第八章 十年目の春鈴祭(前編)
※本章は前編・中編・後編で、同じ出来事を異なる人物の視点から描いています。
※本日は前編・中編・後編の3章を公開します。
届かない距離
――りぃん。
人々の声が行き交う春鈴祭の中で、澄んだ音がした。
インファの足が止まる。
十年前と同じだった。
色鮮やかな布が風にはためき、その下にいくつもの鈴が吊るされている。
丸い鈴。
花をかたどった鈴。
赤い紐の先で揺れる、小さな銀色の鈴。
風が吹くたび、それぞれに異なる音を響かせていた。
「シウォン、見て」
インファは屋台を指さした。
すぐ後ろから、落ち着いた声が返ってくる。
「見ています」
「鈴を?」
「お嬢様を」
振り返ると、シウォンはいつものように半歩後ろに立っていた。
この春、インファは十五になった。
シウォンと初めてこの祭りを訪れたときには、まだ五歳だった。
鈴の音だけを追いかけ、乳母やジュノの声も聞かず、人混みの中へ飛び込んでいった。
今はもう、そのようなことはしない。
少なくとも、インファ自身はそう思っていた。
「私、もう迷子にはならないよ」
「先ほども、飴細工を見つけた途端に道を外れました」
「ほんの少しでしょう」
「三歩です」
「三歩なら、迷子とは言わないもの」
シウォンは答えなかった。
否定しないのではない。
何を言ってもインファが言い返すと分かっている顔だった。
昔より背が伸び、肩幅も広くなった。
腰には護衛の刀を帯び、立っているだけで護衛だと分かる。
祭りの浮かれた空気の中でも、シウォンの目だけは絶えず周囲を見ていた。
人の手元。
屋台と屋台の隙間。
荷車の進む方向。
インファへ近づく者の足取り。
けれど、インファが振り返ると、その視線は必ず彼女へ戻ってくる。
それが当たり前になって、もう十年になる。
乳母と女中は、少し後ろの菓子屋にいた。
ジュノは一緒ではない。
洪家が祭りへ出した荷や人手を取りまとめるため、祭りの東口にいる。
町の世話役や商人たちとの調整も、ジュノに任されていた。
以前なら、祭りへ来れば当然のように隣を歩いていた。
けれど今は、ジュノにはジュノの仕事がある。
「行ってもいい?」
インファは鈴の屋台を指した。
シウォンが人の流れを確かめる。
「俺から離れないでください」
「離れないようにしてくれたらいいでしょう」
インファはそう言って、右手を差し出した。
シウォンの目が、その手へ落ちる。
幼い頃は、何も考えずにつないでいた。
人混みでは手を引かれた。
石段では転ばないよう支えられた。
眠くなれば袖をつかみ、そのまま離さなかったこともある。
けれど、いつからだろう。
シウォンは、必要がなければインファへ触れなくなった。
差し出された手を見つめたまま、シウォンは動かない。
「シウォン?」
呼ぶと、シウォンは差し出された手からインファへ視線を戻した。
「ご心配なさらずとも、離れません」
静かな声でそう答え、人の流れを確かめるようにインファの半歩前へ出る。
「お嬢様は、そのままお進みください」
インファは、差し出したままの手を見つめた。
行き場をなくした指をそっと握り、何事もなかったように腕を下ろす。
「……そう」
シウォンが前を歩けば、人とぶつかることはない。
自分を守るためにしてくれているのだから、不満に思う理由などなかった。
それでも、差し出した手のひらが、春の風に触れて少し冷たく感じた。
人波を抜け、鈴の屋台へ近づく。
店先には、十年前よりも多くの鈴が並んでいるように見えた。
小さな子どもだった頃には、どれも頭のずっと上にあった。
それが今では、少し手を伸ばせば触れられる。
インファは花の形をした鈴を手に取った。
薄い銀色の花びらの中に、小さな玉が入っている。
揺らすと、軽やかな音がした。
「きれい。シウォンは、どれがいいと思う?」
「お嬢様のお好きな物を」
「そうじゃなくて。シウォンが選んで」
シウォンは困ったように鈴を見渡した。
刀や馬具なら、良し悪しをすぐに見分ける。
道具のわずかな傷にも気づく。
けれど、飾りや衣を選ばせると、途端に判断が遅くなる。
インファは並んだ鈴の向こうに、淡い青色の紐を見つけた。
きれいな色だった。
シウォンの護衛服にも、よく似合いそうな色だと思った。
けれど、鈴を身につけるシウォンの姿は想像できない。
護衛は音の鳴る物を持たないのだと、以前聞いたことがある。
それでも紐の色が気になって、何度かそちらへ目を向けた。
しばらくして、シウォンがその鈴を指した。
「こちらを」
インファは目を丸くする。
「どうして、これなの?」
