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8.マーガレット・ヴィー・イル

ユリーレ王国最大の危機と言えば約三十年前、隣国ロータリアット帝国との戦争であった。はっきりとした勝敗はつかず和解に持ち込み、その後ひょんなことから多民族国家であったロータリアット帝国は内乱により崩壊。今のロータリアット連邦となった。その頃から国交正常化に向けての施作が始まり、条約が締結。今年で国交正常化二十周年となる。

この時、ユリーレの国民は長年懸念材料であったロータリアットとの関係良好化に心底安堵したそうであった。

そんな最大のピンチなど、いとも簡単に塗り替えてしまいそうなピンチが、今このユリーレに訪れようとしていることに、国民のほとんどはまだ気付いていないはずだ。

ジーンは自分に充てがわれた部屋のベッドに寝転がりながら、これからのことを考えていた。

明日の朝、ほんの数時間後に、ユリーレは崩壊の危機を迎えるかもしれない。まさかこんなことが突然起こるなどと、誰が予想できたことか。

地区によっては内乱が絶えなかったこともあったが、それは国を覆すほどの威力はなかった。しかし、首都でここまで立て続けに様々な事件が起こり、極め付けは隣国アルマニングでの革命。これらに影響された民衆が大規模なテロを起こす可能性が高まってしまった。


「あの、すみません」


ノックの音と、聞きなれた声が扉の外から聞こえた。

ジーンはベットから立ち上がり、扉を開ける。するとそこには、寝巻き姿のエルシーが佇んでいた。ようやく目が覚めたらしい。

「何か用か?」

「はい……あの、すみません。また私酔っ払っちゃったんですかね?」

ジーンは返答に困ったが、ああ、と曖昧に言葉を濁した。

「ご迷惑おかけしてすみませんでした」

「気にするな。用件はそれだけか?なら早く部屋に戻って休んだ方が、」

「いえ、その……」

ジーンの言葉をエルシーが控え目に遮った。彼女は何かを言いにくそうにして、此方をちらちらと見上げている。

「なんだ?」

「えっと……こんなこと言うの、アレなんですけど。……なんかすごく、嫌な予感がして。眠れないんです」

エルシーは自身の寝巻きの裾をぎゅっと握った。その手は震えている。

「一人でいると、涙が出てきて。それで、こんなことお願いするの失礼だってわかってるんですけど……」

エルシーが今にも泣きそうな顔でこちらを見上げた。


「私と一緒に、寝てくれませんか?」


ジーンは思わず言葉を失った。何を言っているんだこいつは、と真っ先に思った。しかし、彼女のいつもの冗談にしては、必死さがまるで違った。

「……添い寝なら母親か使用人に頼んでくれ」

「大尉がいいんです。大尉といると安心するんです」

「気のせいだ。いいからもう部屋に戻れ」

「嫌です」

エルシーの表情は真剣そのものであり、その場から動こうとしなかった。ジーンは頭が痛くなるのを感じた。

「じゃあ、俺はソファで寝るからベッドでも何でも使うといい」

「それじゃあ意味ないんです。……手、握ってて欲しいんです」

「お前な……」

ジーンが最大限の譲歩を提示したにも関わらず、エルシーは折れようとしない。

「別に既成事実作ろうとか考えてないです。本当に一緒に横で寝てくれるだけでいいんです……!」

エルシーがジーンの袖を掴みながら力説する。ジーンは大きく溜息をついた。

「わかった、わかったから。だからもう引っ張るな」

「本当ですか?」

「ああ。だが、今日限りだ」

「わかってます」

明日、ユリーレに何が起こるかわからなかった。エルシーがどのような立場に置かれるのかも、そして彼女が無事でいられる保証もない。ジーンはそんな彼女の気持ちを汲むことを選んだ。

