7.キャロライン・ルチェ
二日連続で雪が降った。
霙交じりのそれは、地面に落ちるとすぐに水となって消えてしまう。決して積もることはなく、ただ寒さだけを助長する。
吐いた息は当然のように白く、暖房の効いていない廊下でコートに包まりながら、ジーンはエルシーを待っていた。
すぐそこにあるホールからは時折楽器の音が漏れてくるが、防音設計がされているためはっきりとは音の判別ができない。
今日はエルシーとジーンにとって特別な予定があった。あの窓際部署の同僚であったパットとキャロルが、食事の席を設けてくれたのだ。
軍隊記念日の一件以来、あの部署の同僚たちとはまともに会っていなかった。本来ならその頭であるフレディも来る予定であったが、急な会議が入った、とラルフ邸を出る前に電話があった。
練習を終えたエルシーを拾い、ジーンは車を走らせる。ラルフ公爵家の車は普段自分が使っているボロボロの中古車とは全く違う乗り心地だ。
この辺りは高級住宅地であり、そのエリアに入るだけでも許可が必要だった。貴族や大金持ちの家が軒を連ねており、道端にも警備の軍人が散見される。
もちろん、パットとキャロルにこのエリアに入る許可がおりるはずもないので、こちら側からその外へ出向くことになっていた。外と言っても、エリアから程近いレストランである。誰もがエリアの中に入れるわけではないため、貴族たちが入場の許可のおりない客人をもてなすための高級レストランが、エリアの外に多数存在しているのだ。高級なだけあって、もちろん警備もしっかりしている。
みだりにエリア外に出ることに対して、エルシーの母親であるルヴィアはあまり良い顔はしなかったものの、咎めることもしなかった。エリア外とは言え、そこも充分な高級住宅地なのだ。エルシーが王立交響楽団の練習を行うホールも、エリアからは外れている。
検問所のような所を抜け、十分ほど車を走らせると、目的地のレストランが目に入った。駐車場に車を停めると、レストランの従業員が車のドアを開けにわざわざ外へ出てくる。
「お待ちしておりました」
さすが高級レストラン、従業員の接客態度も完璧であった。ジーンはこのような所に来たことがないために面食らってしまったが、堂々としているエルシーを横目に、自身もできるだけ胸を張ってそのサービスに応じた。
「雪、また降り始めましたね」
暗くなり気温が下がったことで、一度はやんでいた雪が再びちらちらと舞っていた。積もるほどの勢いは全くなかったが、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
「二階の個室をご用意しております。お連れ様は既にご到着されています」
恭しく入口の扉を開けられ店内に入ると、そこには大衆レストランとは全く違う光景が広がっていた。当たり前のように客は皆正装をしている。
一階が普通のテーブル席、二階と三階が個室フロアであると説明され、ジーンとエルシーは階段を上った。エルシーはロングドレスの裾が擦らないように、スカートをつまんでいる。
二階に上がって案内された部屋に入ると、懐かしい顔があった。パットもキャロルも、軍服ではなく正装をしているのが何だか可笑しかった。
「やあ、久しぶりだね。ジーン、エルシー」
「元気そうで何よりよ。オシャレしてるエルシーってなんか新鮮ね!」
二人はいつもの調子でジーンたちに声をかけた。ジーンは空いている椅子にエルシーを誘導し、椅子を引いてやる。エルシーは申し訳なさそうにしながらも、その行為を受け入れた。
「お久しぶりです。パットさんもキャロルも、お変わりないですが?」
エルシーの声は心なしかいつもより明るかった。ジーンはその様子を眺めながら、グラスの水を飲んでいる。
「僕たちも大佐も、相変わらずだよ。二人がいなくなって、執務室は少し寂しくなってしまったけれどね。大佐がこれ、エルシーに、って」
パットはそう言いながらエルシーに紙袋を手渡した。エルシーはそれを受け取ると、中身をこっそり確認する。
「これ、パイナップルじゃないですか!」
エルシーが裏返りそうな声で驚いてみせる。パイナップルは彼女の好物であった。
