5、神の使い
宮廷内に忘れられたように存在する小さな武器庫から外に出ると、コーエンは静かに石段を下った。この武器庫は参謀であるワイズが秘密裏にコーエンを呼び出す時にのみ利用されている。コーエンは常にワイズの周囲に気を配り、いつでもどこでもワイズの発した言葉を聞くことができるが、それはコーエンの『力』によるものだ。当然、ワイズはコーエンの言葉を聞くことはできない。そのため、コーエンからワイズへ何かを報告する際には、何処かで顔を合わせなくてはならなかった。そして、国政の舵を握る国務参謀であるワイズと、たかが一軍曹でしかないコーエンはそう安易に面会できるような立場にない。そのため、二人の逢瀬は人目を盗んで行われていた。この事実は、この広い宮廷内でも、二人のみしか知らない。
石段を下ると、通路は政殿の外へと通じている。もともと武器庫に使われていた部屋から通じる道故に、そのまま軍事部の方へと向かう狭い中庭に出られるようになっていた。
コーエンは誰もいないことを確認してこっそりと中庭に出ると、軽く欠伸をした。南中した真夏の日差しが突き刺さるように地面を照らし、とんでもなく暑い。
政殿と軍事部の間に隔たるこの小さな中庭には普段、人通りは少ない。軍人たちは政殿から見下ろせるこの中庭をあまり好かず、中庭とは反対側に位置する軍事部の表玄関の方にばかりたむろしていたし、政殿に務める人間たちは好き好んで軍事部に近付こうともしなかった。
故に普段閑散としているはずの中庭であるが、今日はその中庭に、見慣れぬ二人連れの姿が見えた。
真夏の突き刺すような日差しの中で、一人の少女が笑いながら何かを話している。その隣で困ったようにその話を聞く青年は、軍人でもなく、役人でもなく、下働きですらなかった。彼らは本来、安易に俗世に姿を見せていい身分ではないはずだ。
コーエンはその少女と青年の姿を見て、溜め息混じりに苦笑した。一見下女のような姿をしているその少女は、しかし実のところ、この宗教国家エウリアではとんでもなく尊い位に君臨している。だが、中庭を転げ回って服を泥だらけに汚しているようなその若い娘を見て、一体誰が思うだろう。——彼女がこの国の宗教上の頂点に立つ、巫女だなどと。
「……カグワの君」
コーエンは中庭を突っ切ってその少女の傍へと近寄った。本来巫女というのは、滅多のことでは人前に姿を現さないしきたりとなっている。宗教的な儀式の時ですら、御簾の向こう側に隠れていることがほとんどだというのに、よもやこのような場所で遊んでいていいはずもない。
「また神殿を抜け出したのですか」
そう言って苦笑いを浮かべたコーエンは、この宮廷内でも数少ない、少女の正体が巫女であることを知る人物の一人であった。俗世に姿を見せない巫女がどのような風体をしているのか、知る人間は宮廷内にすらそうそういない。故に、たびたび少女が神殿を抜け出してこのように遊んでいたとしても、多くの人間には下女が仕事をさぼっているようにしか見えないであろう。しかし、エリック・コーエンは、たかが軍曹という立場でありながら、彼女が巫女であることを知っていた。——何故なら、彼は一度、巫女という立場の時の彼女と、対面したことがある。
「あ、エリック!」
そして当然、巫女は巫女で、コーエンのことを知っていた。巫女カグワは、コーエンの姿を見つけるなり立ち上がって、楽しそうにぱたぱたと駆けて来た。その後ろに控えるように着いてくる青年は、軍人でも役人でもない。——彼は、仗身という、巫女専属の護衛だ。一見ただの人間のように見えるが、その実は、獣の性を持つ、獣人という特殊な生き物であった。
「また、このような所に抜け出して……神殿の中は大騒ぎでしょう」
この宮廷の中は主に三つに分けられており、一つが政治や軍事を司る政殿、一つが王家の住まう宮殿、そしてもう一つが巫女を頂点とする聖職者の住まう神殿である。その神殿の長である巫女がいなくなることは、一大事のはずだ。それなのに、当の巫女カグワは平然としている。
「私が神殿を抜け出すことなんて今に始まったことじゃないわ」
「威張っておっしゃるようなことでもありますまい」
「大丈夫よ。ゆたやも一緒にいるんだし」
ユタヤというその仗身は、名前を差されて困ったような顔をした。彼は、獣人であるが故に普通の人間とは比べ物にならないほどの怪力を持ち、その力でもって巫女を護衛する。確かに、どのような危険があろうとも彼が傍にいれば百人力ではあるが、それは神殿を抜け出しても良いという言い訳にはならないだろう。この獣人も、主の気まぐれに振り回されているに違いない。
