第九章 十年目の春鈴祭(中編)
離れない距離
――りぃん。
鈴の音がした瞬間、インファの足が止まった。
シウォンも足を止める。
何を見つけたのか、確かめる必要はなかった。
祭りへ入ってから、インファはすでに何度も音のする方へ顔を向けている。
一度目は、子どもが手にしていた小さな鈴。
二度目は、通りの向こうに吊るされた風鈴。
そして今は、屋台の軒下で揺れる、いくつもの鈴だった。
「シウォン、見て」
インファが屋台を指さす。
「見ています」
周囲から目を離さずに答えた。
「鈴を?」
「お嬢様を」
インファが振り返る。
祭りの人出は多い。
左からは菓子を載せた盆を持つ女。
右手の屋台には、子どもが三人。
前方には立ち話をしている男たちがいて、その向こうを荷車がゆっくりと進んでいる。
乳母と女中は少し後ろにいた。
ジュノはいない。
洪家が祭りへ出した荷や人手を取りまとめるため、祭りの東口にいる。
町の世話役や商人たちとの調整も、ジュノに任されていた。
インファの付き添いをしている暇などない。
鈴の屋台まで、十数歩。
今のところ、目立った危険はなかった。
それでもシウォンは、インファが音のする方へ進むときだけ、普段より一歩先まで見る。
鈴へ意識が向けば、周囲への注意が薄くなる。
十年前から変わらなかった。
「私、もう迷子にはならないよ」
考えを読んだように、インファが言った。
「先ほども、飴細工を見つけた途端に道を外れました」
「ほんの少しでしょう」
「三歩です」
「三歩なら、迷子とは言わないもの」
シウォンは答えなかった。
三歩あれば、人の姿は消える。
間へ荷車が入れば、一歩でも見失う。
十年前の祭りで、それを知った。
あの日、インファが人混みへ消えなければ、自分が洪家へ来ることもなかった。
だが、それは今、考えるべきことではない。
目の前の一歩を見失わなければよい。
「行ってもいい?」
インファが屋台を指した。
「俺から離れないでください」
「離れないようにしてくれたらいいでしょう」
右手が差し出された。
シウォンの視線が、その手へ落ちる。
昔は、ためらう理由などなかった。
人混みを歩くとき。
石段を上るとき。
転びそうになったとき。
インファは当然のように手を伸ばし、袖をつかみ、腕へしがみついた。
シウォンも必要であれば、その手を取った。
だが、今は違う。
幼かった手は大きくなった。
細い指の先まで、もう子どものものではない。
この春、シウォンは二十歳になった。
インファが十五歳になったことも、もちろん知っている。
だからこそ、人前でその手を取ることはできなかった。
護衛として必要であれば触れる。
危険から遠ざけるためなら、腕を引く。
足場が悪ければ支える。
それ以外の理由で、主人の娘の手を取ってはならない。
それが正しい。
「シウォン?」
呼ばれ、インファへ目を戻す。
「ご心配なさらずとも、離れません」
静かに答え、人の流れを確かめるため半歩前へ出た。
「お嬢様は、そのままお進みください」
自分が前に立てば、人とぶつかることはない。
横から近づく者がいれば、すぐに気づける。
護衛としては、その方が正しい。
背後で、インファの手が下ろされる気配がした。
「……そう」
声が僅かに沈んだ。
聞こえなかったふりをした。
聞き返せば、なぜ手を取らなかったのか説明しなければならない。
職務上、必要がないから。
それだけを答えればよいはずなのに、その言葉を口にしたくなかった。
人波を抜け、鈴の屋台へ着く。
インファは花の形をした鈴を手に取った。
「きれい。シウォンは、どれがいいと思う?」
「お嬢様のお好きな物を」
「そうじゃなくて。シウォンが選んで」
並んだ鈴へ目を向ける。
刀や馬具なら、選ぶ基準は明確だった。
刃の傷。
革の厚み。
留め具の強さ。
重さの偏り。
飾り物には、そのような正解がない。
その中に、淡い青色の紐があった。
インファは、先ほどからそれを三度見ている。
「こちらを」
青い紐の鈴を指す。
インファが目を丸くした。
「どうして、これなの?」
「お嬢様が、先ほどから三度見ていましたので」
「見てた?」
「はい」
「ずっと周りを見ていたのに?」
周囲を見ることと、インファを見ることは、シウォンの中では分かれていない。
人の手元を見ながら、インファが何を手にしたかを確かめる。
荷車の進路を読みながら、インファがどちらへ顔を向けたかを見る。
危険がないか確認しながら、歩みが遅くなっていないかを知る。