「なんでも大佐、わざわざ南部地方からお取り寄せしたらしいわよ。ただでさえ高級品なのに、取り寄せだなんて更に高くついたでしょうに。本当に部下思いの素敵な人だわ」
フレディに心酔しているキャロルが、恍惚の表情を浮かべた。
「私なんかのために……嬉しい」
エルシーはパイナップルの入った紙袋を大事そうに抱き締めながら、感嘆の声を漏らした。
「まあそのパイナップルよりも、この店の方が高く付くと思うけどね。こんな高級レストラン、一生に一度も来られないかもしれない。僕たちの給料じゃとても縁のない場所だ。それこそ君に感謝だよ、エルシー」
食事会をセッティングしたのはパットたちであったが、この店を提供したのはエルシーたちであった。防犯上の面からも、信用の置ける店である必要があった。もちろん、パットたちが簡単に支払えるような金額のメニューの店ではないため、費用の殆どはエルシー持ちである。
パットたちは始めその案に渋っていたが、背に腹は変えられなかった。エルシーと会うためには仕方のないことだったのだ。
「正装で来い、って言われてもドレスなんて持ってないって焦ってたら、大佐が出世払いだ、って。これ買ってくれたのよ」
キャロルが立ち上がってくるりと回ってみせる。彼女のブロンドの髪によく映える黒のシックなドレスであった。
「似合ってるよ、キャロル。私じゃそんな大人っぽいのは着れないから、羨ましい」
今日のエルシーは水色のロングドレスを身に纏っていた。髪は低い位置のサイドテールであり、編み込みがされている。
「エルシーも充分可愛いわよ。メイクも綺麗にできてるし、見違えたわ。ね、ジーン?」
「なぜ俺に振る」
黙ってその様子を眺めていたジーンに、キャロルが唐突に話を振ってきた。
エルシーの護衛を始めてから、彼女の正装姿を見るのは日常茶飯事であった。始めは確かにそのギャップに驚きもしたが、今となっては特に目新しさもなかった。
「エルシー、あまり飲み過ぎるなよ」
赤ワインがグラスに注がれる。以前のパーティーで飲み過ぎて倒れたという前科があるため、ジーンはエルシーの顔を横目で見ながら釘を刺す。
「わかってますよ」
エルシーはむすっとした表情を浮かべる。余計なお世話だと言いたげだ。
「えっ!ジーンが人のことをファーストネームで呼ぶなんて。なに、何があったのよ」
キャロルが食い付いてきたことに、ジーンはしまった、と若干後悔をした。
「お前は俺を何だと思っている」
「だってジーンってプライベートとか一切持ち込まないんだもの」
「私が名前で呼んで欲しい、ってお願いしたの。今の私は軍人ではないから」
「ふぅん」
キャロルは他にも何か言いたげな顔でこちらを見ているが、ジーンは無視してワイングラスを手に取る。
「まあまあ、その辺にして。乾杯しようじゃないか」
パットが笑いながらキャロルを宥めている。
「それじゃあ、僕ら四人の再会を祝して。サルー」
乾杯の合図と共に、グラスをぶつける小さな音が響き渡った。
***
次々と運ばれてくる料理を、楽団の練習後で腹を空かせていたらしいエルシーは、実に美味しそうに頬張っていた。
テーブルマナーに四苦八苦しているキャロルを横目に、慣れたものであるエルシーは涼しい顔をしてそれをこなして見せた。その対比が可笑しいのか、パットは終始彼女たちをまるで保護者のような目で見つめていた。
ジーンもそこまでテーブルマナーの心得があるわけでなかったが、ここ最近の生活のお陰か、不自然ではない程度にはそつなくこなすことが出来るようになった。
食後のデザートと紅茶が運ばれてくる頃にはキャロルはすっかり疲れ切った顔をしていた。
「キャロルの大好きなケーキが目の前にあるって言うのに、随分と浮かない顔をしているね」
トイレから帰ってきたパットが、並んでいる可愛らしいケーキとキャロルを交互に見ながらそう口にした。
「だってもう疲れちゃって……確かにお腹はいっぱいだし、美味しかったんだけど」
キャロルは決して出された料理を残すような真似はしなかった。エルシーの倍の時間をかけながらも、完食していた。エルシーの方はというと、メインの肉料理の付け合わせだったアスパラガスを避けていた。
「まあ、紅茶とケーキにキャロルが気を張らなきゃいけないマナーはないよ」
