霧師希足人(きりしきあしと)編
《ありがとう、ハル。お前は初めてできた友達だったよ》
一、霧師希足人は覇気がない
『春那が生還したクリスマス』から、時は三年前にさかのぼる。
二〇〇六年二月。外は寒風が吹いていた。そんな中を歩いている男がいる。
霧師希足人・三十一歳。スーツは着ていたが、あきらかに着慣れていない様子。
サイズが合っていないのか、ジャケットの肩がヨレている。シワも多い。
あまり覇気が感じられない。
はっきり言って、『いまいち』な印象の男だ。
時刻は十五時を過ぎた。
彼は、とある工場の二階の事務所で、椅子に座り面接を受けていた。社員十五人・アルバイトが二十人という中堅の規模の会社だ。事務机が八台並び、それぞれの机で、社員・アルバイトが作業着の上着を着て、事務仕事をこなしていた。
その机にいる一人、『安輝野兼心』・三十八歳。この会社の社長だ。
紺色の作業着を着て椅子に座り、霧師希が持参した履歴書に目を通していた。
「霧師希君だっけ? 君は中学卒業後は高校へは行かず、仕事をしているという事で良いのかな?」
「はぁ、そうです」
霧師希は力無い声で、ボソリと答えた。
「職歴が空白になっているのは何故?」
「はぁ、今日までの十五年間、色々な会社で働いたので。書き切れません」
「それは全てアルバイトなの?」
「はぁ、そうです」
「辞めた理由は聞いていいのかな?」
少し間を空けて、さらに力無い声で答えた。
「…面倒くさくなっちゃうんですよね。長くいると、責任も出てくるし。難しい仕事を覚えさせられるし」
「へぇ…。ウチの会社もアルバイト志望って事?」
「そうです」
「うーん…」
兼信は、本人の顔と履歴書を見ながら考え込んだ。
「今までの会社も、こんな調子で面接を受けたの?」
「はい」
「よく受かったね?」
「とても人手不足の会社なら、採用される事が多いです。ダメ元で採用して、使えるならそれで良し。ダメならダメで、クビでいいやって思うんでしょうね」
兼信はまた考え込んだ後、少し呆れた口調で質問した。
「あのさ、どうしてそんな事を言うの? 面倒くさいとか。
そんな事を言ったら、受からないでしょ?」
「まぁ、そうなんですけど。でも、ウソをついて入社しても、お互いに困りますし。出世をめざして頑張るっていう性格はしてませんけど、『一人で黙ってやっておけ』と言われるような仕事だったら、すごい集中できるんです」
「…」
兼信は絶句した。その後、数回の質問のやりとりを終えて、霧師希を帰した。
時刻は十七時を回ろうとしていた。事務所の従業員も、パラパラと帰り始めた頃、兼心に近づいてくる一人の女性がいた。安輝野那惟子・三十四歳。
兼心の妻であり、会社の副社長でもある。
上半身に作業着の上着、下半身は茶色のスカートという服装だ。
事務机に霧師希の履歴書を広げて見ていた兼心に対し、那惟子は声をかけた。
「兼心さん」
「なに?」
兼信は那惟子を見た。
「どうだった? 今日の子。面接、聞き耳を立てていたんだけど」
「どう思う?」
「どうって、そりゃダメでしょ? 面倒くさいとか、ハッキリ言ってたじゃない。
とにかく覇気が無い感じだし」
「まぁ、そうなんだけど。俺は採用したいんだよね」
「はっ?」
那惟子は目を丸くして驚いた。
「確かにダメな奴って感じなんだけど、考えようによっては興味が沸く奴なんだよ。
色んな会社で働いたようなんだけど、職種を選んでないんだよね。清掃・飲食・製造とか、色々やってる。それって、なかなか精神がタフじゃないとできないよ。選んだり、吟味するのが面倒なのかもしれないけどさ」
「うーん」
那惟子は納得いってない感じだったが、兼心は続けた。
「難しい仕事を任せられたり・責任を負わされるのがイヤとも言ってたけど、逆に言えばそれがなければ、普通に仕事はこなすわけだ」
「まぁ、そうとも言えるけど」
やはり、那惟子は納得していない。
「あと最後に一つだけ質問したんだよ。『会社に遅刻した事ありますか?』ってね」
