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2.マーガレット・イル

駅から家に帰る道を、とぼとぼと歩く。普段だったらタクシーを利用するが、今日は歩きたい気分だった。

すっかり冷え込んだ夜の澄んだ空気が気持ちいい。メグにとって、家に帰る道のりは極力一人で過ごしたいプライベートな時間だった。こんなこと、家の人間に言ったら顔を真っ赤にして怒られるだろうけれど。


「メグ」


突然聞こえた声に振り向くと、いつの間にか横の車道に黒い車が停まっていた。後部座席の窓が開いて、よく知る人物が顔を出した。

「クリス……」

「なんで一人で歩いてるんだ?」

「別に、意味なんてないわ。そんな気分だっただけ」

「年頃の女性が夜道を一人で歩くのは感心しないな」

そんな常套句を浴びせる双子の兄のことを、ひどく鬱陶しく思うことがある。思えば、彼が出張から帰ってきてかなり経つが、まともに言葉を交わしていなかった。

運転席には彼の補佐官の女性が見える。彼女はメグに軽く頭を下げるだけで、もちろん会話の中には入ってこない。

「乗って行けよ」

メグが予想した言葉を、そのまま彼は口にした。そう言うと思った、と声にならない声は秋の夜風に乗って消えてしまった。

「遠慮するわ」

「行き先は同じだろう」

「ええ。でも、可愛いお嬢さんとの楽しい時間を邪魔するのは気が引けるの」

そう言って運転席の彼女を一瞥するが、全く動じている様子はない。お嬢さん、などと言ってしまったが、年上に見える。失礼だっただろうか。

「彼女は補佐官だ」

「業務時間中はね」

嫌味を吐き捨てて、メグは歩き出そうと足を動かした。しかし、それはいつの間にか外に出ていた彼の腕によって阻まれた。


「わかったよ。……カレン、ここまででいい。ありがとう」


運転席の彼女にそう告げると、彼女は一礼して去っていった。取り残されたメグとクリスは車が見えなくなるのをぼーっと見つめていた。

「馬鹿じゃないの」

メグはクリスに掴まれた腕を乱暴に振り払った。

「世界中のどの女性よりも、メグの方が大事だって、俺はかねてから言っているつもりだったけど」

「行動が伴ってないわよ、バカ兄貴」

女癖の悪い兄にはとうの昔に呆れ果てていた。それなのに彼は往生際悪く、メグのことが一番だとかのたまうのだ。

「エルシーに聞いたわ。また面倒なことになったって」

「あれは向こうの勝手な勘違いだ」

「たとえそうだとしても、イル伯爵家の息子のすることじゃないわよ。どれだけ悪名広めれば気が済むのよ」

「心外だな」

久々に顔を合わせて喋るというのに、口をついて出るのは文句ばかりだった。

「エルシーといえば、エルウィーナ大佐の部署に異動になったんだろ?あそこには俺が入隊した当初の先輩が、」

「スズキ大尉なら、クリスのことあまりよく思ってなさそうだったけど」

「俺、別に嫌われるようなこと何もしてないんだけど」

「どうだか」

クリスの何もしていない、は全くもって信用ならないというのは分かりきっていた。

「ただあの人、だいぶ癖が強いからなぁ。エルシー、気後れしないといいんだが」

メグは射撃場で偶然出くわしたジーンのことを思い出す。気難しそうな顔をしている彼の後ろに、小柄なエルシーがぴったりとくっ付いていた。なんだか微笑ましいサイズ感だった。


