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0.アリソン・ラルフ

晴れ渡る空に、ここ数週間雲がかかっている姿を見ていない。

どちらかといえば渇いた土地であるこの首都では、滅多に雨は降らない。しかし、近くにこの国一大きな川が流れているため水に困ることはく、それがこの地が首都となり得る理由でもある。


食堂には朝の訓練を終え、一息ついている兵士たちの姿がある。揃いの臙脂色の制服は首都軍の兵士の証である。

この国は名義上は王国であるものの、実質の権力は全て軍が握っている。軍事行動はもちろん、警察、消防までもが全て軍の管轄であり、その職務は実に多岐に渡っている。


エルシーはぼさぼさの寝癖頭で船を漕ぎながらも、左手はしっかりフォークを握っている。目の前に用意された朝ご飯は、目玉焼きをかじった跡しかない。

「エルシー、エルシー」

よく知る声が聞こえるが、それよりも今は睡眠の方が重要であると脳が告げている。

「こら、起きなさい」

頬に刺激が走り、目が覚めた。

「おねーひゃん、いひゃい」

両頬をつねられながらエルシーは口をもごもごと動かして声を出す。

「おねーちゃん、じゃないでしょう?」

「おはようございます、中尉」

「よろしい」

そう言って、目の前の彼女は腰に手を当てて胸を張る。

エルシーの従姉、メグは手入れの行き届いたブロンドの髪の右側を耳にかけてから、低い位置のポニーテールにしてゴムで結んだ。エルシーとお揃いの臙脂色の軍服を身に纏っているはずなのに、心なしかエルシーの皺だらけのそれよりもずっと高級なものに見えた。