「薬……?」

「睡眠薬だ。不眠症なんでな」

「ああ……だからいつも朝が早かったんですね」

エルシーはベッドサイドに置いてあった睡眠薬の小瓶を物珍しげに眺めた。

「私、大尉に出会えて良かったです」

「なんだそれは、別れの挨拶か」

「違います。ただ、今言っておかないと後悔すると思ったので」

ベッドに寝転がりながら、エルシーはそう告げた。ジーンはベッドサイドのランプをつけて、部屋の電気を消した。

そしてエルシーから距離を取りながら、自身もベッドに横たわる。セミダブルのベッドに二人が眠るのは、少し窮屈だった。

「おやすみなさい、大尉」

「ああ」

ベッドサイドのランプも消すと、部屋は真っ暗になった。エルシーの希望通り彼女の手を握った。程なくして、寝息が聞こえてきた。

それから数分と経たぬうちに、ジーンも自身の意識を手放した。心なしか、その日はいつもよりも深く眠りにつくことができた気がした。



***



「スズキ大尉、今すぐエルシーを連れてイル伯爵邸に逃げてくれ」

朝起きて食堂に行くと、そこにはヒューバートがいた。彼は切羽詰まった様子でジーンにそう告げた。

「貴族ではない資産家たちの一部がテロ組織に資金援助をしていることが判明した。ある筋によると、その資金を利用し彼らは武装準備を始めたようだ。警備が今まで以上に厳重な王宮に押し入るのは無理だと判断し、どうやらこの貴族街に攻め込む計画を立てているらしい。イル伯爵邸はここではなく、郊外にあることは知っているかい?」

「はい。正確な位置までは把握していませんが」

「わかった。後で地図を渡す。あそこはイル伯爵邸以外は普通の民家しかない。攻め込まれるにしても此処よりも後回しにされるはずだ。とりあえずはそこに避難してくれ」

「閣下は?」

ジーンの問いかけに、ヒューバートは口を噤んだ。しばらくの沈黙の後、彼は小さく息を吐いて目を細める。


「私とルヴィアは此処に残る。家主が家を守らないわけにはいかないのでね」


「ですが、それは危険では……」

「おやおや。『鮮血のヒューバート』と『氷柱姫ルヴィア』の力を見誤ってもらっては困る」

ヒューバートにそう言われてしまったら、ジーンはそれ以上何も言えなかった。その言葉には確かな圧力があった。

「いいかい、スズキ大尉。新聞が発行されてしまった今、外ではいつ暴動が起こるかわからない。思ったよりはまだ大きな騒ぎにはなっていないが、テロ組織が最初の時のように爆弾を所持している可能性も大いにある。私たち軍人は決してテロに屈してはいけない。今、ユリーレ最大の危機が迫っていると言っても過言ではない。もしこの危機を乗り越えられたとしても、肝心の軍が消耗してしまっては意味がないんだ。君みたいな優秀な軍人は、一人でも多く残ってもらわなければ困る」

いつも冷静なヒューバートが、ジーンの両肩に手を置いてそう熱く言い聞かせた。その言葉は本物だ。

「本来なら私も君のように、国王である兄を護衛しなければならない立場なんだがね……状況が状況だからお前は来なくていい、と言われてしまった。まったく、私を何度も暗殺しかけた人間の台詞とは思えない。でも、たまにはこうやって自宅待機も悪くないな。……少し前に、私が君のことを羨ましい、と言ったのを覚えているかい?」

「はい」

ヒューバートは前に、愛する女のために自分の立場を顧みずに問題を起こしたジーンのことを、羨ましいと言った。全て計算で人生を歩んできたヒューバートにとっては、まるで違う世界の人間の話であったのかもしれない。


「ようやく私も、英雄じゃなく、ただの父親になれそうだ」


その言葉の真意は、まだ若いジーンにはわからなかった。

確かにジーンは優秀な軍人であったが、ヒューバートの戦果に比べると、あまりにも小さな功績しか残していない。実績もさる事ながら、国民からの信頼も厚いヒューバートは、確かにユリーレ王国の英雄であった。

そしてそれは、全て彼の計算しつくされた人生計画の一つであったはずだ。

「事が全て片付いたら、男同士二人で酒でも飲み交わそうじゃないか」

「はい。楽しみにしています」

墨色の近衛師団の軍服を身に纏い、ジーンはヒューバートに敬礼をした。



***



エルシーの部屋を訪ねると、彼女は既に身支度を整え、荷造りも終えていた。

「荷物はそれだけか?」

「はい。野宿するわけでもないですし、荷物は少ない方がいいですよね。あ、でも……これだけは、いいですか?」

そう言って彼女が大事そうに抱きかかえたのはコルネットの入ったケースだった。それは彼女の一番の宝物であり、魂である。

「ああ。しっかり自分で管理するんだぞ」

「はい」

エルシーは安堵の笑みを浮かべた。

こうして、ユリーレ王国最大の危機は、幕を開けた。



***



ラルフ公爵邸にあった高級車で郊外を走るのは目立ちすぎる、ということで避難にはジーンのボロボロの中古車を使うことになった。

ジーンの家までは使用人が送ってくれた。そこで車を乗り換え、イル伯爵邸に向かった。お世辞にも乗り心地がいいとは言えない古い車であったが、エルシーは文句一つ言わなかった。