そんな従妹の近況の話に、華を咲かせている時だった。


ピリッ、とした空気がメグとクリスの肌を掠めた。

二人はほぼ同時にそれを感じ、目を見合わせる。何かが、いる。


「『見える』か?こっちはまだハッキリとした音は『聞こえ』ない。雑音が多すぎる」


夜の閑静な住宅街とは言え、まだ日が変わるまでだいぶ時間がある。周囲には住民たちも出歩いているし、灯りもある。そんな中で音を特定することはできなかった。

「探してる。前方よね?大体の位置でも分かれば楽なんだけど……」

そう言いながら、メグは目を見開いて辺りを見回した。


「……『見つけ』た」


メグの視線が、前方斜め右に固定された。

「一キロと二百メートル先。一人よ。性別はわからない」

「見た目は?」

「たぶん、黒ずくめ。夜に紛れてはっきりとは『見え』ない。こちらを睨んでるけど、多分向こうから私たちはまだ見えてないわ。引き返すなら今よ」

これから進む道はどんどん人通りが減っていく。駅の方まで引き返せば店もあるし人もいる。

「メグ、今の装備は?」

「銃と護身用のナイフだけ。相手は一人、仲間は『見え』ないけど……」

「俺もそれしか持っていない。こんなことなら、無理やりにでもお前を車に乗せて帰るんだったな」

「何それ、私のせい?」

この緊張感を紛らわすかのように、二人は軽くふざけながら言い合いをした。

「で、どうするの?」

メグはクリスの瞳をジッと見つめた。

クリスは何も言わず、メグの手を取った。そして、先ほどまでの進行方向とは逆の方向へと走り出した。


「撤退だ。得体の知れない相手に、俺たちの『能力』は些か分が悪い」


これが父上だったら一捻りなんだろうな、とクリスの笑う声が聞こえた。



***



「なるべく一人で行動するな」

と、メグとクリスからお達しが来たのは、キンバリー王女の成人の儀で起こった事件がそろそろ過去のことになりかけた頃だった。

「イル伯爵家の双子にまで魔の手が及ぶなんて、随分と範囲が広くないかしら?」

「……」

「エルシー?どうかした?」

「……ううん、なんでもない」

キャロルの疑問はもっともであったが、エルシーはそれに上手く答えることができなかった。

「あたしたちには想像もつかない世界だ」

キャロルは自嘲の笑みを浮かべて呟いた。

「でも、私を狙ったり、おねーちゃんたちを狙ったり……よくわからないや。いくら私たちを狙ったところで、何かを変えられるとも思えないのに」

「あの規模のテロで何かを変えようなんて考えてないんじゃない?たぶん、民衆の不満を煽ろうとしてるのよ」

キャロルは冷静にそう言った。それを聞いたエルシーは、何かを考えるように、しばらく下を向きながら目を瞑った。

「ねえキャロル。今から私変なこと聞くけど、素直に答えて欲しい」

「?」

エルシーがゆっくり顔を上げてキャロルの目を見つめた。


「平和ボケしてる今の首都の民衆が、得体の知れないテロ組織なんかに加担すると……ううん、そもそも『戦力』になると思う?」


キャロルは一瞬真顔になったが、すぐに困ったような笑顔を浮かべた。そして首を『横に』振ったのだった。

「それはまた、随分と達観した考え方だね、エルシー」

「パットさん」

自分のデスクで別の仕事をしていたパットが話に加わった。

「でも、みんな心では思ってるんじゃないかな、って。あんなテロを起こしたくらいで、この国はそんなに簡単には覆らない。確かに年々貧富の格差は広がってるし、民衆の一部は不満も持っているかもしれない。けれど、結局国を覆すほどの力を持っているのはある程度の身分を持つものだけで……その人たちにはデモに加担するメリットなんてないもの」

エルシーの意見はもっともであった。現状力を持っているのは軍の上層部や貴族であり、彼らが生活に困ることはない。もし仮に軍上層部の中に政権の乗っ取りを考えている人物がいたとしても、もっと賢いやり方で進めるはずだ。彼らにはそれだけの力がある。


「……平和ボケしているのはどっちだか」


今までその話を静聴していたジーンが口を開いた。

「……どういう、意味ですか?」

エルシーはムッとした顔で聞き返す。

「平和ボケしているのは伍長、お前の方だ」

「だから、それは一体……」

「はいはい、二人とも。言い合いしない」

不穏な空気になりつつあった二人の間に、キャロルが割って入る。

「確かに、エルシーの意見は正しいけど……ちょっと主観が入りすぎてるよね。貴族はさておき、軍上層部に限った話だとしても、低い身分から実力でのし上がった将校だって存在してるし。身内を疑うのはよくないけど、そういう人たちが先導してる可能性もあるじゃない?……まあ、私はそんなことはないって思いたいけどね」

最後の一言は独り言のような小さな呟きだった。そして言い終わると、キャロルは書類の束を持って立ち上がった。

「一二一部署に書類持ってくけど、他に誰かいる?ついでに持ってくわよ」

他の三人が首を横に振るのを確認して、キャロルは執務室を出て行った。

扉が閉まるのを確認してから、パットが困ったように笑いながら溜息をついた。

「新人の君にこんな配慮を求めるべきではないんだろうけど、」

「へ?」

「キャロルは東部のスラム街の出身なんだよ。碧色の目をしているだろう?だからあまり、身分的な話はしないであげて欲しい。せっかく君たちは相性も良くて仲良くなれそうなんだし、つまらないことで溝ができてしまってはもったいないからね」

「えっ……あっ……」

エルシーは驚いて言葉に詰まる。先ほどの失言を悔いているのがわかった。

「ジーンも、君なりに思うところがあるのはわかるけど。エルシーにキツく当たるのはやめてあげなよ」

「……」

ジーンは無言で応えた。



***



「警備任務?軍隊記念日のですか?」

午後にフレディから言い渡された任務は久々の外回りであった。

「なんでも、先のテロの影響で警備を強化するらしくてな。急な決定だったから、暇な部署を総動員するそうだ」

スキンヘッドの頭を掻きながら、フレディがため息をついた。彼はその風貌に似合わず、デスクワーク以外の仕事にあまり乗り気ではない。

「あのテロがあったから、王侯貴族様の来賓はなし。……とは言っても、近衛師団団長のヒューバート・ギルバート大将をを始めとした軍関係者の貴族は出席しないわけにはいかないから、完全にゼロというわけではないんだけどね」

パットが丁寧に説明をする。

「まあ、将軍様ともなれば自分の身は自分で守れるわよね」

キャロルは能天気にそう口にした。

将校というのは『能力』のエキスパートの集まりでもある。

それに加え、彼らを護衛する補佐官たちの実力もかなりのもので、普通なら近づくことすら容易ではない。

「で、どうする?エルシー」

「え?」

フレディから突然名指しされ、エルシーは思わず変な声をあげた。

「お前が決めろ。行くか行かないか」

「わたしが、ですか?」

エルシーは先のテロで狙われた張本人である。奇跡的にほぼ無傷であったが、一歩間違えば殺されていたかもしれなかった。

「軍隊記念日、ってことは会場である中央広場以外の警備は普段よりも手薄になるってことだからね。なにせ、首都の精鋭たちがみんな集まるんだから。もちろん、この首都軍本部も例外ではなく」

