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「空さん、いや伊勢守様とお呼びしなければいけませんね。」
「番頭さん、よしてください。
私も正直慣れていなくて、困っております。
流石に公式な場では名乗りますが、それ以外は今までのようにお呼びいただければ幸いです。」
「恐れ多いことなれど、ご希望とあれば無視できませんね。
それで、気になったのですが、ひょっとしてこれから近江までお出かけですか。」
「はい、早ければ早いほどいいですので。
でないと幕府や三好がどのような嫌がらせをしてくるか分かりません。
あいつらが仕掛ける前に、兵站だけでも整備しておきたくて、これから出かけます。
なに、4~5日で帰ってきますよ。」
「それなら、うちから道案内をお付けしますので、少々お待ちいただけますか。
ここから近江までは、うちが使っております道があります。
ただでさえあちこちに関が設けられ商売しにくいのですが、それでも比較的ましな道筋があります。
慣れた手代をお連れ下さい。
叡山の関を抜けるのに役に立ちます。」
「そうですか。
正直助かります。
護衛は自前で用意しておりますが、如何せん土地勘が無くてそういった細かな事情に精通した人がいれば助かります。」
俺は能登屋の番頭さんのご厚意で手代を道案内にお借りした。
出発が少々遅れたが、それでも能登屋の手代さんの準備はすぐに整い、無事拠点である上京を出たのが昼少し前のことだった。
「今から向かいますと今日は山科あたりで一泊ですね。」
「山科には宿があるのですか。」
「今のこの辺りにそのようなしゃれたものなどありませんよ。
私どもがお世話になっております寺がありますので、そこで軒をお借りしましょう。
なに、うちのお得意さんだったのですが、最近能登からの荷が少なくなってきており、めっきり顔を出していなかったのでちょうどよかったのかもしれません。
かなりご無沙汰してありましたので、少々きまりが悪いのですが、悪くはされないでしょう。
あちらさんも今の京の様子くらいは熟知しておりますから。」
そんな会話をしながら我々はゆっくりと案内されるがまま道を進めていた。
道すがら京都付近の道筋について先の手代さんから色々と聞いた。
拠点から近江に抜けるには、純粋に距離だけを考えるのなら、慈照寺(銀閣寺)の近くを通るこの辺りの人が『安土海道』と呼んでいる峠を越えるルートがあるようだが、この峠が相当きつく、荷物をもって超えるのは至難の業だとか。
ほとんどの商人などは、商売にも都合がよい下京を抜け、山科を通る道を使っている。
ここは京から東国に抜ける北陸道、東山道、東海道、伊勢街道などの重要な街道が分岐のある大津付近までは同じ道をとおるので、交通量も多く比較的安全な道だとか。
安全ではあるが、安全はただと考えている現代人とは違い、この時代の安全は相当な費用を要するということをよく理解している。
このルートも例外でなく、ここをよく利用するものは誰でも知っている。
途中で叡山の僧兵による関が設けられており、また、この関を抜けるのには、少々めんどくさい。
新顔など、何かにつけ因縁をつけられぼったくられるのだとか。
まだ銭の問題だけならよく、商人などは荷物を丸々巻き上げられることもあるそうだ。
お坊さんが何をやっているんだと、文句の一つも言いたいのだが、文句をつけようものなら『仏罰』だとか言って、生きていることが不思議なくらいに痛めつけられることもまれではない。
流石にお坊さんだけあって、その場ですぐに命を殺めることは少ないそうだが、痛めつけられた人がその後どれだけ生きて目的地まで着けるのかはご想像にお任せの状況だ。
とにかく、金目の物を持ったとか、裕福層で弱そうな者は格好のカモになる。
今までの移動では必ず凄腕の忍びが護衛に付き、なりが子供なので怖い思いはしてこなかったのだが、この時代の移動は命懸けだ。
そういえば最近の移動はほとんどが海上移動だったので、海賊の危険はあるがそこまで酷くはなかった。
そのため、本当にこの時代の不便さを久しぶりに体感している。
「手代さん。
そんなのでは良く今まで商売になりましたね。」
「そうですね。
ぽっと出の商人では、ここ京での商いはまず無理でしょう。
まず、荷が仕入れられない。