「月曜日だっていうのに、そんなだらしなくてどうするの」

「私たちに曜日とか関係ないと思うけど。六連勤目だし」

「言葉遣い」

「……申し訳ありません。六連勤目なので疲れが溜まっているみたいです」

逐一うるさく注意するメグに敬語を使って謝ったものの、その声音はうんざりしているのがすぐにわかるくらい淀んでいた。

そんなメグが、こちらをちらちらと窺いながら遠慮がちに口を開いた。

「……あのさ、聞きづらいんだけど」

つい先ほどまで朝とは思えないくらいはきはきと喋っていたメグが、突然しおらしくなる。

「何ですか?」

こういう時は、大体面倒なことを聞かれるのが定石である。しかし、従姉であり上官のメグをぞんざいに扱うことはできない。


「……この前の訓練、またやらかしたって本当?」


その言葉を聞いてエルシーは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。嫌なことを思い出した。

「……何をもってやらかした、とするのかはわかりませんが。中尉がお聞きになった通りかと」

最小限の情報に留め、エルシーは手短に報告した。その内容を聞いたメグが、がっくりと肩を落とすのがわかった。

「あなた、いつまで下士官でいるつもりなのよ……」

「そんなこと、言われましても」

わざとらしくため息をつくメグを横目に、エルシーは手をつけていなかったパンを口に放り込んでコーヒーで流し込む。

「みんな、あなたが上がってくるのを待っているのよ」

「……またその話。耳にタコができるほど聞きました」

「またそうやってあしらう。ラッパばかり吹いてないで、少しは期待に応えられるように鍛錬しなさいな」

メグの言葉は一々癇に障った。エルシーにとってそのセリフが全くの逆効果だということに未だ気づかない彼女のことを、心の中では軽蔑していた。

「ご心配ありがとうございます。でも、私からそのラッパを取り上げたら、いよいよ何も人並み以上にできなくなってしまいますから」

最大限の皮肉を込めて、エルシーはメグにそう言い放った。ラッパじゃなくてコルネットだ、と何度も訂正しているのに一向に覚えてくれないことにも苛立っていた。

エルシーは食べ終わった朝食のプレートと、脇に置いてあった『ラッパ』のケースを持って立ち上がる。朝から気分が悪い。早くメグの前から立ち去りたかった。

それでは失礼します、と口を開こうとした時だった。


「あ……」


そう声を漏らしたメグの視線は、エルシーではなく食堂の入り口へと向いていた。

その視線の先を目で追うと、見覚えのある男性が食堂に入ってくるのが見えた。

「……帰ってたんだ」

ぼそりと、独り言のようにメグが呟いた。

「一緒に住んでるんじゃないんですか」

「住んでるけど、何も言わないからわからないのよ。こっち戻ってるなら、一度家に顔出せばいいのに……」

小さな不満を漏らす彼女の目線の先を追っていたら、不意にその男性と目が合った。彼はエルシーとメグに気づくと、 小さく手を上げたが、すぐに別のところへ視線をやってしまった。

彼の周りには数人の部下が取り巻きのように囲んでいるため、話しかけに行けるような雰囲気でもない。それを見たメグは、ばつが悪そうに唇を尖らせた。

「あの、バカ兄貴」



***



「げっ」


午前の業務を片付けて、上司から受け取った大量の書類を持って歩いてると、今一番会いたくない人物と鉢合わせてしまった。

「久々に会ったのに、その反応は傷つくな」

目の前の中年の男性が纏う藍色の軍服は首都軍のものではない。

「別に、そんなことないですよ、閣下。今日は取り巻きの方々はいらっしゃらないんですね」

「トイレくらい一人で行かせて欲しいからな。抜けてきた」

彼の軍服は色を除けばエルシーと同じデザインだったが、決定的に違うところがある。下士官のエルシーにはない、肩章があった。それこそが、彼が将校である証だった。

「聞いたぞ、メグから。訓練で銃を暴発させたとかなんとか」

「相変わらず情報が早いんですね……」

「そりゃ、可愛い姪っ子の動向を気にするのは当たり前だからな」

「その姪っ子が、類稀な落ちこぼれで申し訳ありません」

エルシーは追及される前に自虐でかわした。

彼、エルシーの伯父であるカルヴィンはエルシーが軍に入るきっかけを作った張本人であり、エルシーはそんなカルヴィンに対して全く頭が上がらなかった。

「エルシー、お前はお前のペースで頑張ればいい。俺のことはまあ、気にするな」

「それ、ぜひマーガレット・イル中尉にも言っておいてください」

「メグに?ああ、あいつはお前のことになると厳しいからなぁ」

カルヴィンは苦笑しながら、エルシーの頭をぽんぽん、と撫でた。

「……そういえば、おにーちゃ……中佐もお帰りになっていたようですが、お会いになられましたか?」

「ああ、クリスか。さっき一瞬すれ違った。どこかへ行っていたのか?」

「はい。確か西部に出張に。ご存知なかったんですか?」

「成人済みの息子のことなんて、一々気にしていられないしな」

藍色の軍服を纏う彼は北部地方の総司令官であり、首都軍に所属するメグやクリスと離れ、北に住居を構えている。総司令官という立場上、軍上層部の定例会議を始めとし、今日のように頻繁に首都へ赴いているようではある。

