9、強くなりたい
その日は、清々しいほどの、秋晴れであった。
西国エウリア君主国の首都ケトロ、その東端に、東ケトロ大聖堂と呼ばれる豪勢な大聖堂がある。宗教国家であるこの西国において、修道院の権力は絶大だ。そして国中に点在する多くの修道院の中でも最有力と言われるのが、この東ケトロ修道院であった。しかし、その神聖と思われた壁の裏側に、信仰と政治が癒着するための裏金が匿われていることを、ほとんどの民は知らない。
陽気な音楽が流れ、人々は意気揚々とステップを踏んで踊り出す。自らの手に様々な貢ぎ物を抱えてそれを礼拝堂の中へと運び入れて祈りを捧げると、すぐに庭へと飛び出して踊り狂った。
「収穫祭」と呼ばれるその行事は、東ケトロ大聖堂にて何十年も昔から続けられている、伝統的な祭りである。西国エウリアでは、一生に一度はその行事に参加したいと誰もが収穫祭を夢見ていた。故に、祭りの参加者の中には、西国の果て、はるばる田舎から幾日もかけてわざわざこの祭りに参加するためだけに旅をしてきた者もいる。
彼らは夜通し踊り狂い、神への感謝と懇願を繰り返していた。その陽気な空気の中にあって、一人だけにこりともしない男がいる。彼は両脇にいかにも屈強な男を二人従えて、踊り狂う民を見つめていた。
(……自らの貢ぎ物が何に利用されているかも知らず……皮肉なものだ)
男は声にせず、心の中のみにおいて呟いた。
冷たい眼差しに、上品な黒い髪、そして少し不健康にも見える血色の悪い肌をしたその男の名を、ワイズ・レヴィンという。この国の政治的決定権を握る、国務参謀であった。
「……参謀、大聖堂の中の準備は整った模様です」
ワイズというその男の後ろに控えていた独りの屈強な男が、彼にだけ聞こえる声で小さく呟いた。後ろに控える二人の男は、ワイズの護衛を担当する軍人だ。軍服こそ身に纏ってはいないものの、ワイズの後ろにぴたりと張り付いて周囲を警戒するそぶりを見せる二人の男は、あからさまに一般人ではなかった。収穫祭の参加者の何人かが、こちらを向いて訝るような表情を見せていたが、ワイズは気にしていない。なにしろ、後ろに控えるこの二人の軍人は、フェイクのようなものだ。——実は、すでにこの修道院の中、収穫祭の会場内には三十近い軍人が紛れ込んでいたが、誰一人としてそのような雰囲気はかもしだしていない。参加者の多くはワイズとその後ろに控える二人の軍人のみを気にかけていて、紛れ込んだ他の軍人には全く気付いていないようだった。
「準備は整ったか……ならばまもなく決行すると皆に伝えよ」
ワイズは周囲には聞こえぬよう小さな声で、後ろに控える軍人に伝えた。一人の軍人が「御意」と答えると、ワイズの元から離れる。大聖堂の敷地内に散った他の軍人たちにワイズの言葉を伝えるためだ。ワイズはそれを片目で見送って、広い大聖堂の敷地を見渡した。
踊り狂う人々、とどまることのない陽気な音楽、そして止めどなく礼拝堂の中へと運ばれていく貢ぎ物——まるでこの世の物とは思えない、異世界のような不可思議な空間であった。
ワイズは静かに瞑目する。
この現世と懸け離れた妙な空気の中にいると、嫌な記憶が呼び起こされそうだ。
ワイズはかつて、この東ケトロ大聖堂ではないが、都に近いとある修道院に住んでいたことがある。身寄りのない孤児であった彼には、他に行く宛がなかったのだ。
その修道院と言われる空間が、ワイズは堪らなく嫌いだった。存在しもしない神に縋る人間と、縋る人間に神のふりをして近付く修道士、なにもかもが疎ましく、疎ましく思いながらどうすることもできない自分の無力さがもどかしかった。
——あれからいつのまにか、二十年以上もの月日が過ぎた。
ワイズは苦い思い出を噛み締める。
あれはもう、二十年以上も昔のことだ。まだ、彼が十五にも満たぬ少年であった頃のことである——。
