12、嫉妬する
カグワを追って辿り着いたのは、国城の最東端に位置する掘建て小屋であった。ユタヤとて主を追って何度も神殿の外へと出た経験はあるのだが、此処へ来たのは初めてだった。カグワが巫女に就任してから約一年、国城の中は一通り駆け巡ったと思っていたが、まだ知らないところがあるなんて、と驚きを隠せない。想像していた以上に城の敷地は広大なようだ。
掘建て小屋のように見えた矮屋は、どうやら厩のようだった。いくつか小窓が開いていて、その中で馬が数頭いなないている。小屋の脇に小道があり、その先に馬一頭がようやく通れるような小さな門があった。おそらくこれが「連絡用通路」と呼ばれるものなのだろう。カグワはその門を見上げて、きゅっと唇を結んでいる。連絡用通路とは言え、開放されているわけではないらしく、門は頑丈に施錠されていた。
その頑丈な錠前を見て、ユタヤは心の底で安堵する。もしも連絡用通路が安易に開け放されているようなものだとしたらどうしようと思っていたのだ。これで、今はカグワが外に出ることはできない。
此処から出ることは難しそうですね、と門を睨みつけている主に向かって口を開こうとしたその時、ユタヤよりも先に声を発した者がいた。
「——誰だっ?」
その声を受け、カグワもユタヤも声のした方を振り向いた。別段、驚きはしなかった。厩の方に人の気配があることには最初から気付いていたし、どうせ厩番の下男か何かだろうと思っていた。
「そこで、何をしている?」
訝るような目でこちらを睨みつけてくるその少年は、予想した通り厩番のようだった。片手に水を組んだ桶を持ち、片手に馬の餌となるのであろう草の束を抱えている。黒髪の東国風の顔立ちをした少年だった。ひょっとしたら東国の生まれかもしれないし、あるいは両親が東国人なのかもしれない。
カグワは少年のその姿を見て瞬くと、ちらりと門を見上げた。
「この門って……?」
「その門は許可された者しか通れない。俺のような下男や君みたいな下女が逃げようたってそうはいかないんだよ」
少年はカグワのことを脱走しようとした下女だと思ったのか、そう言った。カグワは「そう」とだけ答えると、それ以上は問わなかった。代わりに、桶と草を持って厩の中に入って行った彼に興味を持ったのか、その後を追って厩の中を覗いた。
「ねえ、貴方は……この厩の番人さん?」
少年は馬の前の餌置き場に草を並べながら、自分に興味を持って来たカグワを怪しむようにひとまず頷いた。
「……そうだよ」
「ふうん。一人で切り盛りしてるの?」
「そういうわけじゃないけど……でもいつも此処にいるのは俺くらいだよ」
「へえ! じゃあ、コーエン軍曹が言ってた厩番って貴方のことね!」
いつもなら「エリック」と名前で呼ぶ軍曹のことをコーエン軍曹と呼んだのは、下女であることを疑われないためであろう。さすがのカグワも此処で自分の正体を明かす気はないらしい。
コーエン軍曹、の名前を聞いた少年は桶を運んでいた手を止めると、少しだけ驚いたような顔をした。
「……軍曹を知ってるの?」
カグワは満面に笑みを浮かべて頷く。
「ええ。よく剣技の訓練の合間にお話するの」
「……あの人、此処だけじゃなくていろんなところでさぼってるんだな」
「本当よね。いつ仕事してるのかしら!」
にこにこと輝かしいほどの笑みを浮かべるカグワは厩の中に足を踏み入れて、いななく馬の顔を撫でた。ユタヤはその姿を見守りながら、厩の入り口付近に控える。
「あ、こら、勝手に入っちゃ駄目だって……」
断りもなく入ってきたカグワに慌てたように立ち上がった少年は、しかし、一瞬で馬を手なずけたカグワを見て、目を丸くする。そして、「邪魔はしないわ」と言って微笑んだカグワのその笑顔に見とれ、小さく呟いた。
「あれ……君、前、どこかで……?」
「え?」
カグワは少年の言葉がわからなかったのか、首を傾げる。しかし、その後ろに控えるユタヤは、少年と全く同じことを思っていた。——前に一度、この少年を見たことがあるような気がしたのだ。
とは言え、同じ国城の中なのだからどこかで無意識にすれ違っていることもあるだろうと思ってさして気にはとめていなかった。が、今の少年の言葉で氷解した。——以前、政殿の中へカグワが忍び込んだ際に、政殿の外からカグワに見とれていた少年だ。
しかしどうやらそのことを思い出せたのはユタヤだけのようで、カグワも首を傾げたままならば、少年も「いや気の所為かな」と笑った。