十年続けてきたことだった。
「お嬢様のことは見ています」
インファの目元が緩んだ。
差し出された手を取らなかったときとは、明らかに違う表情だった。
シウォンは鈴を店主へ差し出した。
「これをお願いします」
銭袋を取り出そうとすると、インファの手がその上へ重なった。
「待って。私が買うの」
手の甲へ、指先の温かさが触れる。
シウォンの手が止まった。
インファは自分でも気づいたらしく、すぐに手を離した。
「これは俺が払います」
「どうして?」
「俺が選びましたから」
「選んでって頼んだのは私でしょう」
「では、なおさらです」
「何が、なおさらなの?」
説明できないわけではなかった。
自分が選んだ物を、自分の銭で買って渡したい。
ただ、それだけだった。
だが、それをそのまま口にするのは、なぜかためらわれた。
護衛が主人の娘へ祭りの小さな鈴を贈ること自体は、不自然ではない。
それでも、自分が選び、自分で買い、インファへ渡したいと思った理由を深く考えるべきではない気がした。
シウォンは答えず、店主へ銭を置いた。
二人のやり取りを眺めていた店主が笑う。
「そんなに大切にされて、お嬢さんは幸せ者だねえ」
大切にするのは当然だった。
主人から預かった一人娘である。
「え?」
インファが店主を見る。
「婚礼はいつなんだい?」
シウォンの身体が、ごく僅かに強張った。
意味が分からなかったわけではない。
店主は、自分とインファを許嫁か、夫婦になる間柄だと思っている。
あり得ないことだった。
身分が違う。
立場が違う。
何より、人の多い祭りで余計な噂を生むわけにはいかない。
否定しなければならない。
「違います」
考えるより先に言葉が出た。
「俺は、この方の護衛です」
「あら、そうだったのかい。ずいぶん息が合っているから、てっきり」
「幼い頃からお仕えしていますので」
それで説明は足りる。
それ以上、何も付け加えてはならない。
「そうかい、そうかい。失礼したね」
店主は気にした様子もなく、青い紐の鈴を包み始めた。
インファは横を向いていた。
耳が僅かに赤い。
人混みの熱気のせいだと思うには、先ほどまでと様子が違った。
否定の仕方が強すぎただろうか。
そう考えたが、他にどう答えるべきだったのかは分からなかった。
「お嬢様?」
呼ぶと、インファが顔を上げた。
「こちらでよろしいですか」
包まれた鈴を差し出す。
「……うん」
インファが包みを受け取った、そのときだった。
少し離れた場所から、ジュノの声が響いた。
「止めろ。上の箱を結び直せ」
続いて、木箱が落ちる音がした。
馬が高くいななく。
「離れろ!」
シウォンは音のした方へ顔を向ける。
荷車を引いていた馬が前脚を上げている。
崩れた木箱。
手綱に引かれる男。
逃げようとする馬。
「手綱を放すな! 正面へ立つな!」
悲鳴を上げ、こちらへ押し寄せる人々。
ジュノの声が響く。
「下がれ! 走るな、端へ寄れ!」
インファとの距離は一歩。
逃げ道は左。
だが、左からも人が来る。
後方には乳母と女中。
屋台の柱と自分の間なら、押し寄せる人の流れから外せる。
そこまで考えたときには、身体はすでに動いていた。
後ろから押されたインファの腕を引く。
「お嬢様」
片腕を背へ回し、自分の胸元へ抱え込んだ。
もう一方の腕で人の流れを押し返し、屋台の柱との間へインファを入れる。
「顔を伏せてください」
インファの頬が胸元へ触れた。
呼吸が一瞬止まる。
守るために必要な距離だった。
熊からかばったときも、落下物から守ったときも、身体を盾にした。
護衛として、相手を自分の内側へ入れることはある。
今も同じでなければならない。
けれど、腕の中にいるインファは、あの頃の小さな子どもではなかった。
背へ回した手の下に、細く柔らかい身体の輪郭がある。
髪から、微かに花の香りがした。
顔を伏せたインファの息が、衣越しに伝わる。
それを認識した途端、腕へ込める力の意味まで変わってしまいそうになった。
シウォンは屋台の向こうへ目を向けた。
「そこの二人、荷車の車輪を押さえろ!」
ジュノの声が響く。
「お前は落ちた箱をどけろ。ただし馬の後ろへ回るな!」
見るべきものだけを見る。
考えるべきことだけを考える。
胸元では、十年前にもらった小さな鈴が身体と衣の間に挟まれていた。
内側へ綿を詰め、音が鳴らないようにしてある。
身体が大きく揺れても、鈴は鳴らなかった。
そのことに安堵した。