十二か十三か、それくらいの年の頃、少年であったワイズは、もといた田舎の修道院から離れ、首都に近いそこそこ大きな修道院へと移り住むこととなった。
表向きの名目は、「ワイズは賢くとても能力が高いため、こんな田舎の修道院にいるよりも、首都に近い大きな修道院できちんと学識を身につけた方がいい」というものである。だがしかし、ワイズは、田舎の修道院の修道士たちが、自分の相手を出来ずに持て余しているということを知っていた。この年の頃にはすでに究極の無神論者であったワイズは、修道院も修道士も礼拝客も、全てが大嫌いであった。故に、修道士にもよくたてついた。そしてそんなワイズを扱いきれなくなった修道士たちは、彼を他の修道院へと移すことに決めたのである。
ワイズは、移動をすることには何一つ不平を漏らさなかった。田舎の修道院に篭っているよりも、首都に近い場所に住んだ方が見識が深まるのは事実であったし、その田舎の修道院に、少しの思い入れもなかったためである。
だが、その首都に近い大きな修道院に移り住んだところで、自分の人生観や、思考が変化することはないと思っていた。まさか、この修道院にて、彼の人生を大きく変える衝撃的な出会いが待っているとは、夢にも思わなかったのである。
——ワイズ。こっちは、エリック・コーエンだ。彼はたぶん、君がどんなに勉強したって得られないであろうたくさんの情報を持っている。だから、いろいろ聞くといい。世界がいかに広大か、わかると思う。
その出会いが、ワイズの人生を、大きく揺るがせた。
新しい修道院に移住するなり、そこに仕える修道士に紹介されたエリック・コーエンという男は、ひたすら、奇妙奇天烈であった。
出自はよくわからない。両親ともに顕在だというが、「勘当されたからいないも同然だ」と彼は語ったきり、一度も家族の話をしなかった。彼は本当に一人で生活をしているようで、他人に一切頼らなかった。
彼は街で「ならず者」と呼ばれ、忌み嫌われて恐れられる連中と、よくつるんでいた。ならず者の連中は平気で違法な行いをし、犯罪をおかす。ワイズは神に帰依する者の次に、秩序を揺るがすならず者の連中が嫌いだった。それなのに、エリック・コーエンはそのならず者の連中と親交し、決して縁を切らなかった。
彼は、違法にならない程度の悪徳な商売で生計を立てていた。とある人間が喉から手が出るほど欲しがっている商品をどこからともなく手に入れ、限度を越えた高額で売りつける。犯罪行為は一切していないため、法律には触れていない。しかしそこには法外なほどの儲けが発生しており、倫理的ではなかった。彼はそれを生きる術としていた。
そして何より不思議なのは、そんな悪徳な商売が成り立つほど、彼が情報通であったことである。
コーエンは何でも知っていた。どこに住んでいる誰が何を話していたとか、誰が何を欲しがっているとか、誰が何を持っているだとか、ありとあらゆる情報を全て網羅していた。その情報量の多さは常識を逸脱しており、常人では考えられないほどである。
そんな彼は、ある日、ワイズの前で、白状した。
——実は、俺には妙な『力』があるんだよ、ワイズ。
その『力』を使えば、彼は一度会った人間の話している言葉なら、その相手がこの世界のどこにいようとも聞き取ることができるのだと言った。「盗み聞き」の能力なのだと説明した。故に、これだけの情報を手に入れ、悪徳な商売を成立させることができるのだ、と。
ワイズは俄にはその言葉を信じることができなかった。あまりにも常識はずれであったためだ。
しかし、やがて、彼はその言葉を信じざるを得なくなる——。
「——ワイズ、ワイズ。頼む、開けてくれ」
コーエンが「自分には妙な『力』があるのだ」という俄に信じがたい白状をしてから数日後のことである。
真夜中に、コーエンがワイズの住んでいる修道院へと押し掛けて来た。