パットの言うことはもっともであった。どちらをとっても、決して安全ではない。

「まあ、もし参加するんだったら、僕たちは全力でエルシーを護るよ。可愛い部下を危険に晒すようなことは絶対にしない。ね、ジーン?」

パットはにっこりと笑いながらジーンの方を見た。それまで他人事のように窓の外を眺めていたジーンが、突然名前を呼ばれて小さく動揺した。

「……俺は、大佐の命令に従うだけだ」

嫌、とは言えなかった。軍人なら自分の身くらい自分で守るのは当然であったが、エルシーを始めとした王侯貴族でもある兵士に、その常識は通用しないのだ。


「まあ、もしここに残る方を選んでも、ジーンを護衛につけるけど」


パットはその笑みを崩さず、そう告げた。

「……はぁ!?」

滅多に大声を出さないジーンが声を張り上げた。そんな面倒ごと、真っ平御免である。

「仕方ないだろう、キャロルと僕は『能力』が使えない。大佐を除いて、この中で一番強いのはジーン、君なんだから」

パットのその言い分には確かに説得力があった。ジーン以外に要人を護衛できそうな人間はここにはいない。窓際部署なのだから、当たり前と言えば当たり前である。

「えっと……その……」

エルシーが申し訳なさそうにこちらを見る。このパットの言い方からすると、彼女がどういう選択をしようが、結局ジーンが側に付くことになるのだろう。

「……好きにしろ」

ジーンは疲れ切った声でそう言った。



***



翌朝、いつものように一番乗りで執務室の鍵を開け、コーヒーをいれて本を読んでいると、部屋の扉が遠慮がちに開かれた。

「……おはようございます」

相変わらずボサボサの頭と皺だらけの制服を着たエルシーが、ジーンの顔色を窺いながら挨拶の言葉を口にした。

「……早いな」

まだ始業時間まで30分以上ある。エルシーは遅刻魔キャロルと違い、時間をしっかり守る人物であったが、こんなに早く出勤するのは珍しい。

「大尉に、謝罪とお礼をしようと思いまして」

エルシーは荷物を自分の机の上に置き、ジーンが座る椅子の横に立った。

「昨日は申し訳ありませんでした。上官に対してあのような失礼な物言いをしてしまったこと、深く反省しております。そして、軍隊記念日の件では私の選択を尊重していただき、ありがとうございました。当日もご迷惑をお掛けしないよう、心がけて行動いたします」

エルシーは深々と頭を下げた。そのシルエットはだらしのない身なりとは裏腹に、とても美しかった。その一つ一つの所作が、彼女が紛れもなく育ちの良いお嬢様であることを証明している。

「顔を上げろ」

ここまで素直に言われてしまったら、毒を吐く気にもならない。何より、自分がそうさせているようで気分が悪かった。

「そうまでして、軍にこだわる理由はなんだ。退役して家に戻るのが一番安全で賢い選択だと思うがな」

エルシーが彼女の両親のように才能に恵まれているのなら話は別だったが、彼女には今のところその影は見えない。そんな彼女が軍に執着する理由が、ジーンにはわからなかった。

「士官学校を卒業して三年間は勤め上げなければならないという決まりがあります」

「そんなもの、違約金を払えば済む話だろう」

この国では士官学校の授業料は無料だ。その代わり、卒業後三年間は従軍を義務付けられるのである。

もちろん、怪我を始めとしたやむを得ない理由で三年経たずに退役する例も多くある。職務中に負った怪我、いわゆる労災以外の理由で退役する場合は、違約金という名で士官学校の授業料を払うことになる。

「軍人であることにこだわる割に、職務そのものにこだわりはないように見える。昨日の口ぶりだと、今の実質的軍事政権に賛同しているわけでもなさそうだしな」

エルシーは真面目であったが、決して職務そのものに積極的な方ではなかった。

事務仕事の処理能力は人一倍あるものの、あくまで与えられた仕事以外でその手の早さは生かそうとしない。

銃の扱いは相変わらず危なっかしいが、だからと言って訓練を怠けることもない。頭は良いのか、状況分析にも長けていた。

しかし、それは決して自主的な行動には伴わないのである。

「……笑わないで聞いてくださいますか?」

エルシーは薄く口元に笑みを浮かべる。それは自身を嘲笑うような、自虐的な笑みだった。


「これ以上、両親の顔に泥を塗ることはできないんです」


それはジーンが初めて直接エルシーから聞いたコンプレックスであった。

「立派な家柄のもと優秀な両親の間に生まれながらも、才能がなく落ちこぼれの私が……三年どころか一年で辞めるだなんて。そんな不名誉は許されないんです」

パットの話によれば、エルシーは士官学校全課程終了後の卒業試験に三度落ちており、同期の中でも遅いスタートを切ったと聞いている。同じく才能に恵まれなかった同期のキャロルでも、二度目で合格したと本人がいつだか話していた。

