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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第十三章 初めまして

乳母の指が、インファの髪へ花の簪を挿した。


「これでよろしゅうございます」


鏡の中で、淡い若葉色の衣が春の光を受けていた。


昨日、衣桁へ掛けられていたときよりも、色が明るく見える。


袖を少し持ち上げると、細い糸が水面のように光った。


インファは鏡へ近づいた。


「変ではない?」


「昨夜から何度お尋ねになるのです」


「だって、着てみるのは初めてだもの」


乳母は呆れたように息をつきながらも、襟元をもう一度整えた。


インファは鏡の中の自分ではなく、髪に挿された簪を見た。


昨日、青年へ渡したものだった。


いつの間にか髪へ戻され、そのあとには消えた鈴まで掛かっていた。


――では今日は、ずっと私のことを考えていてください。


思い出した途端、インファは簪から目を逸らした。


考えていたわけではない。


ただ、手品の仕掛けが気になっていただけだ。


「お嬢様」


戸口の外から、女中の声がした。


「間もなく、漢陽からのお客様がお着きになります。旦那様が、広間へお越しになるようにと」


インファは姿勢を正した。


「今、行きます」


立ち上がり、もう一度だけ鏡を見る。


シウォンは、この衣を見て何と言うだろう。


乳母に裾を整えてもらい、インファは部屋を出た。


廊下の先に、シウォンが立っていた。


広間へ向かうため、迎えに来たのだろう。


いつもと変わらぬ黒い衣に身を包み、柱の脇で静かに待っている。


インファが戸口を越えると、シウォンがこちらを向いた。


その視線が、一度止まった。


顔から、肩へ。


淡い若葉色の衣をたどり、袖口へ落ちる。


ほんのわずかな間だった。


けれど、インファは見逃さなかった。


胸の奥が弾み、思わず袖を少し広げる。


「どう?」


シウォンの目が、インファの顔へ戻った。


「何がですか」


「衣」


分かっているくせに、とインファは思った。


「昨日、仕立て屋から届いたの。似合う?」


「はい」


それだけだった。


インファは返事の続きを待った。


シウォンは何も言わない。


「はい、だけ?」


「よくお似合いです」


予想していた言葉だった。


間違ってはいない。


褒めてもらえたのだから、喜ぶべきなのだろう。


それでもインファは、少しだけ唇を尖らせた。


「それは、誰にでも言う言葉でしょう」


「誰にでもは言いません」


返事はすぐだった。


インファが顔を上げる。


シウォンはすでに廊下の先へ視線を向けていた。


「旦那様がお待ちです」


「今の、どういう意味?」


「そのままの意味です」


「だから、その意味を聞いているの」


シウォンは答えず、広間の方へ身体を向けた。


その横顔はいつもと変わらない。


けれど、耳のあたりがほんの少し赤く見えた気がした。


インファは確かめようと一歩近づく。


そのとき、シウォンの視線が髪へ移った。


花の簪。


昨日、見知らぬ青年の手に渡り、二度も自分の目を欺いて戻されたもの。


わずかに緩んでいたシウォンの目元が、元へ戻った。


「その簪を挿していかれるのですか」


「うん。衣にも合うでしょう?」


「……そうですね」


答えながらも、シウォンは簪から目を離さなかった。


昨日のことを思い出しているのだろうか。


帰り道でも、シウォンはずっと難しい顔をしていた。


今朝になれば元へ戻っていると思っていたのに、簪を見た途端、また同じ影が差した。


違う簪にすればよかったと今更思った。


「シウォン」


「はい」


「今日は怖い顔をしないでね」


シウォンの眉がわずかに動く。


「していません」


「してるよ」


「お客様をお迎えするのです。周囲に注意を払うのは当然です」


昨日と似た答えだった。


インファはそれ以上言わず、シウォンの隣へ並んだ。


歩き出すと、シウォンも半歩後ろに続いた。


広間へ近づくにつれ、廊下を行き交う家人の数が増えていく。


茶器を運ぶ女中。


客人を迎えるため、廊下を忙しく行き交う下男。


皆、声を抑えながらも、普段よりどこか緊張していた。


インファは前を向いたまま、袖口をそっと撫でる。


結局、期待していたような言葉は聞けなかった。


それでも、


――誰にでもは言いません。


その一言が、胸の内へ残っていた。


広間の前へ着く。


シウォンが一歩先へ出て、戸の前に膝をついた。


「旦那様。お嬢様がお見えです」


中から父の声が返る。


「入りなさい」


シウォンは立ち上がり、戸を静かに引いた。


「お嬢様」


促され、インファは髪へ手をやりかけ、途中で止めた。


花の簪は、きちんと挿さっている。


インファは開かれた戸をくぐり、広間へ入った。


父はすでに上座に座っていた。


その少し下にはジュノが控えている。


いつもの仕事着ではなく、客人を迎えるために用意された衣を身につけ、髪も普段以上にきちんと整えていた。