修道院の人間は朝が早く、就寝時間が早い。故に、その時間帯に修道院の中で眠らずにいたのはワイズだけだった。彼は、暖炉の前で一人黙々と読み物にふけっていたが、裏口の戸を荒々しく叩くコーエンの声に気付き、致し方なく裏の戸を開いた。
「一体こんな時間になにごとだ」
読んでいた書物は倫理学を記したものであり、大変興味深く、ワイズは真夜中の闖入者を厭った。どうせ大したことではないだろうと扉を開いたワイズはしかし、そこにいたコーエンの形相に驚かされる。
「すまない……急ぎの用があって……すぐに、大司教様を呼んでくれないか」
コーエンは扉が開くなり切羽詰まった表情で、ワイズに詰め寄った。ワイズはその形相に気圧されそうになるが、だからと言ってすぐにそれを許諾するわけにもいかない。
「なぜ……いったい、どういうことだ? 大司教はもう就寝している。よほどのことでなければ起きてはこないぞ」
大司教とは、修道院に仕えているいわゆる修道士たちとは違う。国から様々な権限を与えられた一種の権力者であり、多くの修道士たちを束ねていた。それを睡眠中に呼び出すとなると、それなりの理由が必要となる。
しかし、コーエンは引かなかった。
「よほどのことがあったんだ……時間がない。すぐに呼び出してくれ」
「だから何があったのかときいている」
「大司教に至急会わせなくてはならない人間をつれてきた」
言って、コーエンは自分の後ろを示した。ワイズはその方を見やる。
街頭のない修道院の裏口、その夜闇の中に紛れて気付かなかったが、コーエンは一人でここまでやってきたわけではないらしい。彼の後ろには、黒いマントを頭まですっぽりとかぶった人間が立っていた。マントに隠れてその顔は見えないが、背格好からおそらく成人した男であろうということがわかる。
「誰だ」とワイズが問うと、コーエンは低い声で答えた。
「この町でならず者と呼ばれている連中の一人だ。——今は、下手人として、軍に追われている」
ワイズはその言葉に目を丸くする。
今現在この町で下手人といわれ、軍に追われている人間など彼には一人しか思い当たらなかった。
数日前、女を殴って重傷を負わせ、さらにはその財産まで奪ったというならず者の一人である。
ワイズも当然、その事件のことは耳にしていた。そしてそれを知った上で、コーエンに、「お前がつるんでいるならず者の連中は良くない」と忠告までしたはずだ。それなのにコーエンはそれを聞き入れてならず者連中と縁を切るどころか、その男を連れて修道院までやってきた。まるで、罪人を匿っているかのようだ。
「エリック……そいつを大司教に会わせてどうするつもりなんだ。そいつは下手人だろう」
ワイズは至極当然の正論を吐き出すが、コーエンは頑としてそこから退く気はないようだった。後ろの男をかばうようにぐいと身を乗り出して、言う。
「詳細は大司教様に話す。——至急、大司教様を呼んでくれ」
その並々ならぬ気迫から、ワイズは何やらただ事ではないことが起きようとしていることを感じ取った。下手人を匿うことにはワイズは断固反対であったが、コーエンの気迫に抗うこともできない。
ワイズは致し方なく彼の頼みを聞き入れ、修道院の中に戻ると早歩きで大司教の部屋へと向かった。
大司教といえば、ワイズの最も嫌う神に身を捧げる身分の人間であった。ワイズは神を語り民衆に無責任な救いの言葉を差し伸べる大司教や修道士などがとにかく気に食わなかったが、それでも彼らは聖人と呼ばれる類いの人間である。よもや、女を殴るような人道に悖る行為をした男を許すわけがなかった。そしてさらに言えば、大司教というのは国から権限を与えられ、国城への出入りさえ許された権力者である。その大司教が、法に背いた人間を見て取り逃がすはずはない。
ワイズはそう考えて、大司教をこの下手人と会わせることを許諾した。
