1、厩番の暇つぶし
雨の降らない真夏日、湿気はこの西の国とはあまり付き合いがない。日差しを避ければさして暑さも気にならない爽やかな日で、心地良い陽気であった。しかしそれでも馬に囲まれ納屋の掃除をしていると、汗が滝のように溢れてくる。喉が乾いて仕方がない。アキレスは首にかけたタオルで額を拭うと、納屋の外に出た。納屋の裏側には小さな水飲み場があり、本来馬用のものであるが、毒のあるわけではないため人でも飲める。——もし町中であれば、市民にとって貴重な飲料水となろうが、此処は仮にも宮廷の敷地内だ。馬用の水など厩番であるアキレスの他に口を付けようとは思わない。
アキレスは、今年十八になったばかりの若き青年であった。彼の仕事は、この厩の世話をすることである。宮廷内にはこの他にもいくつもの厩があるが、彼の担当する納屋はその中でも最も規模が小さい。正門と裏門の間に作られた、密偵や小間使い程度にしか使われない業務用の出入り口の脇に作られた納屋であり、飼われる馬の数も少なければ品種もさして良質ではなかった。そのため、形式上は他にも幾人の下官がこの厩の当番として任じられているものの、下官達には厩の世話より重要な仕事が多々あるらしく、実際にはアキレスが一人で切り盛りしているというのが正しい。あるいは、アキレスともう一人、たまにふらりと現れる変わった軍人の二人で馬の世話をしているというのが正しい。
アキレスは水を飲んだついでに顔も洗い、眩い空を仰いだ。なんとも似つかわしくない、平和な空模様である。
此処、西エウリア君主国は、去年の冬から半年間、隣国の北ラウグリア帝国と戦を続けていた。事の発端は、西国エウリアの要人を北国ラウグリアが誘拐したことだと言われているが、その真偽は定かではない。北国は帝政を語りながらも軍の支配する軍国であり、もう十年以上も前から戦ばかり続けている。ついに東国ヤンムは北国に敗戦し、北国の領土と化したという話も聞くし、勢いを増した北国が次は西国エウリアの領土を狙って戦を仕掛けてきたのだろう。
なんにせよ、戦場は此処首都から遠く離れた北国と西国の国境付近だ。毎日平和な宮殿の厩番をしているアキレスにとっては遠く、未知の世界の話である。
「——よう、アキレス」
突然、背後を取られて、アキレスは飛び上がった。慌てて振り返れば、そこに立っていたのは無精髭の中年である。彼は大きな欠伸などしており眠そうだ。なのに、全くその気配さえ感じさせなかった。無精髭のためか威厳こそないが、軍服を纏い腰に帯刀したこの男は、これでも軍曹なのである。
「コーエン軍曹……。驚かせないでくださいよ」
コーエンはからからと笑って、厩の脇に積み上げられた干し草にもたれて座った。此処が、彼の定位置である。暇な時にはこうして此処を訪れて、厩の世話を手伝ったり昼寝をしたりしている彼は、とんだ変わり者だ。恐らくこの場所の人通りの少ないことを知って、重宝しているのだろう。
「軍曹……お仕事は?」
「ない」
コーエンの短すぎる返答に、アキレスは肩をすくめた。彼はこれでも、西国を護る兵士の一人なのである。
「……国境付近では、今日も北国との戦が繰り広げられているというのに」
溜め息混じりにアキレスが言うと、コーエンは干し草の上にて大きく伸びをして、笑った。
「俺は王宮を護る官軍の兵士だ。首都まで戦火の広がらない限り、忙しくはならねえよ」
「冗談じゃない。首都まで戦の炎で焼かれるなんて、軽々しく言わないでください」
「なら俺の暇を奨励するんだな。俺が此処でのんびり昼寝をしている限り、首都が燃やされることはない」
「逆でしょう。首都が燃やされることがないから、貴方はのんびりしていられるんです」
きっぱり言い放つと、コーエンは「さもありなん」と笑った。その笑顔に、これ以上掛け合っても無駄だなと悟ってアキレスは彼の隣に腰を下ろす。そもそもアキレスは一端の厩番でしかない。彼には軍人の仕事のあり方もわからないし、彼の仕事を心配する義務も権利もないというものだ。
「……しかし此処は平和だな。同じ宮廷内とは思えないほどだ」