そう笑いながら、エルシーは紅茶のカップに口をつけた。その様子を恨めしそうに眺めながら、キャロルもケーキをちまちまと食べている。
「でも、本当に今日は楽しかった。わざわざ訪ねてきてくれて本当にありがとうございます」
「こちらこそ、素敵なレストランでご馳走が食べられて嬉しいよ。ね、キャロル?」
「うう……まあ、その点は、そうね」
「何故そんなところで意地を張る」
ジーンはこの四人での会話を、どこか夢のように感じていた。確かに同じ部署の同僚であった四人だが、こうやって一緒に外食をしたことはなかった。
窓際部署に追いやられたメンバーは皆、どこかに心の闇を抱えている。決して自身の心の内は晒さない。それはジーンも例外ではなく、現に今もエルシーと共に過ごす時間が増えたとは言っても、自身のことは殆ど語らなかった。
そんなメンバーが、今こうして穏やかな気持ちで食事を共にしているというのは、ほんのふた月ほど前には考えられなかっただろう。
エルシーが狙われたあの日から、明らかに窓際部署の人々の関わり方は変わりつつあった。
「今度は大佐も一緒に……また、集まり、た……い……」
エルシーが突然不自然な声をあげた。
「おいエルシー、あれほど飲み過ぎるなと、」
ジーンは呆れながらそう言いかけて、ハッとした。エルシーが飲み過ぎないように逐一チェックをしていたのは自分だ。いくら練習で疲れていたとはいえ、特別酒に弱いというわけでもないエルシーが、赤ワインをたったグラス二杯飲んだ程度で、酔い潰れるわけがない。
その考えに至るのとほぼ同時に、ガシャン、という音を立てて、エルシーが皿が置かれているテーブルに突っ伏した。これは酔い潰れたのではない、ジーンは確信した。
「エル、シー……?どうしたん……だ……い」
驚いて声をあげたパットも、同じように意識を失っていく。そして彼もまた、テーブルに音を立てて倒れ込んだ。
「軍曹、」
こうなればキャロルも同じようになる、と考えるのが自然な流れであった。ジーンはある程度の覚悟を持って彼女に声をかけた。そして、直後にそれを後悔した。
「あれ?なんで?」
キャロルは二人とは違い、意識をはっきりと持っていた。そして、彼女は困惑の表情を浮かべたのだ。
ジーンは自身の浅はかさを呪った。この四人の中に敵がいるはずもない、などという都合のいい思い込みをしていた自分の浅はかさを。
「おかしいな……確かにジーンの紅茶にも……」
予定と違うことが起こったとでも言いたげな表情である。ジーンはあまりの衝撃に言葉を発せずにいたが、状況を理解し始めるにつれて、沸々と怒りを感じ始めた。
「睡眠薬を盛ったのか」
「……うん。どうしてジーンは平気なの?紅茶、飲んでたわよね?」
「俺は不眠症を患っている。今お前が盛った薬なんかよりもずっと強いものを常用している。その程度の薬は耐性が出来ていて効きはしない」
まさか自身の悩みの種である不眠症に感謝する日が来るなどとは、思いもしなかった。
「なにそれ、ズルいわ」
「お前、今自分が何をしているのか理解した上でその物言いなのか?」
キャロルの態度はいつもの飄々としたそれであった。その様子にすら、ジーンは苛立って仕方なかった。
「でも、そうね。じゃあ、失敗ってことか……情けない」
「落ち込むのは勝手だが、まずこの状況を説明してからにしろ」
「説明、って言われても……あたしは指示されたことをしただけで。何も知らないわ」
「惚けるな。その指示を出した人間は誰だ」
「それは言えない。あたしにはその権利はない」
「……権利?」
ジーンはキャロルから何か情報を聞き出そうとするが、彼女はしらばっくれるだけであり、何も話そうとはしない。
「あたしは東部のスラム街で買われた身。衣食住と学問を与えてくれた人に逆らうことはできないわ」
「買われ……?」
当然であるが、人身売買は法律で固く禁じられている。もちろん、世の中にはそんな掟を簡単に破ってしまう人々や組織があることも頭では理解していた。
しかし、キャロルのその台詞には幾つか引っかかる点があった。人身売買の摘発事由は様々であるが、女子であるキャロルが買われる事由で可能性が大いにあるのは三つである。
一つは臓器売買の商品にされることである。これは男女問わず多い事例であったが、彼女は今ここにいるので、その可能性はない。