「幸い、実戦以外の面で人に劣っているとは思いません。事務仕事ならまだ役に立てますし。本当の本当に無能だったら、さすがに辞めてます」

客観的に自分を見ることができている、と言えば聞こえは良かったが、その言葉はお世辞にも前向きなものには聞こえなかった。

ジーンはそんなエルシーの卑屈さを薄々感じ取っていた。どうやらそれは当たっていたようだ。


「お前、友達いないだろ」


口をついて出たのは、いくら後輩相手とはいえ失礼極まりない台詞であった。

「それ、答えなきゃ駄目ですか」

先ほどまで薄く笑みを浮かべていたエルシーの顔が引きつった。答えるのを渋っていたが、その顔を見ればわざわざ聞くまでもなかった。

「奇遇だな」

「何がですか」

「俺もだ」

「……もしかして、慰めてます?」

「そう思うなら、そうなんだろう」

別に慰めているつもりはなかった。ただ、普段からあまり感情の起伏を顔に出さないエルシーの表情がころころ変わるのが、妙に面白かった。

「……別に、いいんです。私にはおねーちゃんとおにーちゃんがいれば」

「あの双子か。兄はさておき、妹はお前と同じ臭いがするな」

「その通りです。まあ、タイプは違いますけどね」

メグはエルシーと違ってとても意識の高い士官であったが、その意識の高さが逆に人を寄せ付けないオーラを放っていた。

「……少し、驚きました」

「何がだ?」

「大尉がこんなに喋る人だとは思っていませんでした。というか、私、嫌われてると思ってました」

「別に好意も持っていないがな。だが、まあ、軍曹よりは仕事ができるようだから、特に不満もない」

事実、遅刻魔でサボリ魔のキャロルより、エルシーは遥かに仕事をこなしていた。

エルシーはジーンの言葉に安堵の表情を浮かべる。軽く一礼すると、自分の分のコーヒーを淹れにいった。

ジーンも机の上に置いてあった本を再びに手に取り、読みかけのページを開いた。それとほぼ同時に、コーヒーのカップを持ったエルシーが自身の席に座る。

本を読むジーンの視界の端に、黒いケースから楽器を取り出すエルシーが映り込む。彼女は机の上で楽器の手入れを始めた。


「コルネット、か」


ジーンがぼそりと呟くと、エルシーは驚いたように勢いよく顔を上げた。

「ご存知なんですか?」

「……本で見た」

「そうなんですか。よくトランペットと間違えられるんで、わかってもらえて嬉しいです。おねーちゃんなんて、ラッパ、ラッパってうるさいんですよ」

エルシーが食い気味にまくし立てながら言葉を紡ぐ。先ほどまでのやる気のなさそうな顔は一体どこへ行ったのか、実に生き生きとしていた。

「音楽隊の入隊試験に合格したときは、本当に嬉しかったです。この国で一番の名門なので。あそこでの実力は中の下くらいでしたけど、周りにたくさん上手い人がいて、すごくいい刺激になりました」

そう話すエルシーは楽しそうな反面、どこか寂しげであった。ジーンはそんなエルシーの話をじっと聞いていた。

「って、どうでもいいですよね。すみません、読書の邪魔してしまって」

エルシーは苦笑いを浮かべながら、コルネットを磨く。ベルのところに、小さいがはっきりとしたキズが見えた。

「戻らないのか」

ジーンの何気ないその台詞に、エルシーはいつもの薄く笑みを浮かべた自虐的な顔になる。


「無理ですよ」


短いが、はっきりと、エルシーは言い切った。



***



「信じられない!」


軍隊記念日当日、早朝の打ち合わせで顔を合わせたメグの開口一番はそれだった。

「おねーちゃん、」

「勤務中はそれ禁止って何度言えばわかるのよ」

メグは傍から見ても明らかに機嫌が悪かった。よりにもよって、メグの部署がこの軍隊記念日の警備統括であった。

「とにかく。公私混同がどうとか、今は関係ないですよね?マーガレット・ヴィー・イル伯爵令嬢として、フレデリック・エルウィーナ大佐に命じます。もしエルシー……アリソン・ラルフ・ハイピスリタ・ユレ殿下の身に何かあれば、わかっていますね?」

メグの物言いは上官に対するそれではなかった。しかし、周囲の誰もそれを咎めることはない。

「もちろん、全責任は私が負います。彼女にはうちのユージン・スズキ大尉を護衛に。彼の銃の腕は確かですし、もちろん『能力者』でもある」

フレディはメグの命令にも動じず、はっきりとそう答えた。そして、メグの怒りの矛先はジーンに向けられる。

「テロ集団相手に、エルシーに傷一つでも負わせてみなさい」

「……」

メグの怒りに満ちた瞳がジーンに向けられた。ジーンはその瞳を黙って見据えた。

「もう、おねーちゃんやめてってば!」

「エルシーは黙ってて!あとおねーちゃん禁止!」

「おねーちゃんこそ、勤務中なのにこんなの恥ずかしいと思わないの?」

「恥ずかしい?何が?」

ジーンを睨むメグの間にエルシーが割って入って言い合いになる。


「私は、この栄光の首都軍が、王家の人間をこんな危険な場所に放り込んでいるこの状況の方が、恥ずかしくてたまらないわ」


メグの言葉に、反論できるものは一人もいなかった。



***



「ひえー、おっかない。おっかない」

待機場所に戻って第一声を発したのはキャロルだった。彼女は先ほどの騒動を、フレディの大きな背中に隠れながら傍観していた。

「すごく強烈な人なのね、イル中尉って。めっちゃ意識高そうだし」

「まあ、それは否定できないね……」

その意識の高さが逆に浮くくらい、メグは真面目な人間であった。しかし、彼女が言うことは常に正論であり、誰もそれに反論できるものはいない。それがより一層、彼女を孤立させていた。