黙って座っていれば、洪家の使用人を束ねる頼もしい青年に見える。


あくまで、黙っていればの話だった。


インファが入ってくると、ジュノの目が大きくなる。


頭の先から裾まで確かめるように眺めてから、感心したようにうなずいた。


「今日は、ずいぶんお嬢様らしいですね」


インファの眉が上がる。


「とてもきれいですよ」


ジュノは何事もなかったように続けた。


「最初からそれだけ言えばいいじゃない」


「それじゃ面白くないだろ」


インファはジュノの衣へ視線を移した。


普段は動きやすさを優先しているため気づきにくいが、こうしてきちんと整えると、なかなか様になっている。


「ジュノもおめかししてるね」


今度はジュノの眉が上がった。


「おめかしじゃありません。客人を迎えるための正装です」


「よく似合ってるよ。黙っていれば、どこかの若様みたい」


「黙っていれば、は余計です」


「それじゃ面白くないでしょ?」


先ほどの言葉をそのまま返すと、ジュノが口を閉じた。


インファは満足して笑う。


父が二人を見比べ、わずかに息をついた。


「客人の前でも、その調子で話すつもりか」


インファは姿勢を正して答えた。


「ちゃんと心得ています」


インファは父の下座へ腰を下ろした。


広間には、客人のための席と膳が用意されていた。


女中が茶器の位置を確かめ、乳母が部屋の端からインファの襟元と髪を最後に見直している。


戸口の外には、シウォンが控えていた。


インファがそちらを見ると、ちょうど視線が重なった。


けれど、シウォンはすぐに庭の方へ目を戻した。


よく似合っているとは言ってくれた。


それでも、なぜか少しだけ物足りなかった。


インファは若葉色の袖口へ目を落とした。


「どんな方なの?」


小声でジュノへ尋ねる。


「もうすぐ会えるんですから、それまで待ってください」


「ジュノは知っているのでしょう?」


「旦那様から聞いたことだけです」


「では、それを教えて」


「俺の口から話すことではありません」


昨日までなら、もう少し軽く答えたはずだった。


インファは不思議に思い、ジュノの横顔を見る。


ジュノは客人を迎える顔をしていた。


背筋を伸ばし、先ほどまでの軽口が嘘のように口元を引き締めている。


けれど、膝の上へ置いた指が一度だけ動いた。


何かを隠している。


そう思ったが、父の前で問い詰めるわけにもいかなかった。


広間から話し声が消える。


庭を行き交っていた家人たちも、少しずつ持ち場へ下がっていった。


しばらくして、門の方から馬の足音が聞こえた。


一頭ではない。


車輪が土を踏む音と、複数の人の声が重なる。


戸口の外に立つシウォンが顔を上げた。


広間の空気が、静かに改まる。


やがて家人が足早に廊下を進んできた。


広間の前で膝をつき、深く頭を下げる。


「旦那様」


父が顔を上げた。


「漢陽からのお客様がお着きになりました」


やがて、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。


先触れの家人が戸口で膝をつく。


「お客様をお連れいたしました」


父がわずかに姿勢を正した。


「お通ししなさい」


戸が開かれる。


先に入ってきたのは、旅の供を務めてきたらしい男たちだった。


道中の疲れを見せないよう身なりを整え、静かに左右へ控える。


その後ろから、若い男が姿を現した。


深い色の衣を端正にまとい、髪も隙なく整えられている。


昨日の旅装とはまるで違っていた。


けれど、顔を見間違えるはずはなかった。


目尻のわずかに下がった穏やかな目。


人を安心させるような笑み。


インファの口から、考えるより先に声がこぼれた。


「えっ」


広間の空気が止まった。


父がインファを見る。


ジュノも目を丸くし、客人とインファを交互に見た。


戸口の外に控えていた家人たちまで、何事かと顔を上げる。


シウォンだけは動かなかった。


ただ、入ってきた青年へ向ける目が、わずかに鋭くなった。


青年は、インファの声を聞いた瞬間、口元をわずかに引き結んだ。


笑いをこらえている。


インファには分かった。


昨日と同じ、楽しげな光が、その目の奥に浮かんでいた。


父が静かに尋ねる。


「インファ」


「はい」


「どうした」


「それは……」


言葉が続かなかった。


昨日、祭りの準備をしていた広場で会った。


子どもたちへ手品を見せていた。


自分は簪を渡した。


返してもらえなくなり、シウォンが詰め寄った。


そのあと、簪へ鈴まで掛けられた。


どこから話しても、よい説明になる気がしなかった。


「どこかで、お会いしたような気がして……」


ようやく、それだけを口にする。


青年の目元が、わずかに緩んだ。


「それは光栄です」


穏やかな声だった。


「もしや、夢の中でお会いしましたか?」


青年はいたって真面目な顔でそう尋ねた。


その一言に、広間へ短い沈黙が落ちた。


父の眉が、ほんのわずかに動いた。


