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 朝、目が覚めると、体の震えは納まっていました。

(マリアに会う)

 それだけを念じると、お姫様は起き上がりました。

 ヤクは姿を見せませんでした。おばあさんに何か用事をいいつけられて、出かけたのかもしれません。媚薬の鍋は、いつの間にか空になっていました。火も落とされています。大きな鍋の口の上から、中を覗いてみると、底のほうに、黒いものが焦げ付いていました。

(あの黒いのは、もともと何だったのかな)

 ぼんやりと、そんなことを思いました。


 日が沈む頃、心臓がどきどきと強く打ち始めました。小屋の隅にうずくまっていると、おばあさんが近づく気配がします。顔を上げたお姫様の目に、夕日の名残を背に受けて立つ、おばあさんの小柄な体が映りました。黒く浮かび上がるその姿がひどく恐ろしく、お姫様は後ずさりました。

「気づいているね」

 含み笑いが聞こえます。

「逃げずにいるとは、良い覚悟だ。ほら、これをお飲み」

 おばあさんは、壺の中からどろどろとした白い液体を柄杓ですくうと、お姫様の口元に押し付け、開いた口から無理やり流し込みました。甘ったるい味が広がり、思わずごくんと飲み込むと、とたんにのどが焼け、ごほごほとむせかえりました。お腹の中がかっと熱くなり、頭はぼうっとしてきます。「ぎゃあぎゃあ騒がれるとうるさいからね」

 しばらく様子をうかがっていたおばあさんは、お姫様が頭をゆらしはじめると、その手をとって歩き出しました。

「さあ、ついておいで」


 小屋の裏口を出て、月明かりに照らされた森の道を、おばあさんは滑るように歩きます。その横を、腕を引かれたお姫様が、おぼつかない足取りでついていきます。何度も石や木の根につまずきながらも、お姫様はどこか夢見心地です。まるで魂が身体を離れて夜の森をふわふわとさまよっているようでした。茂みの奥や灌木の影から覗く獣たちの目がきらきらと光っています。ふと、一陣の風が頬を撫で、短い髪を揺らしました。一瞬の後、ごおっと強い風が吹き抜け、そのはずみでおばあさんの手が離れると、お姫様は柔らかい下草の上に仰向けに転がりました。強風にあおられて舞い上がった草や木の葉がくるくるとまわりながら落ちてきます。上空ではまだ収まりきらない風が梢を揺らし、いびつな月が見え隠れしていました。

(生きている)

 見るもの、感じるものすべてが圧倒的な生命力をたたえていました。そして残酷な運命は、常にその隣に控えています。

(私は、もう、ここには戻ってこない)

 巣から落ち、首を折って動かなくなった雛鳥。踏みつぶされ、蟻に運ばれていく甲虫。皮を剥がれ、肉を削がれた獣。胸を割かれ、震える心臓を取り出される子供。不思議と怖くはありませんでした。おばあさんの薬が効いていたのでしょうか。まだらな毛並みの美しい狼の姿が心に浮かび、悲し気な遠吠えが遠くに聞こえるような気がします。突然、大声で叫びたい気持ちになりました。

(さようなら!さようなら!)

 おばあさんに引き起こされるまで、お姫様は心の中で、誰にともなく別れを告げ続けました。


 それからどれほど歩いたでしょうか。月が中天を過ぎる頃、木立の向こうにぽっかりと、広場のような空間が現れました。近づくと、たくさんの人や獣の、ささやきとも唸りともつかぬ声が、耳鳴りのように響いてきます。二人が広場の入り口についたとたん、轟音とともに、火柱が上がりました。天をも焦がす炎はめらめらと燃え続け、その周囲から興奮した叫び声が上がりました。


「宴の始まりだ」

 隣から聞こえた意外な声に、お姫様は驚いて振り向きました。おばあさんがいたはずの場所に、いつの間にか男が立っていました。額には山羊の角。マリアを連れ去った魔物でした。