「愛されてるね、エルシーは」

他人事なのをいいことにパットはいつものごとく、にこにこと笑いながらそう言った。

「愛されてる、というより、お互い依存してるだけですけどね。私とあの双子は、今まで他に分かり合える相手がいなかったので」

人数分のコーヒーをいれながら、エルシーは苦笑いを浮かべる。

「申し訳ありません、大尉。気分を害されたのなら、私がイル中尉の代わりに謝罪します」

コーヒーを手渡しながら、エルシーはジーンに頭を下げた。

「お前に謝られても仕方ない」

「そう……ですよね」

腹が立たなかったわけではないが、それは決してエルシーのせいではない。

自分は上司であるフレディの決定に従う。エルシーもまた、上司であるフレディに認められた上で今この場にいる。それを今更どうこう言うつもりはなかった。

「だが、あそこまで言われるとさすがに癪だ」

「すみません、いえ、本当に申し訳ないです。身内がご迷惑をおかけしまして」

不機嫌そうに眉を顰めるジーンに、エルシーは平謝りするしかなかった。

「だからお前に謝られても仕方ない、と言っている」

「……はい」

そんなジーンとエルシーの様子を、キャロルが笑いを堪えながら傍観しているのが視界の端に映ったので、横目で睨みつける。

「とにかく。今日の俺は軍隊記念日の警備担当であると同時に、お前の護衛だ。片時も側を離れるなよ。わかったな?」

「は、はい!ご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします」

エルシーがジーンに美しい敬礼をする。相変わらず髪の毛はボサボサであったため、全く決まってはいなかった。



***



軍隊記念日と堅苦しい名前が付いているが、実態は軍主催の縁日のようなものであった。

午前中は軍幹部たちの演説や功労賞の授与式などが公園の中心のステージで行われるが、それ以外の場所では屋台が立ち並んで食べ物や雑貨が売られている。それを運営しているのもまた軍の関係者たちだ。

一般人ももちろん出入り可能であり、首都の真ん中で行われる縁日となれば大勢の人が訪れる。


「あんなテロがあったのに、人はこんなにも集まるんですね」


ジーンとエルシーは案内所担当であった。一般人に会場の案内図を渡したり、迷子を預かったりする部署である。

「狙われたのは王族だからな。一般人には実感がないんだろ」

当初は減少を見込まれていた来場者数も、例年とほとんど変わりなかった。しかし、警備は普段の倍の数を配置しており、会場は異様な雰囲気を放っている。


「お、やってるやってる」


軍服の上着を脱いだシャツ姿の男性がテントの中に入ってきた。恐らく休憩中の軍人だろう。

「ブラッドベリー少尉!ご無沙汰しています!」

隣に座っていたエルシーが反射的に立ち上がって敬礼する。どうやら知り合いのようだ。

「久しぶり。元気そうで何よりだよ。まあ、君はあの程度のことを気にするほど繊細じゃないか」

「相変わらず一言多いですね」

エルシーは憎まれ口を叩きながらも、活き活きとした顔でブラッドベリーと呼ばれた人物と話している。

「休憩は何時?」

「えっと、確か正午から……ですよね?」

エルシーがジーンに確認するように顔を向けた。ジーンは無言で頷く。

「そうか、じゃあちょうどいい。中央広場のステージで、音楽隊の演奏が十二時半からあるんだ。そちらの大尉殿と一緒にどうかな?」

「えっと……私はいいですけど、」

エルシーはジーンに判断をしてもらおうと視線を向ける。二人は一緒に行動することが義務付けられているため、エルシーの独断では決められない。

「……わかった」

ジーンはそう短く答えた。

本来ならあまり人が多いところへ行くことは好ましくないが、ただでさえ窮屈な思いをさせているエルシーのことを考えたら無碍にはできなかった。

どのみち、どこへ行っても二人一緒なのだ。この公園内なら危険度は変わらないだろう。

「うちの音楽隊の演奏技術はこの国一ですからね、ガッカリさせることはないと思います。楽しみにしていてください」

ブラッドベリーがジーンにそう笑いかけた。



***



「あ、おねーちゃんだ……」

休憩に入ったジーンとエルシーが中央広場に向かうと、そこには既に待機している音楽隊と、その脇に椅子を並べて座っている軍上層部の人間が見えた。それを警備している軍人の中に、メグの姿があった。

「お前の両親もいるだろ」

「あー……そうですね。当たり前すぎて気にしていませんでした」

先ほどジーンが買い与えたホットドッグを頬張りながら、エルシーは曖昧に笑った。

「おねーちゃんの部署が、警備の統括だったんですよね。中央広場の警備なんて、すごいなぁ」

「なんだかんだで一番安全なのがここだからな。人が多いのは難点だが、あそこに並んでいるのは実力者揃いだ。僅かながら身の危険があるイル中尉が配属されるのもわかる」

ジーンが冷静にそう言うと、エルシーが冷ややかな目でこちらを見ていることに気づく。

「……なんだ」

「なんでこう、わざわざ私がおねーちゃんをたてた後に、そうやって水を差すようなことを言うんですかね」

「事実を言ったまでだ」

「……私が言える立場じゃないですけど、大尉に友だちがいない理由がわかった気がします」

友人がいないのはお互い様だろう、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。そんなことを言ったら、またこうやってぐちぐちと文句を言われるのが目に見えていた。

