表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

三条夏美菜(さんじょうなみな)編

《それは、嫉妬じゃないですよ。『やきもち』という名前の愛情です》

一、春那への想い


 十二月二日。春那と夏美菜がケンカ別れをしてから、一週間が過ぎた。

二人とも部の活動を欠かした事は無い。普通に挨拶もする。ただ、近寄らないようにして活動していた。


夏美菜は深く反省していた。当事者でもないのに深く干渉しすぎた上に、春那の好きな霧師希の事を悪く言ってしまった。謝って、また以前の様に仲良くしたい。

しかし謝ってしまえば、霧師希との仲を肯定してしまう事になる。それは春那にとって良くない選択肢だと、今でも思っていた。どうにも身動きができない状況だ。今日も肩を落としながら、廊下を歩き体育館に向かっていると、背後から強く抱きしめられた。

「ナミ!」

「えっ?」

驚いて顔を後ろに向けると、笑顔の春那がいた。

春那は夏美菜を抱きしめていた腕をほどくと、夏美菜の前に立った。

「久しぶり! 毎日会ってるけどさ。喋ってないから会ってないのと同じだよね」

「アキさん…」

春那に声をかけられ、夏美菜は涙ぐんだ。

「アキさんありがとう、声かけてくれて。アキさんと話さないの、もう限界だったよ」

「それは私も。ナミは私のお母さんで・妻なんだからさ。ちゃんと面倒みてよね」

「アハハ、そうでした」

二人は笑いあった後、春那は真面目な顔で言った。

「ナミ、この間はキレちゃってゴメンね。せっかく心配して言ってくれたのに」

「違うよ、悪いのは私だよ。アキさんの事心配して言っているつもりが、

霧師希さんの悪口になってた。反省してます」

夏美菜が話した直後、春那は笑顔で両手をパンッと叩いた。

「よしっ、じゃあこの話はおしまいっ! 体育館に行こう!」

「うん」

並んで廊下を歩き始めた。妙に元気に振る舞う春那に、違和感を感じた夏美菜は聞いた。

「何かあったの?」

「何かって?」

「霧師希さんと進展でもあった?」

春那はケタケタと笑いながら答えた。

「無い無い! 進展なんてないよ」

「本当に?」

「私ね…勘違いしてたんだよ。人違いしてた。そんな人はいなかったんだよ」

「どういう意味? 勘違いとか人違いとか。ケンカでもしたの?」

「…」

「まさか、私のせい?」

「アハハ、関係無いって! もう本当に大丈夫だよ。さっ、練習しよう!」

終始笑顔の春那は、夏美菜の肩を抱いて自分に引き寄せた。

夏美菜は思っていた。笑っている春那の横顔。どこかぎこちない感じがする。

何かを隠しているような…。そう思った瞬間、夏美菜は感じてしまった。

『私に心の距離を空けているのではないか?』と。

そんな夏美菜の気持ちに気付くはずもない春那は、笑顔で言った。

「ナミ、クリスマスって予定あるの?」

「いや、無いよ」

「じゃあ、私と二人で過ごそうよ。女子会やんない? 仲直りした記念に」

「やろうやろう! 楽しみだね」

春那の笑顔を見て『考え過ぎだったかな?』と、安堵した。

          ●

「フットサル部はこちらですかぁ~。『あきのはるな』さん、いらっしゃいますか~」

フットサル部が練習中の体育館に、男性の声が響いた。事務局の初老の男性だ。

たまたま夏美菜が一番近くにいたので、対応した。

「貴方が、あきのはるなさん?」

「いえ、私じゃありません。アキさーん」

夏美菜は大きな声を上げて春那を呼んだ。小走りで春那がやってきた。

「私が安輝野ですけど」

「お客さんがいらしてますよ。『きりしきさん』という、中年の男性です。

スーツを着て、身なりの良い方です」

「霧師希…さん?」

そう言うと黙ってしまった春那に、夏美菜が聞いた。

「霧師希さんがわざわざ大学に来るって、どうしたんだろ? アキさん、行ってきなよ」

「…私、行かない」

「えっ、どうして?」

「いいから!」

春那は夏美菜にそう言うと、次に事務員に言った。

「お引き取り願ってください」

「ちょっとアキさん、それはあんまりだよ!

大学に会いに来るって、何か理由があるよ。行っておいでってば」

「いい」

そう言うと、春那は立ち去った。

「アキさん…」

夏美菜は事務員に言った。

「私が行きます。事務局に行けばいいですか?」

夏美菜の声が聞こえた春那は、慌てて戻ってきた。

「ちょっと! どうしてナミが会うのよ?」

「せっかく来てるのに。それに私、霧師希さんに話したい事があったから丁度いいよ」

夏美菜は体育館をスタスタと出て行った。

「ちょっとナミ!」

春那は叫んだが、夏美菜が立ち止まる事はなかった。

          ●

春那は五分程は我慢したのだが、いても立ってもいられなくなり、体育館を飛び出した。事務局で先ほどの事務員に尋ねると、食堂に行ったと言う。

食堂に向かう最中の廊下で、春那は歩きながら考えてた。

一体何を言えばいいのか。

どんな顔をすればいいのか。

霧師希は何をしに来たのか。


食堂に到着した。夏美菜とスーツ姿の男性が、向かい合わせで座っていた。

スーツの男性は霧師希ではないと、すぐに気が付いた。

食堂には他にも人はいるが、離れているので会話が聞こえたりはしないだろう。

霧師希よりは若そうな中年男性。スーツを着ていて、身だしなみもいい。

春那に気付いた夏美菜が、手招きをした。

「あっ、来ました。アキさん、こっち」

春那が二人のそばに到着すると、男性は立ち上がった。そして笑顔で言った。

「来て頂いてありがとうございます。安輝野さん」

春那は、その男性に聞いた。

「どちら様でしょうか?」

すると、夏美菜が名刺を春那に渡した。

「こういう方だって」

「有限会社・牧野鉄工所。牧野まきの友行ともゆきさん?」

「はい、霧師希が務める会社の上司です」

「霧師希さんの…? 上司の方がなぜ私に?」

「ご用は二つございます。一つは謝罪に来ました」

「謝罪…?」

「あなたと霧師希は、かなり大きなケンカをしたと、私は推測しています」

春那はムッとしたのか、強い口調で言った。

「あなたに話したんですか?」

「おおまかにですよ。細かなやりとりは知りません。会社の上司だろうと、

そんな事に口を出す気はありません」

「ですよね、当然」

「アキさん、そんな言い方ないよ。まあ二人とも座ったら?」

「いいよ、すぐ終わるから」

「アキさん!」

牧野はずっと笑顔だ。

「いえいえ、いいんです。急に押し掛けたのはこちらです。

彼が安輝野さんとの事で悩んでいるようでしたので、自分なりの意見を彼に言いました。それが悪いように作用してしまい、反省しています。すみませんでした」

牧野は深々と頭を下げた。

「…で? 謝っているんだから、仲直りしろって言いたい訳ですか?」

牧野は笑顔で即答した。

「違います」

サラリと答え、次の話題へと移った。

「では二つ目のお話。私は昔、あなたのご両親の会社で働いてました。霧師希と一緒に」

「えっ? へぇ…」

「ある日、霧師希がタバコを十カートンくれたんですよ。つまり百個ですね。

霧師希はヘビースモーカーでしたから、彼は値上げ前に買いだめしていたそうです。

でも、彼は禁煙を始めたんですよね。それで、余ったタバコをくれました。

百個のタバコを目の前にしたら、同じくヘビースモーカーの私でもゾッとしましてね。

これを全部煙にして吸うのかと」

「…話が見えませんが」

「霧師希は、あなたの闘病する姿を見て、禁煙したそうです。そして霧師希から私はタバコをもらい、それをきっかけに禁煙した。ま、我々が禁煙して健康でいられたのは、元を辿ればあなたなんですよね。ついでに伝えようと思いました。ありがとうございました」

「…そんな事を言われてもね」

牧野は話し終えると、すぐにコートを着始めた。

「お話は以上です。では、失礼しますね」

牧野に夏美菜が聞いた。

「あの、教えてほしいんですけど」

「何でしょうか?」

「事務所で霧師希さんを名乗ったのは何故ですか?」

「ああ、簡単な事ですよ。霧師希と名乗って、

安輝野さんがどんな顔して私の所にいらっしゃるか、見たかったので」

春那は眉間にシワを寄せて牧野を見た。

「私を試していたという事?」

「そうです」

「あんた、そうとう趣味悪いよ」

「でも安心しました。安輝野さんは、私の顔を見るなりガッカリなさってましたから」

黙ってしまった春那を横目に、夏美菜が聞いた。

「今日は、霧師希さんに頼まれていらしたのですか?」

「まさか。今日お話した件は、機会があれば安輝野さんにお伝えしたいと思ってました。

おかげでスッキリしました。これは自分の為ですし、頼まれてもいません。

ですから、私が来た事も内緒でお願いします」

コートを着終えると、牧野は真剣な顔で春那に言った。

「安輝野さん。今までの話は、会社の上司としてのお節介です。でも、これから言う事は、彼の友人としてです。聞いて頂けますか? 言うか言うまいか、迷っていましたが…」

「…なによ」

「私も詳しくは知りませんが、彼はあなたをひどく傷つけたようですね。

それを『許してあげろ』なんて言う気は、全くありません。

ただ、スマホの返事だけはしてあげてくれませんか? 否定でも何でも結構ですので。

彼は女性への接し方という以前に、人との接し方が苦手で分かっていないんです。

スマホの既読が付かない事を、かなり困って苦しんでいるようなので」

そう言うと、牧野はペコリと会釈をして去って行った。


夏美菜は春那に聞いた。

「なに今の? 既読つかないって。霧師希さんから連絡きてるの?」

「別にいいよ、どうでも」

「さっきも会おうとしなかったね。

やっぱり、二人が上手くいかなくなったのは、私が余計な事を言ったから?」

春那は必死に否定した。

「違う違う! 本当に関係ないよ」

「アキさん、もう本当の気持ちを言ってくれなくなったね。

私、アキさんと話してても、ガラス越しで話しているみたい」

「そんな事ないよ!」

夏美菜は言い終えると、食堂の出口へ肩を落として歩き出した。

夏美菜の背中に向かって、春那は聞いた。

「さっき体育館で『霧師希さんに話したい事がある』って言ってたでしょう?」

夏美菜は顔だけを少し後ろに向けて、力なく答えた。

「言ったよ」

「何を話そうと思ったの?」

「聞いてどうするの?」

「えっ?」

春那は答えに詰まったが、力を振り絞って言った。

「私達、大丈夫だよね?」

「どういう意味?」

「これからも仲良くやっていけるよね?」

夏美菜は顔を前に戻し、春那を見ずに言った。

「霧師希さんはダメになったから、せめて友達ぐらいはキープしておきたいって事?」

「違う! 違うよそんなっ!」

二人とも黙り、動けなかった。しばらくすると、春那が言った。

「クリスマス…楽しみだね」

「…そうだね」

二人の声に、気持ちは乗っていなかった。

          ●

 十二月九日。その後も、二人の間には壁のような物が残った。部活中のやり取りは普通にしているし、学内で雑談もしている。ただ、大学の外で会う事は無くなっていた。


午後三時。練習の前に簡単なミーティングがあった。体育館で円になり、簡単な連絡事項を共有する。今週末、十四日に行われる淳桐じゅんどう大学との練習試合に、夏美菜が帯同できないとの事だった。部員からは…