「そしたら、なんて答えたの?」
「『無い』って言い切ったよ。この十五年、会社に遅刻した事ないんだって。
風邪ひいて病院行くとか、電車が止まったとかは別として」
それを聞いて、那惟子は少し声を荒げた。
「いや、ちょっと待ってよ! そんなのウソかもしれないじゃない」
「ウソじゃないよ、きっと」
「なぜ断言できるの?」
「だって面倒くさいとか、ひどい事をさんざん言ってるんだよ? 遅刻だけウソ言っても仕方ないじゃないか」
那惟子の声は、少し弱まった。
「そりゃあ、そうだけど…」
「遅刻しないって、普通だけど長所だよ。自己管理が出来ているって事だから。
あと、退職した理由が、仕事の内容についての不満ばっかりだったのも興味わいたな」
「興味?」
「人間関係のトラブルで辞めた事ないんだって。そもそも人づきあいをしたがらないから、
トラブルも起きない。良く言えば波風を立てない。悪く言えば人づきあいができない」
「じゃあ、今日の子の長所をまとめると、自己管理ができて、細かな単純作業を黙々とこなせて、人間関係に波風たてずに過ごせる人…って事?」
「そうなるよね」
それを聞いて、那惟子は呆れた。
「兼心さんー、それは良いように取り過ぎだよ」
「まあ、こちらとしては人手不足だからね。あまり選んでいる場合でもないし。結局は誰でも、一緒に働いてみないと分からないからさ」
「それはそうだけど」
「まっ、採用して使えるならそれで良し。ダメなら辞めてもうらうよ。あいつのセリフじゃないけど」
兼心がフッと笑いながら言うと、那惟子は両手を腰に当てて、諦めた様に答えた。
「はいはい、分かりました。ご自由に」
こうして、霧師希足人の採用が決定した。
●
霧師希が入社して三カ月が過ぎようとしていた。この会社は鉄工所である。要は鉄製品を加工・製造している所だ。釘やボルト、機械の小さな部品などが、その代表である。
鉄を機械で削って部品を作る為、製品に多分の鉄粉が付着する。しかも細かく大量だ。
それを取り払うのに、エアーコンプレッサーという機械を使う。簡単に言うと空気銃のような物だ。拳銃のような形をした器具で、引き金を引くと強い空気が発射される。
これで大まかに鉄粉を払い、細かな部分は布を使って手作業で拭き取る。
簡単な作業ではある。しかし細かな粉を見逃せない為、神経を使う。
霧師希は一階にある、この清掃部門で働いていた。眼球に鉄分が付着するのを防止するための大きいゴーグルをつけ、作業着姿で仕事をしていた。
目前に大量に積まれた鉄の部品を一つ一つとり、エアーコンプレッサーで空気をかける。そして布で拭き取り仕上げていた。
粛々と作業を進めていると、背後から霧師希を呼ぶ声がした。霧師希は作業を続けながら少しだけ顔を後ろに向けた。社長の兼心の姿が見えた。
兼心は霧師希と目が合うと言った。
「霧師希」
「あっ、どうも」
力ない声で答えながらも、手は休めない。
「仕事は慣れた?」
「どうでしょうね」
兼心は質問しながらも、霧師希が仕上げた製品を手に取ってチェックしていた。
「うん、いいじゃない。手も早いし」
「どーも」
「そういえばお前、よく残業してくれるよね。てっきり引き受けないと思っていたよ」
「何故でしょう?」
「面倒なんじゃない?」
「いえ、時間給をもらうのだから問題ないです。有難いくらいです」
そうした話をしていると、工場内に大きなブザー音が鳴り響いた。時刻は十五時。
十分間の休憩だ。ブザー音が鳴ったと同時だろうか? 霧師希は手に持っていた器具・製品をすぐに机に置き、喫煙所へ向かった。
兼心は霧師希が去ってから、ボソリと言った。
「切り替えの早い奴…」
霧師希は休み時間中に仕事をする気など、一秒たりとも無いようだ。
●
数日後、工場内がザワザワと騒がしかった。特に関心を持たず、いつも通りに霧師希は仕事をこなしていた。普段、仕事の指示を出す上司から、今日は遅くまで残業できないかと聞かれた。どうやら、大量に商品が必要な仕事が急遽入ったらしい。