「随分と忙しくしているみたいだ、ってメグ中尉がごねてましたよ」

「ははっ、そうかそうか。メグは相変わらずだな。男の噂の一つもないわけだ」

カルヴィンの能天気な言葉に、エルシーは複雑な表情を浮かべた。



***



鼻から大きく息を吸い込んで、マウスピースに口をつける。明るくて柔らかい高音が宙に舞った。

「ラルフ伍長、少し高い」

「はい」

隣のブラッドベリー少尉がすかさず指摘をする。彼は生真面目で、少しのチューニングのズレも決して聞き逃さない。

「今日は随分と、音が淀んでいるね」

「そうですか?」

「ああ。僕の隣でそんな音を出されたら、気が散って仕方ない。何かあったのかな?」

彼のあからさまな嫌味はいつものことであり、挨拶のようなものである。

「何かあったというか、漠然とした将来の不安が」

「は?……ああ、あの訓練の」

「……なんでブラッドベリー少尉もご存知なんですか」

他の地域よりも比較的平穏である首都での話題といえば八割方が噂話で構成されている。大方、彼もどこかでその噂を耳にしたのだろう。

「昔に比べたら落ち着いたけど、アリソン・ラルフ伍長の待望論は未だ根強いからね。君が士官学校に入学したときのプチ騒動は未だ記憶に新しい」

「……それはたいへん光栄なお話ですが、蓋を開けたらとんだ落ちこぼれだったわけで。さぞかし皆さん失望されたことでしょう」

エルシーにとってそれはあまりにも耳が痛い話に他ならない。

「僕はそうは思わないけどね。まだまだ若いんだ。確かな血筋を持つ君なんだから、開花するのはもっと先かもしれない。まあ、銃の暴発については擁護のしようもないが」

「なんでこう、少尉はいつも一言多いんですかね」

エルシーが悪態をつくと、ブラッドベリー少尉は素知らぬ顔で自分のコルネットのチューニングを始めた。

いつの間にか人も集まり始め、周囲から無数の明るい金管楽器の音が鳴り響いた。


首都軍の音楽隊といえば、式典や行事に欠かすことのできない存在であり、ユリーレ国内一の吹奏楽団だ。

公式の場はもちろん、首都内で行われる様々な民間のイベントにも参加しており、時には地方へ出張することも少なくない。

軍の中でもここまでしっかりとした音楽隊を持つのは首都だけで、他の地域は環境的要因を始めとしてあまり立派な音楽隊は擁していない。

エルシーはそこでコルネットを演奏している。音楽隊での演奏技術は中の下ほどであったが、その安定したコルネットの音色は、そこでの地位を確かに築いていた。


「そういえば」


日に三時間、週に三日の合奏練習の合間の休憩で、不意にブラッドベリー少尉は口を開いた。

「もうすぐ、キンバリー王女の成人の儀だけど。ラルフ伍長はどちらで参加するのかな?」

「……さぁ?まだわかりません。父に言いつけられた方で出ると思いますが」

「君のお父上は?」

「父は軍側かと。近衛師団の団長ですから」

ふぅん、と素っ気なく返すブラッドベリー少尉は相変わらず、自分から話を振っておきながら冷たかった。

「なぜまたそんな話を?王女の成人の儀までまだ日はあるのに」

「いや、もしこっちで出るなら、ユリーレの国歌とファンファーレ以外に、ハイピスリタ民謡と王女の好きな流行歌……それから、ロータリアットの国歌も演奏しなくちゃならないからね」

「げっ……」

ロータリアット国歌は、エルシーの苦手な変拍子の曲であり、途中で楽譜に起こせないようなリズムの転換がある。まだ入隊して日が浅いエルシーは、公の場でそのロータリアット国歌を演奏したことがなかった。