干し草の上に寝転がって空に浮かぶ雲を眺めるコーエンが呟いた。その言葉に含みを感じてアキレスはちらと隣の男を見やる。
「……と、言いますと? 宮廷内のどこぞでまた諍いが生じているのですか?」
「……聞きたいか?」
コーエンはアキレスの方を一瞥すると、にやりと笑った。「本当は自分が言いたいくせに」と喉元まででかかった言葉をアキレスは飲み込む。この男はいつでもそうだった。宮廷内や軍の中で何かしら問題が生じると、この納屋までやってきて、アキレスの仕事を手伝いがてら、愚痴を零していく。恐らく仕事場ではとても言えないようなことばかりだから、一介の厩番でしかないアキレスは愚痴の吐き出し口として使っているのだろう。とは言え、彼の他にたかが厩番に対して国政の内部事情を教えてくれる者などいなかったので、アキレスがそれを楽しみにしているというのもまた、事実である。
「今回は、軍ですか? それとも内大臣と国務参謀の抗争ですか? それとも——」
「今回は新しいぞ。国家がついに、修道院に目をつけた」
「修道院……?」
予想もしていなかった答えに、アキレスは目を丸くした。
西国エウリアは信心深い、宗教国家であった。国政を支配する王家や国家の権力は絶対であったが、それに匹敵するほどに、修道院の権力も強い。両者は互いに非干渉であり、国家と修道院は連立していた。修道院は国政には口出しをしないし、国家も信仰に口出しをしない。そうして何百年もの間、調和を続けて来たのである。
まさか、その修道院に対して国家が干渉しようとしているなんて、前代未聞だ。
「でも、何故、修道院に……? それは議会の決定ですか?」
「議会の決定と言えばそうだが……議会の参加者全員の意思というわけではない。ほぼ、一人の独断だ」
「……と、いうことは、レヴィン国務参謀ですね」
「おう。よくわかるじゃねえか」
「だって他にいないじゃないですか」
国政を取り仕切るのは、議会の役割だ。議会は各大臣を筆頭とする官僚の長によって構成されており、彼らの意思で国政は右へも左へも動く。そしてその中で現在最も強い権力を握っているのは、国務参謀である。議会の決定を独断で行える人間など、彼をおいて他に居ない。ワイズ・レヴィン国務参謀。僅か三十の年の時にその地位に付いて以来五年間西国エウリアの国政の舵を握ってきた人間として、その名を知らない者などいなかった。
「レヴィン参謀が動いたのなら、その決定は絶対ですね……でも修道院に掛け合って、何をするつもりなんでしょう。修道院なんて、国政には何も関係ないような気がしますけど……」
「ところが、あるんだな。——内大臣と国務参謀が常に議会で対立していることは知っているか?」
「ええ……有名な話です。参謀が内大臣の管轄の仕事までやってしまうとかなんとか……」
「まあ、端的に言えばそうだな。内大臣の役は、王の補佐だ。王の周囲の事務的な仕事から王からの宣下も、本来は全て内大臣を通して行われる。だが、今現在それを取り仕切っているのはほぼ参謀だからな」
国務参謀の仕事は主に、立法や司法以外の国務について戦略を立てることである。しかしながら、レヴィンの働きはその役を大幅に超過していた。議会の決定権を持つからには立法にも大きな影響力を持ち、司法の役割を果たす刑部にも彼は口が利く。そして、彼が大きな力を持つ最大の理由は、現帝からの信頼であった。
信頼とは言え、現帝はまだたった齢三つになったばかりである。当然、国政のなんたるかもわからない。しかし、レヴィンを参謀にまで持ち上げたのは、一重に今は亡き前帝の信頼故であったと言えよう。そしてその第一子である現帝もまた、父に倣ってレヴィンによく懐いているというわけである。
そしてそれを、王の補佐である内大臣がよく思わないのは至極当然の成り行きであった。故に、レヴィン参謀と内大臣との不仲はとても有名な話である。
「その、内大臣が……修道院と何か関係があるのですか?」
依然、参謀が修道院に介入する理由がわからずアキレスが首を傾げると、コーエンは空を仰いで「その通り」と頷いた。