「えー、残念」 「さみしい」 「デートですかぁ?」

などと、冗談が飛んだ。夏美菜は笑いながら言った。

「アハハ、デートだったらいいけど、あいにく普通の用事なの。みんな頑張ってね」

春那も残念だと思っていた。だがそれ以上に残念なのは、夏美菜の口からではなく、

ミーティングで知った事だ。練習後、体育館で片づけをしている夏美菜に、春那から声をかけた。二人とも笑顔で話し始めた。

「お疲れ、ナミ」

「アキさんもお疲れ」

「今週の試合、ナミがいないの残念だ~」

「練習試合だけど、今回はウチが出向くんだよね。アウェーだからさ、アキさんが心配。

忘れ物しちゃぁダメだよ」

「さすが、私のお母さん」

「アハハ」

「忙しいの? 週末」

「ん?」

「初めてじゃないかと思って。ナミが試合の日に欠席するの」

「うん、ごめんね」

「いや、いいの。そうじゃなくて、何か大変な用事があるのかなって。

何か手伝える事とがあったら言ってね」

「うん、ありがとう」

「ホントに、何でも言ってよね」

「うん、ありがとうアキさん。じゃあ私、やる事が残っているから」

「あっ…うん、お願い」

話し終えると、夏美菜は倉庫に向かって行ってしまった。

春那は夏美菜の背中を見ていると、寂しさを感じずにはいられなかった。




二、霧師希との対峙


 十二月十四日。霧師希はフットサルの観戦に来ていた。ネクタイはしていないが、

ジャケット姿だ。今回は大学の練習試合ではない。Fリーグの試合の観戦だ。

二階席の中心あたり、前から五列目に座っている。すでに試合は始まっていた。

隣に座っているのは、大学の練習試合の時と同じく夏美菜だ。

上半身がタートルネックで薄めのセーターで色はピンク。下半身はダークグレーのミニスカートを履いている。夏美菜は霧師希の方を見て言った。

「今日は来てくださって、ありがとうございます」

霧師希も夏美菜を見て言った。

「いえ、こちらこそ。スマホのメッセージにナミさんから通知がついてさ、驚いたよ」

「アキさんじゃなくて、がっかりしました?」

夏美菜にニヤリとされ、からかわれた霧師希は少し焦った。

「いや、そんな事はないよ」

「言っときますけどねー、私のメッセージを心待ちにしている男の子は沢山いるんですからね。光栄に思ってくださいよ」

「あっ、はいっ!」

「アハハ、冗談ですよ。霧師希さんって、練習試合の時もスーツを着ていらっしゃいましたね。何故ですか?」

霧師希は右手で頭を撫でながら言った。

「ああ、それはオシャレを全然知らないからだよ。あと、ナミさんや春那みたいに、親子ほど年の離れた女性といる時に、だらしない恰好をしていたら---」

「あっ、悪い想像をされてしまうから?」

「そう。僕はいいけど、変に思われたら女性の側が気の毒でしょう?」

「なるほどね。気づかってくれて、ありがとうございます」

二人は前へ向き直して、試合を見た。

「プロのフットサルってすごいね。熱気がすごい」

「そうですね。こちらはプロ、職業ですから。緊張感が学生とは違いますね」

難しいプレーがあるたびに、夏美菜が解説してくれ、霧師希も感心して聞いた。


前半が終わりハーフタイムになった。ピッチから選手の姿は消えた。再開は十五分後だ。

空になったピッチを見ながら、夏美菜は言った。

「霧師希さん」

霧師希もピッチを見たまま答えた。

「なに?」

「今日はお話があってお呼びしたんです。Fリーグの観戦は言い訳みたいなもので」

「うん。なんの理由も無しに、親友の親しい男性と二人で会うのは気が引けるって

トコロかな?」

夏美菜は感心した顔で霧師希を見た。

「あ…するどい」

霧師希も夏美菜を見て言った。

「春那が傷つくと思ったのでしょう? 優しいね」

「いえ、そんな…」

夏美菜は視線を逸らした。続けて霧師希は言った。

「今日は偶然、この試合会場で会ったって事だよね?」

夏美菜は右手のひらを、口の前に置いて笑った。

「そうそう、偶然です。そんな事もありますよね。お互いフットサル好きですしね。

ありえますよね」

笑い終えると、夏美菜は言った。

「私、霧師希さんに謝りたい事があるんです」

「えっ、僕に?」

「アキさんと霧師希さんの話をしている時に、言っちゃったんですよね。

『二十六歳も離れた人はやめておけ』とか『ただのおじさん』だとか」

霧師希は深くうなずいた。

「なるほど」

夏美菜は体を霧師希に向け、両手を膝の上に重ねて深々と頭を下げた。

「本当にごめんなさい」

「いやいや、気にしないで。それは本当の事だし、ナミさんは春那が心配で言ったんでしょう? じゃあ問題無いよ」

夏美菜は頭を上げて言った。

「でも…」

「本当に大丈夫だよ、気にしないでね」

霧師希がニコリと笑うと、夏美菜は安堵した。

「ありがとうございます」

「それを言いに来てくれたの? ナミさんって本当に優しいね」

「いっ、いえ」

夏美菜はまた視線を逸らした。

「言いたかったのはそれだけなんですけど、他に聞きたい事があるんです」

「なんだろう?」

「アキさんと霧師希さん、ケンカしてます?」

「ケンカってどういう事?」

「私が霧師希さんの事を悪く言った数日後なんです。

アキさんの様子がおかしいというか、元気が無くなったという感じになったのは」

「ケンカの原因が自分にあるかもって?」

「はい」

霧師希はフッと笑った。少し驚いた夏美菜が言った。

「え…?」

「ごめんごめん、バカにして笑ったんじゃないよ。

全然検討違いの事を言うからビックリしちゃって」

「でも、ケンカはしているんですよね?」

「ケンカね…。それは違うよ。僕が春那を大きく傷つけたのは間違いないけど」

「まさか」

「本当だよ。細かく言うとキリがないから…そうだね。おとぎ話として聞いてよ」

「おとぎ話?」

霧師希は座席に深く座り、少しうつむき加減で話し始めた。

「ある所に、病弱な少女がいました----」

夏美菜は戸惑いを隠せない。

「あのー」

「まあ聞いてよ」

「はぁ」

夏美菜も深く座り、視線は前方のピッチに向けた。

「その少女は、あるおじさんに感謝の念を抱いていました。『大きくなったら恩返しをしたい』。そう思った少女は、『おじさんが憧れているサッカー選手になろう。その姿を見せて喜ばせたい』。そう誓いました」

そこまで言うと霧師希は話を止めて、夏美菜を見た。

「ごめんね、変な事を言いだして。やっぱり止めるね」

夏美菜は霧師希を、真剣な目で見て言った。

「いえ、続きが聞きたいです。話してください」

「…うん、分かった」

二人は前を向いた。

「十代の中ごろ、体調が良くなり始め、本格的に目標に向けて走り出しました。

だが、それは平たんな道ではありませんでした。体調が悪い時もある。体調を心配する周囲からは反対される。女子サッカーは男子ほど環境が無い。フットサルへの転向。大学で奨学生になる為の猛勉強。苦難の連続です。

でも、おじさんを喜ばせたい・恩返しをしたいと、十年以上、寝食を惜しんで頑張りました。そして、山の頂上まで、あと一歩の所まで来たのです。頂上には、そのおじさんがいました。少女は喜んで、おじさんに向かって右手を伸ばしました。すると---」

霧師希は、話を止めてしまったので、夏美菜が続きをうながした。

「すると…?」

「…そのおじさんは『二十六歳も違うから』と言って、少女の手を振り払いました」

霧師希は両手の握り拳を両膝において、がっくりとうなだれて言った。

「その時の少女の悲しみや絶望って、想像もつかないよね…」

夏美菜は、ゆっくりとうなずいた。

そして霧師希は続けて言った。

「そんなに頑張ってくれた事にお礼も言わず・感謝もせず、『年齢差』なんてを理由に突き放してしまったんだ」

そんな霧師希を見て、夏美菜は同調して言った。

「それ、私も同じです。アキさんに『歳の差があるから止めたほうがいい』って

言いました。反省しています」

「そう…」

「確かに、その時は手を振り払った。でも、今の霧師希さんはどう思っているのですか?

