第二十三話 南姫
第二十三話 南姫
赤子の頃から一緒に育ってきた。
私にはこの人がすべてで、この人しかいない。
そう思った————。
*
「————清徳妃の件、聞いた?」
「ええ。昨晩龍青宮に賊が侵入したのでしょう?恐ろしいことだわ」
「何でも、侍女頭が犠牲になられたそうよ」
「清徳妃はあまりのことに寝込んでいるそうね」
「龍青宮に出入りしている下女の子が言っていたわ、まるで幽鬼のようだったって。それでは、皇子殿下の御寵愛など望めないでしょうね」
お里下がりするのも、時間の問題ね。
後宮の女たちは耳が早いことで、一晩の間に龍青宮に賊が侵入したことも、侍女頭が死に、徳妃が床に伏せっているということも、瞬く間に広まった。
季翠はあまりの事態に、絶句しかできなかった。
「こんなことになるなんて……」
「賊は烏竜将軍の手により排除されたそうです」
賊は始末されたが、龍青宮の警護を担当していた後宮警備の女兵の方も、不手際で何人か処罰されたそうだ。
園遊会で見た、瑠璃唐草のような清徳妃を、季翠は思い出していた。
もう……あの無邪気で明るい彼女には、出会えないのかもしれない。
その日の内に、徳妃・清麗辰の里下がりの報せが季翠の元に届いた。
*
「殿、御体調は如何ですか。少し休まれては……」
「————よお、」
「思い通りに事が進んで満足か?馬鹿義息子」
「…………虎雄様」
回廊の柱にだらしなく背を預け、乱暴に話しかけてきたのは西にいるはずの養い親であった。
さっと拱手して、養父に礼を尽くす。
後ろでは副官が、渋々礼を取るのが見えた。
「帝都に御戻りになられていたとは聞いておりませんでした」
「陛下の御呼びでな」
今から謁見しに行くところか。
わざわざ自分の執務室に近い回廊にいるあたり、どうやら待ち伏せをされていたらしい。
「……伯大将軍、殿は御忙しいのです。御引き取りを」
もう一人の副官・伯廉が、努めて感情を抑えようとした声で、虎雄に喰ってかかる。
伯廉は常日頃から、主が多忙である理由の大半を占める伯虎雄を、蛇蝎の如く嫌悪していた。
虎雄が大将軍の仕事も当主の仕事もまともにしないため、皺寄せが烏竜にきているのだ。
「なんだ、今日は飛ではないのか」
伯廉を興味がなさそうに一瞥した虎雄は、五月蠅そうに片耳をいじった。
「伯飛には、しばらく別の仕事をしてもらっています」
聞いたくせに、へえと、虎雄は気の無い返事をする。
「殿、お時間の無駄です。行きましょう——「清辰淵を使って、何やらこそこそしているようだな」
伯廉がキッと虎雄を睨みつけた。
「なんだ。辰淵がお前の命令で動いていることなど、高官の間では周知の事実だろう」
「…………」
この人は皇帝以外に興味がないくせに、そういうところは良く見ているし、周到に配下を使って調べている。
本当に厄介だと思う。
「虎雄様の御興味を引くようなことは、何も」
「そうか。……ああ、だが」
わざとらしく、何かを思い出したように宙を仰いで見せてくる。
「————随分上手いこと、”烏”を紛れ込ませたな」
「……何のことなのか、私には」
烏竜の返しに、虎雄はふんと鼻を鳴らした。
しかし言うだけ言ったのか、そのまま回廊を行ってしまった。
後に残されたのは、烏竜と、苦々しい顔を隠しもしない伯廉だった。
*
次の日、季翠は一人とある宮に赴いた。
「皇子殿下のお渡りがあったこと、お聞きしました。御喜び申し上げます」
「お一人で来られるなんて珍しいですね」
護衛武官殿は、今日は御一緒ではないのですか?