途中、大きな通りや広場ではテロ組織の一員と思われる人々が演説を行い、それを阻止しようと軍人たちが奔走している姿を何度も見かけた。

首都の中心部は明らかに異様な雰囲気である。エルシーが乗っていることがバレないように、彼女は大きな布を被りながら座席の下に隠れていた。外から聞こえる演説や怒声や罵声が、できるだけ聞こえないように耳を塞いでいた。

程なくして中心地を離れ、車は郊外へと向かう。段々と人が減ってはいたが、やはり至る所でデモ集会が行われている。

「今どこら辺ですか?」

「もうすぐサラッカだ。あと一時間も走れば目的地に着くはずだ」

中心地こそ渋滞が激しかったが、そこさえ抜けてしまえばあとは車通りも少なくなり、郊外に行くにつれて道も広くなる。今のところ、道中に何か変わった点はなかった。

車の中で会話する分には問題なかったが、緊張感からかジーンもエルシーも余計な言葉は発しなかった。

それからどれくらい経っただろうか。いつの間にか外は静かになり、周りは閑静な住宅街に囲まれていた。

「街に入った。もうすぐだ」

「はい」

住宅街の大きな通りを抜け、緩やかな上り坂に差し掛かる。そのまましばらく車を走らせると、先ほどまでの民家とはまるで違う屋敷が目に入った。

「見えた」

確認するまでもない、それがイル伯爵邸であった。



***



イル伯爵邸は、不気味なほど静かであった。

ラルフ公爵邸と同じく、家主がほとんど帰ってこないことから、使用人の数は少ないと聞いていたが、それにしても静かだった。

「おかしい……こんな静かなわけないのに……」

過去に何度もこの場所を訪れたことがあるであろうエルシーが、そう困惑の表情を浮かべた。

門は開いており、ジーンは自身の車を庭の適当な場所に停めた。その過程には使用人や警備員の姿は一切見えなかった。

「不自然すぎる。だが、戻るわけにもいかないしな……閣下は今朝連絡を取ったと言っていた。ほんの数時間前だ」

「街の様子的にも、敵が攻め込んできたとは考えにくいですよね」

近くの住宅街に変わった点は特になかった。平日の午前中なので人通りは多くなかったが、主婦らしき女性の姿を何人も見かけたし、外回りの仕事中であろう男性もいた。軍の詰所にも灯りが点いていたし、何らおかしな所はない。

「とりあえず、状況を確認しないことには始まらないな……エルシー、武器は持っているか?」

「はい」

エルシーは軍服こそ着ていなかったが、動きやすいパンツルックである。その腰には銃の入ったホルダーが提げられており、上着の中にはナイフを隠し持っている。

「いいか、俺から絶対に離れるな」

「わかってます」

ジーンは念を押してから、建物の入り口に向かって歩き出す。その後ろにエルシーがぴたりとついている。

入り口の扉の前に到着すると、ジーンはドアノッカーを叩いたが、反応はない。エルシーと顔を見合わせ、頷き合う。

ジーンは自分の銃を取り出し、いつでも発砲できるように準備をする。そして、扉に鍵がかかっていないことを確認すると、勢いよくその扉を開けた。

キイィ、という建て付けのあまりよくない木の扉の音が響く。扉の向こうに玄関ホールが広がっていた。中央に人影が見えたため、ジーンは銃を構えた。

その人影は、玄関ホールの中央に椅子を置き、そこに背筋を伸ばして座っている。


「……おねーちゃん?」


エルシーの呟いた声が、ホールに響き渡った。

そこにいたのは紛れもなく、メグであった。目に包帯を巻いているが、長いストレートのブロンドを後ろで束ねた姿は、ジーンも見覚えがあった。


「エルシー、スズキ大尉。ようこそイル伯爵邸へ」


その声は緊迫したこの場に相応しくないほど、落ち着いていた。

あの事件以来初めて会ったというのに、エルシーにもメグにも感動の再会という雰囲気は感じられない。メグがそこで佇んでいること自体、今この状況に不釣合であり、エルシーもそれを肌で感じていた。