「ブラッドベリー少尉、とか言ったか」

「はい。首都軍音楽隊コルネットの若きエースで、色々とお世話になった先輩なんです」

どうにもエルシーはコルネット関係のことになると、声のトーンが一段上がる気がする。それほど彼女にとってコルネットが重要であるということは、想像に難くない。

「あの、大尉。私のワガママに付き合って頂いてありがとうございます」

「別に。どうせ何処にいても危険なんだ。ここなら、はぐれさえしなければ他よりは安全だしな」

嘘は言っていない。前述したように、中央広場はこの公園内で一番警備が強化されているエリアである。また、音楽隊の脇に座っているエルシーの両親を始めとした軍上層部の人間も、護衛など要らないほどの手練れ揃いである。

「始まるぞ」

指揮者が位置について、客に向かって礼をする。大勢の民衆からの拍手を浴び、指揮者は演奏者の方へと向きを変える。

ジーンとエルシーは一番前ではないものの、演奏者の顔が把握できるくらいの位置に陣取っていた。あまり後列だと、小柄なエルシーが埋もれてしまうのだ。


華々しい金管楽器の音色が響く。


短いファンファーレの後、曲が始まる。コンサートマーチである。一曲目を飾るのに相応しい煌びやかで明るいその曲は、軽快な二拍子のリズムを刻みながら一定のテンポで音を奏でている。首都の音楽隊らしい、正確で教科書のような演奏であった。

耳の肥えていないジーンはそれが果たしていい演奏なのかはあまりよくわからなかったが、隣のエルシーがすっかりそれに魅入られているのに気づき、確かにこれが素晴らしい演奏であると理解した。

曲の中盤、前半までの明るさを保ちつつも優雅な旋律へと曲調が移り変わる。


その時だった。


再び奏でられるファンファーレと共に、周囲に爆音が響いた。爆竹のような音が絶え間なく響き、辺りは一瞬にして喧騒に包まれる。

ジーンは舌打ちをすると、隣りにいたエルシーの腕を引き、抱き締めるようにして自分の腕の中に押し込んだ。

「大尉……!」

「爆発は起きてない。音だけだ」

しかし一般人がそんなことに気を回す余裕などない。ジーンはあえてここに留まる選択をした。

「……怪我はさせない」

ジーンにはその『自信』があった。



***



「ひどい有様だな」

ヒューバートは舞台の横からこの騒動を冷静に眺めていた。

「爆発音はフェイク。しかし混乱を招くには充分すぎますね。……軍関係者までパニックになっていることは遺憾ですが」

隣のルヴィアが溜息をつく。

「イル中尉……いや、メグ」

「あっ、はい!」

ルヴィアが近くで警備にあたっていたメグを呼び寄せると、彼女は駆け足でこちらへやってくる。

「メグ、ここはいい。エルシー……私たちの娘のことを頼む」

「エルシー……いるんですか、ここに」

「『見て』みろ。ステージの近くのあそこだ」

ヒューバートが呆れ顔で指差す。その先をメグが目を凝らすと、はっきりとエルシーがそこにいることがわかった。

「ついでにクリスもいたよ。まあ、あいつは取り巻きがたくさんいるし気にする必要はないが。つまり、関係者勢揃いってやつだ。そりゃ狙われもする」

ルヴィアが長い銀髪をかきあげる。

「一応聞くが、メグ。周りに爆発物は『ない』な?」

「はい。少なくとも私には『見え』ません」

「わかった。頼んだぞ」

ヒューバートがメグの頭に手を置く。

「叔父さまも叔母さまも、どうかご無事で」

メグは美しい敬礼をしてその場を去った。



***



爆発音が鳴り止み、静寂が訪れる。

ジーンはエルシーを解放し、辺りを見渡す。周囲には異様な空気が漂っていた。

音楽隊は避難しており、残っているのは警備の軍人がほとんどだった。ジャケットを脱いだ休憩中の軍人もちらほらと目につく。

「……戻るぞ。長居はよくない」

エルシーの腕を引いて早足で広場を抜ける。もちろんいつでも拳銃を抜けるように細心の注意を払う。

「あの、さっきのって……」

「ハッタリだ」

本当に爆発が起こった形跡はなかった。煙も火薬の臭いもしない。まんまと嵌められたのだ。

中央広場の出入り口には一般人が押しかけ、とてもじゃないが他の場所へ行き来できるような状態ではない。ジーンは溜息をつくと、少し脇道に逸れた。人混みに乗じて襲撃でもされたら、エルシーだけではなく一般市民にまで被害が及びかねない。

