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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第十四章 赤い紐の鈴

客人を迎えての挨拶が終わると、屋敷では祭りへ出かける支度が始まった。


ジュノは祭りの差配へ戻るため、一足先に町へ向かった。


インファたちが支度を整えて門へ出た頃には、その姿はもうなかった。


門の外には、町へ向かう人々の姿が続いている。


遠くから、祭りの笛や太鼓の音がかすかに届いていた。


インファの隣にはソンジンが立ち、その半歩後ろにはシウォンが控えている。


見送りに出た泰元は、門の内外へ一度目を向けた。


洪家から同行するのはシウォンだけである。


インファとソンジンが互いを知るための外出に、大勢の家人を同行させるつもりはなかった。


だが、ソンジンとともに漢陽から来た者の姿まで、一人も見当たらない。


「失礼ながら、閔公子」


泰元が尋ねる。


「お供の方々は、先に町へ向かわれたのでしょうか。護衛のお姿も見えないようですが」


ソンジンは、泰元の視線を追うように街道を見回した。


それから、少し困ったように笑った。


「さて。どこにいるのでしょう」


泰元の眉が、わずかに動く。


「ご存じないのですか」


「ええ。私は、自分の護衛が何人いるのかも、どのような顔をしているのかも知りません」


インファが目を丸くした。


「お顔もですか?」


「はい。正確には、顔を知らない者もいる、という意味ですが」


ソンジンは穏やかに答えた。


「どうやら、私が気づくより先に、懸念されるものは取り除かれているようです」


冗談めいた口調だった。


けれど、シウォンには笑えなかった。


門の外へ視線を向ける。


街道を歩く男。


荷を背負った者。


祭りへ向かう親子。


道端で品物を並べる商人。


誰もこちらを見てはいない。


少なくとも、そう見える。


漢陽でも指折りの名門の子息となれば、地方の両班とは置かれている環境が違う。


同じ両班であっても、持つ財も、影響を及ぼせる範囲も比べものにならない。


大きな家に生まれることは、それだけ厚く守られるということでもある。


だが同時に、狙われる理由を多く持つということでもあった。


家の外にいる者だけが敵とは限らない。


家督。


婚姻。


官職。


どの勢力へ与するか。


本人が望むかどうかにかかわらず、その立場ひとつで利を得る者もいれば、失う者もいる。


身内でさえ、すべてを信じられるとは限らない。


そういう家では、主人にさえ姿を知らせず護衛をつけることがあると、以前、教えられたことがあった。


ソンジンは詳しく語らない。


だが、語らないことそのものが、それを特別とも思っていないことを示していた。


シウォンは、昨日の広場を思い返した。


ソンジンのそばにいたのは、旅装の男が一人だけだと思っていた。


だが、本当にそうだったのか。


広場には多くの人間がいた。


商人。


職人。


祭りの支度をする男たち。


子どもを見守る親。


少し離れた場所で荷を下ろしていた者。


その中に、ソンジンの護衛が紛れていたとしても不思議ではない。


自分は気づかなかった。


ソンジンの指先がインファへ届いたことばかりを考えていた。


簪を取られ、戻され、鈴まで掛けられた。


それを見抜けなかったことを、自分の失態だと思っていた。


だが、見落としていたのはそれだけではなかった。


昨日、自分の目に映っていなかったのは、ソンジンの手だけではない。


あの場にいた人間の役割を、自分は何一つ見抜けていなかったのかもしれない。


護衛として、相手の正体を知らなかったことは言い訳にならない。


シウォンの指が、腰の刀の鞘へ触れた。


いつもの位置を確かめるだけの動きだったが、指先にはわずかに力が入っていた。


「すごい……」


インファの声がした。


シウォンが視線を戻すと、インファは目を輝かせて門の外を見回していた。


「この道のどこかにも、護衛の方がいらっしゃるのですよね」