神など信じはしない。神を崇高と言う大司教もいけ好かないが、それでも、国の権力者だ。当然、国の秩序のために法律には従う。ワイズはそう思っていたのだ——。
寝所にいた大司教を呼び出して、コーエンたちの待つ裏口へと連れて行くと、コーエンは罪人を背中に庇った姿勢で待っていた。
「エリック、その男は?」
問うてきた大司教に、彼が悪人であることをコーエンは説明するのだろうかとワイズがその動向を見守る横で、コーエンは涼しい顔をしていた。そして、当然「彼は下手人です」と先ほど彼がワイズに説明したように言うだろうと思った口は、なぜか全く異なる言葉を吐き出す。
「貴方はご存知でしょう。貴方が陥れた人間です」
ワイズはその言葉に目を見開いた。意味が、分からなかった。
どういうことだ、と問いかけたいものの、何も知らない自分がここで口を開いても良いものか判断がつかず、ワイズはひとまず大司教の顔色を伺う。大司教はいつもの通り慈愛に満ちた笑みを浮かべたままであった。大司教は落ち着いた声で、「どういうことか」と問う。しかし何故だろう、ワイズはその慈愛に満ちた笑みに底知れぬ恐怖を覚えた。これが神に従事する人間の顔だろうか。普段礼拝客たちはこの男の何を見て、神に縋ろうなどと血迷うのだろう。
動揺するワイズを置いてきぼりにして、まくしたてるように言ったのは、コーエンだった。彼は背中に黒マントの男をしっかりと庇い、大司教を淡々と見やる。
「あまり時間がありませんので、単刀直入に申し上げます。僕は、取引をするために此処までやって参りました」
「取引……?」
「数日前、女に暴行を加えて財を奪ったとして、一人の男が手配されました」
「聞いているぞ。この町に巣食うならず者の一人だろう。まだ捕まらず、軍は手を焼いているのだとか」
「しかし、それは完全なる濡れ衣です。その男はたまたまその近場にいただけで、何もしておりません。だが、男には身寄りもいない。町では荒くれと恐れられたならず者の一人だった。故に、誰も彼の言い分など信じない。彼は冤罪を被せられたまま、逃げることしかできなかったのです」
「ふむ? それは初めて聞く話だな」
「これが真実です。では、本当の犯人はどこへ逃げたのでしょう? 本当の犯人は、逃げる必要もないのです。その人間はこの土地では絶対的な権力を持つ人間です。地位も財もあり、軍に吹き込んでこいつが犯人だと哀れな男に冤罪を被せることも容易い。暗闇の中で暴行を加えられた被害者の女も、はっきりと犯人の顔を見ることはできず、それが男であることしかわからなかった。だから、貴方はたまたまその場を通りかかった荒くれに罪を被せたのでしょう?」
ワイズは目を丸くして、大司教を見上げる。大司教は依然慈愛の笑みを浮かべたまま、だが、その目の奥に黒い闇が見える。大司教は神服を纏っておきながら、すでに聖職者ではなかった。それは不適な笑みを浮かべるただの男の姿だ。
「……私が、下手人であると?」
コーエンは苦笑を浮かべた。
「貴方は女に手が早い。今までは金を握らせればほいほい付いてくる女を相手にしていたから上手くいったものの、今回の女はそうはいかなかった。逃げられそうになって思わず暴行を加えてしまったのでしょう。傷だらけで気を失った女を見て、これはまずいと思った貴方は金目のものを適当に奪って荒くれの所為にしたのです」
「見て来たように物を言うではないか……お前は、私が女にちょっかいを出した現場を見たことでもあるのか?」
「見ずとも、知っているだけです」
コーエンは、含みのあるような言い方をした。ワイズはそれを聞いて、数日前の彼の言葉を思い出す。——実は、俺には妙な『力』があるんだよ、ワイズ。
彼は、自分のいない場所で行われている会話でさえ聞き取ることができるのだと言った。その時は何を馬鹿なことを言っているのかと当然信じられずにいたが、コーエンの含みのある言い方を聞いて、突如その言葉に真実味を覚える。この男は、本当に、妙な『力』を持っているのだ。
