弐
必死で山を登っていた さなは、少し開けた場所へ出た。
辺りを見渡すと、はやしっぱなしの原生林の中に少し手入れされた一角を見つけた。
林の中に数軒だけ粗末な小屋が見えた。
さなは、きっとあそこに清兵衛がいるに違いないと、高鳴る胸を押さえながら林の中へ分け入った。
小屋の中を覗いて見ると、どれも喪抜けの殻だった。
しかし、一番奥の一軒に清兵衛の姿を見つけた。
清兵衛は、ボロボロの薄汚れた丹前にくるまって、壁の方を向いて眠っていた。
「じっちゃ、おらだ、さなだ、会いに来たど」
清兵衛は、息苦しそうだったが、肩に触れた さなの小さな手に、節くれだった手を乗せて答えた。
「あ、あ……」息が漏れるのが聞こえた。
それでも、さなには充分だった。
清兵衛が、ありがとうと言ってくれたのがわかったからだ。
さなは、清兵衛の枕元に持って来たにぎりめしの包みを置いた。
「……これ食ってけろ、おらが握っただよ」
と、さなが言うと、清兵衛はこっくりと頷いたようだった。
さなは、
「また、明日くる」と言って、
夜が明ける前に山を下った。
翌晩も、さなは同じようにして山を登った。
清兵衛は同じように寝転がっていたが、
さなの呼びかけには何かしら答えてくれた。
数日同じことを続けたある日の昼間、
いつものように五兵衛とさなが畑に出て野良仕事をしていると、久しぶりに清兵衛が畑に姿を現した。
連日にぎりめしを持参したのが功を奏し、清兵衛の容態が快方に向かったのだと、さなは確信した。
例により五兵衛は、清兵衛の方を見もしなかったが、さなは畑の隅の方でこちらを眺めている清兵衛をチラチラ見やっては、五兵衛に気づかれぬよう、小さく手を振った。
清兵衛は、ぼうっと畑を見渡していたが、
さなに気づくと、こちらを向いて手を振り返してくれた。
さなはすぐにでも駆け寄って、清兵衛に抱きつきたい心持ちであった。
その晩も、さなは清兵衛に会いに山を登った。
清兵衛は小屋の軒先まで出て、月を眺めて座っていた。
前より顔色も良くなって、調子が良さそうに さなには見えた。
「じっちゃ、また にぎりめし持って来ただよ……」
と、さなが、にぎりめしを差し出すと、
清兵衛は首を横に振って受けとらなかった。
「おめぇ、食う分切り詰めて持って来てくれてたんだべ、こったら痩せてまって、じっちゃもう、さなの気持ちだけで胸がいっぱいだ、さなが食え」
清兵衛はそう言って、さなの頭を優しく撫でた。
さなが握り飯を、美味しそうに頬張るのを見て、清兵衛は歯が一本も残っていない口を広げて、ニコニコと笑っていた。
明る日の朝早く、さなの家に見知らぬ男が訪ねて来た。
とても綺麗に襟の整った着物を着て、髷や月代も、五兵衛とはまるで違い、手入れが行き届いている。
男は、家に入ってくるや、さなの体を舐めるように見回して、ニヤニヤと笑うのだった。
「さなっ子、先に畑さ行ってれ」
いつになく五兵衛が険しい表情で言った。
さなは、何か様子がおかしいと思い、家を出てすぐに、炊事場辺りの格子戸の下に身を潜て聞き耳を立てた。
しばらく五兵衛が黙ったままでいると、
「はぁ、あの子なら高く買い手がつくと思います、江戸に出れば引く手数多でしょうな、江戸は遊郭にも旗本やお上のお偉方が出入りしとりましてな、お眼に止まれば玉の輿なんてぇのも、夢じゃございません」
男はシャーシャーと言ってのけてほくそ笑む。
「遊郭?」
と、五兵衛が顔を顰めると、
男は少し焦って、
「いやね、一番良い値がつくのが遊郭って話で……ものの例えってヤツですよ、
他にも名のあるお店にも口利けますぜ、方々あたってみますか……」
さなは、あのシャーシャーと話す男は口入れ屋に相違ないと思った。
それからと言うもの、さなは、五兵衛の顔を見ると腹わたが煮えくりかえる思いだった。
野良仕事も涙を堪えて、歯を食いしばって精を出した。
なんで、毎日文句も言わず頑張ってるオラを……そんな腹に積もった思いは、
そう長く留めて置けるものではなかった。
「おっとー、オラば売り飛ばすだか」
その夜、さなの気持ちは溢れ出してしまった。
「……んだ、」
炉端で藁を依ながら、五兵衛はポツリと答えた。
「なして、オラいなくなったら、おっとー、独りぼっちになるでねーか……オラいれば、野良仕事もやる煮炊きも洗濯もすっべ、おっとー、オラいねぐなったどうすんのよ、」
そう声を荒げる さなの目からワラワラと涙が溢れ出していた。
「オレは、なーんも困らねじゃ、」
五兵衛は囲炉裏の方を向いたまま、さなを見ずに言った。
「《デンデラ野》さ、じっちゃも、ばっちゃも、おっかーも、坊っこらもいんだって、オラこの村、離れたくねー」
さながそう叫ぶと、
「んだから……おめぇは、この村ば出ねばなんねんだっての、オレば山さ捨てられっか、おっかねくて駄目だべ、そったら思いば、おめぇにさせられねんだっての……、そのうち、にっちゃも帰ってくるべし、」
と、言うと五兵衛はさなの顔をチラリと見やった。
すると、さなは目にいっぱい涙をため、俯き加減で固まっていた。
「さなっこ、もう《デンデラ野》さ、行くんでねぇ」
と五兵衛が囲炉裏端で藁を依ながらポツリと言った。
「オラ、行ってねぇ」
さなはそう言い放つと、隣部屋の戸口の陰にヒョイっと身を隠してしまった。
それ以上五兵衛が何を言おうが、さなの返事はなかった。
しばらくして五兵衛が、戸の陰を覗くとさなは板間の上で、膝を抱えたまま寝転がっていた。
五兵衛はスヤスヤ眠っているさなを抱き抱えて、煎餅布団の上に寝かしつけた。
その夜半過ぎ、五兵衛が厠に起きると、
さなの姿がなくなっていた。
つづく