しかも、期限は明日の夕方。
『大変だ、総力戦だ』と、皆は休み時間も惜しんで生産に励んでいた。
十七時・十八時…二十一時・二十二時が過ぎた。
従業員は、また一人・また一人と減っていき、気が付けば二人になっていた。
社長の兼心と、霧師希である。
「霧師希」
仕事の手を止めず、霧師希は答えた。
「なにか?」
「いいのか?」
「何がでしょう?」
「もう二十二時回ってるぞ、帰れよ」
「大丈夫です」
頼もしい返事ではあるのだが、表情を変えずに淡々と仕事をしている姿を見ていると、かえって心配になる。
「とにかく、休憩しよう。二階の食堂に来いよ」
「はぁ…」
兼心は渋々とついて来る霧師希と、二階へと上がった。
二階に食堂はあるが、食堂と呼べるほど立派な物ではない。
大きな長方形型のテーブルの周囲に、パイプ椅子が十個ほど並んでいる。
「まぁ、休憩しよう。お茶でも淹れようか」
兼心はそう言ったが、霧師希は断った。
「お茶なら自分が淹れますよ」
不愛想な口調で言いながら、食堂のスミにある温水ポット・湯呑み・お茶の葉などを使い始めた。急須にお茶とお湯を入れて、最初の出がらしを捨てた。
次に急須を揺らしたり、なかなか工夫している。
「お前、意外と知っているんだな」
「まあ、飲食店も経験あるんで。自然と」
「ふーん、ウエイターも経験あるって言ってたよな。面接で」
「ありますよ。職種にこだわりないんで」
ウエイター姿が想像できない…と兼心は心中で思った。
「どうぞ」
淹れたお茶をテーブルに置いた頃に、那惟子が階段を昇る音が聞こえてきた。
「お疲れさま、兼心さん」
「お疲れ」
兼心がそう言うと同時に、那惟子は霧師希がいる事に気が付いた。
「げっ、霧師希…」
「お疲れ様です、副社長。お茶を淹れます」
怪訝そうな顔をする那惟子を一目もせず、霧師希は温水ポットのある場所へ向かって行った。
戸惑いを隠せない那惟子に向かって、兼心は言った。
「お前さー、少しは慣れろよな」
「だって、陰気なんだもん! いっつも不機嫌そうだし!
挨拶の声は小鳥並みの声量だし! 仕事の説明してても相槌も打たないし!」
那惟子には『聞こえないように話そう』という気は無いようだった。
だが、次からの会話は二人とも小声になった。
兼心は那惟子に聞いた。
「どうだった? ハルは」
「二十時過ぎには寝ちゃってさ。起きるかもと思って二十一時過ぎまでいたんだけどね。
まあ、ここ数日は安定してるかな」
ボソボソと話していた二人だったが、湯呑を持って近づいてきた霧師希に気が付いて止めた。霧師希は那惟子の前に、湯呑をコトリと置いた。
「どうぞ」
霧師希に何かをしてもらうのは初めてだったのか、那惟子は戸惑いながら言った。
「あっ、ありがとう」
「じゃあ」
階段に向かおうとしたので、兼心は呼び止めた。
「おい、お前は飲んでいかないのか?」
「自分はタバコ吸いたいんで」
階段を数段降り始めた霧師希に向かって、兼心はさらに言った。
「ここで吸っていいよ。どうせ俺達しかいないし」
「えっ…」
ここから喫煙所…と言ってもガレージの端の事だが、そこまで歩くと数分かかる。
わずかな休憩時間がもったいない。霧師希にとってはありがたい申し出だ。
「じゃあ、そうします」
食堂の窓の近くに行って窓を全開に開け、横の壁に背中をもたれかけた。
作業着の胸ポケットから煙草・ライターを出した。そんな霧師希を見て那惟子は言った。
「あなた達二人さー、タバコ吸うとか言ってるけど、吸い殻どうするの? 湯呑を灰皿にしたら怒るよ」
那惟子に強く言われ、兼心はバツが悪そうだ。
そんな二人を見てか、霧師希は言った。
「大丈夫です。これ使うんで」
ズボンのポケットから、タバコの箱の半分くらいの品物をだした。色は白で、平べったく見える。
那惟子が聞いた。
「何それ?」
「携帯灰皿です」
そう言うと、タバコを一本取り出して口にくわえ、ライターで火をつけた。
