第十七話 波乱の幕開け
第十七話 波乱の幕開け
——後宮・翠月宮。
「————翠媛様」
「お客様がいらっしゃいました」
来客を伝える侍女に、彼女——張貴妃は叱責する勢いで断るよう告げた。
「誰とも会いたくないって言ったでしょう‼」
「気分が悪いの。追い返してちょうだい‼」
「————それはいけませんね」
張貴妃が吐いた言葉の余韻が消えぬ内に、小鳥のように可愛らしい声がそれに答えるように室内に響いた。
慌てて入り口近くに目を向けると、彼女が普段着ない紅色の衣を着た女が、室内に入ってこようとしていた。
侍女たちが遠巻きに止めようとしつつも、触れることも許されない身分の相手だ。
「園遊会の時も、御不快そうでいらっしゃいましたものね」
陛下がおられた時は、随分と御気分がよろしいようでしたけど。
「貴女……」
「ごきげんよう、張貴妃」
少女のように可憐な女は、その可愛らしい雰囲気に似合わぬ艶やかな笑みを浮かべた。
―———貴女にお話があって参りました。
一方、皇宮のとある一室では。
「————殿、」
「淑妃が動き出したようです」
*
張子学塾から戻った季翠は、軽く身支度を整え、後宮の外で四狛と合流し皇子宮に向かった。
腰には、翡翠の玉佩を下げて。
訪れた季翠を出迎えたのは、一人の女官だった。
五十路中ば……くらいだろうか。
きりっとして凛々しく、如何にも仕事ができそうな感じの女人である。
下女から、「伯夫人」と呼ばれていた。
鶯俊はまだ政務が立て込んでいるとのことで、季翠は応接室に通された。
四狛は室の外で待機している。
さっと美しい所作で茶を出される。
渋めの茶と。
茶請けは……なんだろうか、黄色の、乾いた果物のような物。
試しに齧ってみると、桃だった。
かなり季節が過ぎているが、氷室で保管した後作ったのだろうか。
渋めの茶によく合う。
食べながら、季翠はほっとしていた。
「(やっぱり双子だから、兄上と姉上は嗜好が似ているのかも)」
もそもそと茶菓子に口をつける季翠の近くで、伯夫人は隙無い様子で控えていた。
一瞬虎雄の……と思ったが、彼は妻帯していなかったことを思い出す。
しかし伯姓を名乗れるということは、相当近しい親族だろう。
伯家は雀家などと違い、元々生粋の中央貴族だ。
本邸も帝都にある。
そのため、伯一族は西ではなく中央にいるのだ。
「(この女人が、兄上の乳母なのだろうか……)」
と思ったが、鶯俊の後ろ盾は東の清家だ。
伯家の女人が乳母になるというのは考えにくい。
ふと気になって尋ねる。
「あの、兄上に乳兄弟は……」
姉には、紅蕣という乳姉妹がいる。
最も紅蕣の母は体の弱い人だったそうで、正確には紅蕣の乳母に二人共育てられたのだそうだ。
双子とはいえ、兄と姉は赤子の頃から離されて育てられたと聞いている。
ならば鶯俊にも、別に乳兄弟がいるはずである。
「皇子殿下に乳兄弟はおられません」
しかし季翠の質問に、伯夫人ははっきりと否と言った。
鶯俊には乳兄弟も、乳母もいないと。
正確には乳母はいたが、自身の子を産んですぐに亡くした女人だったそうで、鶯俊が乳離れをすると同時に郷里に帰ったのだとか。
珍しいと思いつつ、人のことを言えないと季翠は思い出した。
季翠自身、母乳の献上を受けて育てられたと聞いていたからだ。
献上と仰々しく言っているが、ようは貰い乳だ。
当然きちんと身元を確認された者たちからだが、季翠も鶯俊同様、正式な乳母も乳兄弟もいないのである。
でも……。
「(つまり、”あの処刑された侍女”には子がいなかったのか)」
記録にあった、乳母。
伯夫人は語らなかったが——そもそも知っているのかすら知らないが、季翠は彼女の存在を知っていた。
この乳母の存在はなかったことにされているのか。
最初から乳母子はいなかったのか、それとも母子共に処刑されたのか。
真相は謎だ。
では、彼女——伯夫人が乳母代わりのようなものだろうか。
季翠はちらりと彼女を見る。
しかしそれにしては、随分と事務的な感じがする。