「権力でも知力でも、内大臣ではレヴィン参謀に勝てない……が、唯一参謀に勝てるものがある。——財力だ」
「財力……」
「内大臣は元より有力豪族の出ではあるが、それにしても金の羽振りが良い……すなわち、後援者がいるんだな。表立っては露見されていないが、おそらくそれが、修道院だ」
「え、まさか!」
「そのまさかだ。内大臣は修道院と古くから癒着してるんだよ」
「でも、信仰と国政は原則干渉しあわないものです」
「だから表立っては露見されない。しかし参謀はかねがねから気付いていたよ。いつかは修道院ごと内大臣を罷免してやるつもりだったんだ。その計画がようやく始まった、とういうことだ」
なんと、とアキレスは瞠目した。
一般市民にとって、国家は国の運命を握る存在であり、現世の最高権威であった。それに対して修道院とは現世とは切り離された神聖な存在である。アキレスも少なからず、修道院を通して神を信仰してきた。それなのに突然その神聖さの裏に黒い影が見えると、動揺してしまう。
「でも、でも……修道院ごと罷免してやるって、どういうことですか? 内大臣の罷免はまだ理解できますけれども……修道院ごとって。まさか、修道院をこの国からなくすつもりなんでしょうか?」
「まあ、修道院ごと排斥するのは難しいだろうな。何百年と続いて来た信仰を、明日からやめろと弾圧したところで一般市民からの反発は免れない。だが、そこはあの怜悧な参謀のことだ。考えてあるだろう」
「考えてあるって、一体……」
「さすがにそれはわからんが。修道院が燃える日もそう遠くないかもしれないぞ」
「燃えるって、そんな……罰当たりな!」
アキレスはその光景を想像して、思わず身震いした。修道院のような神聖な場所では、帯刀することさえ憚られる。よもや神の前で争いなど出来ようはずもない。その修道院を、燃やそうなどと企んでいるのだとしたら、それはあまりにも恐れ多いことだ。
そんなアキレスの考えを読み取ったかのように、コーエンは軽く笑った。アキレスを初め、多くの市民にはそれだけ信仰が強く根付いている。
「参謀は神を恐れない。というより、信じていないんだ。そんなものは存在しない。存在しないものを恐れることはない」
「それを言ったら俺だって、確かに修道院とか神像の前で竦んでしまうことはありますけど、実際にそれが存在するのかどうかはわかりません。神を見たことなんてないですし、存在しているなんて胸を張って主張はできない」
「普通は見たことないからこそ、縋るんだ。人智を越えた災いがあると、それに対抗できるのは、人智を越えた何かだと思うだろう? だから、神に縋る。お前だって天に祈ったことはあるはずだ」
「それは、ありますけど……」
アキレスは眉をひそめた。神が実在するかどうかはわからなくとも、自分ではどうにもならない事象を前に、天に祈った経験くらい誰にだってあるはずだ。それが人の心情というものではないのか。
「じゃあ、参謀は、祈ったことさえないというんですか?」
「どうだかな。必要がないんだろう」
アキレスはそれ以上質問もできずに、口を噤んだ。
祈る必要がないということは、全てを叶える力を手にしているということだ。もしそうだとしたら、その人物こそが神に思えたが、アキレスからすればレヴィン国務参謀と言えば神にも近い存在だった。ひょっとしたら、本当に神に縋る必要もないのかもしれない。
押し黙ってしまったアキレスを見やり、コーエンは柔らかく笑んだ。彼は軍服の前をくつろげて風を服の中に取り入れる。どうやらとても暑いらしい。
「まあ、かねてより、参謀は修道院が嫌いだ。それで罰が当たろうがなんだろうが関係ないとでも思っているに違いねえ。ただ、一つ気になるのは……信仰の長、巫女君の存在だな」
「巫女君」
突然コーエンの口から飛び出したそのあまりに尊い存在に、アキレスは必要もないのに姿勢を正した。