間違っていたと思ってますか?」

「うん、間違っていた。あの時どうするべきか、ずっと考えていた。

考えに考えたけど、結論はシンプルだった」

「聞かせてください」

霧師希は腕を前に軽く伸ばし、両手を握手の様に組んだ。

「ここまで来てくれてありがとうと言って、手を握るべきだった。

感謝を込めて抱きしめて、お疲れ様と言うべきだった」

そう言うと、腕を力なく膝の上に降ろした。目をつむって唇を震わせている霧師希を見て夏美菜は自分の右手を霧師希の腕に添えた。

「霧師希さん。そのおとぎ話、まだ終わってないですよ」

「どういう事?」

「そこまでハッキリ続きが描けているなら、その通りにすればいいだけです」

「そうかもしれないけど…それでダメだったら?」

「スッパリ諦めればいい。それだけです」

そう言われた霧師希は、夏美菜の目を凝視した。

「なっ、なんでしょう?」

そう言われ、霧師希はフッと息をはいた。

「いや、すごいエネルギーだなと思ってさ。ナミさんって、本当に春那が好きなんだね。

春那の為なら何でもするって顔してるよ」

「それは霧師希さんもでしょう? 私だって負けませんけどね」

「フフッ、手強いライバルだ」

二人はクスクス笑った。夏美菜は立ち上がり、座っている霧師希の前に立った。

そして右手を差し出した。

「さっ、行きましょう!」

「何処へ?」

「おとぎ話の続きを描きにですよ。お姫様が待ってます」

「…わかった」

霧師希は、笑顔で春那の右手を強くつかんだ。

          ●

二人は駅に向かって歩いていた。

「霧師希さん。あなたやアキさんみたいな人に、教えてほしい事があるんです」

「何かな?」

「人を好きになる決め手って、なんですか?」

「えっ? かなり難しい質問だね。僕にはそんなの分からないよ」

「私には、お二人みたいに特別な出来事がありませんから」

「でもナミさんなら、見初める男性って多いでしょう?」

「そうなんですけど。どうしても条件にこだわってしまって、踏ん切りがつかないんです」

「それは学歴とか収入っていう事?」

「…はい。ウチは離婚していて、母親と二人で暮らしています。母親の苦労している姿を見てきたので、どうしても男の人に高い条件を求めてしまうんです。間違っているのは分かっているんですけど」

「いや、間違っていないと思うよ」

「えっ?」

「学歴と収入って、基本的には努力すればするほど、高くなると思うんだ。家庭の事情・周囲の環境・本人の性格・運。要素は色々あるから一概には言えないけどね」

「まあ、そうですね」

「そういう人達…努力する人に惹かれるのは普通だよ。ナミさんの場合、それに加えて、あなた自身が優しい人でしょう? だから迷うんだと思う。春那の事を心配しているナミさんを見ていると、優しい人だなって思うから」

「優しい…ですか?」

「うん。相手の条件にこだわるのは自分の為だけじゃない。お母さんの事も考えているんじゃない? 自分が幸せになれなかったら、お母さんが悲しむって。それに、将来の自分の子供の事もさ。あと、相手の男性の事も幸せにできるかなって、心配しているよね」

「そうなんでしょうか」

「うん、それは優しいって事だよ。だから自分の事を間違っているとか思わないで」

夏美菜は表情を緩ませて言った。

「霧師希さん、ありがとうございます。そう言ってもらえたら救われるな。私、自分の事、『わがままな奴かも』って、少し自己嫌悪しそうになってて辛かったんです」

「そんな事は絶対ないよ。わがままな人が丸一日使って、友達の為に頑張ったりしないでしょ?」

「そうかな。そう言ってもらえると、嬉しいです霧師希さん。

アキさんの気持ちが、少しだけ分かった気がするな」

「ナミさんなら、絶対に良い人みつかるよ」

「ありがとうございます。じゃあ、条件を下げようかな」

「へぇ、何を下げるの?」

「そうですねー、例えば…。希望年収一千万を、九百九十万円にするとか?」

「下がってないっ!」

「アハハ、冗談ですよ。でも、年齢は緩めようかな」

「なるほど、何歳までOKにするの?」

「私今、二十歳なんです。年下がダメなのは変わりません。

上は五~六歳までって決めてたんですけど、緩めます」

「いいねー、十歳上までOKにしようよ」

「うーん、二十八歳上までOKにしようかな…」

夏美菜にそう言われ、霧師希は笑った。

「そんなに? フフッ、それは振り幅がすごいねー。ギリギリ僕も入れてくれるんだ」

か細い声で、夏美菜は答えた。

「そっ、そうですね、霧師希さんも---」

夏美菜が言い終える前に、霧師希は声を出した。

「あっ、見えてきたよ」

目指していた駅が視界に入って来た。そして二~三メートルほど歩くと、霧師希は異変に気が付いた。隣で歩いているはずの夏美菜がいない。周囲を見渡すと、後ろの方で立ち止まっていた。表情が暗い。少しうつむいている。

「どうしたの?」

「霧師希さん…あの…」

「なに?」

「…」

「ナミさん?」

夏美菜は前を向き、少し声を張らせて言った。

「あのっ! お願いがあるんです!」

「ん?」

「あの…カフェで作戦会議しませんか? まだ時間は早いと思いますし」

霧師希は腕時計を見た後、笑顔で言った。

「そうだね、そうしようか」

夏美菜も笑顔で答えた。

「はいっ!」


夏美菜はスマートフォンの地図を見ながら、霧師希と隣り合わせで歩いている。

「うん、このまま真っすぐでカフェがあるようなので、そこにしましょう」

霧師希は横から夏美菜のスマートフォンをチラリと見て言った。

「すごいねー、そんな事ができるんだ」

「いや、地図見るなんて普通ですよ。霧師希さんもするでしょう?」

「それが、通話とメッセージアプリで精一杯なんだ」

「重症ですねー。今度、みっちりと特訓してあげましょうか?」

「アハハ、頼むよ。春那と三人でやれたらいいね」

「三人? …そうですね。三人でしましょう」

夏美菜はスマートフォンをカバンにしまった。

歩いていると、右手に有料のサッカーグラウンドが目に入った。

小学生七~八人が、サッカーボールを蹴っている。二人はそれを見ながら歩いた。

「ナミさんって、サッカーのプレーはしないの?」

「しないです。サッカーは好きなんですけどね。漫画の『とびだせ』で好きになって、

JリーグもFリーグもよく観に行くようになりました。でも、運動は苦手なんですよ」

「なるほど、だからマネージャーになったんだね」

「…」

夏美菜は黙ってしまった。

「違うの?」

夏美菜は顔を前に向け、少しうつむいた。そして力の無い声で答えた。

「違います。男受けがいいからです」

「男受けって?」

「つまり『モテそう』と思ったからですよ。マネージャーって献身的なイメージがあるじゃないですか? 合コンでマネージャーって名乗ると、男の子の喰い付きがいいんです」

「そうなんだ」

「どうせなら多少は知っているサッカー部にしようと思ったんですけど、部員が多くて大変そうだなと思って。それでフットサル部を選んだんです。私、ずる賢いんです」

「なるほど」

夏美菜は恐る恐る、霧師希に顔を向けて言った。

「…幻滅しました?」

「幻滅なんてしないよ。けど---」

「けど?」

「ごくごく普通の事を、とても深刻に話すから、どうしてかなって思う」

「普通? ずるくないですか? 嫌な女じゃないですか?」

霧師希は少し呆れたような顔で言った。

「ぜんぜんそんな事ないよ。あのさ、『とびだせ』の登場人物で、石垣って覚えてない?」

「えっと、ちょっとポッチャリしたディフェンダーですよね?

口癖が『俺はサッカー上手くなって、女の子にモテたいんだー』って叫ぶ男の子」

「そうそう、その子と一緒だよ。正直者なんだね」

「私とですか? 違いますよ、私はもっとズルいんです」

「一緒だって。スポーツでも書道でもソロバンでも、何かを始めたら人からの評価を気にするのが普通だよ。親に褒められたいとか、友達に感心されたいとか思うでしょう?

異性にどう思われるのかを気にするのも、評価の一つに過ぎないよ」

「そうかな…」

「そうだよ。それに、『サッカー部は大変そうだからフットサル部を選んだ』って

言ったけど、たぶん違うよね?」

「違わないですよ。大変なのがイヤだったんです」

「『サッカー部と比べると、フットサル部は恵まれていない・だから力になりたい』と思ったんじゃない? 僕はそう思えたんだ。ナミさんは優しい人だから」

「違います…」

「それに、本当に男受けを狙うなら、茶道部や料理部を選ぶって言う方法もあるよね?

それでもフットサル部でマネージャーをする事を選んだのは、やはりサッカーやフットサルが好きだからだと思うんだ」

夏美菜は歩みを止めた。霧師希もすぐに気付き、夏美菜と向き合った。

夏美菜は語気を強めて言った。

「だから違いますってば! さっきから全然違いますっ!

私そんなにいい人じゃありません!」

「そっか、違うんだね」

夏美菜は寂し気に、視線を落として言った。

「はい、違うんです…。ズルいんです、私は」

「ズルくないよ。ナミさんは周りの人の為に、一所懸命になれる素敵な人だと思う」

「もう止めてください! 私の事、良いように解釈しないでくださいっ!」

「うん、分かった。でも、僕が勝手に思うのは自由でしょう?」

「えっ? まっ、まあそれは…、勝手にすればいいです!」

そう言うと、夏美菜は霧師希の右手をつかみ、引っ張る様にして歩きだした。

「立ち話してないで、早く行きましょう!」

          ●

 カフェで向かい合わせの形で、二人は座っていた。

ウエイターがホットコーヒーと大きいイチゴパフェを持ってきた。

「お待たせいたしました」

夏美菜の前にイチゴパフェ、霧師希の前にホットコーヒーを置き、去って行った。

霧師希は夏美菜のイチゴパフェを見ながら、目を丸くしていた。

「でっかいねぇ、迫力がある」

「頂きまーす! …と、言いたいトコロですが!」

夏美菜は右手にパフェ、左手に霧師希のコーヒーを持つと、場所を入れ替えた。

霧師希の前にイチゴパフェが置かれた。

「え…? どういう事?」

「霧師希さん、パフェ食べたかったでしょ?」

「いっ、いや! そ、そんな事はないよ」

「『中年の男がパフェを頼むなんて格好悪い』と、思っている。だから注文できない」

「う…」


「図星でしょう? だからどーぞ」

霧師希は恥ずかしそうな顔をして、そっとパフェを自分の手前に引き寄せた。

「どうして分かったの?」

「私の特技なんです。男の人がメニューを見ている時、仕草や視線・表情で、何を食べたいか分かるんですよ」

「すごい! それは本当に特技だね」

「伊達に何十回も合コン行ってません。あまり人に言えない特技ですけど」

「ありがとう、おかげでパフェを食べられるよ。ナミさんって本当に気遣い屋さんだね」

「だから! そういうの止めてくださいってば!」

「あっ、うん」

夏美菜は顔を赤らめて、コーヒーカップをつかみ口をつけた。

霧師希はパフェのアイスクリームをスプーンですくい、食べ進めた。

「美味しい」

そう言いながら、パフェを上から・横からと、全体をチラチラ見ていた。

「霧師希さん。あなたが今、何を考えているか当ててみせましょうか?」

「えっ? 面白そうだね、当ててみて」

「『このパフェ美味しいなぁ。横から見ると、アイスや果物を重ねているのか。

これなら僕にもできそう。春那に作ってあげたかったなぁ』…ってトコでしょう?」

「…」

「やっぱりね。もしかしたら、一言一句当たってました?」

「うん、だいたいは」

「マジっすか。あなたといい・アキさんといい、本当にもう…」

夏美菜はフーッと、深いため息をついた。

「霧師希さんは、本当にアキさんが好きなんですね。感心するやら呆れるやら…」

「あっ、呆れないでよ」

「霧師希さんって、本当に思いやりがあって、意思が強い人だと思います」

「ん? どういう事?」

「私が霧師希さんの立場で、『二十六歳も若くて可愛い女の子と付き合えるかも』ってなったら、絶対に付き合いますよ。相手の将来よりも、自分の気持ちを優先させると思います。