「お嬢様が、先ほどから三度見ていましたので」
「見てた?」
「はい」
「ずっと周りを見ていたのに?」
シウォンは当然のことを答えるように言った。
「お嬢様のことは見ています」
胸の奥が、不意に温かくなった。
差し出した手を取ってくれなかったことなど、もうどうでもよいように思えた。
周囲を警戒しながらも、自分が何を見ていたのかまで気づいていた。
そのことが嬉しかった。
シウォンは鈴を店主へ差し出す。
「これをお願いします」
そのまま自分の銭袋を取り出した。
インファは慌てて、銭袋を持つシウォンの手を押さえた。
「待って。私が買うの」
シウォンの指が僅かに止まる。
インファは手を重ねたことに気づき、すぐに離した。
「これは俺が払います」
「どうして?」
「俺が選びましたから」
「選んでって頼んだのは私でしょう」
「では、なおさらです」
「何が、なおさらなの?」
シウォンは答えなかった。
ごく当然のことをしている顔で、店主へ銭を置く。
意味は分からなかった。
けれど、シウォンが自分で選んだ鈴を、自分の銭で買ってくれるというのは、嬉しかった。
二人のやり取りを眺めていた店主が、堪えきれないように笑った。
「そんなに大切にされて、お嬢さんは幸せ者だねえ」
「え?」
「婚礼はいつなんだい?」
店主が、買い物客へ向ける気軽な調子で尋ねる。
インファの手が止まった。
隣で、シウォンも僅かに動きを止める。
婚礼。
その言葉の意味が胸へ落ちるまで、少し時間がかかった。
店主は、自分とシウォンを許嫁だと思っている。
違うと答えなければならないと分かっているのに、声が出なかった。
シウォンは、どう答えるのだろう。
そう思い、隣の横顔を見上げる。
「違います」
即座にシウォンが否定した。
「俺は、この方の護衛です」
「あら、そうだったのかい。ずいぶん息が合っているから、てっきり」
「幼い頃からお仕えしていますので」
声は平らだった。
不快そうでも、慌ててもいない。
ただ、間違いを正しただけの、いつもの声色だった。
「そうかい、そうかい。失礼したね」
店主は気にした様子もなく、青い紐の鈴を包み始める。
インファはシウォンの横顔から目をそらした。
許嫁だと思われることなど、あり得ないのだから、否定するのは当然だった。
シウォンは洪家の護衛で、自分は主人の娘である。
それなのに、胸の奥へ小さな石が落ちたように、呼吸が少し苦しくなった。
「お嬢様?」
呼ばれ、インファは顔を上げた。
「こちらでよろしいですか」
シウォンが包まれた鈴を持っている。
「……うん」
インファが包みを受け取った、そのときだった。
少し離れた場所から、聞き慣れた声が響いた。
「止めろ。上の箱を結び直せ」
ジュノだ。
どこにいるのかと目を向ける前に、大きな物音がした。
木箱が地面へ落ちる。
続いて、馬の高いいななき。
「離れろ!」
祭りのざわめきが、一瞬で悲鳴へ変わった。
荷車を引いていた馬が、前脚を高く上げている。
手綱を持つ男が引きずられ、押された人々が一斉に屋台の方へなだれ込んできた。
「手綱を放すな! 正面へ立つな!」
ジュノの声が飛ぶ。
「下がれ! 走るな、端へ寄れ!」
インファの背中へ、誰かの身体がぶつかった。
足元が揺らぎ、身体が前へ傾く。
倒れる。
そう思うより早く、腕を強く引かれた。
「お嬢様」
シウォンだった。
包まれた鈴が、インファの手から落ちる。
シウォンは片腕をインファの背へ回し、自分の胸元へ引き寄せた。
もう片方の腕で押し寄せる人々を防ぎ、屋台の柱との間へインファをかばう。
「顔を伏せてください」
低い声が、すぐ耳元で聞こえた。
インファは言われるまま、シウォンの胸へ顔を寄せる。
硬い護衛服の感触。
背中へ回された腕。
人々に押されても揺らがない身体。
知らないもののように感じた。
同じ人なのに。
幼い頃から、誰よりも近くにいた人なのに。
昔は、シウォンの袖をつかむことに理由などいらなかった。
眠くなれば寄りかかり、転びそうになれば手を借りた。
けれど今は、胸元へ頬が触れていることを意識しただけで、息の仕方が分からなくなる。
シウォンの腕へ、さらに力がこもった。
人の流れから守るためだと分かっている。
それなのに、背中へ触れる手のひらが、ひどく熱く感じた。
人々の声に混じって、ジュノの指示が聞こえる。
「そこの二人、荷車の車輪を押さえろ!」
「お前は落ちた箱をどけろ。ただし馬の後ろへ回るな!」
姿はよく見えない。
けれど、その声が馬の近くから聞こえてくる。
ジュノは、自分たちのところへ駆けつけてくるのではなく、その場にいる人々を動かしていた。