「……なぜ俺も一緒にいることがわかった?」

声を発したエルシーはともかく、ジーンが一緒にいることまで彼女は当ててみせた。いくら一緒に来るという情報が先にあったとしても、二人同時に屋敷に入らない可能性もあったはずだ。目を潰された彼女が迷いもなくジーンの存在を断言できる要素はない。


「おねーちゃん、まさか『見え』てるの……?」


エルシーの声は震えていた。

そんな彼女の心中を察したのか、メグの口元に笑みが浮かぶ。目は包帯に隠されていて表情は読み取れない。

「見えないけど、『見え』てるわ」

「目を潰されたのに、か?」

「確かに生物の機能的な意味での視覚は失ったわ。けれど、『能力』までは失ってない。だってこの『能力』は人間の視覚的機能を媒介しているわけではないのだから。直接脳に映像として送り込まれる、それが私の『能力』よ。……もちろん、『能力』を使っていない私は何も見えないし、『能力』を使って見ている映像も通常のソレとは違う。余計な情報だらけのものだけどね」

メグが視覚を失ったことで、彼女の『能力』まで失われたと誰もが勘違いをしていた。しかし、そうではなかった。彼女は淡々とそう説明した。

「だからあなたたちがこのタイミングでやって来ることは、わかってたの。私はある程度の透視もできるから、扉の向こうも『見え』ていたわ」

メグは淡々とそう告げた。今のところ、彼女に攻撃の意思は見られなかった。しかし、決して味方でもないということは、この状況を見れば一目瞭然である。

「ユージン・スズキ大尉。あなたにお願いがあるの」

「……お願い?」

「そう。エルシーを置いてここから出て行って欲しいの」

それは唐突な要求であった。もちろん、承服できるわけがない。

「断る。一応聞くが、エルシーをどうするつもりだ?」

「そんなの、決まってるじゃない。テロ組織に引き渡すのよ」

「あんた、奴らとグルなのか?」

「グルだったら、私の両目を潰させたりはしてないわ。……そうね、まあ、利害関係が一致して、一時的に手を組んでいるだけね。別に彼らに協力するつもりなんてない」

つまり、あくまでメグは単独もしくはテロ組織とは別のグループで動いているということである。

「利害関係の一致、か。それは一体なんだ?」

「政府、いえ、軍に一泡吹かせたい」

「それとエルシーに何の関係がある」

「あるわよ。エルシーがあちらの手に渡れば、軍は焦る。おまけに、エルシーを守れなかった軍と、王家との関係も悪くなる。願ったり叶ったりね」

「成る程な。つまり俺には何のメリットもないわけか。承服しかねるな。……あんたはエルシーと親しくしてたんじゃないのか?」

「してた。近すぎて、妬ましいほどだったわ」

淡々と喋っていたメグの声が、突然低くなった。ジーンの後ろに隠れ、軍服の裾を掴んでいたエルシーの手に力が入る。

「それって、どういう意味……?私、おねーちゃんに妬まれるようなことなんて何もないよ。頭も戦闘も見た目も全部、おねーちゃんに勝ってるところなんて一つもない」

エルシーにはまるで心当たりがないようであった。

「あるわよ、たくさん。同じ血筋でありながら、あなたは王家。私は違う。本来なら同等な立場のはずなのに、周囲はそう扱ってはくれなかった。ただでさえ、そんな家柄のコンプレックスをずっと抱えてきた。王家だからって理由だけで、護衛がつくんだから。今みたいにね。みんなにチヤホヤされるあなたが嫌いだった。性格だって別に良くないくせに、周りに愛されて大切にされて。ずるいって思ってた。それに気づかず周りを大切にしないところも嫌い。あなたを見てるとイライラするの。……それなのに、開花した『能力』は私なんかよりもずっとすごい『能力』で。そんなあなたのことを妬まずにいられるわけ、ないじゃない……!」

メグは早口でまくし立てて、声を荒げた。

「随分と自分勝手な言い分だな……エルシーがあんたに何をした?全部あんたの被害妄想じゃないか」

「そうね、確かに被害妄想かもしれない。でもその被害妄想は、私の心を掻き乱す程度には辛い現実なのよ」

あなたにはわからないでしょうけど、とでも言いたげな風だった。片親とは言え、一般家庭で育ってきたジーンには、貴族、ましてや王族の柵などまるで理解できない。それは確かであった。