この女人しか室に居らず、注目してしまうからそう見えてしまうのだろうか。
……以前に来た時も薄々思ったが。
————この宮は随分と、人が少ない。
姉の宮で過ごすようになって、余計に思うようになった。
ここが季翠や玄賢妃の宮なら、特に不思議に思わなかっただろう。
しかしここは、この大影帝国の第一皇子の宮である。
この帝国で皇帝の次に尊い存在だ。
双子の片割れの碧麗は、多くの侍女に囲まれていたのに。
衛兵はしっかり配置されている。
少ないのは侍女だ。
ここに来る途中、時折見かけたのは全員下女だった。
「……あの、夫人以外の侍女はいないのですか」
失礼とも捉えられかねない季翠の問いに、伯夫人はあっさり答える。
「ええ。皇子殿下の身の回りのお世話は、主にわたくしが一人で」
「……そうですか」
怪訝な顔を隠さない季翠に、彼女は溜息を吐いて補足する。
「清将軍は、あまりそういったことに気が利かぬ御方なのです」
皇子皇女の従者や侍女は、基本的に後見になっている家の者で構成されている。
姉の宮にいるのも、ほとんどが雀家に縁を持つ者だろう。
季翠のように従者すらつけてもらえないこともあるが……。
皇子と言う身分でもそういうことがあるのか。
引き続き茶に口をつけると、俄かに外が騒がしくなる。
「お帰りになられたようです」
伯夫人の言葉から間もなく、室の扉が開かれる。
「兄上」
「待たせたな」
季翠は立ち上がって拝礼しつつ、さりげなく兄の後ろに目を向ける。
懸念していた相手の姿は見えず、人知れず安堵の息を吐く。
「学塾はどうだ。急に呼び出して悪かったな」
「いえ……」
先ほどの俊煕との出来事を思い出し、やや気分が沈む。
「張副宰相からも、うまくやっていると聞いている」
しかし、と兄は続けた。
「悪いが、しばらく通えなくなる」
そんな言葉の後鶯俊が続けたのは、驚くべきことだった。
*
「お里下がり……⁉」
彼が口にしたのは、四夫人筆頭・張貴妃のお里下がりという知らせだった。
「一体なぜ……」
まだ入内してから二月経ったくらいだというのに。
「元々、張翠媛は俺を嫌っていた」
鶯俊は事もなげにそんなことを言う。
しかし季翠としては初耳だし、そもそも彼女が鶯俊を嫌う理由から分からない。
「熱心に文を送ってくるのは、徳妃くらいだ」
どうやら俺は妃たちに嫌われているらしい。
さして興味の無さそうに軽くそう言った。
「はあ……」
兄の女性事情を聞くのは気まずいが、ここまで明け透けに言われると羞恥も何もない。
「ちなみに、お通いにはなられているんですか」
「一度もない」
左様で。
「紅しゅ……じゃなくて、淑妃様からは?」
張貴妃の碧麗への非礼に、あれほど不快そうにしていた彼女だ。
鶯俊に対しても礼を失した態度はしないだろう。
しかし予想に反し。
「淑妃からの接触はない」
「雀淑妃は聡明な御方です。きっと他のお妃様に配慮なさっているのでしょう」
玄賢妃との関係に悩んでいた季翠を後押ししてくれたのも彼女だ。
「……どうだかな」
季翠の取り持つ言葉に、しかし鶯俊は皮肉気に口を歪めるのみだった。
「しかし貴妃が里下がりを申し出たのだ。後宮で何らかの動きがあったことは確かだろう」
それが心理的なものであれ、状況的なものであれ。
「というわけで、少しばかり探って来てもらいたい」
…………?
————誰が。
————お前が。
「わ、私がですか⁉」
季翠は思わず自分で自分に指を差す。
「特例で護衛武官も後宮への立ち入りを許可する」
返事は。
なぜ季翠なのだとか、いつまでだとか、言いたいことはいろいろあったが。
「はい……」
有無を言わせぬ圧に屈した。
妹の返事に、鶯俊は満足そうに頷いた後……。
「——————お前は、本当に父上に似ているな」
いきなり何だと彼を見返すが、鶯俊は季翠を見ているようで、別の何かを見ているような目でこちらを見ていた。
「兄上……?」
「…………いや、何でもない」
後宮の件、頼んだぞ。