子どもの泣き声。
男たちの掛け声。
荒い馬の息。
しばらくして、人の流れが少しずつ収まっていった。
「お怪我は」
頭上からシウォンの声がする。
インファは、すぐには答えられなかった。
心臓が速く鳴っている。
驚いたからだ。
人に押されたから。
それだけ。
「お嬢様」
「……大丈夫」
少し声が震えた。
シウォンが周囲を確かめる。
それから、インファの背へ回していた腕を離した。
触れていた温かさが急に遠ざかり、インファは落ち着かない気持ちになった。
「どこか痛むところは」
「ない」
「本当に?」
「大丈夫だって言ってるでしょう」
思ったよりも強い声が出た。
自分の声のとげとげしさに、インファも驚く。
シウォンが僅かに眉を寄せた。
何かを確かめるように、インファの腕や足元へ視線を動かしている。
心配してくれているのが分かる。
シウォンは何も悪くない。
いつものように守ってくれた。
怪我がないか確かめている。
だからこそ、胸の奥が落ち着かなかった。
「鈴を」
シウォンが足元へしゃがむ。
落ちていた包みを拾い、破れていないことを確かめた。
「無事です」
差し出された鈴を、インファは両手で受け取る。
「……ありがとう」
「護衛ですので」
胸の中へ、先ほどよりも大きな石が落ちた。
護衛だから。
守ったことも。
抱き寄せたことも。
怪我がないか心配することも。
すべて、それが仕事だから。
分かっている。
「お嬢様!」
人をかき分け、乳母が駆けてきた。
青ざめた顔でインファの前へ立ち、両肩へ手を置く。
「ご無事でございますか。どこか痛むところは? 押されたところはございませんか?」
「大丈夫。どこも痛くないよ」
「本当にございますね?」
「うん」
乳母はインファの腕を取り、衣の上から怪我がないか確かめた。
頬や額へも目を走らせ、最後に足元を確認する。
「よろしゅうございました……」
ようやく、深く息を吐いた。
少し遅れて、ジュノが人波の向こうから近づいてきた。
額には汗が浮かび、衣の袖が乱れている。
「お嬢様」
人目があるためか、いつものようにインファとは呼ばなかった。
「お怪我はありませんか」
「大丈夫。ジュノは?」
「俺も平気です」
ジュノはインファの立ち方を確かめ、それからシウォンを見る。
「本当にないな?」
「ない」
「分かった」
それ以上は問いたださなかった。
ジュノは周囲を見渡した。
倒れた木箱。
荷車。
泣いている子ども。
後始末を待っている家人たち。
「母さん、お嬢様を屋敷へ」
乳母へ告げる。
「シウォン」
「何だ」
「ここは俺が収める。お前はお嬢様をお連れしろ」
「分かった」
「ジュノは帰らないの?」
「まだ片づけが残っています」
「でも」
「心配しなくて大丈夫です。馬はもう落ち着いています。こっちもすぐ片づきます」
「無理しないでね」
「お嬢様も、今日はもう寄り道しないでください」
「しないもん」
「今の返事は信用できません」
いつものように言い返すと、ジュノはインファを安心させるように笑った。
インファは、その笑顔を見て少しだけ安心した。
ジュノは乳母へ頭を下げると、すぐに荷車の方へ戻っていった。
帰り道、乳母と女中は少し前を歩いた。
乳母は何度も振り返り、インファが遅れていないか、顔色が悪くなっていないかを見ている。
インファとシウォンの間には、僅かな距離があった。
いつもなら、シウォンは半歩後ろにいる。
今も同じ場所を歩いているはずなのに、今日はもっと遠く感じる。
インファは手の中の包みを見つめながら歩いた。
青い紐のついた鈴。
シウォンが、自分の視線に気づいて選んで、自分の銭で買ってくれたもの。
店主には、許嫁だと思われた。
けれど、シウォンはすぐに否定した。
そして、危険が迫れば抱き寄せて守り、危険が去ればすぐに手を離した。
すべて、護衛として正しいことだった。
「シウォン」
「はい」
「さっきみたいなこと、誰にでもするの?」
背後の足音が、一拍遅れた。
「さっきとは」
「私を人からかばったこと」
「危険があれば当然です」
「私じゃなくても?」
口にしてから、何を聞いているのだろうと思った。
自分だけを守ってほしいのか。
誰かを守るシウォンを見たくないのか。
そんなことを言えるはずがない。
シウォンは護衛なのだから。
少しの沈黙のあと、答えが返ってくる。
「護衛を任されれば」
やはり、そうなのだ。
誰が相手でも守る。
誰が相手でも手を引く。
誰が相手でも抱き寄せて、怪我がないか確かめる。
それがシウォンの仕事なのだから。
「……そう」
「なぜ、そのようなことを?」