「今宵、新たな魔女が生まれる」


 広場では人とも妖ともつかぬ者たちが、かがり火のゆらめく光をまとってうごめいていました。笛やフィドルが激しく鳴らされ、扇情的な調べにのって、裸の男女が絡み合い、踊りの輪を作ります。その向こうには食卓が置かれ、中央の皿に置かれた赤黒い巨大な肉の塊から内臓を取り出しては、仮面をつけ、豪華な衣装をまとった者たちが口を真っ赤にしてむさぼっていました。


 快楽に興じる者たちの間を縫うようにして魔物は進みます。その後ろをお姫様は黙ってついて行きました。

「我等が宴はお前の目には、さぞかしけがらわしいものに映っていることだろうな」

 魔物が薄笑いを浮かべます。

(ぞっとするほどけがらわしい。でも・・・)

 お姫様は思いました。

(衣の内側は裸、裸の内側には内臓と汚物。生きることは食べること、食べることは殺すこと。ここにあるものは、常にどこにでもある。隠されているものが、見えているだけ。これがけがらわしいのなら・・・)

 ぽつりと声がでました。

「けがらわしくないものって、あるの?」


 唐突に、シンバルの音が鳴り響き、かがり火の向こうの祭壇の陰から一人の娘が現れました。薄絹をまとい、豊かな黒髪を結わずに垂らしています。娘は進み出ると、優雅にお辞儀をしました。

「マリア!」

 お姫様の叫びをかき消すように、もう一度シンバルが鳴りました。異国風の曲が始まり、マリアは踊り始めました。揺れる炎に照らされ、恍惚とした表情で、マリアはくるりくるりと舞い踊ります。足を踏み鳴らし、妖しく四肢をくねらせるマリアの姿は、この世のものとも思えない美しさでした。

 お姫様は呆然と、マリアを見つめていました。言葉をかけることもできません。これが、本当にあの、侍女のマリアなのでしょうか。すると魔物がささやきます。

「お前はあの娘の、何を欲している。そして、あの娘に何を与えることができる」

 自分は何もわかっていない子供なのだと、再び思い知りました。


「そろそろ頃あいだ」

 魔物はうなだれるお姫様を連れて祭壇に立つと、片手を高く上げました。途端に音楽が止み、それまでの喧騒が嘘のように、広場は静まり返りました。魔物は一振りの鋭い剣を捧げ持つと、高らかに呪文を唱え始め・・・。