でも、霧師希さんはそれをしない。アキさんが好きだから・将来が心配だから付き合わないんですよね? 立派だと思います」

そう言われると、霧師希はスプーンをペーパーナプキンの上にコトリと置いた。

表情も曇っていった。

夏美菜は焦って言った。

「えっ? あのーすみません! 私の言った事、気にさわっちゃいました?」

霧師希も慌てて答えた。

「いやいや、違うよ! 怒った訳じゃないよ。

ただ、えらい誤解をされてしまっているから、参っていたんだ」

「誤解って?」

「付き合わないのは、春那の将来が心配だから。これは本当だよ。

でも、百パーセントじゃないかもしれない」

「違う理由があるのですか?」

「九十九.九パーセントは、春那の将来が心配だから。

残り〇.一パーセントは、僕が弱いからだよ」

「弱い?」

「そう、弱さ。この間、春那と再会した日…練習試合を大学で観た日なんだけど」

「はい」

「あの日、一日大学にいて思ったよ。大学には麻嶌くんの様な、『若くて将来有望な男の子が沢山いるんだな』って。『こんな若い男の群れに、自分の恋人が毎日いるんだ』なんていう事を想像してしまうんだ。そして怖くなる。いつ取られてもおかしくないから」

「…」

「僕が二十代だったら、そんな事は思わなかったかもしれない。でも、僕は四十八のおじさんだから嫉妬してしまうんだよ。自分の嫉妬に耐えられそうもない。情けない話だよ」

夏美菜は下を向いていた。何かを我慢しているような、変な声が聞こえてきた。

両手でお腹を抱えている。

「う、く、くっ---」

霧師希は心配そうに聞いた。

「ナミさん?」

そう言った途端、夏美菜は顔を上げ、大声で笑いだした。

「ブッ! アハハハッ! アハハハハハハッ!」

大きな口を開けて笑っている、手で隠しもしていない。笑い過ぎて、涙がポロポロあふれている。笑いは収まるどころか、ますます声が大きくなっていく。

右手でテーブルをバンバン叩き始めた。

「アハハハハッー! くっ、苦しいー!」

そんな夏美菜を見て、霧師希は不満気に言った。

「そんなに笑う事ないだろう? こっちは恥をしのんで話しているのに!」

「あー、すんませんしたー。やっと収まってきた」

夏美菜はテーブルに置いてるおしぼりで、涙を拭いた。

「だって『ごくごく普通の事を、とても深刻に話す』から、可笑しくて笑っちゃいました」

「普通じゃないでしょう? 男の嫉妬なんて、軽蔑される事だよ」

夏美菜は椅子に深く座り直し、落ち着いた口調で言った。

「あのねぇ霧師希さん。それは嫉妬じゃありません。『やきもち』って言うんです」

「嫉妬とやきもちって違うの?」

夏美菜はキッパリ言い切った。

「違います。自分の気持ちを優先させて、恋人の足を引っ張ったり、周囲の人をキズつけるのが嫉妬です。やきもちは相手の幸せの為に、自分を抑えている状態の事ですよ」

「僕のはやきもちに入るの?」

「そうですよ。霧師希さんのは嫉妬じゃなくて、『やきもち』という名前の愛情です。

そんな当たり前の事を、大真面目に言うから笑っちゃったんです」

「当たり前なのかな?」

「自分の恋人が毎日、大勢の異性の中に身を置いているとしたら、心配になるのは当たり前ですよ。何にも思わなかったら、本当は好きじゃないか・単なるアホのどちらかです」

「そうなのかな、ありがとうナミさん。少し安心したよ」

「いーえ。さっきから散々言われて悔しかったから、言い返しちゃいました。

ちょっとスーッとしたかな」

霧師希は、苦笑いしながら言った。

「はい、言い返されました」

夏美菜は少しうつむき、独り言の様な声量でボソボソつぶやき始めた。

「やきもちかぁ。可愛いですね、霧師希さんって」

「えっ? なんて言ったの?」

「アキさんって、自分がどれだけ恵まれているか、分かってないんですよ。

なんかイライラしてくる」

「ごめん、聞こえないよ」

「…」

「ナミさんって…若い人って、やっぱりスゴイよね。話しているだけで、

大きなエネルギーを感じるよ。僕の歳じゃあ、後ろ向きに考えてしまうから。

やはり春那が今の時間を過ごすべきなのは、ナミさんの様な若い人達なんだろうね」

「だからさ、あんたどっちなのよ。ハッキリしてよ…」

先程から夏美菜の声は、小さすぎて霧師希に届いていない。

「さっきからどうしたの? 大丈夫?」

夏美菜はなんとか霧師希に聞こえる声量で、無表情で言った。

「何でもないですよ、そろそろ行きましょう」

          ●

 二人は店を出て、再び駅に向かって歩いていた。夏美菜は機嫌が悪そうだ。

霧師希が話しかけても、空返事である。そうこうしている間に、駅に到着した。

「じゃあナミさん、切符を買ってくるから待っててね」

「…はい」

霧師希は券売機の前に立ち、上部にある切符の価格表を確認する。財布を取り出し、券売機に硬貨を入れた。そして駅名のボタンを押そうとした時、霧師希は右腕をつかまれた。

先程まで後ろにいた夏美菜が、真横に来ていた事に気が付かなかった。

「あれ、ナミさん?」

夏美菜に表情は無く、淡々と言った。

「ねぇ、このままどこかへ遊びに行かない?

アキさんに会うのは、今日じゃなくてもいいよ。一刻を争う訳でもないんだから」

「ナミさん、どうしたの? なんか変だよ」

「今からアキさんに会いに行くか? 私と遊びに行くか? 選んで」

深く一息ついた後、霧師希は答えた。

「春那に会いに行くよ。どういう結果になるかは分からない。でも、会いたいんだ」

そう言うと、夏美菜は笑顔で答えた。

「ですよねー! そうおっしゃると思ってました。冗談ですよ、じょーだん!

さっ、行きましょう!」

その笑顔は何か不自然な、作ったような表情だったので、霧師希は心配だった。




三、夏美菜の葛藤


 ここ淳桐大学では、恵聖大学との練習試合が行われていた。

前半が終了し、ハーフタイムに入った。スコアは二対一と、やや劣勢だ。

春那も動きに精彩を欠き、前半二十分の中で、五分しか出場機会を与えられなかった。


春那がピッチから控室に行こうとした時、二階の客席に違和感を感じた。練習試合なので、観客はまばら。しかしよく見てみると、さっきまで人がいなかった座席に観客がいた。

春那は思った。


「(カップルかな? 女の子はニコニコ笑って楽しそうにしているな。隣のスーツ姿の男の人もまんざらではなさそう。女の子のピンク色のセーター、見覚えがある気がする)」

春那はそう思いながら、客席を見ていた。そして気が付いた。

「…ん? んーっ?」

『あれは夏美菜だ』と確信した。そして、『横にいるスーツ姿の男は霧師希さん?』だと気が付いた。驚いた春那は、つい声を出してしまった。

「はああああぁー?」

体育館全体に響き渡り、大勢が春那を注目した。春那はそれに構う事なく、観客席へと走り出した。


一分もかからず、春那は二階にいる二人の元へたどり着いた。

手前に夏美菜、奥に霧師希が座っている。

息を枯らしながら、春那は叫んだ。

「はぁ、はぁ、なっ、ナミーっ!」

夏美菜は左手を振りながら、笑って答えた。

「アキさんお疲れー。っていうか声でかいよ」

「ナっ、ナミ! あんた何してるの?」

「なにって、試合観てるんだよ。アキさん、今日は調子悪いね。頑張りなよ」

「ふざけるなーっ!」

「いや、マジで声でかいって。恥ずかしいなぁ、ねぇ?」

そう言って、夏美菜は霧師希を見た。霧師希は答えず、一階にあるピッチを注視している。そして春那は気付いた。夏美菜の右手が霧師希の左手を握っていた。いわゆる「恋人つなぎ」という握り方だ。春那は夏美菜の左腕をわしづかみにすると、強引に引っ張った。

「ちょっとこい!」

「いたたた! 引っ張らないでよ。シキさん助けて~」

霧師希は振り向かない。『シキさんだとぉ?』と、春那は内心思った。


人気のない廊下まで夏美菜を引っ張ってくると、投げ捨てるように手を離した。

夏美菜は引っ張られた左手をさすった。

「いててて、痛いなぁ。セーター伸びてたらどうしよう。お気に入りなのに」

「あんた何やってんのよ! 試合をほったらかしにして!」

熱くなっている春那と対照的に、夏美菜は冷静だ。

「ほったらかしにって、人聞きの悪い。ちゃんと許可取って休んでるんだから自由でしょ?」

「それがどうして霧師希さんといるのかって聞いてんだよ!」

そう言い終えた途端、春那は夏美菜の姿を改めて見て、いつもと違う事に気付いた。

「チークにグロスにミニスカートって…、『本気の女子』じゃない!