「そもそも、このような中庭で一体何をなさっているのですか」
どこから調達してきたのであろう下女の服を身に纏い、それを泥だらけに汚しているカグワの姿を目にしてしまっては、笑うしかない。カグワも悪戯っぽく微笑むと、下女の衣装の裾についた泥を払った。
「今日ってとっても暑いじゃない? だから中庭の池を見てたら足だけでも浸かりたくなっちゃって。水際で遊んでたんだけど、危うく足を滑らせて頭からびしょぬれになるところだったわ」
あっけらかんと笑う巫女に対して、此処で初めて隣の獣人が、その重い口を開く。
「……ですから、岩べりは滑りますからご注意下さいと、あれだけ申しましたのに」
危うく足を滑らせるところだったというカグワはしかし、頭から水をかぶった様子はない。ということは、足を滑らせることなく、無事に誰かに助けられたのだろう。その誰かが、傍に控えるこの獣人であることは考えるまでもない。
エウリア国の巫女と言えば、王にも匹敵する高貴な存在である。神の使いとも呼ばれる神聖な巫女が、よもやこのような場所で泥だらけになってはしゃいでいるだなんてこの国の民の誰もが予想しまい。コーエンも、最初のうちはあまりにも型破りな今代の巫女に愕然としたものであったが、今ではすっかり慣れてしまった。
「それで? 今回は何用で政殿までお越しになったのです? まさか水遊びがしたかっただけだとはおっしゃいますまい」
コーエンは言いながら、中庭に生える巨木の下へと移動した。突き刺さるような日差しの下に長時間立っている理由はない。カグワも彼の後ろに付いて巨木の影へと移動しながら、「んー」と唸った。
「ちょこっとワイズに会いに来たのよ」
木陰にちょこんと腰掛け、発されたカグワの声は静かだ。まるで何か含みを持つような声色で、ちらりとこちらを見上げる。コーエンは目を細めた。
——俺の周囲の音は逐一盗聴していろ。
ワイズが国務参謀としてこの国に君臨するようになってからというもの、コーエンは彼の命令で常に彼の周囲の会話を聞けるようにしている。当然、巫女が先ほどまでワイズと会話をしていたことも知っていた。しかし、この『力』のことは、今ではコーエンとワイズ以外に知る者がいない。当然、巫女にも話していないはずだった。故に、巫女は、コーエンとワイズが実は秘密裏に繋がっているのだということも、知らないはずである。——が、不思議なことに、まるで全てお見通しであるとでも言わんばかりに、この少女はいつも国務参謀の話をしてくる。
「……レヴィン国務参謀に? 一体何の用があったのです?」
それでも白々しく知らないふりをして、コーエンは彼女の横に腰掛けた。しらを切るコーエンに対してカグワは少し笑ったが、しかしそれについて追求してくることはなかった。
「ワイズが修道院や内大臣と揉めている件についてよ。神殿の中にいると、『参謀はこの国から神を排除しようとしている』とか大袈裟な噂ばかり跋扈するから、実際のところどうなのかしらって気になって、聞きに行ったの」
軽い口調で言うが、大それたことをする御仁である。ワイズが修道院内大臣と揉めていることは事実であるが、巫女は修道院の長だ。本当ならば、それを理由に政殿と神殿が対立したとしてもおかしくはない切迫した状況なのである。しかし今代の巫女は、実に風変わりである。相手に嫌悪感さえ抱かずに、足取り軽くその私室まで話を聞きに訪れるというのだから。
「それで、どうでした? 参謀の思惑はお見えになりましたか?」
問うと、カグワは再び唸りをあげた。
「どうかしら……? 政略はわかるのよ? 裏金問題って、ワイズが一番嫌いそうな話だし、それを理由に政殿の古狸たちをとっちめてやるってことでしょ?」
「古狸とは……また勇ましい言い方を」
確かに世襲で地位に就いたと言って過言でない内大臣一派のやり方は古くもあるが、それを「古狸」と一蹴できるのはこの国ではカグワかあるいはワイズくらいなものであろう。コーエンは苦笑いする。
コーエンの苦い笑いには気付かず、カグワは額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、木の葉の影から漏れる日光を見上げた。きらきらと木漏れ日が少女を照らす。
「だけどね、ワイズが心の奥に抱えているものは……私にはまだ、見えないわ」
「心の奥……」
「そう……彼は何かを抱えているの。だけどそれを必死に隠してる……だから、冷徹な参謀なんて呼ばれるけれど、それは彼の被った仮面だわ」