「おそらくは」


ソンジンが答える。


インファは街道を歩く人々を、一人ずつ確かめるように眺めた。


荷を背負った男が通ると目で追い、木陰に立つ老人を見て首をかしげる。


どうやら、本気で護衛を見つけようとしているらしい。


「まったく分かりません」


ソンジンはインファが人々の顔を懸命に見比べる様子を眺め、扇で口元を隠した。


「昨日も、あれほど近くでご覧になっていたのに、私の手元は見抜けませんでしたからね」


インファにだけ届く声で言った。


インファはソンジンを振り返り、少しだけ頬を膨らませた。


「今度は見つけます」


「それは心強い。見つけたら、私にも教えてください。せっかくですから挨拶をしたいです」


ソンジンが笑う。


泰元は何か考えるようにソンジンを見たが、それ以上は尋ねなかった。


「では、気をつけて行ってきなさい」


「はい、お父様」


インファが答え、ソンジンも泰元へ丁寧に頭を下げた。


インファとソンジンが並んで門を出た。


シウォンはいつものように、インファの半歩後ろについた。


町へ近づくにつれ、祭りの音が大きくなっていく。


道の両側には春の花が咲き、風が吹くたび、小さな花弁が足元を転がった。


ソンジンが歩きながら、インファへ顔を向ける。


「インファさんは、いつも護衛の方とご一緒なのですか」


「はい。町へ出るときは、いつも」


「それでは、息が詰まりませんか」


インファはきょとんとして、ソンジンを見た。


「息が?」


「いつも誰かに見られているのでしょう。たまには一人になりたいと思うことはありませんか」


インファは少し考えた。


考えてから、後ろを振り返る。


シウォンと目が合った。


視線が重なったのは一瞬だった。


シウォンはすぐに街道の先へ目を戻す。


「気にしたことがありませんでした」


インファは前へ向き直った。


「小さい頃から、これが当たり前でしたから」


「では、護衛の方がいなくても、特に変わらないと?」


「いいえ」


今度は、考える間もなかった。


「むしろいない方が落ち着きません」


インファはそう答えると、自分でも少しおかしくなったかのように笑った。


「姿が見えないと、どこにいるのか探してしまいます。シウォンは、呼べばいつも返事をしてくれるので」


シウォンの足が、ほんのわずかに遅れた。


誰にも気づかれないほどの一歩だった。


ソンジンはインファを見つめ、それから、その半歩後ろを歩くシウォンへ目を向けた。


「ずいぶん信頼を置いていらっしゃるのですね」


「はい」


やはり、インファは迷わず答えた。


ソンジンの目元が、楽しげに緩む。


「私は、どうすればそこまで信頼していただけるのでしょうか」


軽い口調だった。


インファは少し困ったように瞬きをした。


「どうすれば、と言われても……」


一度、シウォンの方を見る。


「気づいたときには、そうなっていましたから」


ソンジンは、閉じた扇子を顎へ当てた。


「それは困りました。今から追いつくには、ずいぶん時間がかかりそうですね」


冗談めかした声に、インファが小さく笑う。


シウォンは何も言わなかった。


ただ、一定の距離を保ち、同じ速さで歩き続けた。


インファは、また声を立てて笑った。


先ほどから、いつになくよく笑っている。


ソンジンが何か言うたびに目を丸くし、次には楽しそうに笑う。


笑顔を向ける先も、自然と隣を歩くソンジンへ向いていた。


シウォンは二人の半歩後ろを歩きながら、その横顔を見つめた。


若葉色の袖が、視界の端で揺れる。


日の下で見る衣は、仕立て屋で反物を肩へ当てていたときよりも明るかった。


雨上がりの葉のような色が、春の光を受けるたび、細い糸の上へ淡い艶を浮かべている。


あの日、自分の目が止まった色だった。


インファの白い肌にも、艶やかな黒髪にもよく映えている。


柔らかな色が、もともと可憐な顔立ちをいっそう明るく見せていた。


よく似合っている。


笑うと、さらにそう見えた。


そう思うだけなら、護衛として不自然ではないはずだった。