少年は桶の中の水を馬の水飲み場に移すと、「ほら外に出て」とカグワを追いやる。それに続くようにユタヤも厩の外に出ると、少年はちらりと彼を見上げて不思議そうな顔をした。
「え、と……彼は?」
少年が疑問に思うのも無理はない。ユタヤはカグワの後ろに張り付くようにして、だがしかし一言も発さない。その上、下女の服を着ているカグワとは異なり、ユタヤは神殿に住まう仗身の服装をしたままだ。仗身の纏う服は装衣と呼ばれ、白い布一枚で作られた奇妙な形の服だ。しかもその上に獣人の「獣」を封じる巨大な数珠玉を巻き付けているため、神殿の外の人間にはその姿は見慣れないことであろう。
ユタヤが自分の存在をどう説明したものかと迷っている間に、カグワがにこりと笑顔を浮かべながら答える。
「私と同じ下働きよ。ここでは兄妹みたいなものかな。仕事内容は事情があって言えない」
カグワはうまく言い繕った。城内には様々な職種があり、中には事情があって他言できないようなものもある。少年も厩番とは言え城に仕える人間であるからにはそれを察したのか、それ以上は問うてこなかった。ユタヤの奇妙奇天烈な格好も、その職種に関連しているに違いないと納得したことだろう。
ただ、「兄妹みたいなもの」と言ったカグワの言葉が、妙にユタヤの心に引っかかった。この場を凌ぎ、兄妹みたいなものだから一緒にいるのだと言い繕うために言ったのかもしれないし、あるいは本当にカグワがそう思っているから言ったかもしれない。確かに、まだ片手で数えられる年の頃から傍にいて、ともに育った二人は家族同然と言えなくはない。実際にカグワはそう思っていることだろう。だが、ユタヤは——どうだろう。
そんなユタヤの複雑な心境など露知らず、カグワは厩の外に出て、少年の後について行った。少年は厩の裏にある干し草置き場の所にまでくると、その干し草を背もたれにして腰を下ろした。彼の仕事はこれで一段落ついたのか、あるいはカグワがまとわりつくので仕事ができないのかもしれない。
「ねえ、貴方、名前、何ていうの?」
「……アキレス」
少年は短く名前だけを答えた。仕事を邪魔されて怒っているわけではなさそうだ。どちらかといえば、照れているような、そんな面差しである。カグワはそんな彼の様子に気付いているのかどうだか、「ふうん」と嬉しそうに言うなり、アキレス少年の隣に遠慮なく腰を下ろした。
「私はかぐわよ。あっちにいるのがゆたや」
カグワは臆することなく自己紹介をして、カグワを見失わないようにと厩の裏側に移動して小屋にもたれかかっているユタヤを示した。ユタヤは少しの躊躇もせずに本名を明かしたカグワの不用心さに眉をひそめる。カグワはその表情からユタヤが何を案じているのか悟ったらしく、「平気よ」と言葉にすることなく微笑みだけで伝えてきた。ユタヤはぶすっとしてそっぽを向く。なんとなく、気に食わない。
「かぐわ、ゆたや……?」
そっぽを向いたユタヤには全く気付いていないようで、アキレスは二人の名前を綺麗に発音して両者を見比べた。その言葉の発音は、西国生まれの西国育ちには難しい。何しろ「かぐわ」も「ゆたや」も東生まれの名前なのだ。
「そうよ。東の言葉が上手ね。あんまり西国の人には綺麗に発音できないのだけど」
「上手もなにも……俺も東の生まれなんだっ。アキレスっていうのは西国なまりにして呼びやすいようにしているだけで、「あくる」っていうのが本名」
「あくる! 朝日の昇る様子のことね! いい名前だわ」
「ありがとう……。この城に来て、自分の本当の名前を呼んでもらったのって初めてかも……なんだか嬉しいよ。ありがとう」
アキレスはいかにも東国生まれの顔立ちで、それはそれは嬉しそうに笑う。その笑みを見て、カグワもにこりと笑った。彼女の漆黒の瞳も、くっきりと目を浮かび上がらせる濃い睫毛も、薄紅色の唇も、東国生まれならではのものだ。しかし、他のどの少女よりも愛らしい。その微笑みが何より、心臓を抉るようだ。
間近でその微笑みを見たアキレスは、しばし彼女に見とれ、それから慌てて目線を逸らしてあははと誤摩化すように笑った。少年は頬をかきながら、青空を見上げて呟くように言う。
「なんか、同じ東国生まれだからかなー。すごく君って懐かしい感じがするね」
「そう?」
「うん。なんだか初めて会った気がしないというか……」