「まあ、なぜ今更とうの昔に滅んだ国の国歌なのか、とは思うけども。決まりは決まりだから仕方ない」

「ロータリアット王国と我がユリーレ王国は過去に密接な……いえ、なんでもないです」

エルシーはブラッドベリー少尉にその経緯を説明しようとしたが、すぐに打ち切った。そんな知識は、小学校や中学校で習うレベルの常識だ。知らないはずがない。

「とりあえず、早めにお父上に指示を仰いで、早々に練習に取り掛かることをお勧めするよ」

「……そうします」

エルシーは力なくそう答えた。



***



「エルシー」

数日経ったある日のことだった。エルシーはこの執務室で聞くはずのない、よく知る声に名前を呼ばれた。

「……あ、えっと、イル中佐。ご無沙汰してます」

「いいよ、普通で。他に誰もいないしな」

エルシーの部署の執務室に、別の部署のクリスが訪ねてきた。幸い今はエルシーの上官が会議中のため、人が出払っている。

「じゃあ、おにーちゃん。わざわざ何の用?」

「王女の式典の話。エルシーはどっちで出る?」

「それ、この前音楽隊のブラッドベリー少尉にも聞かれた……まだ決まってないけど、多分、軍側では出ないんじゃない?」

大量の資料を紐で綴じながら、エルシーは答える。資料には二十年ほど前に同盟を結んだ隣国の情報が事細かに記されている。

「おにーちゃんたちは?」

「俺とメグは列席しないよ。将校と音楽隊以外の軍人はごく僅かしか列席できないし、公爵でもないから。まあ、イル伯爵家の名で祝電は打たせてもらうけど」

クリスはそう言いながらどこからか取り出したカップに、作り置きしてあったコーヒーを注いで飲んでいる。

「……このコーヒー、濃くないか?」

「文句ならうちの上官にどうぞ」

渋い顔しながら、普段はブラックで飲むクリスがカップにミルクを入れていた。

「……で、本当の用は?わざわざそんなこと聞きに来たわけじゃないんでしょ?」

エルシーは少しだけ声のトーンを落として聞いた。

「さすが、相変わらず察しだけはいいんだな」

「嫌味?」

「褒めてるんだよ。……まあ、それはさておき」

先ほどまで柔らかかったクリスの表情から笑みが消えた。

「キンバリー王女の成人の儀の日、間違いなく首都ではデモが起こる」

「でしょうね」

「そして、ここからは極秘情報だ。ある筋からの話によると、列席者の中に反乱分子がいる可能性が高いらしい。城の中に入ることができて、王族に近づけるまたとない機会だからな。何かしらの暴動を起こすと考えられる。もちろん、近衛師団を始めとし、警備に抜かりはないが……軍側の列席者自体もかなりの実力者揃いだしね。何が起こるかは予測不可能だ」

周囲に警戒しつつ、クリスはエルシーにその情報を伝えた。

「そんな極秘情報、私なんかに話してもいいの?」

「お前だからだ、エルシー。お前は当日の列席が既に決まっているし。それに俺は今、アリソン・ラルフ伍長にこの話をしているわけではない。その意味、お前ならわかるよな?」

「……」

エルシーは無言で応えた。

「……この話、誰が知ってるの?」

「主に王族関係者だな。当日列席しない人間では俺だけだ」

「じゃあ、おねーちゃんも知らないのね?」

「ああ。俺はまあ、エルシーへの伝達係ってところだ。近衛師団団長……お父上とは中々会えないだろうしな」

エルシーは軍本部に程近い、下士官が利用している寮で暮らしていた。実家に帰ることは少なく、帰ったところで多忙を極める両親が必ずいるとも限らない。

遠目から両親の姿を見る機会はあるが、最後に言葉を交わしたのはもう二ヶ月ほど前になるだろうか。

「まあ、俺もエルシーに会う機会はこうやって出向かない限りはないんだが……これ以上誰かを仲介するのも危険だしな。わざわざお前が一人の時を見計らって、こうやって直々に訪ねてきたというわけだ」

いつの間にか飲み終わっていたコーヒーのカップを流し台に置きながら、クリスは再びいつものように柔らかい表情でそう告げた。

「ありがとう、おにーちゃん。……まあ、聞いたところで私には何もできないんだけどね」

自嘲の笑みを浮かべて、エルシーは窓の外を眺めた。

「エルシー」

それを聞いたクリスの声は、先程のまでの優しいトーンではなかった。僅かながらに怒りを含んでいるように感じられる。

「二度目だ。俺はこの話を、アリソン・ラルフ伍長にしたつもりはない」

「……わかってるよ」

エルシーはクリスにわからないように、ぎゅっと下唇を噛んだ。


「そうだ、もう一つ」


自身の持ち場へ戻ろうとドアノブに手をかけたクリスが振り返った。

「最近、メグが冷たいんだ」

「は?」

「家でもまともに口を利いてくれない。何か言ってなかったか?」

「別に……でも、」

「でも?」

「おにーちゃんは、もうちょっとおねーちゃんのことを大切にした方がいいんじゃない?……とは思うよ」



***



いつものように晴れ渡る空の下、久々に取ることができた連休を、エルシーは実家で過ごすことになっていた。

首都の中心から少し外れると、そこは貴族や軍の要人が邸宅を構える高級住宅街に出る。

一泊しかしないため、荷物は少なかった。特に電車の時間を告げずとも、最寄りの駅のロータリーには見慣れた車が停まっている。エルシーはそんな光景に人知れず小さなため息をついた。

