1.ユージン・スズキ
『氷柱姫、再び』
センスのないキャッチコピーと共に載せられた写真は、そのセンスのなさを一瞬で吹き飛ばしてしまうほど美しかった。
キンバリー王女の成人の儀の騒動は、鎮静化してすぐに号外記事となって各社がばら撒いた。書いてあることは様々であったが、一面を飾る写真はどれも同じ人物のものであった。
白黒写真では判別しにくいが、小柄な身体に銀髪蒼眼、豪奢なドレスを纏いながら、右手には向こうの景色が透けて見える氷の剣を持った妙齢の女性と言えば、このユリーレ王国には一人しかいなかった。
『 氷柱姫・ルヴィア』
その二つ名と共に、彼女の名は三十年ほど前からこの国に轟き続けている。
その名の通り、彼女は『氷』を操る『能力』を持っていた。既に最前線からは退いているものの、未だに軍の幹部として在籍し続け、多くの兵士たちの尊敬の的であった。
結局、あのテロの主犯は今も不明のままである。多くの実行犯が軍の手によって取り押さえられたものの、頭が見つかっていない。
考えたくはないが、軍の警戒も一際厳しかったあの場で、あそこまで大きなテロをスムーズに行えるのだから、列席者の中に内通者がいると考えるのが普通である。しかし、いくら洗っても出てこない。
あの場を沈静化させた『氷柱姫・ルヴィア』が優秀な『能力者』であるように、テロを起こしたのもまた、優秀な『能力者』である可能性も大いにあった。そう簡単に特定などさせる気はないのであろう。
***
新聞記事が貼られている廊下を抜けて、執務室のドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。
「ああ、ジーン。おはよう」
「……随分早いな」
朝の日課で警備棟に顔を出し、執務室の鍵を受け取ろうとしたら「既に誰かが持って行った」と珍しいことを言われた。
遅刻魔キャロルがそんなことをするはずがないし、上司であるフレディは今日は昼からの出勤だ。と、なれば、自ずと答えは出ていた。
「物置になってたこの机を片付けようと思ってね。新しい子のために」
「……それは少尉の仕事ではなかった気がするが」
「本当は昨日、キャロルに頼んでたんだけどね。まあ、やらないと思ってたよ」
そろそろ中年に差し掛かりそうな眼鏡の男性、パトリック・シード少尉が苦笑いを浮かべた。
「ジーンは相変わらず早いね。不眠症、よくなる兆しはなさそう?」
「……ああ」
パットの言葉に適当に相槌をうって、自分の荷物をロッカーに仕舞う。鞄から最低限必要な物と、始業時間までに読んでしまおうと思っていた本を取り出して、自分の机に置いた。
コーヒーを淹れようと瓶の蓋を開けると、底が見えそうなくらいしか入っていないことに気づく。
「そういえば、そろそろコーヒー切れそうだったね。今日食堂行くならついでに貰ってきてくれないか?」
「わかった」
最後の一回だな、と思いながらジーンはドリッパーにフィルターをはめ込んで、粉を入れた。
沸かしておいたお湯を注いでいると、パットが棚からお茶菓子を出してきた。
「毎朝早く来て何してるかと思えば、コーヒーを飲みながら読書か。優雅だね」
にこにこと笑いながら、パットはカップを用意してこちらへ持って来た。ジーンはそれを受け取ると、二人分のコーヒを淹れた。
「それにしても、まさかこの窓際部署に貴族様が配属されることになるとは思ってなかったよ。災難だね、ジーンも」
「別に関係ない」
「あれだけ問題起こしといて、よく言うよ」
先ほど片付けたばかりの机、ジーンの向かい側の席に座ったパットが呆れた顔でそう告げた。
「男じゃないのがせめてもの救いかな。一度だけお目にかかったことがあるけど、可愛らしいお嬢さんだった気がするよ」
「だから、関係ない」
ジーンは鬱陶しそうに眉根を寄せながら、本のページをめくった。そんなジーンの様子をパットは楽しそうに眺めている。
コンコン、と控え目なノックが聞こえる。
「こんな早くに誰だろう?急ぎの書類かな?」