「お嬢様!!」

 魔物の呪文をかき消すほどの大声で叫びながら、マリアが駆け寄ってきました。


「お嬢様、どうしてこちらに?そのお姿は?」

「マリア、私がわかるの?」

「お髪はどうなさったのです?そのお召し物は・・・ああ、何てことでしょう!」

 驚き嘆くマリアに、お姫様はもう一度問いかけました。

「マリア・・・。私がわかるの?」

 震えるお姫様の目をしっかり見つめて、マリアは言いました。

「もちろんですわ。あなたは私の、大切な、大切なお嬢様です!」

 すると、堰を切ったように涙があふれ、お姫様は大声で泣きだしました。

「マリア!マリア!」

 赤子のように取りすがるお姫様を、マリアは強く抱きしめました。

「マリア、どこにもいかないで」

「大丈夫ですわ、お嬢様。ずっとお側におりますとも」

「マリア、お城に帰りたい」

「ええ、ええ。一緒に帰りましょう」

 その時、二人の様子をうかがっていた魔物がゆっくりと近づいてきました。

「娘、そなたは我等を軽んじ、遠ざけるのか」

 底冷えのするような気配を漂わせ、マリアに問いかけます。

「とんでもございませんわ、尊いお方」

 マリアは魔物に向き直り、嫣然と微笑みました。

「私などをお招きいただき、心から感謝しております。とても楽しゅうございましたわ」

 お姫様がマリアにきゅっとしがみつくと、マリアはその背中を優しくなでてくれました。

「でも、そろそろおいとましなければ」

 魔物が目を眇めます。

「我が眷属となるのを拒むのか」

「私はお嬢様の臣下ですもの」

「我が元に留まれば、この世のすべての快楽がお前のものとなるだろう」

「過ぎた望みは身を滅ぼすと申します」

「ならば、そなたの望みを申せ。なんなりととらせよう」

「私の望みは、いつまでも、お嬢様のお側に仕えることですわ!」


 突然地響きが鳴り渡りました。

 あちらこちらで地面が割れ、黒い闇が噴き出します。人も獣も妖も、ちりぢりに逃げていきました。マリアはお姫様をかばうように身を屈めました。

「お嬢様、お気を強く持ってください」

「ええ、マリアと一緒なら、何も怖くはないわ」

 覆いかぶさるマリアの肩越しに空を見ると、宙に浮いた魔物がこちらをじっと見ていました。見開かれた赤い瞳が宝石のようにきらきらと輝いています。と、その姿も闇の中に掻き消え、ただ、声だけが頭の中に響いてきました。

「浅はかな娘よ!こざかしい子供よ!その得難い主従の絆に免じ、特別に許してやろう。さっさと城へ戻るがいい」

 そして最後におばあさんの笑い声が聞こえたような気がしました。


 頬にあたる冷たい感触に、お姫様は目を開きました。つるつるとした石の床の上に、俯せに寝ていました。慌てて起き上がると、隣にはマリアが横たわっています。そこは、北の宮の食堂でした。髪も服も元に戻っています。見ると、食器も料理もあの時のままでした。

(マリアと一緒に戻って来れた)

 安堵で全身の力が抜けそうになりながら、マリアをゆさぶりました。ほどなくして目を覚ましたマリアは、とたんに顔を顰めました。

「っ!頭が割れるように痛い!ああ、胸がむかむかしますわ!私としたことが、飲みすぎました」

「マリアったら」

 すっかり普段通りのマリアの様子に、また泣きそうになりました。

「戻って来られて、本当によかった・・・」

 マリアがきょとんとして言いました。

「どこから戻っていらっしゃいましたの?」

「どこからって・・・」

 途端に、森での記憶が剥がれ落ちていくのを感じました。確かにそこにあったはずのものが、なすすべもなく失われていきます。

「忘れたくない・・・!」

 目をつぶり、必死で思い出そうとした時には、もう手遅れでした。

「どうしました?」

 マリアが心配そうな顔をしています。

「長い夢を見ていたみたい」

 お姫様は言いました。


 翌日、お姫様は外庭を、祠に向かって歩いていました。奇妙な夢の記憶は、ほんの少し、かけらだけが残りました。赤い瞳、黒いドレス、表情豊かな狼の顔、トカゲ、揚げ菓子。そして最もはっきり覚えていたのは、何かを追って祠に入ったことでした。諦めきれないお姫様は、手がかりを探して祠に向かったのでした。


 古い神様を祀っていたと思われる祠の中には、朽ちかけた祭壇が残っているばかりでした。探しているものが何かさえわからないお姫様は、祭壇に腰かけて、ため息をつきました。すると、下のほうからぽたぽたと小さな音がきこえてきます。

「何だろう」

 見ると、祭壇の脇の敷石の中に、一つだけわずかに模様の向きが異なるものがあります。なんとはなしにそれを押したり引いたりするうちに、がたん、と床の一部が浮き上がりました。

「これは・・・」

 持ち上げると、案の定、隠し通路でした。そこに地下水が染み出して、水音をさせていたのです。古いお城には、こういった抜け道が作られていることがままあります。大抵は、緊急時に避難するためです。

「この通路は、どこにつながっているのかしら」

 お姫様はわくわくしてきました。好奇心で目が輝いています。


「どこまで行けるか、試してみよう。ひょっとしたら、夢の続きが見られるかもしれないわ」


 終わり


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