「……」
よく、見ておられる、と思った。
彼女の言う「仮面」とは、コーエンが昔から彼に感じている心の奥の氷晶と同義である。ワイズは心の奥を氷晶で固めて、決して表に見せない。二十年来の付き合いであるコーエンですら知らないその心の奥は、巫女とは言え、カグワにもまだ見えないようだった。
巫女は急に押し黙ったコーエンの顔を覗き込んで、その黒い瞳をこちらに向ける。
「……エリックはどう思う? 彼の抱えている物に、何か心当たりは?」
コーエンは少女を見つめて、目を細めた。巫女は間違いなく、コーエンとワイズの間に何かしらの繋がりがあることに気付いている。しかし、それは他言無用の事実だ。この愛らしい少女に露骨な嘘をつき続けるのも気が引けるが、致し方のないことであった。
「……さあ。私は一介の軍人でしかありませんから……存じ上げませんが」
故に、堂々としらをきる。カグワは「そう?」と小首を傾げたが、やはりそれ以上は追求しなかった。二人の繋がりが他言無用であることですら、彼女にはお見通しなのかもしれない。
じゃあ仕方ないわね、と言って立ち上がった巫女は、長い黒髪を揺らして大きく伸びをした。外見はどう見てもただの少女でしかないのだが、きらきらと木漏れ日を浴びて輝くその姿は時にとても神聖だ。
巫女は、このエウリアの国の全ての少女の中から選ばれた、特殊な存在であった。「巫力」と呼ばれる不思議な『力』を持ち、人智を越えた不可思議な技を操る。コーエンの持つ盗み聞きの出来るこの妙な『力』も、どうやらそれと同じ種類のものだと言うが、巫女の持つ「巫力」はその比ではない。人の心を読み、未来の世界を見据え、奇跡すら呼ぶという巫女の『力』でもってすれば、他言無用の事実を探ることなど安易なのだろう。そして、ただの少女でしかないはずの彼女が神聖みを帯びるのも、恐らく『力』の成せる技だ。それは、例え下女の服を纏ったところで隠しきれない巫女本来の輝きである。
そんな輝く巫女の姿に、後ろで控えている獣人が眩そうに見とれていることにも、コーエンは前々から気付いていた。獣人は、巫女の護衛であり、従者である。常にその後ろの控えて彼女の姿を見守ることがその役目であるが、この若い青年が、時折従者の役目としてでなく、ただ一人の青年としてこの少女を見つめていることは一目瞭然であった。
「……それにしても本当に今日は暑いわね。エリックはこれから剣の稽古?」
青年の視線に気付いているのかいないのか、巫女は後ろに控える彼には一瞥もくれず、立ち上がったままコーエンを見下ろして微笑む。少女は首の裏にかいた汗をぱたぱたと手で扇いで乾かしながら、下女の衣装の胸元を暑そうに握った。
「ええ、そうですね。私の稽古というよりも、部下の稽古をつけてやる予定ですが」
「そうなの。暑いのに大変ね」
「そうでもないですよ。役人のように頭を使う仕事でもなければ、巫女君のような厳粛な仕事でもない」
「私、一度も厳粛な仕事をした覚えなんてないけど」
けろっと言ってのけて、少女は暑さにうんざりとしたように、衣装の胸元のボタンをいくつか外してくつろげた。服の中に熱気が篭って蒸し暑いのはよくわかるが、年頃の娘のすることではない。確かに厳粛ではないな、と思わず笑いそうになるコーエンを睨みつけて、動いたのは獣人だ。
「……かぐわの君、此処が暑いのであれば、そろそろ神殿へ戻りましょう」
青年は背中でコーエンから巫女を護るように立ちはだかり、彼女のくつろげた胸元のボタンを即座に留めた。その動きの俊敏さに、コーエンは肩をすくめる。
「えー、でも、神殿に戻ったら巫女の服に着替えなくちゃいけないわ。そっちの方が暑いじゃない」
「ならば神殿の奥の石の間にでも参りましょう。あそこならば幾分涼しいはずです」
「でもあそこは巫力の修行の場所でしょう? 最近特に面白い修行もないし、飽きちゃった」
「そのようなことをおっしゃいますな。神を崇拝する民たちが嘆きます」
「みんな大変ねぇ。神なんかに振り回されて」
さらりと、巫女はとんでもないことを言う。「巫力の修行」とやらが具体的にどんなものなのか、コーエンには知る由もないが、「飽きちゃった」などと公言していいものではないことは確かだ。その上、神の使いとされる巫女が「神なんかに振り回されて」と軽々しく口にして良いわけもない。まるで神を軽んじるかのような巫女の口調が、興味深く思えた。