二つ目は売春である。今現在でも若い彼女には充分その価値がある。店で働かせる場合もあるが、特定の誰かに買われて愛玩にされるなどの例も含まれる。しかしこれもまた、彼女が軍人として仕事をしている以上、可能性は低かった。
三つ目は子どもに恵まれない家に買われて育てられた可能性だ。これは前者二つに比べたら事態の深刻度は低いものの、正式な養子縁組を経ずに取引を行うのは立派な犯罪行為である。
これらの可能性の中では、三つ目が該当するように感じるが、そうとも限らない。もしキャロルが三つ目のパターンであるのなら、彼女が今こちらに銃口を向けているなどという事態は、決して起こり得てはいけないのだ。
「……随分と手の込んだ、スパイ計画ってことか」
それがジーンの導き出した答えだった。
「さすがジーン。やっぱり頭がいいのね。ほんの数年前まで文字の読み書きもできなかったあたしとは、大違い」
「東部のスラム街と言えば、ユリーレで最も貧しい地域の一つだ。義務教育もまともに受けられないと聞いている。確かに士官学校は経歴関係なく入校ができ、学費も一切かからないが、義務教育修了レベルの学力がないと話にならない。お前を買った人間は、スラム街出身のお前を育て、士官学校に入校させた。そしてテロ組織のスパイに仕立て上げたわけだ」
キャロルはジーンの推理を黙って聞いていた。だがその表情を見る限り、どうやら全て正解とは言えないようだ。
「大筋はその通り。でもそれだけ聞くと私を買った人が至れり尽くせりみたいで笑っちゃう。あそこでの生活はそんな良いものじゃなかった。彼らが求めていたのは即戦力。だから集められたのは士官学校に入学できる年齢に近い子どもたち。もちろん誰も教育なんて受けたことがないから、文字通りゼロからのスタート。あたしたちは本来なら九年間かけて学ぶことを、二年間で詰められたの。みんな別に頭が良いわけでもないから、本当に苦労したわ。ノルマをクリアできなければ食事も睡眠も与えられなかった。その後に響く可能性からか暴力は振るわれなかったけれど、性的虐待は日常茶飯事だった。でもここで彼らに逆らえば、またあの貧乏生活に戻ってしまう。少なくとも、あのスラム街よりはずっと人間的な生活はできていたから、手放せなかった。それに、たとえ売られた身でも家族のことは心配だったから……あたしたちが逃げたりしたら、どういう仕打ちを受けるのか考えるだけでもゾッとしたわ」
まあ、簡単に逃げられるようなところでもなかったけどね、とキャロルは自嘲的な笑みを浮かべた。
キャロルが生きてきた日々は、ジーンには想像がつかないほど壮絶なものであった。考えただけでも吐きそうなほど、胸糞悪い話だ。
「ちょっと喋りすぎちゃった。まあ、いっか。どうせもう関係ないんだし」
キャロルがジーンに向けている銃は既に安全装置が外され、引き金を引くだけの状態である。
キャロルはデスクワークは得意ではなかったが、実戦における能力はどれも人並み以上である。『能力』が開花していないため下士官であるが、軍人としてのステータスは新人の中ではそれなりに優秀な方である。
彼女は恐らく狙いを外すようなヘマはしない。だからこそ、ジーンも迂闊にその場を動けなかった。
「お前はまだ、睡眠薬を飲ませただけだ。ここで思い留まれば、処分は軽く済む。だが、その銃を発砲すれば話は別だ。もし狙いが外れたとしても、音を聞きつけたここの従業員だって駆け付けるし、お前は言い逃れできなくなる」
「その言い方だとまるで、ここで銃を置いたら、あたしのことを見逃してくれるみたいな言い方ね。真面目でプライベートを一切仕事に持ち込まないジーンが、そんなこと言うなんて」
「見逃すつもりなどない。元同僚のことを犯罪者にしたいと思う人間の方が少ないと思うがな。それにお前が思い留まれば、事を荒立てずに済む」
「そうかしら?やっぱりジーンは変わったと思う。エルシーとも随分打ち解けたみたいだし」
ジーンの頭に、軍隊記念日の日のエルシーの表情が過った。あの時彼女は、尊敬する先輩であったブラッドベリー少尉に裏切られたのだ。今のこの状況は、その時によく似ていた。
「でもこれは命令だから。ごめんね」
それまで飄々と話していたキャロルが初めて、悲痛な笑みを浮かべた。