それはそうだ、初めて会ったわけではないのだから、という言葉をユタヤは喉元まで持って来て、飲み込んだ。会ったとは言え、お互い政殿の窓を介して遠目に見ただけのことである。カグワもアキレスもその時のことなど覚えていないようで、覚えているのは自分だけである事柄をわざわざ主の会話に割って入ってまで伝えるべきではないと判断した。
しかし、それにしても、こうも露骨に恍惚とされると、気に食わない。ユタヤは腕組をして地面を睨みつけると、誰にも聞こえないように小さく溜め息を落とした。
二人の会話は依然として干し草の上に座ったまま、続けられている。
「あまりこの城には東国生まれの人っていないものね」
「それはそうだろう。西国の城なんだから。俺たちもここではどんなに頑張っても下働き止まりなんだろうなー……」
「そう? 頑張ればもっと登り詰められるかもよ?」
「無理だろ。だって東国の人間はこの西国ではあまり好かれていない。東蛮人って言葉を君だって何度か言われたことがあるだろ」
「あー、そうねー……しょっちゅう。私あんまり規則を守らないから、これだから東の人間はっ、って」
「それは東の人間かどうか以前の問題でしょ」
アキレスは楽しそうに笑う。傍目から見ていても、カグワの開けっぴろげにされたその性格に、彼がどんどん魅了されていくのがわかった。
「でも、どうかしらね……確かにまだ東国を蔑む習慣の残っている御仁もいるようだけど……中には能力さえあれば関係ないって考える人も増えているみたいだから、これから先はどうなるかわからないわよ」
「そうかなぁ。俺はあんまり変化を感じないけど」
「だって例えばワイズ……レヴィン国務参謀は、秘書として確か東国出身者も使っているはずよ。それに何て言ったって、彼の右腕秘書は女性だもの」
女はこの西国エウリアの政治の場においては、東国出身者と同じくらいに差別され、軽視され続けてきた。ゆえに政殿にほとんど女はいない。いるのは掃除をする下働きばかりである。その中で女性秘書セレスト・アンダーソンを右腕とするワイズは異例であった。彼はその人間の能力のみを見て、見た目を重視しない。冷徹な参謀という異名に相応しい立ち振る舞いである。
しかし、その事実は政殿でこそ有名であるが、城の中ならば何処でも通じる話というわけでもない。当然下働きにそれが知らされているわけもなく、この城の端の厩を任された番人も、驚いたように目を丸くしていた。
「へ、え……なんで、そんなことを知っているんだ?」
「え」
カグワは短く呟いて、しまったという顔をした。確かに、下女が安易に知ることのできるような情報ではない。が、彼女はすぐに言い繕う。
「あの、コーエン軍曹が教えてくれたの。あの人なんでも知ってるでしょ」
「ああ、なるほど、軍曹が……そうだね。あの人はいろんなことを教えてくれる」
「そうよねー」
「たまに俺、あの人が本当に軍曹なのか疑いたくなるよ」
確かに、とカグワは笑った。
どうやらコーエンはこの厩番に対しても様々な知識を落としていっているらしく、うまく誤摩化すことができたようだった。そしてコーエンがただの軍曹ではないであろうことはカグワもユタヤも薄々勘付いてはいる。彼の持つ情報量は、一介の軍曹のそれではない。ただ、人にはそれぞれ事情があるだろうということで、カグワは彼自身について詮索しようとはしなかった。カグワが詮索しないのであれば、ユタヤも当然知らない。コーエンについては依然、謎のままだ。
カグワが笑う。アキレスがしばし見とれる。先ほどから何度か続くその一連の流れに、ユタヤは気付いて顔を伏せていた。
あの政殿の窓越しに、少年がカグワに見とれている姿を見つけた時にも、一瞬でユタヤは理解した。あれは年頃の男が女を見初める表情であるぞ、と。
ユタヤも獣人とは言え、心は人のそれと変わらない。同じ年頃の男として、顔を見ればそこに欲が浮かんだかどうかなんて一目瞭然だ。特に彼は、己の主に向けられるその表情に恐ろしく敏感だった。
「あの……その、俺……東国生まれだからかもしれないけれど……」
アキレス少年は俯きがちに言う。その頬が赤く染まるのは、暑さのためではないだろう。少年は隣にいる少女を直視せずに続けた。
「西国にきてからもいろんな人に会って……なんだかんだあってここにいるんだけど、その間にどんな人に会っても、いい人だなとか面白い人だなとか性格では判断できても、あんまりその、綺麗だなーとか可愛いなーとかって思うことってなかったんだよね」