「どれくらい待ったの?」

近づいてくるエルシーに気がついた運転手は、ごく自然な動作で車からおりて後部座席のドアを開けた。

「いえ、今来たところですよ」

彼はそんなお決まりでバレバレの嘘を、いとも簡単についてみせる。

エルシーは不機嫌そうに眉間に皺を寄せて無言で車に乗り込んだ。どのみち、駅から徒歩で帰るには億劫な距離には違いない。

「……お父様とお母様は?」

「お二人ともご不在ですよ。旦那様の方は明日の朝少しだけ顔を出されるとのことです」

「……あっそ」

エルシーにとって、両親は多忙で当たり前の存在であった。それを今更咎めたりはしないし、恨んだりもしていない。

しかし、そちらから呼び出しておいて会えるのはほんの一瞬、などという仕打ちはやはり気分のいいものではなかった。

そして何よりいけすかない点は別にあった。

「旦那様が今晩の食後のデザートにと、お嬢様のためにわざわざ隣国からパイナップルをお取り寄せされたんですよ」

まともに会ってはくれない癖に、娘の好物はしっかりと把握しているのだ。親としては当たり前のことなのかもしれないが、エルシーにとっての親子の関係性は一般家庭のそれとはまるで違う。その証拠に、エルシーは両親の好物などまるで知らないのだ。

しかし、父親はエルシーの好きなものを間違えたことは一度もなかった。それだけではない。プレゼントの渡し方もいつも小洒落ている。

先日宅配で届いた誕生日プレゼントは、エルシーが密かに気に入っていたブランドのオーダーメイドアクセサリーだった。そこには父親からのメッセージカードも同封されており、それがまた粋なデザインであった。気になって後日調べてみたら、どうやらそのカードもわざわざ自分で店に出向いて、オーダーメイドで作らせたらしい。

彼はそういった事に決して手を抜かないのだ。そしてそんな好意を受けてしまったら、どんなに普段の行動が気に食わなくても、父の事を認めざるを得ない。

「……女の扱いに慣れすぎなんだよ」

運転手に聞こえないように、エルシーは呟いた。



***



「え?今なんて?」

朝食の席で告げられた事柄に、エルシーは驚いて思わず飲みかけだった紅茶を咳き込んだ。

「だから、今度の式典の列席の判断はエルシーに任せる、って言ったんだよ」

目の前に座る父は、いつものように優しい声と柔らかい笑顔でそう告げた。起きて間もないため、綺麗に整えられていない白髪混じりの髪には、少し寝癖がついていた。

「お母様もそれを知っているの?」

「ああ。私と彼女でそれぞれ出席するし、お前は好きにしていいよ」

エルシーは蒼い瞳をぱちくりさせて、その言葉を頭の中で咀嚼した。


「じゃあ私……音楽隊で出たい、って言ってもいいの?」


驚きからか、声が少し裏返ってしまった。そんな様子を、父はにっこりと笑いながら眺めている。

「そう言うと思ったよ。あまり物を欲しがらないエルシーが、唯一自分から欲しいと願ったものが、あのコルネットだったからね。好きなようにしなさい」

現実とは思えない父の言葉に、エルシーは見えないところで何度も自分の太ももをつねった。



***



『近衛師団団長、ヒューバート・ギルバート大将』


割れんばかりの拍手は今までの誰よりも一際大きいものだった。それはいかに彼が民衆から絶大な支持を得ているのかを誇示するのに、充分すぎる程の大きさだ。

ユリーレ王国の正装である民族的意匠が施されたドレスを着たキンバリー王女。そして、そのすぐ近くに控えている父のことを、エルシーはまるで新聞の一面の写真を見ているかのような錯覚に陥りながら見上げていた。