そう言いながらパットが立ち上がって扉の方へ向かう。ドアを開けて誰かと話しているのが聞こえたが、ジーンの座っている位置からは相手の顔は見えなかった。ジーンは再び本に視線を落とした。
「ジーン」
パットに名前を呼ばれて顔を上げる。すると、そこには見慣れない顔の女性士官が立っていた。
「アリソン・ラルフ伍長です。本日からお世話になります。よろしくお願いいたします」
ボサボサ頭の少女は、どこからどう見ても貧しい村娘のようで、その風貌に似合わない美しい敬礼をして、そう言ったのだった。
***
「貧しい村娘、ねぇ」
いつも通り始業時間ギリギリにやってきた金髪の彼女が、斜め前の机で書類を片付けながらケラケラと笑っていた。
「まあ、でも、あんな庶民的な貴族だとは思わないわよね、普通。あたしは一応同期だし顔くらいは知ってたけど」
今時あんなに化粧っ気のない若い娘も珍しい、とキャロルが漏らす。現に、斜め前の彼女は始業時間ギリギリにやってきたとは思えないくらい、しっかりとメイクをしている。
「……同期?お前確か、」
「こら、年齢の話は禁止!」
ジーンの言葉をキャロルは慌てて遮った。このキャロライン・ルチェ軍曹はお喋りな割に、自分のことに関してはかなりの秘密主義者だった。
「アリソン・ラルフ伍長……エルシーの、あの噂知ってる?」
ジーンは口を開くのも面倒に感じ、首を横に振って答えた。元より噂話などとは無縁な生活しているジーンに、思い当たる節などない。
「定期訓練、あるじゃない?そこで銃を暴発させたらしくて、同じ班の兵士に怪我を負わせたって」
「実弾なんて使うか?」
「まさか。顔を掠めたらしくて、相手がそれに動揺して足を踏み外して骨折、ってことらしいけど」
「……はぁ?」
それはどっちもどっちと言う奴ではないか、とジーンは呆れた表情を浮かべた。
「でもエルシーが操作ミスで銃を暴発させたのは事実だし。怪我人が出るほど過酷な訓練じゃなかったはずなのに、ってこっぴどく上から叱られたみたい」
「……くだらない」
華の首都軍でそんな仕様もない事故が起こるだなんて嘆かわしい限りだ、とジーンは大きくため息をついた。
「戻りました」
タイミングを見計らったかのように、扉が開く音と、エルシーの声が聞こえた。書類の提出から戻ってきたのだろう。
「おかえり、エルシー。コーヒー飲む?砂糖は?」
先ほどまでジーンと話していたキャロルが立ち上がって、簡易キッチンでコーヒーを淹れ始めた。
「あ、いえ、自分でやります」
エルシーが慌ててキャロルの元へ駆け寄る。
「いいの、いいの。ついでなんだから。ジーンは?」
「……ん」
座ったまま、空になったカップをキャロルの方へ差し出す。キッチンに一番近い席の特権だった。
しかし、そのカップを受け取ったのはキャロルではなく、エルシーであった。自然にジーンの手からカップを受け取って、水で軽くゆすいでキャロルへと手渡した。
「すみません、ありがとうございます、ルチェ軍曹……」
そして今自分がした行為など何もなかったかのように、コーヒーを淹れているキャロルへと礼を言っていた。
「もー、その堅苦しい呼び方やめてってば。ココは上下関係なんてあってないようなものなんだし」
名目上エリートが集められる首都軍、その中で浮いているこの窓際部署は、トップであるフレデリック・エルウィーナ大佐の方針で上下関係は取っ払われていた。
「ね?ユージン・スズキ大尉」
突然ジーンに話を振ってきたので書類から顔を上げると、キャロルは小さくウィンクをした。馬鹿馬鹿しい、と無表情のまま再び書類に視線を落とした。
「ですが……」
「キャロル、って呼んでくれなきゃこのコーヒーあげなーい」
「ええっ」
大人気ないやり取りを横目で見ながら仕事を続けていると、頭上でくすくすと笑い声が聞こえた。
「女の子が一人増えると、賑やかだねぇ」
エルシーと同じく、どこかへ出ていたパットがいつの間にか戻ってきていた。眼鏡の奥で目を細めているのがわかった。
「あ、コーヒー貰ってきてくれてありがとね」
「別に……ついでだ」
「はいはい」
階級は自分より下だが、年上のパットにジーンは頭が上がらない。
