがまた魅力だ。定年まで勤めあげれば退職金もある。だが帝国に属し将来的には重い秘密にかかわることもある為、ロウディーン帝国の人間にしか出場資格は許されていない。
「しかも優勝者はザガート殿と戦って実力を認められたら黒騎士団に入れるんだ。ああ僕も出場したい。勝てるなんて思ってないけど認められて黒騎士団に入りたい。ああ……でも駄目なんだよなぁ。前にこっそり嘘ついて出場登録したらばれちゃってフレートから大目玉食らったよ。」
「フレート?」
「あ、うん。えっと、僕のお友達?」
口煩い乳兄弟で側仕えの男を友達と呼んでも間違いないだろう。大きな隠し事を一つしてしまっているラゼルとしては、親友であるリアにはなるべく嘘をつきたくなくて笑ってごまかした。その時リアとラゼルの距離に耐えきれなくなったのか、どこからともなく弓矢を取り出したザガートが腕を振りかぶり、二人の間にある僅かな隙間に向かって素手で解き放つ。
「え?」
「あっ!」
「わぁ♡」
何かが起きたが何が起きたのか分かっていないリアと、突然の出来事に声を上げるイシャル。そして黄色い声を上げ自分とリアの間に突き刺さった弓を引き抜いたラゼルは、矢じりにキスと頬ずりをしていた。
「え、え? ラゼルさん、何ですかそれ?」
「ザガート殿から僕へのプレゼント。」
何が起きたのか全く分からないリアに笑顔で返したラゼルは、再度矢尻にキスをしてから指先でくるりと回すとしっかりと手に握り込んだ。
「イシャル殿、右後方!」
声を上げると同時に振り返り、いつの間にかリアの背後にまで近寄っていた黒ずくめの男の額に、ラゼルは手にした矢をぶすりと突き刺して鳩尾に蹴りを入れるとリアを抱え上げ、ラゼルの声に反応して剣を抜いたイシャルを置き去りに人込みを飛ぶようにして観覧席から抜け出した。
「義姉上―――!」
「ラゼルさん、イシャル様っ?!」
イシャルに名を呼ばれた気がしたが、ラゼルに抱えられたリアが声の方に顔を向けた時にはイシャルの姿は見えず、周囲からは悲鳴が上がっていた。何が何だかわからないが、イシャルが剣を抜いた瞬間までは見えていた。とても危ないことが起きたと理解し、姿が見えなくなったイシャルを案じる。
「狙いは君だから。巻き添えが出る前に逃げようね。」
「わたし?!」
「うん、そうリアだよ。それにしても流石ザガート殿、僕は矢を飛ばされるまで気付かなかったよ。」
というよりも、ザガートの行動で気付かされた。嫉妬の炎を燃やすザガートからひたすら向けれらる視線。妻を狙う輩と勘違いされているとしてもラゼルは嬉しくてならなかった。だからって本気で厭われるのは悲しいのでリアに触れないよう細心の注意を払っていたのだが、嫉妬で焼けるような禍々しい雰囲気をまき散らしていたザガートの感情がわずかに逸れたのだ。何があったかと思った瞬間には、ラゼルとリアの間に矢が突き刺さっており、そこでようやくリアを狙う黒い輩にラゼルも気付いたのである。
とても嬉しかった。ザガートに大切な女性を任されたのだと思うと天にも昇る心地だ。嬉しくて嬉しくて、本当は永久保存したかったのだが、丸腰の自分に与えられた武器をザガートの望み通りに使用した。人混みの中なのでイシャルが剣を振るうのは少し心配だったが、魔法も使えるイシャルなら人混みから現れた敵にも上手く対処できるだろうと放置。ラゼルはザガートの宝物を最優先に行動する。それにリアは大切な親友だ。彼女の肌に傷がつくのはリアの為でもあるが、ラゼルの矜持もそれを許さない。
会場の外に出ると顔半分を布で隠した明らかに怪しい集団が追いかけて来た。ザガートが結婚してより彼の弱味となるリアを狙う輩は多いが、あまり屋敷から出ないリアを狙うのに今大会はうってつけだった。
「でも残念。」
ラゼルはリアを抱えて逃げながら、丸腰であるにも係わらず余裕の笑みを浮かべる。何しろリアはザガートの妻なのだ、そんなへまは犯さない。何よりもリアの傍らにはファブレシアの英雄たる第四王子ライゼオールがいるのだ。彼らは予想していなかっただろうし、今も気付いていまい。イシャルも制服を着ていなかったし、黒騎士が守っていないと知り実行したのだろうが、彼らにとっては任務失敗というとても残念な結果を招く……とラゼルはリアを抱えて余裕で逃げ続ける。だが会場を飛び出し敵の集団をかわした所でラゼルの足が止まった。
「え―――っ、これはやばいかも。」
リアをしっかりと抱えなおしたラゼルの行く手には、小型犬ほどの大量の魔獣が短い六本足を忙しなく動かし右往左往している。胴は短い毛におおわれぽってりとして一見鈍そうだが、実際には俊敏な動きをする厄介な魔獣だ。皺だらけの老人のような丸い顔には四つの赤い目が不均等に鎮座し、長い尾は蛇と同じで鱗まである。鋭い牙も爪もないが、危険を察知するとお尻から強い酸の液体を出し相手を攻撃する厄介な魔獣だ。リアの柔肌などひとたまりもないだろうが、いったいどうして魔獣が街の中にまで入り込んできてしまったのか。