「へえ、そういうもの?」
「うん、まあ……綺麗な人はいたけど、なんかあまりにも人種が違っちゃって、遠い存在というか……で、何が言いたいかっていうと」
何度も言葉に詰まるのは照れ隠しだ。その言葉の意図に気付いていないのはカグワだけで、少女は時折ちらりと連絡用通路の門を気にしている。そもそもの彼女の目的はその通路から外に出ることだ。だから、この少年の言葉に自分がいちいち苛立つ必要はないのだとユタヤは己に言い聞かせる。
が、少年は意を決したように言う。
「君、可愛いね! って」
「は?」
「……て、いうか、なんというか……」
言ってから、アキレス少年はかああと頬をさらに赤く染めて、口籠りながら俯いた。一方「は?」と気の抜けるような答えを返したカグワは目をしばたたかせて、驚いたように少年を見ている。
少女は自分の言葉に真っ赤になっている少年を見て思わず笑ってしまってから、ようやくその言葉を理解したのか少しだけ照れたような表情を浮かべた。
「あの……ありがとう。あんまりそんなこと言われないから……びっくりしたけど、嬉しいわ」
「え、嘘、言われないの? 嘘でしょう」
カグワの好意的な言葉に、ほっとしたようにアキレスは顔をあげて笑う。
一方で、なんだそれは、と心の中で吐き捨てたユタヤは、「あんまりそんなこと言われない」と言った主の言葉が気になり、己の記憶を探ったが、確かにカグワが「可愛い」などと言われている場面は思い当たらなかった。神殿の中に務める神官や世話役たちが主に向かってそのようなことを言うわけもなく、神殿の外で出会う役人たちも下女のように装う彼女を見初めやしない。ユタヤはいつだってカグワ以上に愛らしく、美しい女はこの世にいないと思っているのだが、言葉にしたことは一度もなかった。何故ならそれは言語化することを許されない感情だからだ。彼女は巫女で、自分は仗身だ——。
そして本当なら、アキレス少年も、巫女とは話さえできない立場にあるはずであった。少年はその事実を知らないのだ。カグワのことを本当に下女だと思っている。何も知らない少年は、相も変わらずカグワと同等に話している。
「ねえ、ところで、あくる。私ちょっと用があって外に出たいんだけど、あの連絡用通路ってどうやったら開くの?」
「そんなこと知らないよ。用があるなら政殿務めの下官か何かにとりあえず言ってみればいいじゃないか」
「まあそうなんだけどね……言うほどのことでもないっていうか」
「言えないことなら無理だよ。許可がなきゃ俺たち下働きは外に出られないんだから」
「えー、そうなの? この連絡用通路って下働きとか密偵とかが通るための門だって聞いたのに」
「だから、用がある時なら通してもらえるんだろ。俺たちのために正門や裏門をわざわざ開けるわけにもいかないじゃないか」
えー、と不満そうに言って立ち上がったカグワは、服の裾についた干し草を払うこともなく連絡用通路の門の前に立って、じろじろと門を眺める。その様子を見て笑ったアキレスも立ち上がると、「見てたって開かないよ」と言った。
「鍵は高位の方が持ってるんだ。俺らなんかには開けられない」
「やってみなきゃわからないわ」
「わかるよ。大体開けてどうするんだよ。お尋ね者になっちゃうよ」
じいと錠前を見つめるカグワに苦笑して、アキレスは彼女の腕を握った。「ほら帰るぞ」というつもりらしいが、過去に巫女である彼女に対してそのような粗暴な態度を取った人間はいない。アキレスは彼女が巫女であることを知らないのだから、仕方ないといえば仕方のないことだ。そうユタヤも頭で理解をしてはいるのであるが。
「ほら、君も仕事があるんだろ。そんな干し草いっぱいつけてたらさぼってたことがばれるぞ」
アキレスはそう言って、彼女の服の裾にこびりついた干し草を払いのけてやろうとした。当然、彼はよかれと思ってやったことだ。悪意のあったわけではない。そう理解していたのに、ユタヤはその衝動を止めることができなかった。
ユタヤの体が動く。アキレスがカグワの服から干し草を取り払おうと彼女の服の裾に伸ばした手を、勢い良く払いのけた。ある意味では、それは巫女の身を護れと幼い頃から植え付けられた仗身としての本能だったのかもしれない。だが、それだけではないことは明白だった。
「——触れるな」
恐ろしく低い声がでた。
良かれと思って彼女の服から干し草を取り払おうとしたアキレスは、その手が払いのけられたことにも、そしてユタヤの低い声色にも愕然としている。一体何が起こったのかわからないという表情だ。