「そうだ、エルシー」
「なんですか?」
パットがコーヒーを飲んでいるエルシーに声をかけた。
「今日の書類は片付いたんだろう?せっかくだから、ジーンに銃の使い方教えてもらってきたらどうだい?ここでは彼が一番上手いからね」
「へ……?」
「……は?」
***
銃を構える人間の背後に立つのは、士官学校以来だった。
「そう、そこで引き金を引く」
指示を出すと、乾いた音と共に的に穴が空くのが見えた。中心からは少しずれた位置である。
小柄なエルシーは発砲時に人よりも大きな衝撃を受ける。背後に立っているジーンに、僅かに凭れかかるようにしてぶつかった。
「すみません」
「別に構わない」
相変わらず素っ気ない態度を取るジーンだったが、教え方は非常に丁寧であった。
「銃の扱い方には特に大きな問題はないみたいだが」
「……本番に弱いんです」
エルシーは苦しい言い訳をしつつ、銃を置く。ジーンはエルシーから体を離すと、自身の銃を取り出して分解し始めた。
「あ……」
ジーンの手入れをエルシーが興味深そうに見ていると、入口の方から女性の声が聞こえた。
「おね……イル中尉」
どうやらエルシーの知り合いらしい。
「こんにちは、ラルフ伍長。……そちらは確か、ユージン・スズキ大尉ですよね?マーガレット・イル中尉です。従妹がこれからお世話になります」
メグがジーンに対して敬礼をする。ジーンもそれに軽く敬礼を返したが、特に何も言わず、分解して手入れをした銃を組み立て始めた。
「……ああ、イル伯爵家の下の方か」
そして、唐突に思い出したかのように口にした。
「私の双子の兄……イル中佐のことをご存知で?」
下の方、と呼ばれるのが気に食わないのか、双子だという点を強調する。
「前の部署の後輩だ。生意気に、今は中佐か」
特に感情も込めずに、ジーンは淡々と告げた。彼の名前を聞いて、あまりいい思いはしない。
「あの、当時がどうだったかは知りませんが、今は上官ですよね?その言い方はどうかと思いますが」
兄を馬鹿にされて苛立っていると、メグのその口調から感じ取ることができた。しかし、ジーンはそんなメグに対して無視を決め込んだ。
「用は済んだ。行くぞ」
まだ僅かに熱を持っているエルシーの銃を手早く箱に仕舞い、ジーンは彼女の腕を引いた。
状況を上手く飲み込めていないエルシーは、動揺しながらもメグに対して小さく礼をしてから、小走りでジーンの後を追った。
***
「大尉は、おにーちゃん……イル中佐に何か恨みでもあるんですか?」
「別に」
二歩ほど後ろから追いかけながらエルシーはジーンに問いかけたが、相変わらず素っ気ない言葉が返ってくるだけだった。
「……ただ単に、貴族を信用していないだけだ」
ジーンはぼそり、とそう呟いた。
「それって、どういう」
エルシーは聞き返そうとしたが、ジーンは執務室のドアを乱暴に開けて、その質問を阻んだ。
「あ、お帰りなさい。スズキ大尉に直接ご指導頂けるなんて、光栄じゃない、エルシー」
にやにやと笑いながら、キャロルは背後からエルシーの首に腕を回した。
「少尉は?」
「臨時集会に呼ばれたわ。ジーンが帰ってきたらそれよろしく、って」
エルシーを間に挟んで、ジーンとキャロルが事務的な会話をする。ジーンはデスクに新たに追加された書類の山を見て、小さくため息をついた。
***
「フレデリック・エルウィーナ大佐だ」
午後から出勤してきたフレディが、エルシーに挨拶をする。彼はスキンヘッドに髭面の大柄な中年男性であり、一見すればとんでもない強面である。
「緊張しなくてもいいよ、エルシー。大佐は見た目はこんなんだけど、どちらかというとインドア派だから」
よくわからないフォローをパットがしていたが、エルシーには、何か気の利いた返しをする余裕はまだないようだった。パットの言葉に苦笑いしながら、中々フレディと目を合わせられない様子である。
「おかえりなさい、大佐。出張どうでした?お土産は?」