だが、光を受けてほころぶ横顔や、笑うたびに揺れる花の簪まで目で追ってしまう理由を、シウォンは考えないようにした。


その衣が、今日のために仕立てられたものだと知っている。


そして今、その衣を着たインファの隣には、彼女に会うため漢陽から来た男がいる。


ソンジンの整った衣と並ぶと、二人はよく釣り合って見えた。


そう判断した自分の目を、シウォンはすぐに道へ戻した。


町へ入ると、人の声が一気に増えた。


軒先へ吊るされた鈴が風に鳴り、通りには色鮮やかな布が渡されている。


屋台からは焼いた餅や蜜の匂いが漂い、笛と太鼓の音に、商人たちの呼び声が重なっていた。


祭りへ足を踏み入れた途端、インファの目が輝いた。


「あちらが、町で一番古い鈴屋です。その先には、今日しか出ない菓子のお店があって――あっ、あちらでは子どもたちが舞をするんです」


一つ説明し終えるより先に、別のものを見つける。


ソンジンは急かすことなく、インファが指さす方へ顔を向けていた。


「ずいぶん見るものが多いのですね」


「まだあります。広場では、鈴を使った遊びも――」


言いながら、インファの足が止まった。


広場の一角に、低い縄で囲われた場所がある。


その中には、高さの異なる木枠がいくつも立てられ、先端から大小の鈴が吊るされていた。


目を布で覆った者が縄の中へ入り、外にいる相手の声だけを頼りに、指定された鈴を探して鳴らす。


春鈴祭で昔から行われている、鈴探しだった。


ちょうど一組が挑戦しているところだった。


目隠しをされた若者が、手にした細い棒を見当違いの方へ伸ばす。


連れの娘が笑いながら右だ、もう少し前だと声を掛けている。


「楽しそうですね」


ソンジンが言った。


インファは鈴探しから目を離さないまま、うなずいた。


「ずっと、やってみたかったんです」


「まだ一度も?」


「はい。目を隠したまま人のいる場所へ入るのは危ないから、と言われて」


誰に言われたのかは、尋ねるまでもなかった。


インファが少しだけ後ろを見る。


シウォンは答えず、縄の中と、その周囲に集まる人々を見ていた。


足元は平らだった。


木枠は固定されている。


縄の内側へ入るのは参加者だけで、係の者も二人いる。


それでも、視界を塞ぐ以上、危険がないとは言い切れない。


「では、今日は私とやりましょう」


ソンジンが言った。


インファが振り返る。


「よろしいのですか?」


「二人一組なのでしょう。私が声でお導きします」


「それは――」


シウォンが口を開きかけた。


そのとき、係の者が目隠しの布を手に、インファへ声をかけた。


「お嬢様、ご参加なさいますか?」


インファの注意がそちらへ向く。


シウォンが一歩進みかけると、ソンジンは閉じた扇をその前へ静かに差し出した。


そして、インファから顔を隠すようにわずかに身体の向きを変え、シウォンだけを振り返る。


「ここは、護衛殿の出る幕ではありませんよ」


低く落とした声は、祭りのざわめきに紛れ、シウォンにだけ届いた。


口調は柔らかい。


けれど、シウォンが何を言おうとしたのか、ソンジンは分かっていた。


ソンジンは何事もなかったように身体の向きを戻した。


その直後、インファがシウォンを見る。


きっと止められると思ったのだろう。


シウォンは縄の内側をもう一度確かめた。


それから、周囲へ目を走らせる。


危険は、今のところない。


「……」


何も言わなかった。


インファが不思議そうに瞬きをする。


普段なら、目隠しをする前に止められる。


人が集まる場所へ近づく前にも、足元へ気をつけるよう言われる。


今日は何も言われない。


ソンジンが一緒だからだろうか。


インファはもう一度シウォンを見た。


けれど、シウォンは周囲へ目を配ったまま、何も言おうとはしない。


本当に、やってもよいらしい。


胸の奥に残っていた戸惑いが、少しずつ期待へ変わっていく。


「では、私が目を隠します」


インファはそう言って、嬉しさを隠しきれないように笑った。