「ねえ、エルシー。『ガーネットの日記』って、読んだことある?」


メグが唐突にそう尋ねた。エルシーは首を横に振る。

「二千年前の英雄、ガーネット王女の日記の写しよ。改訂されているものが巷にも出回ってはいるけれど、それは全てを記しているわけではないの」

その書物の名前に、ジーンは聞き覚えがあった。日記そのものは中学校の教科書に載っていた一部分しか読んだことはなかったが、ガーネット王女の日記を基に作られた時代小説は何冊も読んだことがある。

噂ではその原本が王立図書館の特別閉架書庫に保管されていると聞いたことがあるが、さして興味も湧かなかった。自分には触れる機会もないものだし、何らかの奇跡が起こって読むことができても、中学を卒業してすぐに士官学校に入ったジーンに、二千年前のユリーレ語を理解することはできない。

「ガーネット王女の日記には、彼女の四人の兄と姉についても事細かに記されているの。当時のユリーレの王族は完全に実力主義で、兄妹全員が成人を迎えるまで決して後継ぎを決定しなかった。当時の成人は十二歳ね。正式に後継ぎが決まるまでは王子と王女の外部への露出も禁じられていた。幸か不幸か、その時兄妹の中で一番優秀だったのは末っ子のガーネット王女。その後彼女は英雄と呼ばれるのだけど、そこに至るには数々の苦労があった。自分より出来の悪い兄や姉に妬まれ、陰湿な嫌がらせを受けたりもした。その凄惨さが事細かに日記には記されている。そんな文書を公開できるわけないでしょう?だから一般人は閲覧ができないの」

世に出回っている『ガーネットの日記』にはそのような描写は一切ないと聞いている。その内容のほとんどが彼女の武勇伝で埋め尽くされ、それがまた、ジーンがその書物を読むのを避けていた理由でもある。綺麗事の塊にしか思えなかったのだ。

「おねーちゃんは、その日記を読んだの?」

「ええ。目を潰される少し前にね。本来は私の肩書きでは閲覧できないのだけど、父の計らいでどうやらそこら辺の権利は王族と同じになってるみたい」

元中尉で伯爵令嬢であるメグには閲覧の権利はない。しかし、血統的には彼女もそのガーネット王女の血を引く正統な王族である。

「私も大学には通っていないから、古典には明るくなかったのだけど。昔手ほどきを受けたことが幸いして、数日がかりで読み切ったわ。内容は胸糞悪いことこの上なかったけれど」

もちろん、後世の人々に書き写される段階で手が加えられていないとも限らなかったが、それでもその日記は当時の王家の様子を知る手がかりの一つだった。

「で、それと今の状況に何の関係があるんだ?」

傍から見ればメグの話す内容はただの雑談に過ぎない。切迫しているユリーレ王国の現状に関係があるとは思えなかった。ジーンは眉間に皺を寄せ、苛立つ素振りを見せた。


「ガーネット王女の目の上のたんこぶだった兄と姉。さて、王女は彼らをどうしたでしょう?」


メグが口元に笑みを浮かべた。

包帯が巻かれた目の様子は窺えなかったが、その包帯の奥の瞳も同じように薄く笑みを浮かべているはずだ。

「……わかんない」

エルシーは僅かな間の後、そう呟いた。それは明らかな嘘であると、ジーンもメグもわかっていた。その声には何かを察したような含みがあった。


「殺したのよ、一人残らずね」


メグの声のトーンが低くなった。ジーンの服の裾を握っていたエルシーが、ぶるり、と震えるのがわかった。

「他はともかく、次女は碌に動けないほどの重病を患っていたにも関わらず、よ。英雄が聞いて呆れるわ。まあ、その当時じゃ珍しいことでもなんでもなかったみたいだけど。無用な争いを招かないように間引きをするのはある意味で正しい判断ね。ああ、そういえば過去に、私のお父さまもヒュー叔父さまもルヴィア叔母さまも、今の国王に命を狙われていたんだっけ。昔も今も変わらないのね。違うのは、ガーネット王女が兄妹で一番優秀だったということくらい。今の国王はお世辞にも有能とは言えないし」