ユタヤはカグワを己の背に庇うと、自分よりも背の低い少年を見下ろした。年の頃でいえばユタヤもアキレスもほとんど年齢は変わるまい。ただ、獣人であるユタヤは平均よりもずっと上背であった。
「この方は、安易に触れていい貴賤ではない。神殿が長、巫女の君であらせられるぞ」
これは、最も言ってはならないことであった。
まず、非公式の場に巫女がいる時に、彼女が巫女であることを明かすことは自らその身を危険に晒すようなものだ。彼女の身を護るために傍にいるはずの仗身が主の身を危険に晒すなど、前代未聞である。
その上、巫女カグワには何か思惑があり、思惑があって下女のふりをしていることをユタヤは知っていた。だから、彼女の後ろに控え、黙って彼女に従っていたのだ。それなのに、彼女の許可なく巫女である身分を明かすことは、彼女の思惑に背いたということになる。巫女と誓約を交わし、絶対服従を誓った仗身として、有り得ない所業であった。
何をしているのか、と己を戒める心のある一方で、どことなく安心している自分もいて、ユタヤには何がなんだかわからない。この人が巫女であることを明かしてしまえば、これ以上無礼なことはできまいと、安堵している自分がどこかにいることは否めないのだ。
驚きのあまり何も言葉にできないアキレスと、ユタヤの意図が読めずにきょとんとしているカグワ、そして二人の間に立ちはだかるユタヤ。
三者が三者ともに黙り込む静寂の中で、ようやく口を開いたのは、ユタヤであった。
「……申し訳、ありません……」
口をついて最初にでてきたのは、主への謝罪であった。主への謝罪ではあるが、今ユタヤは背中に彼女を庇っているため、彼女の顔は見えない。背中越しの謝罪には誠意など感じられぬことであろう。だが、その弱々しい謝罪の言葉から何かを読み取ったらしいカグワはユタヤの腕を叩いて横にどけると、アキレスの前に立って苦笑した。
「ばれちゃったら、しょうがないわね」
少女はそれ以上身分を詐称する気はないようだった。呆然としているアキレスににこりと微笑む。その微笑みは愛らしくも、神々しい。
「私は西国エウリア君主国が当代の巫女、かぐわと言います。騙しちゃってごめんなさい」
アキレスはますます言葉を失って、ぽかんと口を開いていた。カグワは無礼を働いたアキレスを責めることなどせず、自分の身を勝手に明かしたユタヤさえ責めずに、ただ笑った。
「下女のふりをしたら此処を通してもらえるかと思ったんだけど、そううまくもいかないみたいね……今度は違う手を考えるわ」
その明るい口調は、ユタヤの過ちをなかったことにするためであろう。下女のふりをしたところで上手くいかないのだから、身分をばらして新たな手を考えるべきであると、それが正しいのであると、ユタヤのことを彼女は全く責めようとしない。
すっかり何を言えばいいのかわからなくなって硬直しているアキレスに、カグワは手を振る。
「じゃあ、また来るから」
「え、あ……」
少女はにこりと笑って、
「今日は楽しかったわ。またいろんな話をしましょう」
などと言う。当然、二度とアキレスがカグワに対してあのような態度で接してくることはないだろう。
カグワは、後悔やら安堵やら自責の念やらでがんじがらめになってどうしようもないユタヤの腕を引いた。彼女は「帰ろう?」と目線でユタヤに訴える。ユタヤは黙って従って、カグワに引かれるままに歩き始めた。
時間が経てば経つほどに、頭の中が冷静になっていく。どうしてこんなことをしてしまったのかと何度も自問するが、答えは一つしかないのだ。別段、巫女に対する彼の態度が無礼千万であったからというわけではない。ただ、彼女と対等に接する彼に苛立っただけなのだ。——要は、嫉妬という。
ユタヤは自分の腕を引く少女の手を見つめ、その仄かな暖かさに目眩を覚えた。今は彼女に触れられるだけで、頭がおかしくなりそうだ。否、もうとっくに狂っているのかもしれない。彼女の体温が、青年の心を狂わせる。仗身として、巫女に仕える人間として、当然の心構えを全てぶちこわしてしまうのだ。
(——こんなことでは、仗身失格だ)
彼女の体温を振り払うこともできず、かといって受け止めるわけにもいかず、ただ引きずられるのみである。
神殿にたどり着くまでの数瞬が、彼にとってはまるで拷問のように長く感じられた。