「意外よねー、あんただったら絶対ポイ捨てするタイプだと思ってた」
確かに那惟子の言う事も一理ある。愛想の良い人間と悪い人間。
どちらがマナーが良さそうかと問われたら、愛想が良い方と思うのは普通である。
そんな那惟子の言葉など気にしていないのか、ゆっくりと煙を吐き出した後に言った。
「マナーぐらい守りますよ。注意とかされたら、面倒くさいんで」
兼心は感心…というより、呆れた感じで言った。
「また面倒くさいか。公共心じゃなくて、『注意されたら面倒くさいから』…か。
徹底した面倒くさがりやだな」
そろそろ、タバコの火が根元まで近づき、終わりかなという時に兼心は霧師希に聞いた。
「お前さ、なんでこんなに頑張ってんの?」
「は?」
『頑張っている』という言葉は言われた事が無いのか、霧師希は驚いている。
「確かにお前は、責任を負うような立場になるのは面倒がっているよな。
それは分かるよ、まだ三ヶ月だが、一緒に働いていれば」
「ええ」
「でも、力仕事や難解な仕事を持ちかけられても、絶対に断らない。むしろ進んでしようとしている気がする。しかも残業どころか、今日みたいな深夜までの勤務も断らない。古株の社員だって、なかなか渋い顔するってのに。俺にはそれが分からないんだよ」
那惟子も言った。
「まーね、確かに。普段の態度だけ見てたら、絶対そんな勤勉タイプに見えないし」
「お、お前な、言葉選んでくれる?」
兼心は困りながら那惟子を見たが、那惟子は意に介さないようだった。
その後、しばらく沈黙した。霧師希もタバコの最後の一服を大きく吸い込み、吐いた。
兼心と那惟子は『あっ、怒ったかな?』と思い、返事は期待しなかった。
霧師希は吸い終わったタバコの吸い殻を携帯灰皿に入れながら、こう言った。
「まあ、あえて理由を付けるなら義務ですね」
兼心は不思議そうに聞き返した。
「義務?」
「はい」
「どの辺りが義務なんだよ? よく分からない」
「僕を雇ってくれたでしょ?」
「それがなぜ、義務という感情が芽生えるんだよ?」
「僕、三十過ぎてるんですよね。三十過ぎると、アルバイトの応募先の数も、ガクンと減るんです。ここに受かるまで、落ちたのは十社ではきかないです。ま、年齢というよりも僕の性格に難があるのも原因ですけど」
那惟子は『うん、うん』と、深くうなずいていた。
「そんな時、社長は僕を雇ってくれました。時給分の仕事はしますよ」
『それって普通の事では?』と二人は思ったが、生活のかかっている本人にしてみれば、
大きい事なのだろう。
那惟子は右手の先を頭ぐらいまで上げて、申し訳なさそうに言った。
「あのー、私は最初反対したんだけど…」
「でも、強硬に止めもしなかったんでしょ? 結果、賛成です。さてと、仕事に戻ります。」
霧師希はタバコ・ライター・携帯灰皿をポケットに入れて、階段に向けて歩き始めた。
兼心は言った。
「やっぱり、今日はもういいぞ。帰りな」
「いや、それじゃあ休憩した意味がないですし」
「もういいって。後は俺がやるけど、適当なところで帰るし」
心配する那惟子が言った。
「もう遅いよ。兼心さんも帰ろうよ」
「あと少しだけやっておきたいんだ。適当な頃合いに、社用車で帰るよ」
「うーん」
納得いっていない那惟子に、兼心はさらに言った。
「先に車で帰っておいてくれ。ついでに霧師希も送ってやってくれよ。方角が同じだろ?」
「え?」
●
夜道を二人を乗せた車が走っていた。深夜二十四時を過ぎている為か、ほとんど他の車はない。信号で止まるぐらいで、スイスイと走ってゆく。
ハンドルを握り、運転しながら那惟子は言った。
「いつも残業ありがとうね、霧師希」
「いえ」
「ただまぁ、もう少し態度は改めてほしいけど」
「善処します」
「政治家じゃないっての」
相変わらずの抑揚の無い話し方に、那惟子は軽くため息をついた。
「さっきあんたと話してて、多少は印象変わったかな」
「へぇ、どう変わりました?」
「すごい不愛想でやる気の無いヤツだったけど、