「エルシー!スズキ大尉!」

背後から聞いたことのある声に呼びかけられる。

「おねーちゃん……!」

そこには先程までステージの近くで警備に当たっていたメグがいた。どうやらジーンたちを追いかけてきたらしい。

「叔父さまと叔母さまが、あなたたちと一緒に行動するように、って。……ここは人が多いわね。一旦抜けましょう」

メグがそう言って細い道に入る。中央公園はとても大きな公園であり、たくさんの木が植えられている。広場の他にも散歩用の細い道がたくさん整備されていた。

「おい、あまり人気のないところに行くのは」

「大丈夫ですよ。おねーちゃんには『見え』ますから」

不信感を持つジーンに、エルシーがフォローを入れた。

「私の『能力』は人よりも格段に優れた『視力』よ。半径一キロメートルを見渡すことができるわ。場合によってはある程度の透視もね。そっちは本業じゃないから得意とまでは言えないのだけど」

歩きながら、メグがそう説明をした。

「……って、敬語を使うべきだったかしら?ごめんなさい、さすがにちょっと焦っていて」

「構わない。今のお前は伯爵令嬢なんだろ」

「物分かりが良くて助かるわ」

メグはそう言うと、歩みを止めた。

「私の目によると、爆発物は一切確認できない。人が多すぎて、誰が主犯かはさっぱりわからないのが痛いわ。でも、今の私たちの近くに人はいないし、こちらへ向かってくるということは人の流れに逆らうってことだから、こちらに危害を加える人間の早期発見はできる」

「しかし、それも全方位『見え』るわけではないんだろ?」

「察しがいいのね……その通り。死角だらけよ。だから、私は今から騒ぎが収まるまで、向きを変えながら目を凝らす。その間、エルシーのことをお願い」

メグがエルシーの肩に手を置いて、ジーンの方へ押した。ジーンはそれを受け止め、そのまま彼女の手を引いて地面に座らせる。

「おねーちゃん……ありがとう」

「お礼は無事この危機を脱してからね」

メグは一度ウィンクをし、視線を外へ向けた。一定時間で向きを変えて見張る。『能力』を使用するにはある程度の体力と集中力が必要であり、真剣な顔でメグは何もない林を見つめている。

「伍長、銃は所持しているな?」

「はい」

「いざという時に俺に渡せ。お前の腕では心許ないからな」

「わかりました」

もちろんジーンも銃を所持しているが、弾には限りがある。そのための保険だった。


「っ!?」


メグの息を飲むような声にならない声が聞こえた。

「中尉?どうした」

ジーンは自身の拳銃に手をかけながらメグに問いかける。

「おかしいわ……だって確かに……」

「おねーちゃん?」

わなわなと震えているメグに、エルシーが心配そうに声をかける。


すると、再び爆発音が聞こえた。


またハッタリだろう、とあまり気に留めなかったジーンは数秒後、それを後悔した。広場の方から煙が上がったのだ。

一般市民のものだと思われる驚きの声や叫び声が遠くから聞こえた。

「おい、爆発物はなかったんじゃないのか」

「なかったわ……いえ、今も『見え』ない」

「それってどういう、」

エルシーが尋ねようと声を出したが、それは爆発音に遮られる。先程よりも近くに聞こえる。

「『能力』、か」

ジーンがそう呟くのとほぼ同時に、今度はさらに近いところで音が鳴った。

「近づいてきてるぞ。お前の索敵はどうなってる」

「探してるわよ!でも『見え』ない!どこにいるかわからないの!」

苛立つジーンとメグが言い合いをするが、敵が発見できないため手を打つこともできない。


「『見え』た……!五百メートル先、男よ!走り出したわ!」


メグのその言葉を聞いてジーンは立ち上がってエルシーの腕を掴んだ。

「走るぞ!」

「えっ、あっ……」

エルシーは言われるがまま、立ち上がってジーンの後を追った。男女の差もあってエルシーがジーンに引っ張られるような形になった。

「あの!おねーちゃんは……!」

「お前は今、自分の心配だけしてろ。広場に出るぞ」

メグのことが心配なのは理解できる。しかし、あくまでジーンが護衛しなければならないのはエルシーであり、メグも恐らくそれを理解していた。

「あいつだって『能力者』だし尉官だ。自分の身くらい自分で守れる」

深い意味はなかった。しかし、広場に出て一息つきながら振り返ると、沈んだ顔をしているエルシーがそこにはいた。

「すみません……私が自分の身を守れないばっかりに。こんな迷惑かけて」

落ち込むエルシーを見たジーンは、大きく溜息をついた。

「あのな、確かにお前は軍人としての力は乏しいかもしれない。だが、少なくともそこらで逃げ惑っている一般人よりはずっとマシだ。だからそれくらいは胸を張れ。栄光の首都軍、ラルフ伍長」