「別に」
「先ほどから、様子が」
声に心配が滲んでいる。
けれど、それも護衛だからなのだと思うと、聞きたくなくなった。
「シウォンには関係ないでしょう」
言った瞬間、後悔した。
背後の足音が止まる。
インファも数歩進んだところで立ち止まった。
振り返ることができない。
嫌な言い方だった。
分かっているのに、謝る言葉が出てこなかった。
関係ないはずがない。
シウォンはいつもそばにいてくれる。
幼い頃から、自分のことを誰よりもよく見ている。
だからこそ聞いたのだ。
何かを言ってほしかった。
けれど、自分が何を待っているのかは分からなかった。
しばらくして、背後から静かな声がする。
「失礼いたしました」
それだけだった。
いつもの半歩後ろへ、足音が戻る。
インファは唇を噛み、歩き始めた。
謝ってほしかったわけではない。
何が失礼だったのかも、シウォンには分かっていないだろう。
ただ、分からないのはインファも同じだった。
屋敷へ戻ると、乳母はインファを母屋へ連れていった。
もう一度身体を確かめ、湯を用意するよう女中へ言いつける。
その夜、インファは鏡台の上へ、祭りで買った鈴を置いた。
青い紐を指で持ち上げ、目の高さでそっと揺らす。
――りん。
きれいな音だった。
昼間の祭りで、シウォンが選んだ鈴。
「お気に召しませんでしたか」
後ろで乳母が尋ねる。
インファの長い髪を梳きながら、鏡越しに顔を見ていた。
「気に入ってるよ」
「それにしては、浮かないお顔でございます」
「少し疲れただけ」
「お怪我はございませんね?」
「うん」
祭りでも、屋敷へ戻ってからも、乳母は何度も同じことを尋ねた。
「シウォンがついていたのですから、きっとお守りするとは思っておりましたが」
インファの指が止まる。
「乳母」
「はい」
「シウォンは、誰のことでも守るの?」
乳母は櫛を動かす手を止めた。
「護衛でございますから、命じられれば務めを果たすでしょう」
「そうだよね」
「ですが」
乳母は鏡の中のインファを見つめる。
「誰の姿でも、あれほど目で追っているわけではございません」
インファが振り向く。
「どういう意味?」
「さて」
乳母は穏やかに笑い、再び髪を梳き始める。
「シウォン本人へお尋ねになるのがよろしいかと」
「聞いたもん」
「何と?」
「誰でも同じように守るのかって」
「それで、シウォンは何と」
「護衛を任されればって」
「まあ」
乳母は、ため息とも笑いともつかない声をこぼした。
「何?」
「いいえ。シウォンらしい答えだと思いまして」
それ以上尋ねても、乳母は何も教えてくれなかった。
やがて庭から、夜の見回りをする者の足音が聞こえた。
規則正しく、迷いのない足音。
インファは立ち上がり、窓辺へ近づく。
暗い庭を、灯りを持ったシウォンが歩いている。
少し離れた場所からでも、すぐに分かる。
背の高さも、歩き方も、半歩ごとに周囲を確かめる癖も、インファはすべて知っていた。
シウォンが足を止め、こちらを見る。
暗い窓辺にいるインファを見つける。
それまで周囲を警戒していた目が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
シウォンは軽く頭を下げる。
主人の娘へ向ける、護衛の礼だった。
インファも小さく手を上げて応えた。
昼間、自分が差し出した手を、シウォンは取らなかった。
危険が迫ったときには、迷わず引き寄せた。
その違いが、今はひどく気になった。
自分から触れようとすれば離れ、守る必要があれば触れる。
シウォンにとって、その境目はきっと明確なのだ。
シウォンはこちらを見たまま動かない。
インファが部屋へ戻るまで見届けるつもりだと分かった。
自分がここにいては、シウォンは動けない。
そう思い、窓から離れる。
「……護衛だから」
口に出してみる。
今までは、その言葉で何もかも納得できた。
いつもそばにいることも。
誰より早く自分を見つけることも。
好きな菓子を覚えていることも。
自分が何度見た鈴なのかまで気づくことも。
泣けば困った顔をすることも。
命を懸けて守ろうとすることも。
すべて、護衛だから。
そう思えばよかった。
けれど、その夜のインファには、その言葉が少しだけ寂しかった。
「誰でも、なんだ」
自分で言った言葉が胸へ刺さる。
手の中で、新しい鈴が揺れた。
――りん。
澄んだ音が、静かな部屋へ広がる。
インファは音のするものが好きだった。
どこにあるのか、すぐに分かるから。
けれど今、知りたいと思った人の心は、どれほど耳を澄ませても聞こえなかった。