いつの時代も、権力者の後継者争いは絶えなかった。それは人と人が生み出す業のようなもので、解決策は見つからない。

「何が王族よ、何が貴族よ。そんなもの、糞食らえだわ。自分の権力を守ることしか能がない癖に。そんなものに振り回されて、邪魔されて。中途半端な肩書きなんて要らなかったのに」

メグの掠れた声が、ホールに響き渡った。


「私はただ、一人の立派な軍人でいたかっただけなのに」


それがメグの生きる意味だった。目を潰されたことにより退役を余儀なくされた彼女は、自分の生きる意味を見失ったのだ。

「私のせいで、そうなったから……だから、おねーちゃんは私が憎いんだ?」

エルシーが震えた声を紡ぐ。ジーンが彼女の方を振り向くと、涙をぽろぽろと零しながら、エルシーはメグを見つめていた。

「あの時、あなたを守ろうとなんてしなければよかった。落ちこぼれで、『能力』も開花してなくて、どうせ王位継承権も回ってこないようなあなたを、守る必要なんてなかったのに。今ここで私が引き金を引けば消えてしまうような命なのに。ほんの少し前に、それに気づいた時に思ったわ。ああ、きっとガーネット王女も同じ気持ちだったんだな、って」

自分が大切にしてきたものが憎くなる瞬間。血の繋がっている家族を殺めようという考えに至るまで、メグもガーネット王女も、多くの葛藤があったはずだ。そして傷つくことに疲れてしまった彼女たちは、思考停止を選んだ。

「あんたがエルシーをどうしたいかなんてことは、俺は知らない。俺はこいつを守るという使命がある。そのためにはあんたを殺めることも厭わない」

「カッコいいのね。まるで私のなりたかった軍人像そのものだわ。羨ましい」

「俺はあんたのことを何一つ理解なんてしちゃいない。しようとも思わない。だがな、俺がいる限り、あんたのその右手の銃の弾は、決してエルシーには当てさせない」

ジーンは銃口をメグに向けた。メグにも恐らく『見え』ているだろうが、彼女は一切動じる素振りは見せなかった。彼女もまた、ジーンと同じく、優秀な軍人だったのだ。

「一つだけ聞かせろ。キャロライン・ルチェ軍曹を買ったのは、あんたか?」

「ええ、そうよ。テロ組織と手を組んだ時についでに、ね。彼女、『能力』の開花もまだだったから、向こうも持て余していたみたい。安く売ってくれたわ。少しでも役に立つかと思っていたのだけど、結局失敗に終わってしまった」

ジーンの中での違和感がやっと解消された。昨日レストランで彼女が起こしたエルシーへの襲撃は、テロ組織が命じたとは思えない稚拙さであった。

「キャロル……?どういうこと?」

昨日の事件の詳細を知らされていないエルシーが動揺した声を出す。

「あら、知らされてなかったの?可哀想なエルシー。二度も仲間だと思っていた人間に殺されかけたのよ、あなたは。……ああ、今も含めた三度かしら?」

メグはそう言いながらエルシーを嘲笑った。


「無駄話はそこまでだ。あんたを撃つ。お別れだ」


ジーンはメグに向けた銃の引き金に指を掛けた。迷いがないわけではなかった。しかし、ジーンは軍人であり、今はエルシーを守る立場であった。これ以上話の通じない敵に時間を費やすわけにはいかない。

エルシーが一層強くジーンの軍服の裾を握った。それを合図にして、ジーンは引き金を引いた。


発砲音の後に、カツーン、という、とても人に当たったとは思えない音が響いた。


メグを庇うようにして、剣を構えた軍人がそこに佇んでいる。どうやら彼女のその剣に、銃弾は弾かれてしまったようだ。

その長い赤毛に見覚えがあった。彼女はゆっくりと顔を上げ、ジーンの目を見た。


「カレン……」


メグを庇ったのはカレンだった。彼女はジーンの瞳を暫く見据えると、にっこりと微笑んだ。

「ごめんなさいね?命令だから」

誰の、という問いを発する前に、背後に気配を感じて振り返る。


「間一髪、だな。あとほんの少しでも到着が遅れていたら、間に合わなかった。無事で何よりだ、メグ」


男性にしては少し高めの声。父親譲りの短く切り揃えられた黒髪。臙脂色の軍服を身に纏う彼は、紛れもなくメグの双子の兄、クリスであった。

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