どうしてそんな恰好してるのよ!」

頬に塗られたピンク色のチークと唇のグロスは、途中の百均で買った。

そして大学に入る直前に、コンビニの洗面所で塗ったのだ。

「どうしてって…相手がイイ男だったら当然でしょ?

私、霧師希さんは年齢以外の不満は無いからね」

「あんたねぇ!」

「つーか、なんで怒ってんの? 何か問題あるの? 私も霧師希さんも独身だし、恋人もいない。そんな私達が遊びにでかけたって、問題無いじゃん」

春那は両手の拳を強く握った。

「そうだよ、その通りだよ。霧師希さんとあんたが遊びに行こうが、私には関係無い。

私が怒っているのはそこじゃない!」

「じゃあ、何? 言ってみて」

「あんた、分かっているよね? 私の目の前で霧師希さんが他の女とイチャイチャしたら、

私がどう思うか。ましてや親友のあんただったら、どんなに辛いか分かってるよね!」

夏美菜はキッパリ言い切った。

「分かってるよ」

「あんた、それ本気で言ってるの?」

「もちろん」

春那は握っていた拳を、さらに強く握って言った。

「わかってるよ、ナミ。それって作戦なんでしょう? 私に嫉妬させて、霧師希さんへの気持ちを自覚させようというね。そんなミエミエの作戦、誰が乗るかっ!」

夏美菜は、フーッと深いため息をついた。

「アキさん、あなたのそういうトコロが子供なんだって」

「どういう意味よ」

「アキさんは、要するに霧師希さんが物足りないんだ。

もっともっと『君が好きだ・愛している』って言ってほしいんだよね?」

「違うよ!」

「じゃあ、どうして何十回もきているスマホの連絡を返事しないの? もう連絡を取る気が無いなら、アカウントを消せばいいじゃない。なぜ霧師希さんが大学に訪ねて来たとしても行こうとしないの? もっともっと構ってほしいわけ? そういうのはね、『ダダをこねている』って言うのよ」

春那は、血相を変えて怒鳴った。

「違うって言ってるでしょう! いいからもう帰んなよ! 霧師希さんみたいなオジサンは放っておいて、あんたは若いイケメンでも探していればいいんだよっ!」

「オジサンって…、そんな言い方…!」

春那に怒鳴られた夏美菜は、急に黙りこんだ。少し目つきの鋭さが増した。

「ナミ…?」

「…」

夏美菜はしばらくして、冷静な口調で言った。

「…もう止めた。止めるよ」

「え…?」

「アキさん。あなたの言う通り、これは私の作戦だったの。アキさんを嫉妬させようっていうね。でも止める。今のアキさんと話してたら気持ちが変わった。もう止めるよ」

「止めるって?」

「…私さ、触れちゃったんだよね。霧師希さんに」

「触れる…? ああ、さっき手をつないでたね」

「いや、そうじゃないよ。『胸の内』に触れたんだよ」

「胸の内?」

「霧師希さんって、父親とあまり年は変わらないんだ。でも父親と違って、とても優しい人だって分かった。こんな人がお父さんだったらいいのになぁって思ったよ。私、父親と仲が悪かったせいか、男の人に甘えた経験が無いんだ。

むしろ、『弱みを見せたらダメ』ぐらいに身構えてたの」

「そうなんだ」

「でも、霧師希さんは違う気がする。自分の短所というか、コンプレックスに思っている事を話しちゃうの。今までは、絶対に誰にも隠していたのにさ。

なぜ話してしまうか分かる?」

「いや…、分かんない」

「霧師希さんは、短所も含めて肯定してくれるんだよね。『そこもあなたの一部だよ』って感じでさ。一緒にいて心地良い人だよね。甘えるって、こういう事なのかもしれないなって思ったよ。そうしたらさ、今度は霧師希さんが触れてきたんだ。私の胸に」

「えっ! えっ!」

「いや、そうじゃないって。『胸の内』だってば」

「『胸の内』ってのが、よく分からないんだけど」

「私の苦しみに寄り添ってくれる感じがしてさ、すごい安心しちゃったよ。

まあ、本人は自覚ないんだろうけどね」

「ナミ、話が見えないんだけど」

「要するに、私を甘えさせてくれるって事だよ。そんな男の人とは、今まで出会わなかった…いや、甘えたいという気持ちが芽生えなかったの。そんな気持ちを感じる人なら、

年が離れていたって関係無いよね。アキさんの気持ちが、少しだけど分かったんだ」

「私の気持ちがわかる…? ちょっ、ちょっと待って! あんたまさか…!」

夏美菜は右手を胸に添えて言った。

「私、霧師希さんを好きなるかもしれない。っていうか、もう好きだと思う」

春那は唖然として、首を左右に振った。

「いや、何言っているの? あの人はあんたが言っていた、『絶対ありえない、二十六歳差のおじさん』だよ? ナミからすれば、二十八歳差だよ?」

「アハハ…、たった二歳差だから一緒じゃん」

「真面目な話だって!」

「おかしな話だよね。この間まで私が『二十六歳差なんてダメ』って言ってたのに、

今はアキさんが私を止めるなんてさ」

「ナミ、本気なの?」

「二十六歳差の男の人と付き合うのは問題あるって、今でも思ってる。でも、アキさんと霧師希さんを見ていると、そんなのはちっぽけな事だなぁとも思うようになったの」

「ナミ…」

「アキさんを心配してるフリをして、私、嫉んでいたんだよ。二人に嫉妬していたんだね。

この世界には、こんなにも結ばれているカップルがいるんだなぁって、羨ましかった。

いつも幸せそうに手作りのお弁当食べてるトコロが、特にね。

自分は合コンに行きまくってるのに、条件にばかりこだわりすぎて、何も始まりすらしない。ダメな女だね。アキさんや霧師希さんと話していると、相手の事が大好きだって事がとても伝わってくるの。正直、苦しかった」

「そんな…」

「確かに、今すぐアキさんの代わりにはなれないよ。でも、時間をかければきっと---」

「ナミ、お願いだから冷静になって」

「霧師希さんから、アキさんにとてもに悲しい思いをさせてたって聞いたよ。

もし、そのわだかまりが取れないのだったら、もう霧師希さんとの仲は諦めてほしい。

そんな状態で二人でいても、お互いに良い事ないんじゃないかな?」

「…」

「あと、さっき霧師希さんと手をつないでいたのは、私が頼んだの。その時は『アキさんを嫉妬させる作戦』を実行中だったから。霧師希さんが浮気してたわけじゃないよ。

あとこの作戦は、霧師希さんは何も知らないの。『なにも聞かずに、とにかく私の言う通りにしてください』ってお願いしたんだ」

「ナミ…あんたもう、『霧師希さんの事を悪く思われたくない』って思い始めてるよ」

「そうなのかな? でも本当の事だから」

二人は長く沈黙した後、夏美菜は言った。

「今から、霧師希さんを連れてくるよ」

「えっ?」

「霧師希さんと少しでもやり直したいって気持ちが残っているなら、ここで待ってて。

そして霧師希さんと話をして。もうそんな気持ちが無いなら、ここから立ち去って」

夏美菜の真剣な目を見た春那は、いかに本気かを理解した。

「うん…、分かった」

「霧師希さんには何も言わないよ。

『とにかくここに来て』とだけ言っておくから。その後、私は先に帰るから」

「うん」

「アキさん。信じてもらえないと思うけど、

私は霧師希さんとアキさんが幸せになってほしいって、心から想ってるからね」

「信じるよ。私もナミが大好きなんだから」

「ありがとう、アキさん」

夏美菜はそう言い残して、寂しそうに客席へ戻って行った。




四、二人の選択


 霧師希は廊下へと向かっていた。

『何も聞かずに、廊下へ行ってほしい、行けば分かるから』と、夏美菜に言われていた。とにかく小走りで廊下にでた。体育館の二階の廊下。人気ひとけは無い。

春那は両手を後ろで組み、壁に軽くもたれていた。霧師希は春那の存在に気づくと、

小走りをやめて、ゆっくり歩きだした。春那も霧師希に気づくと、壁から背中を離した。

「霧師希さん」

「春那」

二人は近寄り、向き合った。霧師希は春那の目を見ているが、春那は見ていない。

霧師希の右下辺りを見ている。

「ナミさんに、この辺りに来てくれって言われてさ」

「…そうですか」

「あ---」

霧師希が話そうとすると、春那がさえぎるように話し始めた。

「今日、どうでした?」

「どうって?」

「ナミと一日過ごしてみて、彼女の事、どう思いました?」

「うん、明るくて元気な子だね。人の心配ばかりしてる、優しい子だと思う。

あと、春那の事が大好きなんだね」

「私も大好きなんです。大学を卒業しても、この絆は大事にしたいなって思います」

「そう、それは素晴らしいね。ナミさんもそう思っているに違いないよ」

「フフッ…、だといいな」

「あ---」

霧師希が話そうとすると、再び春那がさえぎった。

「サッカーを始めて一番辛かったのは、孤独だった事なんです。女子は環境も無いし、部活とかのチームに入れたりしても男子ばっかりで。幸い、セクハラやイジメみたいなのは無かったんです。それどころか、みんな優しくしてくれました。そこは恵まれてたかな」

「うん」

「でも打ち解ける相手がいないって、なかなか大変で。仲良くなりすぎると、違う勘違いもされちゃったりで困りました。だからもらった指輪を、わざわざ左手の薬指にしてたんですよ」

