1、ご縁がありましたら
虚無。虚無。虚無だ。
大学生の夏休みって、こんなに何にもやることないっけ? もっとキラキラしてるはずじゃなかったっけ?
私は実家の冷房の効いた元・自分の部屋、現・半分物置部屋で、スマホを見るのも嫌になって倒れていた。
窓の外は青空に入道雲。めっちゃ夏。夏なのになあ。
わざとらしく、はあああと大きなため息をついたところで、母の呼ぶ声が聞こえた。
「美裕、お昼食べる?」
「食べるー」
もうそんな時間? そんな時間なんだな。私は体を起こして、キッチンに向かう。実家のいいところは自分で作らなくてもご飯が出てくるところだ。
今日はそうめん。去年の私だったら「えー、またそうめん?」とか言っちゃってたかもしれないけど、ひとり暮らしを始めて自炊するようになったら、料理を作る大変さもわかるようになった。だから文句なんか言わない。
「いただきまーす」
よく冷えた褐色のつゆに、つるりとした白いそうめんをひたしてすすれば、口の中が完全においしい。母のゆでるそうめんは、ちゃんとむちむちしていてぷりんぷりんなコシがある。この間、私が自分で作ったそうめんは、ゆでてるうちにお湯がどろどろになったし、ゆであがった麺もふにゃふにゃで別物になっちゃってたもんなあ。せっかく実家から送ってくれた木箱入りの高級そうめん様だったのに、かわいそうなことをした。
もう、ひとりで食べるとネギ切るのすらめんどくさいのに、母はミョウガもショウガもオオバも用意してくれてるし。薄焼き卵は見事に金糸状態だし。細く切った海苔とかかまぼことかきゅうりとか色とりどりに豪華で……なんかほんと、ありがたい。
とはいえ、わざわざそうめんに感動してるとか母に言ったら、逆に心配されそうだから、無言でぞるぞるとめんをすする。うまい。
傍らのテレビのニュースを聞き流しながら、一緒に食べてた母が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、清ちゃんが電話してだって」
「え? 清ちゃんってあの清ちゃん?」
清ちゃんはふたつ年上の幼なじみで、実家の近くのさびれた商店街に住んでいる。
久しぶりに、そして唐突に出てきた名前に私はとても驚いた。
「そう。清ちゃんところ、おばーちゃんが先々月亡くなってね。こないだ四十九日が終わったんだけど」
今度はさらに驚いた。何なの、その突然の訃報。
「え! おばーちゃんって、手芸店の看板娘……?」
「そうそう。看板娘。私もほら、町内会のことでお世話になってたから」
私が最後におばーちゃんに会ったのは、というか、あの店――井芹手芸店に行ったのも、いつだったっけ。記憶の中で、おばーちゃんは私がこどものころからずっとおばーちゃんだった。
「あそこの家、今住んでるの清ちゃんだけなのね。ご両親、県外で働いてるから。で、町内会の連絡とかは、清ちゃんがしてくれてて」
「そうなんだ」
知らなかったな。清ちゃんと何らかのつながりがあったのは中学一年まで。彼が卒業してからはほとんど会うこともなくなったし、私が大学に進学して地元を離れてからは全然会ってない。
「おばーちゃんから、あんたに、伝言があるって言ってたよ」
「なんで私に?」
母の言葉に、私は眉を寄せた。
親戚でもない。ただのご近所の、孫の幼なじみの、訃報だって今知った、縁の薄い私に?