でも、蛇の道は蛇の例えじゃありませんが、何事にもやり方というのがあります。
私どもも、叡山とはそれなりにうまくお付き合いしておりますから、そこまでひどい扱いは受けておりません。
それでも、やはりこの辺りを抜けるには色々と費用がかさみますから、今ではほとんど商いになりません。
ですので、ここを通るのは本当に久しぶりなんです。」
京の商人の苦労話を聞いたが、本当にそのあたりも何か工夫をしないといけない。
とにかく兵站の確保は急務だ。
堺からでは少々距離がある上、三好領内を通過しないといけない。
これから三好に喧嘩を売ろうとしている我々には、少々使い辛いルートだ。
なので、近江に直接つながるルートを考えないといけないから頭痛い。
色々と考えながら歩いていたらいつの間にか今日のお宿に着いた。
山科にはあいにく上人様のコネは使えない。
なんでも京都に本願寺があったようなのだが、焼け出されて今の石山に移ったと聞いた。
今では、京周辺であの宗派は弱い立場のようだ。
幸い、能登屋さんのごひいき筋に当たるお寺さんで夜を越せそうだ。
最悪、野宿も考えていただけありがたい。
夕食も質素ではあったがご馳走になり、お寺の僧にこの辺りの物流状況についていろいろと聞いてみたが、成果の方はあまり芳しくはなかった。
お寺さんは檀家さんからの寄進で生活することになっているし、何より金を持っているので商人の方から寄ってくるので、物流については何も考えていない。
俺は悶々としながら翌日も歩きながら考えていた。
幸い、翌日のルートは、ここからさほどきつく無い峠を越えるとすぐに大津に入る。
大津からは能登屋さんのなじみの船頭さんに船を出してもらい近江を船で観音寺城下まで運んでもらった。
そうか、この辺りは船での物流が当たり前になっているんだ。
船は使えるな。
俺は船頭に京まで船で来れるかと聞いていた。
船頭が言うには、「行けなくはない。
行けなくはないが、途中にある難所があるので、帰りがきつく行きたくない。」と言われた。
話を詳しく聞くと、近江、今の琵琶湖から瀬田川を下ると黒津を超えたすぐに山間の難所で流れがきつくなるというのだ。
この辺りについては検討を要するが、使えなくは無さそうだ。
帰りに試してみるか。
そうこうするうちに、俺らは無事に観音寺城下に着いた。
手代さんは、なじみの船頭さんと一緒に、船溜まりで待ってもらうことになり、俺らだけで伊勢屋に向かった。
「茂助さん、居ますか。」
俺は店に入ると大声で茂助さんを呼び出した。
周りにいた手代や小僧は驚き俺らの方に駆け寄ってきた。
「すみません。
どちら様でしょうか。」
後から来た多分この店の番頭さんと思しき年配の男性が俺に声をかけてきた。
どこの小僧か知らないが、なんだこいつはって感じで思っているのだろうが、辛うじて客扱いをしてくれる。
流石茂助さんに店を任されている番頭さんだ。
そうでなければ店を預かる訳にはいかないだろう。
俺が番頭さんに返事をしようとしていたら、店の奥から慌てた茂助さんが出てきた。
「何ですか、空さん。
来るなら来ると連絡くださいよ。
こちらも準備というものがあるのですから。」
なんだか久しぶりなのに、怒られた。
来るとは手紙を出したはずだが…あ、その手紙、今伝八さんが持っていたわ。
ほれ、手紙を茂助さんに手渡している。
流石にこれはダメでしょう。
茂助さんもあきれるやら怒るやら不思議な表情を浮かべている。
まあ、こちらとしても急ぎではあるのであきらめてもらうしかない。
「張さんからの手紙を今受け取りました。
簡単に内容は確認しましたが、ここでは何ですから奥にどうぞ。」
「茂助さん。
仕事は大丈夫なの。
ひょっとして、今暇だとか。」
「そんな訳ある筈がありません。
それこそ張さんや葵さんの指示を受け、毎日てんてこ舞いなのに、この手紙では空さんを最優先で処理してくれとあります。
いったい空さんは、今度は何をやらかしたのですか。」
え?
俺ってやらかしが前提なの。
京に来る前までは俺は比較的時間が持てていたので、やらかしていないよな。
俺に対する認識について、一度みんなを集め『ohanasi』をしないといけないかな。
………
やめておこう。
そんなことをしようものなら、俺が張さんから『ohanasi』される未来しか見えない。
それも多分正座して張さんのお言葉を聞いている俺の姿が今見えた。