キラキラと目を輝かせながら、キャロルがフレディへと駆け寄る。キャロルはなぜかフレディによく懐いている。出張で留守にしていたここ数日間は、不機嫌そうな顔でよく溜息をついていた。
「エルシー、果物よ!パイナップル!」
「えっ」
南部地方に出張に行っていたフレディの土産はパイナップルだった。その名前を聞いた途端、エルシーの顔がパッと明るくなったのを、ジーンは偶然目撃してしまった。
「相変わらず大佐はキャロルの扱い心得てますね」
「あいつは食べ物には目がないからな」
フレディとパットが、娘を見るような眼差しでキャロルとエルシーを見つめていた。
「パット、ジーン、留守の間仕事を任せきりにしてすまんかった」
「いえいえ、僕の方こそ、今回はお供できなくてすみませんでした。次の出張は同行できますので」
「五〇八部署の司令官が、今日一度顔を出して欲しいと言っていました」
パットとジーンはそれぞれ事務的な用件をフレディに伝えた。
「ああ、そういえばジーン」
「……何か?」
いつの間にか追加された書類に目を通そうと、自分の持ち場へ戻ろうとしたジーンをフレディが呼び止めた。キッチンでは早速、キャロルとエルシーがパイナップルをカットしている。
「さっき上に呼ばれてな。『彼女』のことをよろしく頼む、とのことだ」
その言葉を聞いて、ジーンは露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
「……なんで俺が」
新入りの教育ならキャロルが既に世話を焼いているし、パットも満更でもなさそうである。自分が介入する必要などなかった。
「じゃあ、俺は伝えたからな」
フレディはその伝言を押し付けて、自身のデスクへと向かった。
「……ほんと、災難だねぇ?」
パットが困ったように笑いかけてきたが、ジーンは眉間に深く皺を刻んで、拳を握り締めるだけだった。
***
最近よく同じ夢を見る。故郷の麦畑だった。しかし、そこにはかつて暮らした家は見当たらない。人っ子ひとり歩いていないそこに、ジーンはたった一人で佇んでいる。
ジリリリリリ、と無機質な電話の音が鳴った。
スッキリとしない目覚めに、ただでさえ浅い眠りを妨げられた不機嫌さも加わり、顔を歪めながら受話器を取った。
「はい」
一人暮らしのジーンの家にかかってくる電話は仕事関係と勧誘以外にない。しかもこんな早朝だ、間違いなく仕事関係だと悟り、無碍にはできない自分にも一層腹が立った。
『僕だ。起こしたよね、ごめん』
「少尉……?なんだ、こんな朝早くから」
『この前の書類のミスでちょっと面倒なことになってね……よりによって相手が三六六部署だったんだ』
「三六六……どこだそれは」
寝起きの回らない頭でその数字を反復するが、思い当たる節がなかった。千近く存在する首都軍の部署のことを一々記憶はできないため、仕方ないと言えば仕方ないことだった。
『キャロルが前にいたところ、って言えば……わかるかな?』
その言葉を聞いて、ジーンの眠気は一気に吹っ飛んだ。パットの焦りが受話器越しにも伝わってきた。
『よりによって今度の軍隊記念日の式典関係の急ぎの書類でね……まあ、ここからは想像つくと思うんだけど、そのミスしたのもよりによって』
「わかった、それ以上言わなくていい……」
ジーンは受話器片手に頭を抱えた。
『とりあえず、僕は今からキャロルを叩き起こしつつ、その尻拭いをしに行かなきゃならない。大佐は午前中に司令官の定例会議と、式典関係の臨時会議が詰まってるんだ。今日の仕事量自体はそんなに多くないから、定時出勤でいいんだけど……エルシーと二人でやってもらうことになるから、大変だとは思う。僕の仕事の引き継ぎは紙に書いて机に置いておくから、よろしく』
パットはフレディの補佐官としての仕事も持っているため、その書類を誰かに回す時に引き継ぎをしなければならなかった。
「了解。どのみち早く出勤するつもりだったから構わない」
いくら一番乗りがお決まりになっているとは言え、仕事をしに早く行くのかと思うと、若干気が重かった。二人きりの相手が新入りで苦手意識のある貴族のエルシーだというのも、さらにその気持ちを増長させた。