この距離で鈴が鳴れば、インファに気づかれる。
十年前にもらった物を、今も胸元へ入れていることを知られる。
知られて困る理由などないはずなのに、知られたくなかった。
「お怪我は」
返事がない。
腕の中にいる身体は震えていない。
だが、呼吸が浅い。
「お嬢様」
「……大丈夫」
人の流れが収まり始める。
馬はまだ荒い息を吐いていたが、ジュノと数人の男が手綱と荷車を押さえている。
すぐにこちらへ来る危険はない。
シウォンはインファの背へ回していた腕を離した。
危険は去った。
触れている理由は、もうない。
「どこか痛むところは」
「ない」
「本当に?」
「大丈夫だって言ってるでしょう」
強い声だった。
シウォンはインファの腕、肩、足元へ目を走らせる。
立ち方に不自然なところはない。
衣も乱れていない。
顔色は赤いが、痛みに耐えている様子ではなかった。
怪我がないなら、それでよい。
そう考えながらも、胸の内側には別の違和感が残った。
「鈴を」
足元へしゃがみ、落ちていた包みを拾う。
破れたところはない。
中の鈴も壊れていなかった。
「無事です」
インファへ差し出す。
「……ありがとう」
「護衛ですので」
口にした瞬間、インファの表情から何かが消えた。
護衛だから。
それは事実であり、最も間違いのない答えだった。
同時に、それ以外の答えを口にしないための言葉でもあった。
「お嬢様!」
乳母が人をかき分け、駆けてくる。
青ざめた顔でインファの両肩を確かめた。
「ご無事でございますか。どこか痛むところは? 押されたところはございませんか?」
「大丈夫。どこも痛くないよ」
「本当にございますね?」
「うん」
乳母は腕や頬、額、足元を順に確認する。
「よろしゅうございました……」
その間に、ジュノが近づいてきた。
額に汗を浮かべ、袖が乱れている。
「お嬢様」
人目があるため、普段とは呼び方を変えていた。
「お怪我はありませんか」
「大丈夫。ジュノは?」
「俺も平気です」
ジュノはインファの立ち方を確かめ、それからシウォンを見る。
「本当にないな?」
「ない」
「分かった」
短い言葉で、互いに確認する。
ジュノはそれ以上尋ねなかった。
「母さん、お嬢様を屋敷へ」
乳母へ告げる。
「シウォン」
「何だ」
「ここは俺が収める。お前はお嬢様をお連れしろ」
「分かった」
「ジュノは帰らないの?」
「まだ片づけが残っています」
「でも」
「心配しなくて大丈夫です。馬はもう落ち着いています。こっちもすぐ片づきます」
「無理しないでね」
「お嬢様も、今日はもう寄り道しないでください」
「しないもん」
「今の返事は信用できません」
ジュノにいつものように言われて、安心したのかインファが少し息を吐いた。
ジュノは乳母へ頭を下げると、すぐに仕事へ戻っていった。
帰り道、乳母と女中が少し前を歩いた。
インファは、その後ろを進む。
シウォンはいつもの半歩後ろにいた。
インファは一度も振り返らなかった。
手にした鈴の包みへ、ずっと視線を落としている。
「シウォン」
やがて、インファの方から名前を呼んだ。
「はい」
「さっきみたいなこと、誰にでもするの?」
「さっきとは」
「私を人からかばったこと」
質問の意味が分からなかったわけではない。
単に護衛の技術について尋ねているのではないと分かった。
誰にでも、あのように手を伸ばすのか。
誰にでも、あの距離まで近づくのか。
インファが知りたいのは、そこなのだろう。
「危険があれば当然です」
職務の答えを選ぶ。
「私じゃなくても?」
インファの声が僅かに低くなる。
ここで、違うと言えばよいのかもしれない。
同じではない。
誰の姿でも、祭りの中で何度見た鈴なのかまで覚えているわけではない。
誰の手が差し出されても、取るべきかどうかで迷うわけではない。
誰を抱き寄せても、離したあとの温かさが手に残るわけではない。
だが、それを認める言葉は、護衛の口から出してよいものではなかった。
「護衛を任されれば」
インファの歩みが僅かに遅くなった。
「……そう」
背中を向けられたままでも、その声が傷ついていることは分かった。
分かってなお、シウォンは何も付け加えなかった。
「なぜ、そのようなことを?」
「別に」
「先ほどから、様子が」
「シウォンには関係ないでしょう」
足が止まった。
関係がない。
その言葉が胸へ入り、すぐには消えなかった。
職務だけを考えるなら、怪我がなく、体調にも異常がなければ、それ以上踏み込む必要はない。