普段と違い、オールバックに固められた髪の毛に晒されたその目は、心なしか一筋の冷たさを感じた。エルシーは父・ヒューバートのことを時たまひどく冷たく感じることがあった。

列席者の紹介が終わると、音楽隊は隊長の指示で再び楽器を手にする。指揮者が腕を振り上げると同時に、エルシーは息を大きくお腹に吸い込んだ。

音楽隊で出席すると決めてから毎日のように練習を重ねたロータリアット国歌の演奏だった。

中低音の重厚な音から始まり、高音の抜けるような乾いた音が続く。ファンファーレを彷彿とさせる明るいメロディから一転、変拍子に変わるのと同時に転調する。

そして、問題の楽譜に書き起こせないリズムの変化。

少し遅れた、と眉根を寄せたエルシーは、隣から微かな視線を感じた。ブラッドベリー少尉が自身の銀色のコルネットを掲げながら、目で合図を送ってきた。

気づいたら、エルシーのコルネットのベルが他の隊員のものより少し下を向いていた。エルシーはハッとしてそのベルを上に向けた。


その時だった。


何かが爆発するような音と城の下に集まる民衆のざわめきが、音楽隊のロータリアット国歌の演奏を掻き消した。

クリスの言葉が頭をよぎった。

エルシーは演奏をやめて、辺りを見回した。キンバリー王女がヒューバートに連れられて城の中に戻るのが見えた。王族関係者は前情報の件もあってか、割と冷静に動いている。

問題は軍関係者側と民衆たちだった。待機していた補佐官たちが自分の上官を護ろうと、どこからともなく現れる。部外者が入ってきたことにより、誰がこの爆発を起こしたのか特定が難しくなる。エルシーは小さく舌打ちをした。


「伍長!何してるんだ!」


隣のブラッドベリー少尉に腕を引かれて我に返る。

「早く逃げるんだ!」

自分の頭の中になかった言葉を投げかけられて、エルシーは思わず、ビクり、と震えた。自分は軍人である。ここで戦い、王族や民衆を護るべき存在であるはずだった。

「逃げる……?」

弱々しい声で聞き返した。先程の言葉は間違いだと言って欲しかった。


「当たり前だ!君は、軍人である前にアリソン・ラルフ・ハイピスリタ・ユレ殿下だろう?」


返事を聞かずに、ブラッドベリー少尉はエルシーの背中を城内の方へと強く押した。振り返ると、人混みに紛れて彼の姿はもう見えなかった。

呆然と立ち尽くしていると、不意に背後に気配を感じた。その気配の主を確認しようと顔を向けると、強い力で口を押さえられた。


まずい、と悟った。


エルシーは反射的にじたばたと手足を動かして暴れてみせたが、口を塞ぐ手は僅かな隙間さえも見せなかった。

「う……ぐ……!」

助けを呼ぶ声も出せずに、喧騒の中にその呻き声は掻き消される。

士官学校や家で教えられた護身術を駆使して抵抗するが、体格の差からかビクともしなかった。その間も連続的に爆発音が響いている。

エルシーの抵抗も虚しく、呼吸を阻まれて意識が遠のく。握りしめていたコルネットがエルシーの手から離れた瞬間だった。


すう、っと秋の残暑に相応しくない冷気が、辺りを一瞬で支配した。


捕らえられていた腕から解放されたエルシーが地面にどさり、と倒れ込む。どうやらエルシーを襲ったのは一人ではなかったようで、複数人の男たちのものと思われる脚が視界に入った。

その男たちはまるで時が止まったかのようにビクともしない。文字通り『固まって』いた。

エルシーは薄れていた意識をなんとか繋ぎとめて、辺りを見回す。その視界の端に、よく知る長い銀髪が映った。


「……」


その美しい銀髪蒼眼の彼女の顔は、怒りに満ちて激しく歪んでいた。

すぐに意識を手放したエルシーは、その事実を知る由もなかった。

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