「そうなんだ」

「フットサルに転向しても、そういう悩みは続きました。でも、大学に入ってからは違ったんです。ナミと出会えたから。女子…ナミがいるという安心感はすごくて。

彼女と仲良くなって、本当に環境が変わりました。いつも私の事を心配してくれてね。

私、大学で急激に技術が上がったんですけど、ナミのおかげでもあるんです。

あの子がいる安心感は、本当に最高なんですよね。勇気づけられるというか」

「うん…」

霧師希も話を考えていたが、春那が全てを話し切るまで聴く事にした。

「あの子、『合コンに行きまくってる』そうなんですけど、最近は行っていないみたいなんです。彼氏ができたら、私と過ごす時間・私を支える時間が減ってしまうって、

心のどこかで考えてしまうんじゃないかな? 自惚れかもしれないですけど」

「いや、彼女ならありえるというか、きっとそうだよね」

「はい。そこまで想ってくれる友達なんて、そうそう出会えません。感謝しかないです」

春那は、ここで初めて霧師希と目を合わせて言った。

「ナミは、霧師希さんの事が好きですよ」

「そっか」

「あれ? 驚かないんだ」

「男性としてなのか・友達の知り合いとしてなのか、程度は分からないよ。

それに、さっきまでは思わなかったし」

「さっきまで?」

「『作戦を実行してた時』かな。二階で試合を観ていた時、ナミさんが『カップルっぽくしておいてください』と言って、僕の肩に寄りかかってきて。そして全然喋らなくなった」

「そして手をつないできたと」

「そう」

「しかも恋人つなぎだったと」

「そう」

霧師希は恥ずかしそうに頭をかき、春那は少し吹きだした。

「それって『恋する乙女』じゃん。

フットサル見ながら何やってんだか。不謹慎な子ですよね」

「それは僕も同罪なんで…」

「ホントだ、ダメな二人だ」

「アハハ…」

二人は小さな声で笑った。

「あ、お話さえぎっちゃってごめんなさい。話してくださいね」

「うん」

霧師希はゆっくりと深呼吸した後に、話し始めた。

「さっきまでは、いっぱい考えていたんだよ。春那に会ったらなんて話そうかってさ。

でも今日、ナミさんに会って・君がフットサルをしている姿を見て・今の春那の話を聞いて…。そうしたら、全部吹き飛んでしまった」

「はい」

「だからさ---」

霧師希は少し視線を落とした。

「僕は、どうしても君の将来を見てしまう。案じてしまうんだ。今の君だけを見てやれない。それは、やっぱり変えられないよ。もう、『シキさん』には戻れないんだ」

「…はい」

霧師希は、春那の目に視線を戻した。

「春那。君はナミさんのように、これからもずっと一緒に過ごせるような人達といるべきだよ。それは将来を大切にする事にも、つながっていると思うから」

春那は下を向いた。

「は…い…」

霧師希は、春那の前に右手を差し出した。でも、春那はどうしても、その右手をつかむ事ができない。数秒経ってもつかめない。だが霧師希は、手を引かなかった。

恐る恐る春那は、霧師希の手を右手でつかんだ。その瞬間、春那は目を閉じ、悲し気な表情に変わった。そんな春那に、霧師希は言った。

「春那。僕が君にしてあげられる事はここまでだ。

でも、春那が幸せでいてほしいと、ずっと想っているからね」

「はい…」

春那は震える声で返事をすると、霧師希の手のひらを自分の顔に近づけた。左手も添えて、両手で霧師希の右手をつかみ、肘を曲げた。祈りのポーズのような形になった。

そして、霧師希の目を見て言った。

「霧師希さん。会っていなかった時期も含めて、あなたは私の支えでした。

これからも、そう想っていていいですか?」

「もちろん。僕が春那の幸せを願わないはずがないよ」

「うん」

霧師希は左手を、春那の右手に添えた。春那はそこに頭を当てると、目を閉じた。

そして、そのまま言った。

「最後にお願いがあります」

「なに?」

「もうすぐ後半戦が始まるんですけど、観てもらえませんか?」

霧師希は即答した。

「もちろんだよ。僕は春那がフットサルをしている姿が大好きなんだから」

春那は顔を上げ、元気に答えた。

「はいっ!」


その後、春那は後半戦で五分ほど出場した。霧師希は二階の最前列で見た。

その時の春那は、以前の練習試合の時よりもたくましく・輝いて見えた。

試合中、春那は一度も霧師希を見る事はなかった。試合後も、二人は顔を合わさなかった。

その帰り道、霧師希は思った。これで良かったと。

安輝野春那に出会えて、本当に良かったと。

          ●

 十二月十七日。あれから三日が経った。いつも通りの練習が体育館で行われ、

夕方になった。片づけが終わり、春那は夏美菜に声をかけた。

「ナミ、ご苦労様。そろそろ帰ろう。一緒に晩ゴハン食べて帰らない?」

「いいねー、行こう行こう!」

あれ以来、春那と夏美菜の仲は元に戻っていた。春那にとっては、もう霧師希への恋愛感情を絶ったので、夏美菜と交際したとしても構わない。

夏美菜にとっては、霧師希と春那が交際しないとしても、彼が自分を選ぶわけでもない。告白もしていない。もうわだかまりは無くなっていた。

二人は駅前の行きつけの喫茶店で、夕食をとる事にした。


「頂きます!」

二人同時に声を上げた。夏美菜はオムライス。春那はスパゲッティとサンドイッチ。

夏美菜は眉間にシワを寄せて言った。

「しかし食べるねぇ。あれだけ激しい練習した後に、よくそんなに食べられるね」

「練習の後だからだよ。しっかり食べないと、強くなれないんだから」

「普段でも食べてるじゃん」

「それを言うな!」

「アハハ!」

二人とも完食した。特に春那はあっという間だった。

夏美菜は、春那の前にある、サンドイッチが置かれていた皿を見て、少し違和感があった。

「アキさん。タマゴサンドって、大丈夫なの?」

「大丈夫って?」

「食べれるの?」

春那は水を飲みながら、あっけらかんとして答えた。

「全然食べれるよ、美味しかったー」

そんな春那の表情を見て、夏美菜は安堵した。

春那は、ごく普通の口調でこう言った。

「ナミ、お願いがあるんだ。これを霧師希さんに渡してくれないかな?」

テーブルに、白くて小さく、四角い品物を置いた。夏美菜はゆっくりとそれを開けた。

「指輪? この指輪って、霧師希さんにもらったっていう?

最近してないから、変だと思ってたんだ」

「ナミから渡しておいてくれない? 郵送するのもちょっとね」

「これって、大切な物なんでしょう? やめときなよ。持っておいた方がいいよ」

「これって、おばあちゃんの形見なんだって。もう私が持つべきじゃない気がする。

…っていうか、荷が重いかな」

「…そっか。でも、アキさんが直接渡しなよ。

霧師希さんとケンカ別れしたんじゃないんでしょう?」

「うん、そうなんだけど。ナミ、お願い。こんな事を頼めるの、ナミしかいないんだ」

「でもいいの? 私が霧師希さんと会うの、いやじゃない?」

「そんなの干渉しないよ。これから霧師希さんとナミがどんな選択をしても、

私が口を出す事じゃないから。ナミにとって、一番いい選択をしてほしいんだ」

「分かった。アキさん、もう完全に吹っ切れたんだね」

「…うん」

夏美菜は指輪のケースを、両手でそっと包むようにして持った。

その表情は寂しそうだった。

そして、春那に言った。

「分かったよ。霧師希さんに渡しておくね。

私の事を信用してくれて、大切にしてくれてありがとう…アキ」




五、クリスマス女子会


十二月二十五日クリスマス。時刻は十七時。元気な二人の声が、四畳半の部屋に響いた。

「メリークリスマス!」

ワイングラスと缶の当たる『カァン!』という音が鳴り、二人は同時に飲んだ。

缶ビールを飲んだ春那が叫んだ。

「くわ~! やっぱりビールは最高だぁ。発泡酒とは違うね。今日ぐらい贅沢しないと」

そんな春那を見ていた夏美菜は呆れ顔だ。

「アキさぁ、クリスマスにビールってどうなの? ワインかシャンパンでしょ?

せめてグラスに移して飲んでよね」

そう言われた春那は、夏美菜をにらんだ。

「はぁ? あんたのグラスに入っているのは、シャンメリー…、

つまりジュースじゃん! 私に意見しようなんて、百年早いぞガキんちょめ!」

「うぅ、言い返せない」

二人は、夏美菜の家にいた。夏美菜の部屋でクリスマスパーティーの最中だ。母親は仕事で出かけている。部屋の壁には百円均一で買ってきた飾りが施されている。小さめのシングルベットの隣に、丸い木製テーブルが置かれている。その上には飲み物・食べ物が置かれており、中心には小型の可愛らしいクリスマスツリー。二人は隣りあって座っていた。

「ねえねえ、アキ。これどうよ?」

夏美菜は立ち上がると両手を広げた。いわゆる「サンタクロースのコスチューム」を着ていた。ワンピースの形態で、腕は長袖。スカートの丈は膝下まである。首元と袖に白いふっくらした素材「ボア」が施されている。腰あたりに黒くて太いベルトが巻かれている。