人を褒めることは得意ではなかった。だが、今こんなところで戦意喪失されてしまったら面倒である。何より、嘘は言っていない。


「ラルフ伍長」


広場の隅で説教をしていると、背後から声がした。聞き覚えがある、男性の声だった。

「ブラッドベリー少尉!ご無事で何よりです!」

先ほどまでステージにて音楽隊の演奏をしていたブラッドベリーがそこにいた。

「よかった、ラルフ伍長をここに呼んだのは僕だったからね。何かあったら示しがつかないところだった」

「いえ、そんなこと……気にしないでください」

エルシーがブラッドベリーに近づこうとしたその時、彼の右手が腰に装着されていた拳銃に伸びていることにジーンは気付いた。


「伍長!下がれ!」


「へ?」

間の抜けた声を出すエルシーの腕を引き、乱暴に後ろへ放り投げる。どすん、と鈍い音で彼女が尻餅をついたのがわかる。

「イル中尉はどうした」

「……随分と察しが良いんですね」

ブラッドベリーは薄く笑みを浮かべると、指を鳴らした。すると、先ほどジーンたちが出てきた林の中から、二人の男性が現れた。

「おねーちゃん!」

男性に捕らえられているのは紛れもなくメグであった。意識を失い、顔には殴られたような痕もある。

「大尉殿の判断力は確かなものです。ただ、少し選択を誤った。無理もない、恐らく何も知らなかったのだから」

「どういう意味だ」

「マーガレット・ヴィー・イル中尉を置いて逃げたことですよ。彼女のことをただの伯爵令嬢と勘違いしていたのでしょうが」

ジーンがメグを置いて逃げたのは、敵がエルシーを狙っているという確信のもとであった。

「この伯爵令嬢だって充分人質としての価値があるということですよ。……まあ、ラルフ伍長が手に入ればお役御免ですがね」

そう言いながら、ブラッドベリーはメグのもとへ歩み寄る。そして、意識のない彼女の顔面を手のひらで掴んで見せる。

「どのみち、この『目』は少し厄介だ。潰しておくに越したことはない。人質なら傷付けられないが、伍長が手に入るならもう構わないだろう」

ブラッドベリーは再び薄く笑みを浮かべた。

「おい、お前何を……」

先ほどのハッタリではない謎の爆発を思い出した。今からこの男が何をするのか、考えただけで血の気が引いた。

「さん、に、いち、」

ジーンは咄嗟に後ろで座り込んでいたエルシーに覆い被さるようにして彼女を庇った。


「どーん」


気の抜けるような掛け声とともに、小さな乾いた爆発音が響いた。

思ったよりも規模が小さかった爆発に、数秒遅れてジーンが首を回して振り向くと、そこには顔から血を流して崩れ落ちるメグの姿があった。

「う……あ……!」

自分の身に何が起こったのか理解した彼女が意識を取り戻し、痛みに呻く。

「おねーちゃん……?」

ジーンの腕の中でエルシーが震えた声で呼ぶ。今彼女にこの光景を見せるわけにはいかないと判断したジーンは、彼女を抱き締める腕を緩めなかった。

「さて、退いて頂こうか大尉殿。僕たちにはラルフ伍長、いや、アリソン殿下が必要なんだ」

ジーンたちを見下ろすブラッドベリーの目はひどく冷たかった。

「『爆発』か……物騒な能力だな」

「火薬も何もいらない。そこに空気があれば僕は『爆発』を起こすことができる。範囲には限りがあるけれど、大尉殿一人を殺すことくらいは簡単だ」

そう言いながら、ブラッドベリーはジーンに右手をかざした。

「最後の忠告だ。そこを退け、ユージン・スズキ」

「……断る」

「そうか、なら、」

さん、に、いち。


「どーん」


掛け声とともに、先ほどよりも大きな爆発音が響いた。

「なに……?」

確かに爆発音はした。そして、煙と火薬の臭いもする。しかし、ジーンには一切の傷がなかった。

「なるほど、それが大尉殿の『能力』か……」

何かを察したように、ブラッドベリーが笑った。そして、間髪入れずに太腿のホルダーから拳銃を取り出して銃口をこちらへ向けた。

「それじゃあ、これはどうかな?」

「……」

ジーンは何も答えなかった。

「図星みたいだね。あくまで『無効化』できるのは『能力』だけか」

ジーンは腕の中にいたエルシーを解放し、耳元に口を近づけて囁いた。

「逃げろ。中央に向かって走れ。助けを求めるんだ」

「……で、でも」

エルシーがちらりと目線を横にやった。そこには倒れているメグがいた。

今にも零れ落ちそうなほどの涙を目にためて、エルシーは震えている。

「いいから行け!死にたいのか!」

動こうとしないエルシーに語気を強めて促すが、すっかり腰が抜けているようで立ち上がれそうになかった。

ジーンは小さく舌打ちをすると、自身も太腿のホルダーから拳銃を取り出してブラッドベリーに向き合った。

「往生際が悪い。死んでもらおう」

ブラッドベリーがそう言ってトリガーに指をかけた。その時だった。


「いやああああああああああ!!!」


発砲音とほとんど同時に、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。



***



「中佐?どうされました?」

あの騒動が起こった時、たまたま広場にいたクリスは、やっとの思いで広場を抜け出したところだった。

「いや……今、どこかで聞いたことのある声が『聞こえ』た気がしてね」

クリスは広場の方を振り返る。出入り口は人の波でごった返しており、声の主はもちろん確認できなかった。

「なあ、カレン」

「なんでしょうか?」

「今俺が戻りたい、って言ったら止めるか?止めるよなぁ」

「もちろんです」

間髪入れずにカレンが答えた。彼女は顔色一つ変えない。

「私はただの部下ではありません。あなたの犬です。主人を守るために、手を噛むのも仕事ですから」

「そりゃ頼もしい。カレンに噛まれたら、一ヶ月は包帯が取れなさそうだ」

ジョークではなかった。実際クリスの副官であるカレンにはそれだけの実力があった。

「杞憂であってくれると、いいんだがな……」

クリスはそう呟いて、その場を去った。

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