「あ、そのあとはソンジン様も何かやりましょう。向こうには輪を投げるものもありますし、鈴を三つ続けて鳴らす遊びも――」


「まずはこちらを終えてからにしましょう」


ソンジンがインファを見て楽しそうに笑う。


「そうでした」


インファも笑い、係の者から目隠しの布を受け取った。


町を案内し、客人をもてなすために来たはずだった。


だが、やってみたかったことを一つ許された途端、次にしたいことがいくつも浮かんでしまったらしい。


どちらが客人なのか、もう分からなかった。


ソンジンは、それを気にする様子もない。


むしろ楽しそうに、目隠しを結ぶインファを見守っていた。


「おい、シウォン」


横から声がした。


ジュノだった。


片手に帳面を持ち、肩には祭りの印が入った細い布を掛けている。


どこかの持ち場から別の場所へ移る途中らしい。


ジュノは縄の中へ入ろうとしているインファを見て、それからシウォンを見た。


「何してるんだ、あれ」


「鈴探しだ」


「それは見れば分かる。止めなくていいのか?」


シウォンは前を見たまま答えた。


「護衛の出る幕ではない」


ジュノの眉が寄った。


「……お前がそれを言うのか?」


シウォンは答えなかった。


係の者が、目隠しをしたインファを縄の内側へ案内している。


ソンジンはそのすぐ外へ立ち、鈴の位置を確かめていた。


危険があれば、すぐに動ける距離だった。


だが、それだけではない。


祭りにはこれほど人が集まっているのに、洪家を出てから一度も、インファへ強く身体をぶつけた者がいなかった。


広場へ入ってからは、なおさらだった。


肩が触れそうになれば、その前に誰かが進路を変える。


荷車が近づけば、道端にいた男が声を上げ、人の流れを別の側へ導く。


人の流れが狭まれば、どこからか声が上がり、群れが二つへ分かれる。


誰が護衛なのかは分からない。


それでも、偶然にしては出来すぎていた。


自分がインファと人の間へ入るより早く、道が空いている。


――私が気づく前に、懸念されるものは取り除かれているようです。


先ほどのソンジンの言葉を思い出す。


「人が、妙に近づかない」


シウォンが言った。


ジュノが周囲を見る。


祭りの人出は多い。


だが、確かにインファたちの周りだけは、人の流れにわずかな余裕がある。


「若様の護衛の仕事だ」


「すげぇな」


シウォンはソンジンへ目を向けた。


ソンジンはインファへ声を掛けている。


「もう少し右です。いえ、そちらは左です」


「右と言ったでしょう?」


「私から見て右でした」


「それでは分かりません」


目隠しの下で、インファが笑う。


ソンジンも笑っていた。


「危険はない」


シウォンは言った。


ソンジンは、インファを笑顔にしている。


そのうえ、シウォンが動くより先に、見えない護衛たちが周囲を整えている。


護衛として、止める理由はなかった。


細い棒の先が鈴へ触れた。


――りぃん。


澄んだ音が広場へ響く。


「鳴りました!」


インファが目隠しを外し、嬉しそうにソンジンを振り返る。


その笑顔を、シウォンは人々の向こうから静かに見つめていた。


縄の外へ出たインファは、そこでジュノに気づいた。


「ジュノ。見てたの?」


「ああ。ちょうど通りかかった」


ジュノは帳面を抱え直し、鳴った鈴へ目を向けた。


「ずっとやってみたいって言ってたもんな」


「覚えてたのね」


インファは少し照れたように笑った。


それから、シウォンを見る。


「思っていたほど危なくはなかったでしょう?」


シウォンは縄の内側を一度確かめてから答えた。


「今回は、何事もありませんでした」


「もう少し素直に、よかったと言ってくれてもいいのに」


責める口調ではなかった。


シウォンはわずかに間を置く。


「楽しめたのでしたら、何よりです」


インファの目元が柔らかく緩んだ。


ジュノは広場の向こうへ目をやった。


荷を運ぶ者たちが立ち止まり、こちらの指示を待っている。


「俺は戻る。何かあったら東口にいるから呼べよ」


「うん。分かった」