頭にはサンタの帽子だ。

「可愛いよ! クリスマス感でるし、良いよね~」

「ふふっ、だよね」

嬉しそうにそう答えたが、春那の横に座ると、不貞腐れた表情になって言った。

「アキの分もあるのに、着てくれないんだもん」

「ちょっとそれは勘弁してよ」

「でもさ、せっかくのクリスマスなんだから、ちょっとぐらいさ」

夏美菜は春那の袖を引っ張った。春那は上がトレーナー。下はジーンズだ。

「そうは思ったんだけど、ナミと二人だから、これでいいやって。

ナミはこの世で、私が一番気兼ねしない女の子なんだからさ」

「エヘッ、それは嬉しいかな。ありがとう」

「さっ、食べよう。腹減ったよ。食べ物はバッチリ用意したからね」

「そうだね、食べ物はアキに全部任せたもん」

「頂きます!」

二人は両手を合わせ、一緒に叫んだ。

まずはサンドイッチから手をつけた。正方形に切られた可愛らしいサンドイッチが並んでいる。色々な具材があって、彩りがいい。

その他にもクリスマスの定番メニュー、ピザや鶏肉などを堪能した。

食事も終わり、おしゃべりも一段落すると、春那は不敵な笑みを浮かべて言った。

「さあ、いよいよだね!」

「よっしゃあ、クリスマスケーキだぁ!」

春那は白い紙箱からケーキを引き出し、テーブルに置いた。

夏美菜は驚きの声を上げた。

「ちょっとこれ、大きくない?」

「えっと、直系二十センチくらいかな。七号くらい?」

「大きいねー。食べきれるかな?」

「私達二人なら余裕でしょ?」

「うん、確かに」

二人とも笑った。

全体が真っ白いクリームケーキ。上面の外側に生クリームを立てて塗ってあり、

その内側にはイチゴを円状に立ててある。その中心には、チョコレートソースで

「merry Xmas haruna & nami」(メリークリスマス ハルナ&ナミ)と、書いてある。

夏美菜は歓声を上げた。

「うわーっ、綺麗!」

春那も驚いて言った。

「これは想像以上の出来栄え…!」

春那はケーキを十字に線を入れて切り、四分の一づつ切り分けて、お皿に置いた。

ケーキをフォークで口に入れると、二人は同時に言った。

「美味しい!」

夏美菜はケーキの側面を、フォークでほじった。

「果物がいっぱい挟まってるよ。これが美味しいのか」

「それって、フルーツ缶詰使ってるんだってさ」

「芸が細かい! それにスゴイのは、スポンジの柔らかさだよ。私、高校の時に一度だけケーキを作ったけど、硬くなっちゃったよ。どうやったんだろう?」

春那はケーキをパクパク食べ進めながら言った。

「電子レンジじゃあ固くなるんじゃない? これはオーブン使ってんだよ、きっと」

夏美菜は驚いた。

「独身の一人暮らしの男の家に、オーブンがあるの?」

「うん、あったよ。あれはたぶんオーブンだよ」

「おっ、恐ろしい…。個人で作ったレベルじゃないよ。このケーキ」

驚いている夏美菜とは対照的に、春那はケーキを食べてご満悦だ。

「んんーっ、美味しいね」

「しかし、この料理の量、どうやって一人で作るの? 徹夜しても無理じゃん」

「えーっと、ケーキが前々日で・鶏肉とかが前日で・サンドイッチが今朝だっけ?」

「職業レベルの手際と計画性! もうこれは趣味の範囲を超えているよ。怖い…」

春那は吹きだした。

「プッ、さっきから何言ってんの? 『恐ろしい』とか『怖い』とか」

「だってさ、こんな人が彼氏だったら、私の立場ないよ」

「それはさ、『料理は女がするもんだ』みたいな男を選んだらダメだよ」

「まっ、そうだけどね。でも、食事もケーキも全部作って彼女に持たせるんだから。

『どんだけ好きなんだよ』って感じだぁ」

夏美菜はケーキを見ながら、フォークでツンツンつつきながら言った。

「ねぇ、アキ」

「なに?」

「今日、本当に良かったの?」

「どういう事?」

「クリスマス、私と一緒で良かったの? 無理してない?」

春那は笑い飛ばした。

「まさか! ぜんぜんそんな事ないよ! 言ったんだ。『ナミと約束してる』って。そしたら喜んでた。『楽しんでおいで』ってさ。ナミの家で二人で女子会するって言ったら、向こうから『料理は任せて』って言ってくれたんだ。私がナミと仲良くしている話をすると、すごい嬉しそうなんだもん」

「そっか」

「あの人は、私を大切にしてくれる人が好きなんだから」

「フフッ、それなら良かった」

「ナミの方こそ私で良かった?」

「良かったって?」

「ナミだったら、彼氏じゃなくてもクリスマスのお誘いなんて、いっぱいあったでしょ?」

「そうだけど、彼氏でもない男と、とりあえずクリスマス過ごしてもなぁ。

そんなのより、絶対アキがいいよ」

「ありがとう」

「私に恋人ができても、クリスマスはアキと一緒に過ごす時間を作りたいな。

数時間だけでもいいし、イブでもいいからさ」

「そうだね、そうしよう。楽しみだね」

「そっちは大丈夫? 許してくれるかな?」

「許すも何も、あの人の信条は『春那の頼みにいいえを言わない事』らしいから」

「やっぱりスゴイねぇ。そういう人って、なんて言うんだろう?」

「さあ、なんだろうね」

夏美菜はニヤリとして言った。

「ハッキリ言ってみな」

春那は恥ずかしそうに答えた。

「まあ、『恋人』でいいんじゃない?」

「あっそう、分かりましたよ」

「そっちが言わせといて、その態度は何?」

「アハハ、すんませんしたー」

夏美菜はチラリと壁の時計を見た。十九時を過ぎたところだ。

「ねぇ、霧師希さんって、今日は仕事しているんでしょ?」

「うん、遅くなるって。『二十二時過ぎるかも』って言ってた。しかも一人で」

「一人?」

「うん。『今日は家庭のある人や恋人のいる人は、早く帰してあげたいんだ』って

言ってた。それで遅くなるらしよ」

「よし、それは好都合だ。アキ、今から霧師希さんの会社へ行こう」

「今から? しかも会社? それはちょっとさ」

「クリスマスに遅くまで働いているんだからさ、慰めに行こう。

余った料理とケーキ持ってさ」

「うーん」

「悩んでいるって事は、会いたいって事だよ。行こうよ!」

「…やっぱりやめとく」

「どうして?」

春那は自分が着ているトレーナーの胸を、両手で引っ張った。

「クリスマスの夜に、こんな格好で会いたくない。

さすがに寮に戻って着替えてくる時間は無いよ。メイクもしていないしさ」

「そうか、うーん…。メイクは私のを使うとして、服がねー。

私とアキって二十センチ違うからなぁ」

だが、ここで夏美菜はひらめいた。

「アキ、大丈夫だよ! 服の事なら安心してね。さあ、霧師希さんの所へ行こう!」

「大丈夫って、どう大丈夫なの?」

「フフフ…」

「その笑顔が怖い…」

          ●

 時刻は二十時三十分。春那と夏美菜は駅の改札を出て、霧師希の会社へと歩いていた。

二人は共にコートとマフラーをしている。少しでも息を吐くと、真っ白になる。

二人の手には紙袋があり、料理やケーキ、飲み物が入れられていた。

会社まであと十分ぐらいだ。

体を少し震わせながら、春那は言った。

「ここまで来てなんだけど…急に行って迷惑じゃないかな?」

夏美菜は笑いながら言った。

「アハハ! 絶対に大丈夫だよ。美人女子大生二人とクリスマスを過ごせるんだよ?

お金もらってもいいくらいじゃん」

「アハハ、そりゃそうだ」

しばらく無言で歩いていると、春那がつぶやいた。

「ねぇ、聞いていいかな?」

「なに?」

「あの日の事だよ」

夏美菜は答えた。

「…うん」

それは五日前にさかのぼる。




六、本当の再会


 十二月二十日。春那が夏美菜に指輪を預けて、三日が経っていた。

場所は大学の体育館。春那はここで、夏美菜と一緒に帰る約束をしていた。春那は練習を終えて、着替え終わっていた。上はトレーナー、下はジーンズ。トレーナーの上には厚手のジャンバーを羽織っている。髪は練習が終わったので、結ばずに下ろしていた。

夏美菜は「体育館の中で待っていてほしい」と言っていた。約束の十八時を過ぎた。

春那は壁にもたれて、退屈そうに待っていた。

「遅いなー」

ため息混じりにボヤいていると、春那のいる場所から離れている扉が、ゆっくりと開いた。体育館に誰かが入ってきた。どうやら一人のようだ。場所は約三十メートルほど離れている。春那の視力は一・五だが、さすがに誰だか分からない。

「んー? ナミじゃないよね?」

目を凝らして見続けたが、誰かは分からない。すると、聞き覚えのある声が聞こえた。

「…春那?」

「えっ? …霧師希さん?」

「(なぜ? どうして? なぜ、霧師希さんがここに?)」

春那は心中でそう思い、少し春那はパニックになった。

しかも、ゆっくりとこちらへ歩いて来る。

春那はとっさに大声で叫んでしまった。

「来ないでっ!」

二人きりの体育館で、春那の声がコダマした。

霧師希の歩みはゆっくりだが、近づくのを止めない。

「なぜ?」

「会いたくないからだよっ!」

「だから、なぜ?」

「いいから来ないでっ! 近寄らないでって言ってるでしょう!」

「もう遅いかも」

春那の後ろは壁で、下がりようがない。目の前に霧師希が到着してしまった。

春那は首を真下に向けて、絶対に霧師希を見ようとしない。

霧師希はがっかりした声で言った。

「あのさ、僕ら仲違いしてる訳じゃないだろう?

なのに、そこまで嫌われるとショックなんだけど」

春那は顔を上げない。

「嫌ってなんかいないよっ!」

「じゃあ、なぜ顔を上げないの?」

「見られたくない---」

「えっ?」

「見られたくないのっ! すっぴんで普段着の格好なんか見られたくないのっ!」

「まあ、女性ってそうだろうけど、僕だったら良いんじゃない?」

春那は顔を上げ、大声で怒鳴った。

「だ・か・ら! 好きな男に見られたくないって言ってるの! …あっ」

春那は「しまった!」と思い、両手で口を隠した。霧師希は顔が赤らんだ。

「あ…、そうなんだ。ごめんね」

春那は手を降ろして言った。

「もっ、もういいです。それより、どうしてここにいるんですか?」

「昨日、ナミさんから連絡があってね。今日、大学の玄関に来てほしいって。

それでさっき待っていたら、これを渡されたよ」

霧師希はコートのポケットから、指輪のケースを取り出して見せた。

「あっ渡してくれたんだ。でも、なぜ私に会うんです? そのまま帰らなかったんですか?」

「ナミさんが『アキさん、体育館にいますよ』って言ってくれてね。

僕も指輪の事で、春那に会いたいと思ってたんだ。だから丁度よかった。

近いうちに連絡しようと思ってたんだよ」

「私にですか? 指輪の事で?」

「指輪の扱いに困っているんじゃないかと思って。そのまま持ってくれていたら嬉しいけど、返したいと思っているかもしれないだろ? 困らせたくなくてさ」

春那は少し嬉しそうな表情になって言った。

「フフッ、霧師希さんは本当に私の事、お見通しなんですね。前にも言ったけど」

「そうか。やはり、そうだったんだね」

霧師希の手のひらにある指輪のケースを見ながら、春那は話し始めた。

「それはね、幸運のお守りでもあり・私の決意の証でもあったんです。『サッカー選手になるぞっ!』ってね。苦しい時には指輪を見て、霧師希さんとの約束を思い出してました。