「リアを奪うために敵は二重三重に策を練っていたみたいだね。まったく小賢しい……」
気配がないまま背後で上がった声にラゼルが驚き振り返ると、魔法使いが感情のない紫色の瞳を魔獣たちに向けていた。
「アルフォンス様!」
「リア、遅くなってごめんね。それから貴方には彼女を守っていただいて感謝します。」
リアに傷の一つでもついていたらこちらの命がなかったと、アルフォンスは胸元から手のひらほどの大きさもある金剛石の塊を取り出して目前に掲げた。
「そんな大魔法ここでぶっ放すの?!」
「いいえ、魔獣だけを消滅させます。」
味方を得て安心したラゼルは抱え上げていたリアを地に下ろし、アルフォンスの本気に恐れを抱く。将来はロウディーン帝国の魔法師団を率いる人間が本来必要のない媒体を使って魔法を行使しようとしているのだ。力のない魔法使いなら理解できるが、アルフォンスがそれをすれば今現在見えている街の景色は一瞬で様変わりしてしまうだろう。
「数が多すぎる。一匹づつなんて面倒でしょう?」
一般市民が魔獣の酸で焼かれる前にとアルフォンスが金剛石を通して魔法を放つと、右往左往していた魔獣たちは光に包まれた瞬間に泡が弾けるようにして消滅してしまった。その様を傍らで黙って見ていたリアは肩を震わせ一歩退く。
「さて、あっちはザガートが片付けてるだろうから行こうか?」
「ええっ、僕も行っていいの!」
「誘わなくてもついて来るおつもりでしょうに。」
きらきら瞳を輝かせるラゼルにアルフォンスは深い溜息を落としながらリアを振り返り、次の瞬間には仰天して紫の目を大きく見開いた。声につられて振り返ったラゼルは理由を知って苦笑いを漏らす。
「なっ、ななななっ、何をっ!?」
「リア、それって魔獣なんだけど?」
アルフォンスが取り残してしまった魔獣をリアが抱きかかえていたのだ。両脇に腕を通されだらんと体を垂らす魔獣は蛇の尻尾をぶらんぶらんと揺らしている。
「こんな可愛い子たちを殺してしまうなんて……アルフォンス様、酷いです!」
リアは黒曜石を思わせる瞳にいっぱいの涙を湛え鼻をすすっていた。
「かっ、可愛いいってどこが?! 君それ魔獣だよ? 尻から酸を出して肌を焼くんだ、危険だから早く手を放して!」
「この子を殺されるくらいなら自分が焼かれる方がましです!」
「リアっ!!」
魔獣をぎゅっと抱きしめ座り込んでしまったリアにアルフォンスが悲鳴を上げる。そこへ大会会場とその周辺に配置された敵を片付けたザガートが、負のオーラを纏ってゆっくりと近づいてきた。アルフォンスからは恐怖の、ラゼルからは黄色い悲鳴が上がる。
「何故リアが泣いている―――」
地を這う声に様子を窺っていた人々は腰を抜かし、慌てて建物の中に逃げ込んだ。
「いやっ、これ絶対おかしいよっ!」
アルフォンスが己の正当性を主張してリアが抱きしめる魔獣を指さし、ザガートの目がリアの抱く魔獣に突き刺さった。
「お前に惚れたあたりからなんか変な子だとは思っていたけどさ、やっぱりこれはおかしい!」
醜い魔獣を可愛いと宣っただけではなく、誰もが避けるその体を何の躊躇もなく抱きしめるなんて。今そこで酸を出されたら肌を焼かれ激痛が走るというのにだ。この主張が通らなければ我が身が危ないと、流石のアルフォンスも必死で己の正当性を主張した。それを受けザガートがリアの前に片膝を付くと、リアが抱える魔獣が恐怖でガタガタと震え出す。
「これは酸をもって敵を攻撃する魔獣だ。そこいらをうろついている犬や猫とは違う。」
「でもザガート様。こんなに可愛いのに、何もしていないのに殺してしまうなんて可哀想です。」
「―――確かに、お前の言う通りだ。アルフォンスが悪い。」
「なんでそうなるんだよっ!!!」
アルフォンスが叫ぶと同時にリアに抱かれていた魔獣が尻をザガートに向け、蛇型の尻尾を高く持ち上げた。その瞬間、ザガートめがけて強い酸性の液体が放出され、ジュッ……という肌を焼く音が上がる。
「ザガート?!」
「ザガート殿!」
「ザガート様!」
三者三様に驚きザガートを呼ぶ。至近距離から放出された酸はザガートの顔面に命中し、下に向かってしたたり落ちていた。
慌ててアルフォンスが回復魔法をかけるために近寄ると、ザガートがかけられた酸を腕で拭いすっと立ち上がる。滴る酸は纏う衣服に穴をあけていたが、ザガートの肌には傷の一つも存在しなかった。
「まぁ、ザガート様……」
「それは安全なようだな。」
「違うからっ!」
その後、リアの腕に抱かれた魔獣はアトラスの森に返されたが、時々リアを求めてザガートの屋敷を訪れるようになる。その様子を目撃した人々は、ついに魔物までもがザガートに屈したと、更なる恐怖に身を震わせたのであった。