ジュノは帳面を抱え直すと、待っていた者たちへ声をかけながら、人混みの中へ戻っていった。


インファはその背を見送ったあと、先ほど鳴らした鈴をもう一度振り返った。


「思っていたより、ずっと難しかったです」


ソンジンが答える。


「目を塞いで、相手の声だけを頼りにするのですからね。ずいぶん、相手を信じなければならない遊びです。案内役の私まで試されているようでした」


「私の方が、ソンジン様を信じる側だったのではありませんか?」


「ですから、間違った方向へ案内できないよう、私も試されていたのですよ」


もっともらしい顔で言うソンジンに、インファが笑った。


二人が鈴探しの場所を離れると、通りの向こうから香ばしい匂いが漂ってきた。


「あちらのお餅、おいしいんです」


インファが指さした先には、小さな屋台があった。


平たく焼いた餅へ蜜を塗り、砕いた木の実をまぶしている。


屋台の前では、まだ幼い子どもが、買ったばかりの餅を店主から受け取ったところだった。


「では、いただいてみましょうか」


ソンジンが屋台へ足を向ける。


二人が近づいた、ちょうどそのときだった。


子どもが来た道へ戻ろうと、餅を持ったまま勢いよく振り返った。


「あっ」


避ける間もなかった。


子どもの身体がソンジンへぶつかり、蜜のついた餅が、衣の前へべたりと押しつけられる。


次の瞬間、餅は地面へ落ちた。


シウォンの手が動いたときには、すでにすべてが終わっていた。


危険のある動きではなかった。


あまりに近く、あまりに突然で、間へ入れば、かえって子どもを突き飛ばしていただろう。


子どもは、地面へ落ちた餅を見た。


次に、ソンジンの衣へ残った大きな染みを見る。


相手が身なりのよい両班だと気づいたのだろう。


顔からさっと血の気が引き、小さな唇が震え始めた。


泣き声がこぼれるより先に、ソンジンが子どもの前へしゃがんだ。


「おや」


空の手を子どもの前へ差し出す。


「餅が飴になってしまったようですね」


その手を一度握り、もう一度開く。


掌の上には、小さな飴が一つ載っていた。


子どもの目が丸くなる。


泣きかけていたことも忘れたように、飴とソンジンの顔を交互に見た。


「どうぞ」


ソンジンは飴を小さな手へ載せた。


それから、子どもの身体に怪我がないことを確かめるように、肩や腕へ目を向ける。


「驚かせてしまって、ごめんね。私が前をよく見ていませんでした」


子どもがぶつかったのに、ソンジンはそう言った。


落ちた餅を包み紙ごと拾い上げると、子どもを軽々と抱き上げた。


「今、持っていたのはどれですか?」


子どもはソンジンの腕の中から、屋台に並ぶ餅の一つを指さした。


「あれ」


「蜜と木の実の餅ですね」


ソンジンは屋台の前まで子どもを連れていき、拾った餅を店主へ渡した。


「こちらは、片づけていただけますか。それから、この子へ同じものをもう一つ」


店主は、ソンジンの汚れた衣を見て青ざめていた。


「ですが、若様、お召し物が――」


「餅を一つ、お願いします」


穏やかな声でそう言い、ソンジンは笑みを浮かべた。


店主は慌てて新しい餅を包み、ソンジンへ差し出した。


ソンジンはそれを受け取ると、子どもを地面へ下ろし、小さな手へ持たせた。


「今度は、落とさないように」


子どもは飴と餅を両手に持ち、何度も大きくうなずいた。


「ありがとう」


ようやく出た小さな声に、ソンジンが笑う。


「こちらこそ」


少し離れた場所から、子どもを呼ぶ女の声がした。


子どもはそちらへ駆けていき、途中でもう一度振り返ると、ソンジンへ手を振った。


ソンジンも扇を持った手を軽く上げて応えた。


それから、何事もなかったようにインファを振り返る。


「では、私たちもいただきましょうか」


ソンジンは店主へ向き直った。


「今のものと同じ餅を、二つお願いします」


「かしこまりました」


店主が新しい餅を焼き始める。


インファは返事をせず、ソンジンの衣を見ていた。


帯のすぐ下に、蜜と餅の跡が大きく残っている。


遠目にも分かるほどの、盛大な染みだった。