西国エウリアにおいて、「巫女」というのは信仰の頂点、最も神に近いと言われている。国政の舵を取るのが議会ならば、信仰の舵を取るのが修道院だ。そして、国政の頂点に立つのが皇帝ならば、信仰の頂点に立つのが巫女だった。皇帝と巫女の間には上下関係もなく、両者は連立している。すなわち西国エウリアでは、巫女といえば皇帝に匹敵するほど高貴で、神のような存在であった。
「そうか、修道院を弾圧するとなると……当然巫女君も何らかの影響を受けてしまうんですね」
「修道院をまとめるのが巫女だからな……だが、気になるのはそこじゃない。——実は、その巫女君が、参謀と懇意であるということだ」
「……えっ、巫女君と参謀がっ?」
アキレスの声が、裏返った。
何度も言うが、巫女と言えば彼ら一般市民にとって、神のような存在だ。アキレスはその姿を見たこともなければ、想像さえつかない。いくら国務参謀とは言え、レヴィンは普通の人間の出自だ。それが巫女と仲良くしているのだという事実が、信じ難かった。
「懇意であるというと語弊があるかもしれないが……巫女君はレヴィン参謀を大層お気に入りだ。たびたび彼の元を訪れては下らない世間話さえするという。そして参謀は参謀で、それを厭ってはいない」
「世間話……」
アキレスは目を白黒させた。神のような存在だと思っていた巫女の世間話とは一体、どのようなものなのだろう。
「今代の巫女君は変わっておられてな……本来巫女というのは神殿からは決して外へは出ないものだ。謁見できるのも、大司教や皇室と、身分の高い者のみと決められている。だが、今代の巫女君は、度々神殿の外に忍び出ては宮廷内を遊歩なさっておられる」
「ええええええっ……それって、大問題になりません?」
「バレればな」
コーエンは苦笑を浮かべた。
今代の巫女、とコーエンが言うように、巫女も国王と同じで代替わりをする。その時期は皇帝と共にと決められており、すなわち国王が崩御すれば同時に巫女も崩御し、新王が即位すれば同時に巫女も即位した。今現在の王が即位したのは去年のことである。すなわち、今代の巫女もまた、即位してから一年も経っていなかった。
「とは言え、お偉いさん方には当然バレている。去年行われた巫女の就任式に、議会の構成員は大概出席しているからな。巫女君の顔もよくご存知だ。とは言え、相手が巫女君では文句も言えない。たまに巫女君が隠れてこそこそ宮廷内を遊歩しているのを見て、皮肉を飛ばすくらいだ」
「飛ばすんですか……」
アキレスは呆然としてしまった。今まで雲の上の存在だと思っていた巫女という存在が、急に俗な物に感じられる。
「なんといおうか、気安い方だよ」
「本当にそうですね……しかし、そんなことして大丈夫なんですか?」
「そうだなぁ……まあ、気付いているのはお偉いさん方だけだしな。それに、今代の巫女には、忠実すぎる仗身が付いている」
「仗身……?」
「巫女の護衛のことだ。それもただの人間じゃない。獣人が務めるのが古くからのしきたりとなっている」
「獣人っ?」
アキレスは息を呑んだ。
獣人とは、人と人の間に数奇な確率で生まれる、特異体質の人間のことを言う。産まれた当初は人の姿をしているため、最初は誰もそれが獣人であると気付かないが、成長とともに獣と化し、最後はただの化け物となる。故に化け物となる前の幼いうちに殺してしまうことが、常識となっていた。
「獣人が護衛って……そっちの方が危ないじゃないですか」
「獣になってしまえばな。だが、もとはただの人だ。それに、獣になればなったで、凡人なんぞよりずっと強い力を持つ。だから、人の心を保ったまま自由に獣に変化できれば、これほど強い護衛はない」
「そりゃそうですけど……それが出来れば苦労しないでしょ」
「そこで、巫女の力が試されるんだ。巫女は自分の仗身の獣の性を封印する。それによって獣人は人の姿を保ち、人の心を保ち、いざという時のみ獣の姿に変化して巫女を護るというわけだ」
「そんなことが……出来るんですか」
「巫女の力……『巫力』という。神に恵まれた力と神教では言うが、実際はどうなのかわからん。いわゆる特殊能力だ」
「特殊能力……?」
「獣人の獣の性を封印することもそうだが、例えば未来を予知したり、遠くの人間の言葉を聞いたり。人の心を読んだり、人の心を操ったりすることもできるそうだぞ」