『ごめんね。いつ終わるかはわからないけど、終わり次第交代するから』
本当に申し訳なさそうにパットがそう告げるのを聞くと、責める気にもなれずに受話器を置いた。彼の過失ではないし、キャロルだけのせいでもない。だからこそ、この怒りをぶつけられずにもやもやした感情が胸の中に渦巻いた。
***
「本年度の会計記録まとめ終わりました。次は何を?」
「早……いな」
偶然にも向かい同士の机であるエルシーが、着々と書類を片付けているのが目に入る。まだ入隊して一年と聞いていたのに、とんでもない処理スピードだった。
「これを頼む。予定より早く終わりそうだから、そんなに焦らなくてもいい」
「了解です」
そう言って彼女はまた机に向かった。書類を片付ける時の無駄のない動作をたまにちらちらと確認するが、普段話している時の彼女とは別人のような真剣な顔だった。
「……意外ですか?」
ジーンの視線に気づいたのか、エルシーは薄く笑みを浮かべながら、こちらに目を向けることなく、そう言った。その表情が、彼女の父親を思い出すひどく冷たいもののように感じた。
「下っ端仕事だけは得意なんですよ。これしかできないので」
自嘲の笑みを浮かべながら、エルシーはそう言った。
「……少尉と、同じことを言うんだな」
「へ?」
「独り言だ、気にするな」
口をついて出た言葉を慌てて引っ込める。エルシーは不思議そうな顔でこちらを見たが、すぐに仕事に戻った。
***
「ただいま」
ガチャリ、とドアの開く音と共にパットとキャロルが部屋に入ってきた。
「あ、お帰りなさい。……って、どうしたのその顔!」
エルシーの慌てる声に何事かとそちらを向くと、そこには左頬を真っ赤に腫らしたキャロルが苦笑いしながら立っていた。
ああやはり、想像していたことが起こったと、ジーンは小さくため息をついた。
「あはは……謝りに行ったとこ、ここに来る前に在籍してた部署でさ。当時の上司に一発、ね?」
あまりにも痛々しいその左頬を見ながら、ジーンは苦い顔をした。いくら軍内で性別は関係ないとはいえ、いい気はしない。それに、そのシチュエーションには見覚えがあった。思い出したくないことを、思い出す。
「でも、顔を殴るなんて」
エルシーが氷を用意して、キャロルに手渡した。
「僕とそこにいた他の隊員たちも必死に止めたんだけどね……あそこの司令官はとんでもない癇癪持ちで大変だったよ」
預かってきた書類を机に置きながら、パットは情けないなぁ、と自嘲の笑みを浮かべた。
「あたしに対抗できるだけの『能力』があれば別なんだけどね……結局、あたしもエルシーとおんなじ、落ちこぼれだからね」
力なく乾いた笑みを浮かべたキャロルは、いつにも増して小さく見えたのだった。
***
エルシーがフレディの部署に配属されてからしばらくが経った。あれから何事もなかったように、キャロルは相変わらずの飄々とした態度で仕事をしていた。左頬の腫れは引いていたが、まだ痕が残っているためガーゼで覆われている。エルシーも段々とこの部署に馴染んできているのがわかった。
季節は残暑から秋に移り変わった。ここ数日で一気に冷え込み、街の景色もオレンジ色に染まりつつある。元から昼夜の気温差は激しい首都だったが、昼間でも厚着で出歩く人々が目についた。
「……軍曹は?」
いつにも増して不機嫌そうな顔で、ジーンがエルシーに迫った。
「えっと……隣のブラウン准尉の付き添いで医務室に」
「……は?」
ポーカーフェイスなジーンには珍しく、苛立ちを含んだ声を返す。
「痴情のもつれだよ。大変だねぇ、御意見番のお姉さんは」
パットが他人事なのをいいことに笑っている姿を、ジーンは穏やかではない表情で見ていた。
キャロルは同期の中で少し年上なのもあって、同期を始めとした同年代の女子士官たちの恋愛相談の相手になっていた。もちろん、普段は業務外の昼休みなどで相談を持ちかけられるのだが、今回は少し特殊だった。
「なんでも、ブラウン准尉の相手っていうのがとんでもない男だったらしくて。でも上官だからって、泣き寝入り状態らしいです」