「お召し物が……」


「インファさんにぶつからなくて、よかったです」


「私?」


「その真新しい衣は、私に会うために仕立ててくださったのでしょう?」


ソンジンの目元が、楽しげに緩む。


「そちらが汚れなかったのですから、この衣も十分に役目を果たしました」


「それは……」


否定しようとしたインファの声が、途中で小さくなった。


この衣が、漢陽から来る客人と会うために仕立てられたことは事実だった。


インファは困ったように染みを見つめる。


やがて袖から小さな手巾を取り出すと、きれいに折り畳んだ。


「少し失礼します」


「はい?」


返事を待たず、ソンジンの帯へ手巾の端を挟む。


淡い布が、衣についた大きな染みを覆った。


インファは少し離れ、出来栄えを確かめた。


「これなら、先ほどより目立ちません」


ソンジンも下を見た。


帯から手巾を垂らした姿は、少し不格好だった。


「なるほど」


それでも、ソンジンは真面目な顔でうなずく。


「漢陽では見かけない、新しい着こなしですね」


インファが吹き出した。


その笑顔を見て、ソンジンも笑う。


インファはしばらく笑っていたが、ふと、子どもへ渡された飴を思い出した。


「あの飴、昨日も出してましたよね」


インファの目が、すっと細くなる。


ソンジンの両袖を見る。


扇へ目を移し、腰の帯を見て、最後に何も持っていない手へ視線を落とした。


「一体、どこにそれほどたくさん隠しているのですか?」


「さて?」


「今度こそ確かめます」


インファはソンジンの正面へ回り込み、両袖をじっと見つめた。


「袖を見せてください」


ソンジンが、わずかに目を見開く。


冗談で言っているのかと思ったが、インファの表情は真剣だった。


名家の令嬢が、往来の真ん中で男の袖を改めようとしている。


「衣まで汚れて、今度は身体検めですか?」


「また手品でごまかすつもりでしょう」


「まさか。そのようなことはいたしません」


驚きはすぐに面白そうな笑みへ変わった。


ソンジンは素直に両腕を上げた。


少し離れたところで、シウォンは二人の様子を見ていた。


インファがソンジンの正面へ回り込んだときから、その視線は二人の間に留まっている。


危険はない。


ソンジンも、インファへ触れようとしているわけではない。


護衛として口を挟む理由は、どこにもなかった。


それでも、インファの指がソンジンの袖口へ近づくと、シウォンの眉がわずかに寄った。


手品の仕掛けを見極めるためだと分かっている。


分かっているからこそ、何も言わずに見ているしかなかった。


インファがまず右の袖口を覗き込む。


何もない。


反対側へ回り、左の袖も確かめる。


やはり何も見つからなかった。


「ない……」


インファが顔を上げる。


ソンジンは両腕を上げたまま、穏やかに尋ねた。


「もう、よろしいですか?」


「おかしいです。絶対にどこかへ隠しているはずなのに」


「続きは、餅を食べながら考えましょう」


ちょうど店主が、焼き上がった餅を二つ差し出した。


ソンジンは礼を言って受け取ると、その一つをインファへ渡した。


「甘いものを食べれば、よい考えが浮かぶかもしれません」


インファはまだ疑わしそうにソンジンの袖を見ていたが、やがて餅を受け取った。


「食べ終わったら、もう一度確かめますからね」


「それは困りました。次は何を調べられるのでしょう」


インファは答えず、餅を一口食べた。


香ばしい木の実と蜜の甘さが広がり、思わず頬が緩む。


その顔を見て、ソンジンも笑った。


餅を食べ終えたあとも、インファはソンジンと祭りを巡った。


輪を投げて鈴を鳴らす遊び。


並べられた器の中から、音だけを頼りに同じ鈴を探し当てる遊び。


細い紐へ小さな飾りを結び、春の願いを託す場所。


今まで立ち止まって眺めるだけだったものを、今日は一つずつ試すことができた。


ソンジンは急かすことも、子どもの遊びだと笑うこともなく、そのたびにインファの隣へ立った。


やがて、二人は通りの端に並ぶ鈴の屋台へたどり着いた。