けれど、母も不思議そうに首をかしげて返す。
「さあね? 聞くだけ聞いてみたら? どうせあんた暇なんでしょ」
暇、と言われてしまえば、その通りなのだ。私はぐ、と言葉をそうめんと一緒に飲み込む。
疑問はあるけど、興味もある。どうせ暇だし。暇になっちゃった夏休みだし。
「そうだね。聞くだけ聞いてみる」
母は、「今年の夏休みは帰らないから」と言ってた私が、急遽、「やっぱり帰ってずっと実家にいる」と言い出した理由を詳しくは聞いてこない。
バイトやめて暇になったから、と、私は言っておいたけど。
本当は、いろいろ、いろいろあったんだ。
でもそのいろいろを、今は詮索しない母の大らかさに、私はだいぶ甘えさせてもらってる。
そういうことに気づいちゃうぐらいには、私もちょっとは、大人になってる自覚もある。
*
お昼ご飯の後に、清ちゃんに電話をかけてみた。というか、個人のケータイなんか知らないから、家電に。その番号は母が教えてくれた。
数回呼び出し音が鳴って、それから『はい』と低い声。
清ちゃんってこんな声だったっけ、間違えてないっけとドキドキしながら名乗ってみる。
「あのう、私、桃生美裕ですが」
『あ、美裕? 久しぶり』
相変わらずの呼び捨てかい。久しぶりでも清ちゃんは清ちゃんのままだ。これは清ちゃんに間違いない。
体に張り付いていた緊張が、一気にほぐれてなくなった。私は途端に砕けた口調で、清ちゃんに尋ねる。
「そう、美裕。清ちゃんに電話してってお母さんに言われたんだけど、何?」
『わざわざありがと。てか、今から来れる?』
「は?」
『お母さんが、美裕暇してるって言ってたから、来れるよな?』
「はあ?」
『俺んちわかるよな? 手芸店の隣の家。歩いて来る?』
戸惑う私を気にもせず、清ちゃんはどんどんと話を進める。
そうだった。思い出してきた。清ちゃんはこういうとても自己中なところがあって――。
『俺のケータイ、教えとくから。ええとゼロ……』
「待って、待って、メモするから……!」
私は慌てて近くにあったかばんを探り、コンビニのレシートの裏にメモをする。
『じゃ、着いたら連絡して。俺は今日ずっと家いるから』
通話が切れてツーツー音。私はスマホの画面をしばし、見つめる。ブラックアウトした画面に、あっけにとられる自分の顔が映り込んだ。
なんなんだ、なんなんだこの男は!
半ば強引な約束に腹を立てながらも、約束したからには行かねばならない。
私はパジャマ兼用のTシャツを脱いで、お出かけ可能なTシャツに着替える。パイル地のショートパンツもロングスカートにはき替えた。
何日ぶりかで化粧をして、きちんと髪を結び直す。
ほんの一時間前まで虚無しかなかった私に、こんな動く力が残ってたなんて、ちょっとびっくりだ。
「今から行くの? 行ってらっしゃい」
母に見送られ、私は家を出た。
*
空は青いな。暑い。日傘とかあったほうがよかったかな。徒歩数分の距離を歩きながら、私は近所の様子を眺める。
実家のまわりは昔からそんなにすごい都会ではなかったけど、いったん離れたからか、改めて寂れを感じてしまう。
このあたりは昔はもっと店がいっぱいあって、賑やかだった気がする。私の好きだったパン屋さんは数年前に閉店したし、ここにあった謎に激安の衣料品店も、シャッターを下ろしてしまってる。
スーパーマーケットだけは相変わらず元気に営業中だけど……。
そんなことを考えながら歩いてたらそのうち、清ちゃんのおばーちゃんのやってた店が見えてきた。
井芹手芸店の看板はあるけど、店の正面はシャッターが下ろされていた。ほんと、いつから来てないか、考えても思い出せない。
店の隣の駐車場を挟んで、民家がある。そこが、清ちゃんの家だった。
いつでも来てとは言われたけど、一応着いたとか電話でもしてみる? 玄関のチャイムを押すかどうか迷ってスマホを取り出したところで、引き戸ががらがらと開く。
「よ」
出てきたのは清ちゃん……なんだけど、私は一瞬、彼が誰だかわからなかった。
私の記憶の中でベリーショートだった彼の髪は、今はぼさぼさと肩まで伸びてる。着てるのは甚平だった。なんというか、堅気のにおいがしない。
今日は平日だから一般的な社会人は外に働きに行っているはず?
あ、でも、うちの母みたいに、接客業だと平日に休み取って土日祝は勤務の人もいるし?
それにおばーちゃんのこともあるから、いろいろ整理に時間が必要で、理由があってのことかもしれないし?