神など存在しない、と豪語するあの国務参謀が、一度だって神殿と打ち解けたことなど今までなかった。それなのに、今代の巫女、カグワの君が巫女に就任してからというもの、彼は今まででは有り得なかったくらいに神殿と関わり合うようになり、妙な話のあったものだといつもコーエンは訝っていた。だが、この巫女ならば、例え参謀が無神論者であったところで、それが参謀を避ける理由にはならないに違いない。
「……巫女君は」
従者である獣人に服装を正されながら「暑い」とむくれているあまりにも巫女らしからぬ巫女を見上げて、コーエンは問う。
「神を、信じておられるか?」
神殿に仕える神官達が聞けば、「巫女に対して何を聞くのか」と無礼を怒ったかもしれない。巫女は神の使いだ。信じるも、信じないもない。
だが、当の巫女は怒りもせず、それどころか「信じている」と即答さえせずに、首を傾げた。妙な話だ。巫女が、神の存在を即座に肯定しないだなんて。
「……どうかしら。私には、わからない。巫女は神の使いだなんて言うけれど、私は一度だって神に使われたという自覚がないから。——だけど、そうね」
そんな罰当たりなことを口にしても尚、巫女は妙に神聖だった。にこりと微笑むと、まるで輝くよう。
「もしも神がいるのだとしても、こんな私が巫女に選ばれてしまうくらいなんだから、大した存在じゃないんでしょう。神は、人が想像するほど大それた存在ではないのよ」
「そのようなこと……神殿の神官が聞けば嘆きましょう」
「そうかもね。でも私は、そうあってほしいなって思うわ」
「と、言いますと?」
「誰も彼もが神に振り回されて、祈ったところで叶えられない願いもある。もし万能な神が存在するならば、神は民の願いを叶えなかった、無視したってことになるわ。でももし神が存在しても大それたものでないならば、彼は民の願いを叶えなかったんじゃない、叶えられなかったのよ。——もしそんな神なら、私、彼と仲良くやっていける気がするもの。民の祈りは無茶苦茶ね、って彼の愚痴を聞いて。神の使い、巫女として、やっていける気がするわ」
言って、楽しそうに笑った少女は、紛いなく今代の巫女であった。面白い理論の展開をする——が、ある意味ではとても合理的だ。ただがむしゃらに神に縋るより、神など存在しないと否定してしまうより、実は最も健全な考えかもしれない。神の凡俗論——悪くない、とコーエンは納得した。
「……カグワの君は面白いことをおっしゃる」
「そう? 面白いなんて言ってくれるの、エリックくらいなものよ。それこそ神殿ではけしからん! って怒られるもの」
「さようですか。では、そこに控える仗身も、実は怒り心頭ですか?」
「ゆたやはもう、諦めちゃってるんじゃないかしら」
ユタヤと呼ばれた獣人は、「そういうわけではございません」とむすっとしたように答えた。
「私の主は神殿でもなければ神でもなく、巫女君です。ゆえに巫女君の言うことが真理であると信じることに一切の迷いもないだけです」
末恐ろしいほどの忠義を見せる彼はしかし、心の中に忠義以外の想いを秘めている。
「そんなこと言うけど、汗びっしょりよ、ゆたや。そんなに無理して私のこと持ち上げなくてもいいのに」
「これは貴女におべっかを使ってかいた冷や汗ではありません。この炎天下、貴女を追って走り回っていれば自然とこうなります」
「そっか。じゃあ、そろそろ帰る?」
くすと笑ったカグワは、獣人の額に浮かんだ汗を自分の服の袖で拭ってやらんと背伸びをした。しかし主にそんなことはさせられないと慌てて青年は身を引いて、「そうですね、そろそろ帰りましょう」とだけ答えた。その当惑したように笑む彼の瞳の中には確かに慕情が伺える。思わず見ている方がこっ恥ずかしくなるような、若い青年の淡い恋心だ。
そんな彼の心を知ってか知らずか、主の少女の方は、天真爛漫に笑って、木陰を飛び出した。そして木陰に依然座っているコーエンに大きく手を振って、「稽古頑張ってね!」と言う。まるで近所に住まう少女が遊びに寄った帰りのようなその仕草につられて、コーエンも少女に手を振った。本来なら手を振れるような身分ではないのだが、巫女はそれで満足したように微笑んで身を翻し、ぱたぱたと足取り軽く中庭を去って行った。その後ろにぴったりと張り付くようにして、従者の獣人が去って行く。まだ二十にも満たない若い主従は、ただただ、淡い。
彼らの後ろ姿を見送りながら、コーエンは汗の滲んだ首の裏をかいた。
あの年若な巫女が、この国に変革をもたらし、この凝り固まったエウリア国そのものの氷晶をいずれ解かしてくれるのではないかと、こちらの期待もまた、淡い。