機嫌や胸の内まで尋ねるのは、護衛の役目ではない。
自分で引いた境界を、インファから示されただけだった。
数歩先で、インファも立ち止まっている。
振り返らないまま、何かを待っていた。
何を待っているのか、シウォンには分かっていたのかもしれない。
分からないのではなく、答えられなかった。
「失礼いたしました」
結局、それしか言わなかった。
インファの肩が小さく下がる。
また傷つけた。
その自覚だけを抱えたまま、いつもの半歩後ろへ戻った。
屋敷へ着くと、乳母はインファを母屋へ連れていった。
その背中が戸の向こうへ消えるまで見届けてから、シウォンは道具部屋へ向かった。
日が傾いた頃、ジュノが屋敷へ戻ってきた。
祭りの埃をかぶり、朝より衣が汚れている。
ジュノが道具部屋へ入るなり、シウォンは尋ねた。
「馬は」
「怪我はない。落ちた箱の音に驚いただけだ。荷車の持ち主にも話をした。壊れた屋台は明日直す」
「怪我人は」
「二人。擦り傷だけだ。医者にも見せた」
ジュノが答える間、シウォンは刀の留め具を確認し、布で汚れを拭った。
必要な報告が終わる。
ジュノは、すぐには動かなかった。
「それで」
「何だ」
「インファと何があった」
シウォンの手が止まる。
「何もない」
「何もなければ、あんな顔しない」
シウォンは答えなかった。
ジュノは声を荒らげなかった。
道具棚へ背を預けながら話を続けた。
「俺は、お前たちが祭りで何をしていたか見ていない。馬が暴れたとき、初めて顔を合わせた。だから勝手な想像で話すつもりはない。何があった」
しばらくして、シウォンは答えた。
「鈴を買った」
「それで」
「店主に、婚礼はいつかと聞かれた」
「お前たちの?」
「ああ」
「お前は何と」
「違うと答えた。俺は護衛だと」
「そのあと、お嬢様が、誰でも同じように守るのかと聞いた」
「それで」
「護衛を任されれば、と答えた」
ジュノはしばらく黙った。
呆れたように額を押さえることも、怒鳴ることもしなかった。
ただ、シウォンを見た。
「その問いの意味が分からなかったのか」
「意味を考える必要はない」
「必要がない?」
「俺は護衛だ」
ジュノの目が僅かに細くなる。
「お前は分からないんじゃない。分からないことにしてるんだな」
シウォンは布を持ったまま、ジュノを見る。
「何が言いたい」
「分からないと言う奴は、そんな顔をしない」
「どんな顔だ」
「俺に聞くな。鏡を見ろ」
シウォンは黙った。
「俺は、インファが何を考えてるのかまでは知らない。勝手なことを言うつもりもない」
ジュノの声は低く、落ち着いていた。
「ただ、お前が護衛という言葉を使うたび、インファが傷つくなら、それはもう職務だけの話じゃない」
「俺に、どうしろと言う」
「自分で考えろ」
「考えてどうなる」
「それも自分で決めろ」
シウォンは布を握ったまま、ジュノを見る。
「俺が余計なことを考えれば、お嬢様が困る」
「そうかもしれないが」
ジュノは簡単に否定しなかった。
「だからって、何も考えないふりをしていい理由にはならない」
「ふりではない」
「なら、なぜ手を止めてる」
言われて、自分の手を見る。
刀の留め具へ布を当てたまま、しばらく動いていなかった。
ジュノは小さく息を吐いた。
「祭りの道具の片づけが残ってる。俺は行く」
戸口まで進み、足を止めた。
「シウォン」
「何だ」
「守ることを理由にして、インファを傷つけるな」
それだけを告げ、ジュノは部屋を出ていった。
夜、見回りの途中で、母屋の窓に人影を見つけた。
インファだった。
シウォンは足を止める。
灯りを背にした姿は、昼間よりも小さく見えた。
目が合う。
軽く頭を下げると、インファは小さく手を上げた。
昼間、差し出された手を取らなかった。
今も、あの手へ触れることはできない。
それでも、インファが部屋へ戻るまで、ここを離れるつもりはなかった。
やがて、インファが窓辺から離れる。
姿が見えなくなってから、シウォンも歩き始めた。
胸元には、十年前にもらった鈴がある。
今はもう鳴らない。
それでも、どこにあるかは分かっていた。
歩くたび、衣の内側で僅かに胸へ触れる。
捨てる理由がない。
だから持っている。
ずっと、そう考えてきた。
だが本当は、持ち続ける理由がないのではなかった。
その理由へ、名を与えないようにしていただけだった。
名を与えれば、自分が立つべき半歩後ろへ、もう戻れなくなる気がした。