勉強で行き詰った時も、指に付けた指輪を見てね。もう一人の霧師希さんなんです」

「そうなんだ。大切にしてくれてありがとう。もう、これは要らないの?」

「はい。学生の部活動ですけど、選手になれました。試合も観てもらえました。

もう心残りはありません」

「そうか、わかったよ。じゃあ、返してもらうね」

霧師希は、指輪ケースをコートのポケットにしまった。

「春那、ずっと言いそびれてた話があるんだけど、聞いてもらえる?」

「えっ? はい、いいですけど」

「君は小さい時から、僕との関係を大切にしてくれていたね。引っ越しで別れた後も、

指輪を通して想ってくれていた。再会してからは、

二人の関係をどうするべきか、考えてくれていた」

ここまで言うと、春那の目を真っすぐに見た。

「春那、ありがとう。これをキチンと言っておきたかった」

「いえ、そんな。霧師希さんとの事を考えるのは、自分の事を考えるのと同じだったので」

「それと、もう一つ言わせてほしい」

霧師希は、深く深呼吸をした後に言った。

「春那。君は過去・現在・未来。ずっと僕との関係をどうすべきか考えて、大事にしようとしてくれた。なのに、僕は将来の事にばかり気をとられて、今の君を見ていなかった。今回、指輪の事を改めて考えてみて、よく分かったんだ」

「はい…」

霧師希は両手・両膝を床につけ、頭を下げて言った。

「本当に、申し訳なかった」

「はっ? 何をしているんですか?」

霧師希は頭を下げたまま言った。

「ごめんなさい、春那。十五年間も苦労して、僕の元にたどりついてくれたのに。

将来とか・年齢とか、そんな事にこだわって、無下に振り払ってしまった。

君をひどく傷つけてしまったね。本当にごめんなさい」

春那は自分もしゃがみ、頭を下げている霧師希の両肩を持ち上げて言った。

「いいんです! 謝らないでください。私も悪かったんです。あなたがどれだけ私の事を想ってくれていたか、分かっていなかった。そんな事は、もうどうでもいいんです」

「春那…」

「それに、霧師希さん。あなたは一つ勘違いをしていますよ」

「勘違い?」

「この十五年間は、苦労じゃないですよ。とても楽しかったから。霧師希さんに再会したら、また楽しい日々が始まるんだって思うと、楽しさに変わっていきました。努力は必要だったけど、苦労だと思った事はないんです」

春那はそう言うと、ニコリと笑った。

「だから私の事、そんな重荷に感じないでください。霧師希さんには、もっと自由でいてほしいんです。たまに会いましょうよ、五年に一回くらい。同窓会みたいな感じで、

近況報告しませんか? その時にはすごいイケメンの彼氏を連れてきて、霧師希さんを悔しがらせてあげます。アハハ…」

渇いた笑いだった。霧師希は笑っていなかった。

霧師希がゆっくり立ち上がると、春那も立ち上がった。

「春那、君こそ勘違いしている。僕は君の事、重荷なんて思った事ないよ。昔も今もね。

僕がこんな話をするのは、もっと単純な理由だよ。呆れると思う」

「単純な理由って?」

「えっと---」

霧師希は顔を赤くして、春那への視線を外して言った。

「つまりさ…、こんなに可愛い女の子が、恋人だったらいいなって。デートしてみたいなって。お弁当作ってあげたいなって。そんな事を、色々と想ってしまうって事」

「…? つまり、どういう事でしょうか?」

「君の事が好きだって事」

春那も顔が真っ赤になった。

「あ…、そうなんですね。そうハッキリ言われると恥ずかしいんですけど」

霧師希はコートから指輪のケースを取り出した。中の指輪を右手で持った。

「この指輪、返してもらったから、僕の物だよね? どうしようと僕の勝手だよね?」

「まっ、まあ、そうなりますね」

霧師希は左手で春那の左手のひらを優しくつかみ、ゆっくりと自分の近くに引き寄せた。

右手に持っている指輪を、春那の左手の薬指の寸前まで近づけた。

春那は自分の左手を凝視しつつ、右手で自分の口をふさぎながら言った。

「ちょっ、ちょっと! 霧師希さん!」

「嫌だったら、振り払って」

左手の薬指の指輪。自分で着けるのと、好きな男性から着けられるのでは、まったく意味が違ってくる。春那は微動だにしなかった。霧師希は、そっと春那の薬指に指輪を通した。春那は左手にはめられた指輪を顔の前に近づけて、見とれた。何年も着けて見慣れたはずの指輪だったが、今はまったく新しい物に感じられた。

そんな春那に、霧師希は優しく言った。

「春那」

春那は体をビクッとさせて答えた。

「はっ、はいっ!」

霧師希は、春那の目をしっかりと見て言った。

「春那、あなたの事が好きです。僕の恋人になってください。お願いします」

霧師希がゆっくりと両手を差し出した。

「はい…、私もあなたが好きです。恋人になります。喜んで」

春那は手をつかまずに、両手で霧師希の体を抱き寄せた。

抱き合っているのではなく、春那が霧師希を腕の上から抱きしめていた。

霧師希の耳元で、春那は言った。

「これからは、また今の私を見てくださいね」

「うん、大切にするよ」

「へへーっ…。ありがとう、シキさん。やっとまた会えたね」

          ●

 春那は事の顛末言い終えると、夏美菜を見て聞いた。

「どうして、私に会わせたの?」

「うーん、分かんない。でも、あの指輪、預かっている間に何度も見たんだ。その度に思っちゃうんだよ、やっぱりアキじゃないとって。それに私が会わせなくても、二人はやっぱり結ばれたと思うよ」

「うん。ナミ、ありがとう」

二人は顔を見合わせて笑った後、夏美菜は言った。

「二人が仲直りをしたお祝いに、プレゼントを一つあげるよ」

「えっ、ホントに? なになに?」

「品物じゃあなくて、とっておきの情報だよ」

「情報?」

「あのですねー、アキの知らない『霧師希さんの気持ち』だよ」

「私の知らない気持ち?」

「あの日、私と霧師希さんはFリーグを観てから、アキの対外試合を観に行ったの」

「うん、知っている」

「大学までけっこう遠くてさ、長く話したの。その時に聞いちゃったんだよね、あの理由」

「あの理由って?」

「アキの事を『ハル』って呼ばない理由」

「知ってるの? っていうか、理由あるんだ! 教えてよ!」

「どうしよっかな~?」

おどけた夏美菜に、春那は少しだけ声に力が入った。

「おいっ! プレゼントじゃないのかよっ!」

「ごめんごめん! 言うよ。

アキってさ、『ハル』って呼ばれ方は、特別な人だけに呼んでほしいんだよね?」

「そうだよ」

「それは霧師希さんもだよね?」

「うん…そうなんだ。子供の頃はハルって呼んでたのに、再会したら絶対言わないの。

どうしてかなって思ってた」

「それってさ、びっくりするくらい恥ずかしい理由だよ?」

「恥ずかしい理由?」

「大学の玄関で、霧師希さんに再会したじゃん? あの人、アキを一目見て思ったらしいよ。『とても綺麗な、大人の女性になったんだ』ってさ」

春那は照れながら言った。

「そっ、そんな事を? 霧師希さんが? へぇ…」

「それで昔みたいに『ハル』って馴れ馴れしく呼び続けたら、『絶対に好きになってしま

う』って思ったんだって」

「自制してたって事? 頑張って距離を置こうとしてたって事?」

「そういう事だね。ホントに何処まで真面目な人なんだろうね、霧師希さんは」

「まったく…。会ったら怒ってやる」

「アハハ、お手柔らかにしてやりなよ」

夏美菜は落ち着いた口調で言った。

「私さ、もう霧師希さんとアキの仲は、百パーセント祝福しているんだ。

それを信じてもらった上で、一つだけ聞いてみたい事があるの」

「なに?」

「もし…、もしも、例えばの話だよ? 二十二歳の霧師希さんと、四十八歳の霧師希さん。今、どちらかを選べるとしたら、どっちを選ぶの?」

「…」

「意地悪な質問でごめんね。でも、どうしても聞いてみたい。正直に答えて」

春那はフッと少し息を吐いて、足を止めた。

そして両手を組み、夜空を見上げながら、うっとりとした顔で言った。

「もちろん、今の霧師希さん。四十八歳の霧師希さんだよ。年齢なんて関係ないよ。

四十八歳の霧師希さんの胸に飛び込んで、抱きしめてもらうんだ。

そして、『年齢なんて関係無いの、愛しているわ』って言うの」

夏美菜は安心したように聞いていた。

「そっか、そうだね。それがいいよ」

夏美菜にそう言われると、春那は両手をほどいた。

夜空を見上げていた顔を夏美菜に向けると、うっとりした表情が消えた。

「なーんて言うと思った? そんな訳ないじゃん!」

夏美菜は目をむいて驚いた。

「えっ! えっ! えーっ?」

「今・現在、どちらか選ぶんだよね?

だったら二十二歳の霧師希さんを選ぶに決まってるじゃん」

「どっ、どういう事よ?」

「あのねぇ、私、メルヘンな小学生じゃないし、おじさん好きでもないんだよ?

選べるんなら、若い方を選ぶよ。当たり前でしょう?

わざわざおじさんを選ぶメリットなんて、無いっつーの!」

「まっ、まあそうなんだけどさ。

なんか期待していた答えと全然違うからビックリしちゃった」

春那は笑顔になって話し始めた。

「霧師希さんなら、若い方を選ぶよ。でも、シキさんなら四十八歳でないとね」

「あれ? シキさんって、霧師希さんのアダ名でしょう? 同じ人だよね?」

「同じ人だよ」

「どういう事よ? 頭が混乱してきた」

「普通の人にとっては、霧師希さんとシキさんは同じ人。

でも、私にとっては別人なんだ。霧師希さんとシキさんは違うんだよ」

「それって、ナゾナゾとかトンチ話みたいな事? だとしたら、私分かんないかも…」

「違うよ、本当に単純な話。私には、そう見えるし、そう感じるって事だよ。

この世界で何があっても・絶対に安輝野春那の味方をしてくれる人。それがシキさん。

そのシキさんは、四十八歳である必要があるんだ」

「うーん? 分かったような、分からないような…」

「その方が助かるな。ナミに分かられると、私が困るから」


明晰めいせき編に続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