「はい。……人払いを、お願いできませんか」
最近、気温が低くなっていくと共に日の入りがめっきり早くなってきた。
まだ早い時間だが、室内はすでに夕日色に染まりかけていた。
季翠の願いを快く受け入れた宮の主人は、侍女を下がらせた後手づから茶を淹れた。
それを見ながら、意を決して切り出した。
「徳妃の侍女を殺した香」
「——ああ、夾竹桃というお話でしたね」
「いいえ」
彼女の顔を見ることができず、最初は出された茶の水面を見ながら話し始めた。
「医官に詳しく調べてもらったところ、異国のまったく別の植物だということが分かりました」
医官に依頼していた香に使われた植物の正体が、やっと分かったのだ。
「夾竹桃と同じように、燃やすと毒素を発する。でも夾竹桃が眩暈、嘔吐の中毒症状を引き起こすのに対し、この植物は気管を侵し、目も傷つける」
死んだ侍女の症状と一致する。
「まず帝国内では生育していないそうです。手に入れるには……そう、異国から渡来物としてやって来るくらいだと」
この後宮内で、そんな渡来物を手に入れられる人間など一人しかいない。
深呼吸して、顔を上げた。
「…………賢妃の名を騙り、徳妃に毒の香を贈ったのは、貴女ですね」
————”雀淑妃”。
「……翠姫様、私をお疑いになるのですか?」
季翠の言葉に、一瞬目を見開いた後、雀淑妃は悲しそうに眉を寄せた。
しかし季翠はその表情を、そのまま受け取ることができなかった。
最初に違和感を感じたのは、賢妃から貰った香を徳妃が淑妃に分けたと聞いた時だ。
「……貴女は、人一倍礼儀に厳しい人だ」
「そんな貴女が、妃が別の妃に贈った贈り物を、厚意からだとしても受け取るわけがない」
淑妃は困ったように眉尻を下げた。
「分かりませんよ。清徳妃は御存知の通り、”お友達”と親しくしたいご様子でしたから」
断るのは気が引けたのです。
「そうでしょうね」
しかし、清徳妃も名家の姫君だ。
人から貰った贈り物を、第三者に自分から進んで渡すだろうか。
第一、彼女の周囲にはそういうことに五月蠅そうな侍女頭がいた。
……それこそ、相手が欲しいということを言わない限り。
「しかし、今回のような事件に発展する場合もある。今回は徳妃が被害に遭いましたが、無関係なら貴女が同じ目に遭っていてもおかしくはない」
後宮とはそういう場所と聞く。
「貴女は賢い人だ。その危険性を考えていないわけがない」
能天気な徳妃なら、そんなことは露ほども心配していなかったのかもしれないが。
普通に考えて、妃同士の物のやり取りに首を突っ込むなど有り得ない。
「でも、貴女は徳妃から香を分けてもらう必要があった」
「どういう必要なのですか?それは」
「この宮に、まだあるのではないですか。————事件で使用された香の材料が」
季翠のこの言葉に、とうとう紅蕣は無言で目を細めた。
「そうすれば、万が一香の材料が見つかったとしても、”分けてもらった香が気に入り、自分で作ろうと思った”、とでも言えば済むからです」
見つからないために、慌てて材料を破棄するなどという危険な真似を、彼女がするとは思えなかった。
「そもそも夾竹桃に毒性があるなど、軍属以外の人間が詳しく知るわけがない。似たような被害と身近に生えているという事実で、十分誤魔化せる」
季翠が再調査を依頼しなければ、香の毒は夾竹桃によるものであると片付けられていただろう。
つまり、真相はこうだ。
淑妃は、賢妃が最近調香を趣味にしているとどこかで耳にしたか、誰かを亀黒宮に潜ませていたのだろう。
そして夾竹桃と同じ、燃やすと毒素を発する異国の毒植物を取り寄せた。
それを混ぜた香を、賢妃の名を騙って徳妃に届けさせた。
証拠隠滅のために、言葉巧みに徳妃に香を分けるように誘導し、再度自分の手に戻した。
淑妃は狼狽える素振りすら見せなかった。
いっそ恐ろしいくらい冷静だ。
「証拠はあるのでしょうか」
人的証拠も、物的証拠も、何もない。
しかし季翠は決定的な証拠にも近い、事実を知っているのだ。
「…………あの香は、」
声が震えるのを、どうしても抑えることができなかった。
「桂皮の香りだった。……姉上は、桂皮の香りを好いていない」
それがすべてだった。
「姉上が嫌いな香りを、良い香りなどと貴女が褒め、あまつさえ欲しいなどということを匂わせる発言など、絶対にするはずがないのです————」
それは季翠にとって、何よりも悲しい覆りようもない事実だった。