そして彼女は、自身の頭にその銃口を向けた。
乾いた銃声が響く。
ジーンは咄嗟に椅子から立ち上がって、キャロルに飛びかかっていた。弾は逸れて、部屋の壁に穴が空いた。ジーンはキャロルの手から銃を奪い取り床に投げつけた。
キャロルはジーンがぶつかってきた衝撃に耐えられず、そのまま床に倒れ込む。ジーンは彼女に覆い被さるようにして手首を掴み、身動きができないように拘束する。
「お前は一体何を考えているんだ……!」
あとほんの僅かでも飛び出すのが遅れていたら、キャロルの頭は吹き飛んでいた。その事実にゾッとする。
「だって……ジーンのこと、殺せない……!」
「馬鹿か……!買われた時のお前はもう子どもじゃなかったんだろ。だったら考えることくらいできるはずだ。お前が死んだところで、一体何が変わる?いいか、たとえお前があのまま俺を撃ったとしても、俺はお前なんかに殺されはしない。俺の強さはお前もよく知ってるだろ?つまり、お前は死に損なんだ。どうせ死なない俺なんかのために、自分の命を犠牲にしようなんて考えるな!」
誰かに対してこんな風に声を荒げたのは始めてだった。
「でも……!ジーンのこと殺せなかった、ってなったら……あたしは……あたしは……!」
キャロルは目に涙を貯めて叫んだ。その台詞の先は容易に想像できた。
「お前が一体誰の命令でこんなことをしているかは知らないし、殿下を危険な目に遭わせようとしたことは事実だ。それは必ず償ってもらう。だが、今はどうやらそんなことを言ってはいられないらしい。手は打つ。だから、」
ジーンはキャロルの体を起こして、抱き寄せた。
「もう、苦しむな。キャロル」
キャロルはエルシーとはまた違った部分で不器用な後輩だった。勤務態度はお世辞にも良いとは言えなかったが、本当は素直で努力家であることをジーンは知っている。
情に厚く、フレディやパットのことを慕い、新入りのエルシーの面倒も甲斐甲斐しく見ていた。そんな彼女が犯罪に手を染めることを、自ら望んでいるわけがなかった。
「ごめ……あたし……あたし……ひっく……」
ジーンの腕の中で涙を流すキャロルは、いつもより少し幼く見えた。
***
『話はわかった。とりあえずキャロルは俺が引き取ろう。お前は早くエルシーを連れて屋敷に戻った方がいい。どうやら外は少し大変なことになってるみたいだ』
「……大変なこと?やはりキャロルが仕掛けてきたのは、」
『詳しい話は俺もわからん。ラルフ閣下にでも聞いてくれ。あの人はほんの一時間ほど前に帰宅したところだ』
「わかりました。お手数かけてすみません、大佐」
あの後騒動をどうにかやり過ごし、ジーンはレストランの電話を借りてフレディに連絡を入れた。
今となっては彼が味方であるかどうかでさえ疑わしかったが、他に頼れる人物はいなかった。四年間彼の下で働いてきたのだ、その信頼に賭けるしかなかった。
ジーンは睡眠薬を盛られたパットを叩き起こし、キャロルをフレディに引き渡すように頼んだ。エルシーは今ここで目を覚まされると逆にやり辛かったので、そのまま車に運び込んだ。
「まさかこんなことになるとはね……ジーン、エルシーのことを頼んだよ」
「ああ。そっちもな」
フレディの言う『大変なこと』が何かはわからなかったが、先日ヒューバートに色々聞かされたジーンの頭の中には、様々な憶測が飛び交ってしまう。
ジーンはパットと別れると、帰り道を急いだ。エルシーは後部座席で寝こけていて、起きる様子はない。
ジーンは頭の中で、エルシーが目を覚ました時にどう説明をすべきか考えた。前にブラッドベリー少尉に襲われた後、エルシーは気丈に振る舞ってはいたが、心には深い傷を負ったはずだ。眠れないと弱音を吐いたこともあった。
そんな彼女に対して、真実を伝えた方がいいのか、ジーンは判断を迷っていた。仲の良いキャロルに危害を加えかけられたと知ったら、エルシーはひどくショックを受けるはずだ。
「とりあえず、閣下に話を聞いてから……だな」
ジーンは運転しながら大きく息を吐いた。
***
ラルフ公爵邸に到着すると、電話で一報入れていたこともあってか、ルヴィアが待ち構えていた。
担いできたエルシーを使用人に任せ、ジーンはルヴィアに連れられて応接室に向かった。