「僕は正直、貴方が聖職者でありながら女に手を出そうと、法律に背いて何をやっていようと、どうだっていいのです。法律なんて所詮建前でしかありませんから、うまく生きる者こそが正義であると思っています。——ですが、今回の件は、見過ごせません。この冤罪をかけられた男は、僕が家を出たばかりの頃、まだどうしていいのかわからず路頭に迷っていた頃に声をかけてくれた恩人なのです」
「だから、庇うと? だがお前はさっきからその男にかけられた罪は冤罪だというが、その話自体巷で聞くものとは異なるではないか。それが全て男の虚言である可能性は否めないぞ」
「巷に流れる話こそ貴方の力でどうにでもできる虚言です。——僕は、被害者の女性に会って、逃げ切れない貴方の痕跡を見つけてきました」
「……何?」
「貴方は、女に手を出す際に、その代金として国の発行する手形を渡しますね。今回は暴行を加えた後に全て持ち去ったと思っていたでしょうが、その手形が一枚彼女の手元に残っていました。しかもこの手形は、誰でも手に入れることのできるような安価なものではありません。——国王の御璽の付いた、由緒正しいもの。これを手に入れることができるのは相当な権力者、この町では大司教である貴方だけでしょう」
言って、コーエンは懐から一枚の紙を取り出した。一般人にはそれにどれだけの価値があるかなど、その紙切れ一枚からでは到底予想もできないであろう。だが、それが本物の御璽であるかどうかは、役所に持って行けば一発でわかることだ。何より、その持ち主であった大司教が一番わかっている。
たちまち、大司教の顔色が変わった。彼はコーエンを睨みつける。そこにすでに慈愛に満ちた笑みはない。声色は恐ろしくしゃがれ、とても聖職者のそれとは思えない。
「……それをどうする気だ。国に検挙させて私を大司教から引きずり落とすか」
コーエンは首を竦めてその御璽を懐に再びしまうと、ゆっくりと首を横に振った。
「そのつもりはありません……ですから最初に言ったでしょう? 僕は取引にきたのだと」
「……何が望みだ」
「簡単なことです。彼の冤罪を晴らしてほしい。下手人は……適当に、死んだとでも繕ってください。そして彼に他の町で職を与えてください。冤罪が晴れたとて、とてもこの町では生きていけませんから」
「……それを私にやれと?」
「多少手間はかかるでしょうが、貴方の力をもってすれば出来ないことではない。何しろ大司教様は国城でも大した権力をお持ちだ。この町の役人も軍も貴方には逆らえまい」
「ならば、私はその御璽が偽物であると情報操作するやもしれんぞ」
「まさか。御璽は国王の印章だ。いくら大司教様でもこれを詐称することはできません」
大司教は眉根を寄せて複雑怪奇な表情を浮かべた後、静かに「わかった」と頷いた。コーエンは「ありがとうございます」と頭を下げた。そして彼は言う。
「おわかり頂けたら、大至急お願い致します。実は彼が今まで身を潜めていた隠れ家が軍に見つかってしまって、すでに彼には行く宛がないのです。時間がありません。大至急、お願い致します」
コーエンのその言葉を受けて、だから「時間がない」と彼は切羽詰まっていたのかとワイズは納得する。大司教は苦虫を潰したような顔をしながら再び「わかった」と頷いた。
そしてそそくさとその場を去って行こうとした大司教の背中に、コーエンは畳み掛けるように言う。
「それから、貴方にはいろいろな手がありましょうが、それらを使って彼や僕を他の道から陥れようとは考えないことです。そんなことをしようものなら僕にも考えがあります。僕は今回の件だけでない、貴方が今までにやってきた全ての悪事を知っていますから、それを一つずつ露見していくことだってできます。ですから、余計なことはくれぐれも考えないように」