少し不愛想で、少しやる気の有るヤツになった」
「なるほど、そりゃ大出世だ」
霧師希の返事は相変わらずだったが、那惟子はそれを聞いて少し笑った。
そこから、しばらくは二人とも無言。いくつかの交差点を通り過ぎた頃、霧師希は那惟子の方は向かず、外の景色を見ながら言った。
「一つ聞いても?」
「なによ」
「社長って、いつから社長なんです?」
「は?」
「社長って若いでしょう?」
「うん、三十八かな」
「ですよね。それであの会社の社長って、すごいなと思っていました。起業ですか?」
「あー違う違う」
那惟子はそう言って、右手をヒラヒラと振った。
「もともとは兼心さんのお父さんの会社だったのよ。そのお父さんが五年前に亡くなって、それを継いだの。お義母さんは、もう亡くなっているし。兼信さんはサラリーマンだったけど、辞めてね」
「五年前って、今の僕の年に近いですね」
「そうだね」
「その年で社長。すごいな…」
霧師希はそう言いながら、シートのヘッドレストに頭をポンともたれかけた。
今の自分が会社の社長になったら、その重圧に耐えられそうもないと思った。
「副社長だって、すごいですよ。会社のナンバー二ですし」
「私は別に…。兼心さんについていっているだけ」
しばらく間が空いて、今度は那惟子が聞いた。
「あんたは中学でて、すぐ働いてるんだって?」
「はい」
「高校行かなかった理由って何?」
「…」
「あっ、ごめん。イヤなら答えなくていいよ」
「いえ、答えますよ。単に高校受験に失敗して、親と揉めただけの事です」
「どういう事?」
那惟子がそう言うと、霧師希は話し始めた。
「両親が勉強・進学にこだわりがすごくて。小学一年から複数の塾は当たり前だったし、書道などの習い事も毎日ありました」
「すごいね」
「空手もやったし。一般的な習い事全般です。とにかく、教育熱心な親です。一人っ子だし、余計に熱が入ったのでしょう。僕も勉強そのものは好きでした」
「じゃあ、勉強できる方だったんだ」
「中学三年間、常に東大模試のベスト十圏内でした」
「すごい…!」
那惟子は驚いていたが、霧師希は少し左を向いて、夜景を見ながら話し始めた。
「それで、有数の進学高校を受験したんですけど、落ちたんです。まあ、インフルエンザになったとか、プレッシャーに負けたとか、理由もありますけど、ただの言い訳です。それも含めて自分の実力なんで」
「…」
那惟子は何も言わず、聞いていた。
「そこから、両親と大喧嘩の毎日です。母親に怒鳴られなかった日はないですし、父親には殴られるのが当たり前。僕の前歯、半分以上差し歯ですから」
「いやあんた、それ虐待なんじゃあ…」
「親にしたら一流高校に入り、優秀な成績で一流大学に入るという青写真があったんでしょうけど、それが初っ端からくじかれたんですからね。僕にしたって、受験に失敗したら急に態度を変える親に、落胆したんです」
「それで…」
「そういう事です。ほとんど家出同然で、飛び出しました。もう、まったく会ってません」
那惟子は力なく言った。
「意外と苦労人なんだね、あんた」
「そうでもないですよ。もう好き勝手できますから。友達もいないし、親もいないも同然だから、干渉されません。『就職しろ・結婚しろ・子供はまだか・同級生の●●くんは今こうしている』とか言われません。自分のペースで呑気にやってますからね」
呑気にやっているという言葉を聞いて、那惟子は少し笑った。
「ふーん…。あんたって、タフというか、何も考えてないというか。面白いよね」
「面白いですかね…?」
納得のいかない霧師希は、首を少しひねった。
那惟子はチラリと霧師希を見た時に、左手に光る物がある事に気が付いた。左手の小指に、シンプルな銀色の指輪をしていた。
「意外ね。あんた指輪なんかしてるんだ」
霧師希は、自分の左手にしている指輪を見ながら言った。
「これですか? 祖母の形見なんです」
「あっ、亡くなってるんだ。いつも身に着けているの?」