「え……それ、人間ですか?」
「人間だ。凡人ではないがな」
「……全く俺には理解ができません……だから、巫女なのですね」
思わず感嘆の声が、漏れた。一度身近に感じられた巫女という存在が、再び雲の上へと昇って行く。やはり巫女は神のような存在だ。
「だが、いくら封印しているとは言え、獣人は畜生類の性根を持つ。獣人を宮廷内に連れて歩かせる巫女君を、大臣共は快く思わない。そこで、皮肉を飛ばすわけだ」
「皮肉ねえ……巫女君に飛ばす皮肉なんて、俺には到底想像もできませんよ」
「まあ一番よく聞くのが、『東の巫女』っていう奴だな」
「東の巫女……?」
「今代の巫女君は、東国の出身なんだ」
「……へええっ!」
アキレスは声を荒げた。
東国ヤンム帝国は、西国エウリアに隣接する国の一つだ。東西南北四つの国の中では最も後進国と言われ、西国エウリアには東を蔑む風習さえある。故に、「東の巫女」とは、彼女を貶す言い回しなのだろう。しかし、アキレスは彼女が例え東の出身だったとしても少しも蔑む気にはなれない。むしろ、覚えるのは親近感ばかりだ。
「俺も、東国の生まれなんですよ!」
「おう、そうだな」
「うわあ、急に親近感が湧いてきました……! まさか巫女君が東の出身だなんて……!」
アキレスも実のところ、東国ヤンムの出身だった。本名は、「あくる」と言う。しかし西国の人間にはその発音が難しいらしく、「アキレス」と名乗っているのが現状だ。
と、舞い上がっている中、ふとアキレスは疑問に気付いた。「自分は東国の生まれだ」とアキレスが告白すると、コーエンは「そうだな」と頷いた。しかし、アキレスは一度だって彼に自分の出自国を告げたことはない。
「あれ……? 俺、軍曹に東国の生まれだって、話しましたっけ?」
「いや、聞いてはないが、顔立ちがどう見ても東国風だからな、お前は。それに、東国の生まれでもなければお前みたいな利発な奴が厩番に留まるわけもないだろう」
「そんな……褒めても何も出ませんよ」
アキレスは若干照れながら、苦笑いした。
確かに、この西国エウリアでは、東国の出身だというだけで出世街道から外れたも同然である。これも東国を蔑む風習の所為だ。故にアキレスも、厩番以上の出世は諦めてしまっているという節がある。
「でも……巫女君は東の出自なのに、巫女に就任されたわけでしょう? 出自国なんて、言い訳にしかなりませんね」
青年は、首を竦めた。アキレスには巫女に就任する過程などわかるはずもないが、それは神に最も近い存在、皇帝にも匹敵する位だ。東国の出身でも、それだけ高貴な位に付けるのだから、自分が厩番から出世しないのは、やはり自分の能力が秀でていないからだと思えた。
そんなアキレスの心のうちを知ってか知らずか、コーエンは真顔で遠い空を見上げた。彼はいつもふざけた笑いを浮かべているくせに、たまにこういった真面目な顔をする。そういう時にアキレスは、この男こそただ者ではないと思ってしまうのだ。
「まあ……巫女は特殊だからな。彼女が巫女になれたのは、実力というよりも運命だ。『東の巫女』などと呼ばれて大臣共にみくびられてはいるが……彼女が今代の巫女に就任したのには、何かしら運命的な理由があるように思えてならねえ」
「運命的な、理由、ですか……?」
「彼女の仗身は恐ろしく忠実だ。巫女君に惚れ込んでいて、彼女のために命さえ落とせる。獣人は迫害の対象だから、そんな背景もあってあまり人間とは友好的にはなれないものだが、あれは特別だな。あんなに自分の主に懐いている仗身など、俺は他に見たことないよ」
と、いうことは、コーエンは今代の巫女の他にも巫女を見たことがあるのだろうか。アキレスはその問いを口にすることはできずに、飲み込んだ。たかが軍曹でしかない彼が、巫女に謁見できる立場にあるはずのないことは、厩番であるアキレスにだってよくわかる。それでも彼が見たというのだから、見たのだろう。食えない男であるが、嘘を吐くような男ではない。アキレスは彼を信じている。