もはや、大司教は何も言わなかった。ただ無言で面会の間を後にした。彼にはもう逃げ場はない。まっすぐ目的を果たすために軍や役所へと向かったことであろう。——コーエンは、冤罪の男を救った。
男の冤罪はすぐに晴らされ、コーエンの望んだ通り、男には他の町で働く場所が与えられた。男は涙ながらにコーエンに謝礼を述べて、町を去って行った。コーエンはゆっくりと首を振って、「元気で」とだけ答えた。ワイズはその男の背中を、やりきれない気持ちで見送った。
「俺は……何もできないばかりか、何も知らなかった」
小さな声でぼやいたワイズに、コーエンはくすと笑う。彼はぽんぽんと自分より低いワイズの頭を軽く叩いた。
「多くの人間が依然、真実を知らないままだ。——知らなくていいことというのもある。全ては平和に解決されたんだから、これでいいんだよ」
コーエンの言葉に、果たしてそうだろうか、とワイズは首を傾げた。
確かに、冤罪の男の罪は晴れ、町では犯人の男は死んだのだという虚報が流れて民の心は落ち着いた。だが、実際に悪事を働いた大司教は涼しい顔をして修道院の頂に立ちはだかるままだ。本当にこれで平和に全てが解決されたと言えるのだろうか。
そんなワイズの心を読み取ったかのように、コーエンは言う。
「釈然とはしなかろうが、人間にはどうしようもできねえことってのがある。だからこれでいいんだ」
確かに、それはその通りであった。
どんなにワイズが大司教の悪事に憤ったところで、ワイズにはどうすることもできない。何故ならワイズには『力』がない。
「……エリック、お前には、『力』があって、いいな」
ワイズはぽつりと呟いた。コーエンには妙な『力』があるのだという。最初は意味もわからず信じることもできずにいたが、今では彼のその『力』を信じずにはおれない。大司教の悪事を全て知り得るほどの『力』が、彼には備わっているのだ。そしてその『力』は、ワイズには決して手に入れることなどできない。
しかし実際に『力』を持っているコーエンは、苦笑を浮かべていた。「いいな」と『力』を羨むワイズに対し、コーエンにはコーエンで思うところがあるようだ。彼は苦々しく笑った。
「どうだろう……俺の『力』の場合は、俺が望んで手に入れたものでもなければ、俺が努力して手に入れたものでもない。だから『力』に振り回されっぱなしだ。別に知りたくもねえようなことまで知っちまうってのは、楽しいものでもないぞ」
そう言った彼はすでにこの『力』のせいで、ワイズにはわからない苦行を多々重ねてきたのだろう。だが、ワイズは、そんなことさえ、知らなかった。
己の無知があまりにも悔しくて、どうしようもなく体が震えた。
いくら勉強しても、努力しても、世界はわからないことだらけだ。間違っていると思うことばかりが氾濫していて、それをどうしたら是正できるのか、その力もないばかりかその術さえわからない。どうして己はこんなにも無力なのだろう。
「……俺は、強くなりたい」
ワイズは小さな声で呟いた。呟くと同時に何故か涙が溢れた。悲しくもないのに溢れた涙は止まらず、頬を伝って地面へと下る。隣の男が「ワイズ」と驚いたように息を呑むのが聞こえた。それでも、止まらない。
「俺は、強くなりたい」
再び繰り返してワイズは涙を拭った。
力が欲しいと、強く願った。
自分の生きる世界で一体何が行われているのか、それを全て知ることのできる「力」が。知った上で世界を是正できる「力」が。もう二度と、こんなやりきれない想いをせずに済む「力」が。神などいないこの無慈悲な世界で、人を救える「力」が。
そんな、力が欲しい。
ワイズはそう強く願った。
ワイズ・レヴィン。時代を揺るがす国務参謀となる彼がまだ国政の舞台にも足を踏み入れていない、そんな若かれし頃のことである。
あれはそう、今からもう、二十年以上も昔のことなのだ——。