――りん、りぃん。


春の風を受け、軒先に吊るされた無数の鈴が重なり合って鳴っている。


丸い鈴。


花をかたどった鈴。


指先に載るほど小さな銀の鈴。


結ばれた紐も、赤や黄色、青、若草色とさまざまだった。


インファの目が、鈴の音より先に明るくなる。


「いい音……」


そう呟くと、吸い寄せられるように屋台へ近づいた。


「こちらは、春の間だけ作られる鈴なんです」


インファは黄色い紐の鈴を指す。


「健やかに一年を過ごせますように、という願いを込めるそうです。青は、遠くへ旅をする人が無事に帰ってこられるように。若草色は、新しく始めることが実りますように」


「ずいぶんお詳しいのですね」


「毎年、見に来ていますから」


インファは少し得意そうに笑った。


一つ手に取って音を聞き、隣の鈴と聞き比べる。


形の違いだけでなく、使われている金属や厚みによって音が変わることまで、楽しそうにソンジンへ説明していく。


ソンジンは扇を閉じたまま、その横顔を眺めていた。


鈴について話すインファは、普段よりもよく喋った。


好きなものを前にしているからだろう。


黒い瞳は絶えず輝き、鈴が鳴るたび、唇には自然と笑みが浮かぶ。


可愛らしい人だと、ソンジンは思った。


その視線に気づかないまま、インファは次の鈴へ手を伸ばす。


屋台の一角には、赤い紐を結んだ小さな銀の鈴だけが、ほかのものとは分けて並べられていた。


数も、ほかの色よりずっと多い。


ソンジンが、そのうちの一つを指した。


「この赤い紐の鈴は、どのような願いを込めるものですか」


インファの手が止まる。


「それは……」


先ほどまでの勢いが、少しだけ弱くなった。


「赤い紐だけは、少し特別なんです」


インファは並べられた鈴へ目を落とした。


「これからも長く一緒にいたいと願う、ただ一人の相手へ贈るものだと言われています」


「ただ一人の相手へ?」


「はい。贈られた人が持ち続けているかぎり、二人の縁を春の風が守ってくれるのだそうです」


ソンジンはしばらく鈴を眺めていた。


やがて店先から一つ取り上げ、指先で軽く揺らす。


――りん。


澄んだ音がした。


「では、これをインファさんへ贈りたいです」


インファが顔を上げる。


「あの」


驚いた拍子に、言葉を選ぶ余裕をなくしたらしい。


「今の話、ちゃんと聞いていました?」


普段の丁寧な言葉遣いが、わずかに崩れていた。


ソンジンは気を悪くするどころか、楽しそうに笑った。


「聞いていたからこそ、贈りたいと思いました」


あまりに穏やかに言われ、インファは返す言葉を失った。


赤い紐の先で、銀の鈴が小さく揺れている。


「私、赤い紐の鈴をいただいたことがないんです」


ようやく出たのは、断りとも承諾ともつかない言葉だった。


「そうなのですか?」


「はい。ですから……」


インファは言いにくそうに視線を落とす。


「初めて赤い紐の鈴をいただく相手が、ソンジン様になるのは、その……今は、まだ……」


最後まで言葉にならなかった。


ソンジンはインファの表情を見つめた。


冗談で押し切れば、受け取らせることはできるかもしれない。


だが、それをすれば、この鈴の意味ごと困らせることになる。


「困りましたね」


そう言いながらも、その声は少しも困っていなかった。


「できることなら、最初の人になりたいものです」


インファが戸惑ったように目を上げる。


ソンジンは店主へ鈴を差し出した。


「こちらを一つください」


店主が鈴を小さな紙へ包む。


ソンジンは代金を払い、その包みを袖へ収めた。


「今日は買うだけにしておきます」


「え?」


「いつか、私から受け取ってもいいと思えたら、そのときは教えてください。それまで、大切に取っておきますから」


無理に渡すつもりはないらしい。


インファの肩から、わずかに力が抜けた。


「……ありがとうございます」


安堵したあとで、なぜか確かめるように後ろを振り返る。


少し離れた場所に、シウォンが立っていた。


いつもと変わらない黒い衣。