「災難だったな」
「申し訳ありません」
「別に責めてはいない。誰だって身内に裏切られるなんて考えたくないからな」
ルヴィアは思っていたよりも落ち着いた声で、ジーンのことを宥めてくれた。コーヒーを飲む仕草が妙に色っぽい。
「私も昔、現国王に殺されかけたことがあってな」
「閣下もですか?確か団長もそのようなことを」
「私と夫と兄は、偶然三人とも天才だったんだよ。しかも私たちは仲が良かった。そりゃあ邪魔だっただろうさ」
ルヴィアは昔を懐かしむように遠い目をしながら語った。
「直接的であれ、間接的であれ、近しいものたちに命を狙われる経験は数え切れないほどあった。だからと言って、誰も信用しないというのも無理な話だ。信じては裏切られ、その繰り返しだ。だからお前がそれを気に病む必要はない。巻き込んだのはむしろ私たちだ」
「巻き込まれたなどとは、思っていません。国を守ることが軍人の使命ですから」
申し訳なさそうなルヴィアの言葉に、ジーンは首を横に振った。
「頼もしいな。さて、その我が国の件なんだが」
ルヴィアの目つきが鋭くなった。つり目がちな彼女の蒼い瞳に睨まれたら、ひとたまりもないだろう。
「非常に不味いことになった」
ある程度は覚悟していたものの、ルヴィアの口から出たその台詞に、ジーンは全身に緊張が走った。
「キミー……キンバリー王女が襲撃された。公務でロータリアット連邦に出向いた帰りを狙われた。本来であれば今の国の情勢的に彼女は外を出歩いていい立場ではないはずだったんだがな……どうやら軍上層部の一部が対外関係の強化と国交正常化二十周年がどうとかで押し切ったらしい。それにオーケーを出す国王も大馬鹿だがな」
ルヴィアの言葉には苛立ちとも皮肉とも取れる色が含まれていた。
「キンバリー王女は?」
「キミーは無事だ。ただ、護衛の兵士たちが何人か傷を負っている。それだけならまだいいんだが、問題はそれだけじゃない」
「他にも何か?」
ルヴィアは大きく頷いた。
「首都のいたるところで、王女の襲撃とほぼ同時に王族や貴族が狙われる襲撃事件があったんだ。エルシーもその一人だ。幸い、死傷者は出ていない」
「貴族まで……?本格的に動き出したと言うわけですか」
今まではイベントの隙を狙って事件を起こすのがテロ組織のやり方であった。それが何もない今日という日に、一斉に攻勢に転じたというのは実に不可解であった。
「襲撃された貴族たちも誰一人として誘拐などはされていない。今までとは明らかに手口が違っている」
キャロルがエルシーを眠らせた後どうするつもりだったのかはわからないが、少なくとも以前の王女の成人の儀と軍隊記念日でのエルシーに対する襲撃はどちらも人質としての誘拐目的であった。
「奥様、旦那様からお電話です」
ノックの音と共に、扉が遠慮がちに開かれた。使用人がルヴィアを呼んでいた。
「すまない。少し席を外す」
「はい」
ルヴィアが部屋から出て行くと、ジーンは出されていたコーヒーの残りを飲み干して息を吐いた。
確かにフレディが言っていたように『大変なこと』にはなっている。しかし、その真意はまるで見えなかった。
キャロルの件にしてもそうだ。彼女の口振りだと、他にもスラム街で買われて育てられた軍人は多数存在しているようである。しかし、その目的が一体何であるのか、わからない。
ただの駒にするにしては育成コストに見合っていない。少なくとも、キャロルはまだ相応の働きをしてはいないはずだ。下手すれば殺されるかもしれない場に彼女を送り込んだことが、賢いとは思えない。
考え込んでいると、再び扉が開いた。ルヴィアが戻ってきたのだ。
彼女は神妙な面持ちでこちらにやってくると、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
「今、夫から電話があった」
いつも冷静なルヴィアの声が僅かに震えているのがわかった。
「明日の新聞に、国王の側近と軍上層部の汚職の記事が出る。これだけでも最悪だが、もう一つおまけがついてくる。アルマニング帝国で革命軍が蜂起、帝都とその近郊で教会が襲撃、破壊されているらしい」
それはあまりにも唐突で、偶然にしては出来過ぎな、そんな悪い報せであった。