聞き違えたのか確かめるように青年を見て、それから一度だけインファへ視線を移す。


ジュノは何も言わず、青年を見つめていた。


驚いているようだったが、不快そうではない。


漢陽から届いていた噂と、目の前の青年を比べているようにも見えた。


インファは目を丸くする。


青年の表情は崩れていなかった。


けれど、インファが返答に困っているのを見ると、目尻がほんのわずかに下がった。


助け舟を出したつもりなのか、それとも、さらに困らせたことを楽しんでいるのか。


インファには、どちらとも判断がつかなかった。


「失礼いたしました」


インファが何かを言うより先に、青年は一歩進み、父へ向かって深く礼をした。


「ご挨拶が遅れました。閔成眞ミン・ソンジンと申します。このたびは、お迎えいただきありがとうございます」


父はすぐには答えなかった。


先ほどの言葉の意図を測るように、青年の顔を一度見つめる。


それから、何事もなかったように表情を整え、静かに礼を返した。


「洪家の当主を務めております、洪泰元ホン・テウォンと申します。このような遠方までお運びくださり、まことにありがとうございます」


声は落ち着いていた。


ただ、返礼までのわずかな間だけが、先ほどの冗談に戸惑ったことを残していた。


青年は顔を上げ、インファへ視線を向けた。


その顔には、先ほどの冗談を口にした気配はもう残っていない。


「お初にお目にかかります」


端正な口調だった。


まるで昨日のことなど、何もなかったように。


インファも、慌てて姿勢を正す。


洪仁花ホン・インファと申します」


一瞬、言葉に詰まる。


「遠いところを、お越しくださりありがとうございます」


どうにか初対面らしい挨拶を返すと、ソンジンの目元がほんの少しだけ緩んだ。


「お目にかかれて、光栄です」


声はあくまで礼儀正しい。


けれど、その言葉の奥に、


――うまくごまかせましたね。


とでも言いたげな響きがあるように、インファには聞こえた。


泰元は一度だけインファへ視線を向けたが、その場では何も尋ねなかった。


泰元は客人の席へ手を向けた。


「どうぞ、こちらへ。遠い道のりでお疲れでしょう。まずは茶を召し上がりながら、ゆっくりお話をお聞かせください」


「ありがとうございます」


ソンジンが用意された席へ進む。


その途中で、一度だけインファの髪へ目を向けた。


花の簪。


昨日、消し、戻し、鈴を掛けたもの。


インファは思わず簪へ触れそうになり、寸前で手を止めた。


気にしていると思われたくなかった。


その様子を、シウォンだけが見ていた。


茶が運ばれ、しばらくは道中の話が続いた。


漢陽を発った日の空模様。


途中で越えた峠。


道沿いの村で、春鈴祭の噂を聞いたこと。


ソンジンは問われたことに丁寧に答えながら、ときおり庭の向こうへ視線を向けた。


遠くから、鈴の音が聞こえていた。


祭りに合わせて、町の家々が軒先へ吊るしたものだろう。


風が吹くたび、かすかな音が重なっている。


「本日が、春鈴祭の日でしたね」


ソンジンが言った。


「はい。この辺りでは、一年で最も人の集まる祭りです」


泰元が答える。


「道中でも、その話を何度か耳にしました。町を挙げて準備をしているとか」


「ささやかなものではございますが、古くから続いております」


「ぜひ拝見したいものです」


ソンジンは穏やかに笑った。


「漢陽では見られぬものも、多いのでしょうね」


泰元はしばらく考えるように茶碗を置いた。


「それでしたら、娘もこれから祭りへ参ります。よろしければ、町をご案内させましょう」


インファは少し目を見開いた。


「私がご案内してもよいのですか?」


「町のことは、お前の方がよく知っているだろう」


祭りへ行くことは、もともと楽しみにしていた。


それに、漢陽から来た客人なら、この町の祭りを見るのは初めてだろう。


鈴で埋め尽くされた通りや、今日だけ並ぶ屋台を見れば、きっと驚くに違いない。


「はい。私でよろしければ、喜んで」


案内する場所を早くも思い浮かべながら、インファは笑顔でソンジンへ顔を向けた。


ソンジンは静かに頭を下げた。


「それは心強い。よろしくお願いいたします」


端正な物言いだった。


昨日、子どもたちの前で扇子を振っていた人物と同じとは思えない。


インファがつい顔を見つめると、ソンジンの目元がほんの少し緩んだ。


また笑われている気がした。


泰元は戸口の外へ視線を向けた。


「娘の護衛も同行させます」


泰元の言葉に、シウォンが戸口の外で頭を下げた。


「ジュノも祭りの差配で町におります」


ジュノが頭を下げる。


「キム・ジュノと申します」


泰元はソンジンへ向き直った。


「何かございましたら、ジュノへお申しつけください」


「ありがとうございます。何かあれば、そうさせていただきます」


ソンジンが穏やかに答えた。


父がずいぶん細かく段取りを決めることを、インファは少し不思議に思った。


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