腰には刀。


鋭い目は周囲へ向けられ、こちらの会話を聞いていたのかどうかも分からない。


インファは、すぐに前へ向き直った。


だが、その一瞬をソンジンは見逃さなかった。


「そういえば」


ソンジンは何気ない口調で、シウォンへ顔を向けた。


「護衛殿は、赤い紐の鈴をお持ちですか?」


シウォンの視線が、屋台に並ぶ鈴へ向く。


「はい」


短い答えだった。


インファが振り返る。


「持っているの?」


「はい」


シウォンは同じように答えた。


インファは目を丸くしたまま、シウォンを見つめた。


持っている。


大切な人との縁を守るための鈴を、シウォンが。


誰にもらったのだろう。


いつから持っているのだろう。


今も大切に持ち続けているのは、贈った相手との縁を失いたくないからなのだろうか。


いくつもの疑問が一度に浮かんだ。


けれど、どれも言葉にはならなかった。


聞けば、答えが返ってくる。


その答えを知りたいはずなのに、今は聞くことができなかった。


ソンジンは、黙り込んだインファとシウォンを交互に見る。


「次は、あちらを見てみませんか」


閉じた扇で、通りの先を示した。


色鮮やかな布飾りの向こうで、祭りの舞が始まろうとしている。


「……はい」


インファは答えた。


だが、歩き始めても、意識はシウォンの言葉へ残ったままだった。


ソンジンが漢陽の祭りについて話している。


珍しい見世物や、夜まで続く灯籠の行列のことも話していた。


インファは相槌を打った。


けれど、何を聞いたのか、ほとんど頭に入ってこない。


護衛であるシウォンが、鈴を身につけて歩くことはない。


それでも、今も持っていると迷わず答えた。


シウォンは、大切な人との縁を守る鈴を、今まで手放さずにいた。


そのことばかりが、胸に引っかかった。


「インファさん」


呼ばれ、インファは顔を上げた。


「はい」


「今の話を聞いていらっしゃいましたか?」


「もちろんです」


「本当ですか?」


ソンジンはインファの顔を覗き込むようにして、わずかに目元を緩めた。


「先ほどから、少し上の空に見えます」


インファは否定しようとしたが、うまく言葉が出てこなかった。


「少し、お疲れになったようですね」


「いいえ、まだ――」


「今日はずいぶん歩きました。続きは、またの機会にいたしましょう」


柔らかな言葉だったが、インファが祭りを楽しめなくなっていることには気づいているらしい。


「屋敷へ戻りましょう」


インファは少し迷い、それからうなずいた。


「……はい」


帰り道でも、ソンジンは穏やかに話しかけてくれた。


町の景色や、先ほど食べた餅のこと。


帯へ挟まれたままの手巾を、漢陽へ持ち帰れば新しい流行になるかもしれないという冗談。


インファは何度か笑ったはずだった。


けれど何を話したのかは、屋敷へ着く頃には、ほとんど覚えていなかった。


その夜。


寝具へ入っても、インファはなかなか目を閉じられなかった。


祭りは楽しかった。


初めて鈴探しをして、やってみたかった遊びをいくつも回った。


甘い餅も食べた。


ソンジンが子どもへ飴を出したときの顔を思い出すと、今でも少し笑いたくなる。


楽しい一日だったはずなのに。


考えるのは、シウォンの鈴のことばかりだった。


――はい。


鈴を持っているのかと尋ねたときの、短い返事が何度も頭の中で繰り返される。


私の知ってる人だろうか。


そういえば仕立て屋で若い娘達が言っていた。


狙ってる人がいる。


放っておかない。


寝返りを打つ。


今度は反対側を向く。


目を閉じても、赤い紐の先で揺れる銀の鈴が浮かんだ。


「……誰にもらったの」


小さく呟いてみても、答える声はない。


夜の風が戸の外を通り過ぎた。


遠くで、どこかの鈴が一度だけ鳴った。


――りん。


インファは寝具を顎まで引き上げた。


その音まで、今夜は落ち着かなかった。


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