「別に聞いてない」
エルシーは丁寧にこの状況をジーンに説明するが、ジーンは冷たく一蹴する。どんな事情があろうと、勤務時間内に相応しくない行為には違いない。
「大佐、射撃場に行ってきます」
キャロルが戻ってこないと進まない案件がある。ジーンは必要なものだけ手にして部屋を出た。乱暴に閉められた扉がバタン、と音を立てる。
「射撃場だって。ついていかなくていいの?」
パットがエルシーににっこりと笑いながらそう言った。
***
「……射撃場じゃなかったんですか?」
エルシーが中庭のベンチに座り込んでいるジーンを発見したのは、彼を追って部屋を出てから十五分くらい後のことだった。
「……」
エルシーが来たことを目だけで確認したジーンは何も言わない。エルシーは彼の方をちらちらと確認しながら、隣に座る。
「……お前、なんでいつもそんなボサボサなんだ」
「へ?」
突然の問いに、エルシーは言葉に詰まった。ジーンは無意識のうちに、エルシーの髪の毛にそっと触れた。寝癖のついた髪の毛は、少し撫でつけられたところで元に戻る様子はない。
「まるで貧しい村娘みたいだな」
毎日違う寝癖がついた手入れのあまりされていないボサボサの髪、化粧っ気のない顔、皺だらけの臙脂色の軍服。
「おねーちゃんみたいにしっかりしよう、って思うんですけど。なんか気が乗らなくて」
適当な理由をつけて、エルシーは笑った。しっかりしろ、というセリフはたくさんの人物から嫌というほど聞かされてきたのであろう。
「その笑顔も、偽物だな」
先ほどと一切声色を変えずに、ジーンはエルシーにそう言い放った。
「ムカつく」
吐き捨てられた言葉は、エルシー個人だけに向けられたものではなかった。
エルシーは貼り付けただけの笑顔を一瞬で剥がして、ジーンの顔をじっと見つめた。
「業務時間中の私は、ただのアリソン・ラルフ伍長です」
「その業務時間中に殺されかけた奴がよく言う」
ジーンが言っているのは先日のキンバリー王女の式典の話だ。確かにあの時エルシーはれっきとした業務の一つとして、軍服を着てその場にいた。彼女は言い返さなかった。
「此処が安全だなんて、そんな甘い考えは捨てろ。首都は今、あのテロのせいで異様な空気に包まれている。いつどこで誰が、お前たちを狙っているかわからない」
「……仮にもしそうだとして、私たちにとって安全な場所ってあるんですかね」
エルシーは至って冷静に言葉を紡ぐ。
「私たちは、どこへ行けばいい?」
その声は、まだ二十歳にもならない少女が紡ぐには不釣り合いなほど、あまりにも達観していた。
***
結局、ジーンとエルシーが執務室に戻ったのは部屋を出てから一時間後のことであった。
火薬の臭いが全くしない二人に、フレディとパットは少し怪訝そうな顔をしたが、何も追及してこなかった。
キャロルはいつの間にか戻ってきており、山積みになった彼女の案件を黙々と片付けていた。ジーンは少し離れた自身のデスクから、彼女に対して無言の圧力をかけながら自分の作業をしている。
「エルシーは相変わらず書類の整理早いのね」
「下っ端の仕事は慣れてるの」
手早く仕分けてサインをするエルシーを見て、キャロルは感嘆の声を漏らす。
「で、ブラウン准尉の件は大丈夫だった?」
「相手が相手だからねぇ。あの子メンヘラだし余計に、ね?」
曖昧に笑いながら、キャロルは言葉を濁した。
「相変わらず、見境ないのね。クリスおにーちゃんは」
「……知ってたの?」
先ほどまで笑っていたキャロルの顔が強張る。
「別に。おにーちゃんが寝た相手の素性なんていちいち知らないし興味もないよ。ただ、女癖が悪いのは昔からだから」
エルシーは、私に隠さなきゃいけないような相手ということは、そういうことでしょう?と言わんばかりの目線をキャロルに送った。
「おにーちゃん……クリストファー・イル中佐は、確かに優しいけど。ちょっと歪んでるから」
エルシーはそう嘲笑いながら漏らした。それを横目で見ていたジーンは、正反対なイル伯爵家の双子の顔を思い浮かべた。