だからこの人ちゃんと働いてんのかな、という疑問は、ぐっと飲み込んでおく。
「久しぶり」
私はそう言った後に、はっと思い出して、しおしおと言葉を続ける。
「おばーちゃんのこと、その、ご愁傷さまです……」
「あ、そう、ばーちゃん……んー、まあ、話は中で。どぞ」
母から聞いた話では、この家に住んでるのは今、清ちゃんだけとのことだった。男ひとりの家に上がり込むなんて……と、私がひとり暮らししてる街だったらちょっと警戒なんかもしたと思う。けど、今回は母も全然そういうことを気にしてなかったし、近所だし、清ちゃんだし、まあ、いいんだろう。
「おじゃまします」
私はいろいろ考えるのをやめて、遠慮なく清ちゃんちに上がることにした。
「そのへん座ってて」
案内されたのは玄関上がってすぐの和室だった。ほとんど物がなくて、ただ、片隅の小さな机の上に、おばーちゃんの写真とお供え物が飾られていた。
清ちゃんが部屋のエアコンをつけてくれて、すぐに涼しい空気が流れてくる。私は自分の額から汗が伝っていることに気づいて、ポシェットからハンカチを出してそれを拭った。
そうこうしてたら清ちゃんがペットボトルのお茶を持ってきてくれる。渡されて、どうも、と受け取り、冷たい容器を両手で握ったところで、清ちゃんも畳に腰を下ろした。
「四十九日終わって、やっとちょっと、落ち着いたところ」
「大変だったね」
「ん。人がいなくなるって、大変だなーってほんと、思った」
遺影のおばーちゃんは、私が覚えてるままのおばーちゃんだった。もう何年も会ってないのに、しんみりする。
清ちゃんはちらりとおばーちゃんの写真を見て、それから私に向き直る。不意に目が合って、ちょっと心臓が跳ねた。
「で、ばーちゃんから、美裕に伝言があって」
「それなんだけど。なんで私?」
私は手元のペットボトルにハンカチを巻きつけながら尋ねる。
すると、清ちゃんはにっこりと笑った。
「ばーちゃん、美裕のこと気に入ってたから」
「え、初耳なんだけど」
「言ったことないし」
「そーですか……」
でもまあ、気に入ってたと言われて、悪い気はしない。そっか、おばーちゃん、私のことそんなふうに……でもなんで?
「ばーちゃんの店、何年か前から閉めてたんだけど。ばーちゃん具合悪くなって、施設入ってたから」
清ちゃんは淡々と話す。もしかしたら同じような話を、他の人にも何度もしたのかもしれない。話すうちにだんだん、いなくなった人のことが整理できていくみたいな、そんな口調だった。
「で、店の仕入れとかも、もうずっとしてなくて。でも、店の中にはまだ、使えるものっていうか、商品がいろいろ残ってる状態で」
「へー」
私は記憶の中の、おばーちゃんが店番してたときのお店の様子を手繰り寄せる。こじんまりとした店内に、いろんなものが並んでた。
「でも俺、手芸のこととかわかんねーし。何に価値があるかとか、ぜんぜん」
そう言って、清ちゃんは大きなため息をついた。
「まー、来月、業者に頼んで全部処分する予定にはなってて。それまでに、必要なものは取っとけってことなんだけど……」
手芸店にある価値のあるもの……って、何だろう? 手っ取り早く金目のものならレジの中の現金? いや、さすがにそれは家族が回収してるはすだよね。
自分が強盗に入るとしても、手芸店は選ばないな。貴金属店とかブランド物を扱ってる店なら、手当たり次第ガラスぶち壊して持ってっちゃうんだろうけど……いや、そんなことはしないけど。
物騒なことを考えてたら、清ちゃんが思わぬことを言い始める。
「ほら美裕、コスプレとかしてたし? 手芸とか、好きだろ?」
唐突に私の黒歴史を披露しないでくれないかな。っていうかなんで知ってる……?
「今はもうしてないよ。ていうかすっごいへたくそだったから……楽しかったけど……」
今は当時の写真を見ることもできない。怖すぎる。ただし、作ってるときはめちゃくちゃ楽しかった。その記憶はある。
幼なじみの怖いところは、こういうことも平気で突っ込んでくるところだよなあ。記憶の中のオタクの私が、今もオタクだと思ってる。
「ぬい活とかしてねーの?」
さらっとそんなことを聞かれて、私は目を泳がせる。
「ぬいはねえ……手を出したら終わりな気がしてねえ……」
高校まではがっつりオタクだったけど、大学に行ってからはそうでもない。そういう共通の趣味の友達とは、進学を機にバラバラになってしまったせいもある。
別にオタクであることを隠すつもりもないんだけど、そういうつながりがなくても大学では友達ができてたから、別にわざわざ言わなくてもいいかなって。
興味があった作品とかも、嫌いになったわけじゃないから、いろいろグッズを見てたらときめくし……ぬいなんかも作りたくもなるけど……それ以上に大学生活は忙しかったんだ。
――ほんと、夏休みに入るまでは。
なんだかいろんな記憶がぶり返してきて、私は慌てて意識を「今」に戻す。そのために、目の前にいる清ちゃんに視線を向けたら、彼はまだ私をじっと見つめていて……そして、はっきりと言った。
「店に残ってるもので美裕が欲しいものがあれば、好きなだけ持ってって」
「……え?」
私がその言葉の意味を理解しきる前に、清ちゃんがよいしょ、と立ち上がる。
「まー、だから。とりあえず見に行こ。店」
そう促され、私はどういうことだと訳のわからないままに、隣の井芹手芸店に行くことになった。