「仗身だけじゃない。レヴィン参謀とてそうだ。——あの御仁は、他人を信用しないし他人に心を許さない。国政だけに一途で、他者とは必要以上に関わらないが……巫女君だけには心を許していると、俺は思う」
「……参謀が?」
「うん。だから、気になるんだ。参謀は今、修道院に対して喧嘩を売ろうとしているわけだが、その頂点に立つのは巫女君だ。……果たしてどうなることやら」
独り言のように呟いて、コーエンは干し草の上に転がったまま目を瞑った。どうやらこのまま昼寝をするつもりらしい。
アキレスは彼の顔を見下ろして、どうやらこれで「愚痴」は終わりのようだなと悟った。アキレスには正直彼が何者なのか、よくわからない。彼は自分のことを軍曹だと言うし、確かに軍服に付けられた記章からも、彼が軍曹という地位であることが伺える。だからアキレスは彼のことを「コーエン軍曹」と呼ぶが、しかし彼がただの軍曹ではないことも瞭然だった。だが、彼が自分でその真実を話す気になるまでは、問わないでおこうとアキレスは心に決めていた。コーエンにとってアキレスは愚痴の捌け口のようなものに違いない。妙に詮索は、しないほうがいい。
「……軍曹、俺、汗かいたんで、服を着替えてきたいんですが」
アキレスは目を瞑ったコーエンの顔を覗き込んで、言った。詮索はしないが、此処に愚痴を吐き出しにくる以上、手伝いくらいはしてもらうつもりだ。
「俺が帰ってくるまで、厩番、よろしくお願いしますね」
そう告げると、コーエンは目を瞑ったまま片手をあげて合図した。「行ってこい」ということらしい。
アキレスは干し草の上から立ち上がって服についた草を払うと、厩の周囲をぐるりと回って門からは逆の方へと歩いた。門の前に作られた厩から、彼ら下吏の住まう宿までは若干遠い。そびえ立つ王宮の裏側を通って、ぐるりと日の当たらない薄暗い場所に居住地があった。アキレスを初めとした位の低い勤め人は皆、そこに住んでいる。
まだ時は午前中、他の勤め人たちも働き始めたところで、今居住地に帰っても誰もいないだろうなと思いながら、アキレスは王宮の裏側を歩いた。コーエンに厩番は任せているとは言え、そんなにのんびりもしていられない。
王宮の裏側には、あまり人通りがなかった。通るのは彼のような下役のみだ。今日も閑散としたその道を歩きながら、ふと、アキレスは視線を感じて顔をあげた。どこだろう。誰かに見られているような気がする——。
上の方だと気付いて、王宮の方を見上げると、王宮の上階の方から、一人の少女がこちらを見下ろしていることに気が付いた。黒髪の可愛らしい少女だ。年の頃はアキレスより一つか二つ若いくらいであろうか。格好からして、下女か何かであろう。きっと王宮内の掃除でもしているに違いない。
少女はアキレスと目が合うと、驚くでもなく、にっこりと微笑んだ。柔らかいその笑みに、吸い込まれそうになる。
(……可愛いなぁ)
美人、と呼ぶにはあまりにも幼い顔立ちをしていたが、とても整った顔で微笑まれると、至福であった。思わずぽんやりと少女を見上げる。
と、思ったら、すぐに後ろから渋い顔をした男が現れて、こちらを睨みつけるなり少女を連れて何処かへ去って行った。突然のことにアキレスは瞬く。アキレスはただ、窓辺の少女を見上げていただけだ。それなのに何故、睨みつけられなければならないのか。
(……なんだあいつ)
アキレスはむっとしながらも、再び歩き始めた。少女がいないのなら、此処に足を止めていても仕方ない。
王宮は広い。アキレスは此処に務め始めて早三年だが、まだそこに住まう一割りの人の顔も覚えていなかった。あの少女もきっとこの王宮に務める一人なのだろう。あんな可愛い子がいるんだなぁと年相応の幸せを噛み締めながら、アキレスは歩いて行く。
北との国境付近では昼夜戦が繰り広げられ、宮廷内では水面下で諍いが生じ、修道院にさえ不穏な空気が漂うというのに、此処はとんでもなく平和だ。アキレスは今日も馬と向き合うだけの一日を過ごす。
青年は、まだ何も知らない。いずれあの少女が、自分の前に現れるその日まで、まだ彼は平穏の中にいた。