「そうですね。とても可愛がってくれたし、親からかばってもくれました。家を出たのは、祖母が亡くなったのもあるんです。この家にいても仕方ないと思って」
「おばあちゃんの形見か。大事にしなよ」
「家を出る時に、勝手に持ち出しました。それ以来着けてますけど、不思議な事に大きなトラブルにあわなくなりました…って、言ったら信じます?」
「フフッ、信じるよ。あんたじゃなくて、おばあちゃんをね。感謝しなよ」
「はい」
霧師希が外を見ていると、見慣れた風景になった。それに気が付くと那惟子に言った。
「すみません、このあたりで良いです。あとは歩きますんで」
「んー」
那惟子は静かに車道の左端に停めた。
「副社長、ありがとうございました」
そう言って会釈すると、霧師希は外へ出ようとドアノブをつかんだ。
すると那惟子は言った。
「霧師希」
那惟子に呼び止められると霧師希は動きを止め、那惟子を見た。
「はい」
「今日は色々聞いたけど、あたし達は仕事さえしてくれたら文句ないし、干渉もしないよ。どう? ウチで続けられそう?」
「善処します」
霧師希が即答すると、那惟子はガクッと頭を落とした。
「あんたねぇ、そこは嘘でも『頑張ります』って言いなよ」
「あ、はい。頑張ります」
「もういいよ、行きな」
那惟子は左手のひらを、シッシッという仕草で振った。
霧師希は車の外にでて、ドアを閉めながら言った。
「おやすみなさい、副社長」
「はーい、おやすみ」
やれやれ、という表情で車を見送り、霧師希は住宅街にあるアパートへと歩いて行った。
那惟子は自宅に向かって車を走らせながら思った。
『もう少し、霧師希の様子を見てもいいかな』と。
霧師希はアパートに向かって夜道を歩きながら思った。
『しばらく、この会社にいてもいいかな』と。
二、春那との出会い。
翌日、霧師希は駐車場の喫煙所にいた。駐車スペースは五台分あり、今は三台が停まっていた。一番奥に自家用車が一台、その隣に二台の社用車が停めてある。その駐車場のスミに喫煙所はある。といっても、適当な缶を灰皿代わりに置いてあるだけの場所だ。
まだ始業前。タバコをふかそうとしていると、一人の男が歩いてきた。
「霧師希さん、おはようございます」
作業着のズボンからタバコを取り出しながら、大きめの声で言った。
彼は牧野友行。二十六歳。
この会社の社員であり、霧師希の直属の上司だ。
「おはようございます」
霧師希が答えると、牧野はコクッと頭を下げて、タバコを吸い始めた。
「昨日は何時までいたんですか?」
牧野が問うと、霧師希はタバコの煙を吐いてから答えた。
「えっと、二十二時は過ぎていました」
「げーっ、すごいですね。最近多いんじゃないですか?
お陰様で僕は楽させてもらってますよ」
牧野は申し訳なさそうにしていたが、霧師希は気にしていない様子だ。
「いえ、問題ないです。そこはアルバイトの領分なんで」
霧師希は表情を変える事なく、そう言った。
「いや、そこは我々社員の采配に問題があるんですよね」
霧師希は重ねて言った。
「いえ、アルバイトがやるべき事を普通にしただけなんで、本当に大丈夫です」
牧野は恐縮した雰囲気で言った。
「霧師希さん、前から思ってたんですけど」
「なんですか?」
「僕に敬語使う必要ないですよ、年下だし」
「いや、年齢は関係ないですよ。牧野さんは社員であり、上司です。
むしろ、僕に敬語使う必要がないと思います」
「ふーん、そんなもんですかね」
じゃあいいのかと、牧野は納得した。
「霧師希さんとはココでよく会いますけど、一日どれくらい吸ってます?
俺は一箱ぐらいなんですが」
「僕は三箱ぐらいです」
牧野は目をむいて驚いた。
「ひぇーっ! 三箱はすごいですね! 大丈夫ですか?」
「喫煙者に言われたくないです。五十歩百歩でしょう?」
「そうですけど…体調悪くなりません?」
「そうですね…ずっとノドがヒリヒリしてたり、咳が止まらない時があったりします」
「いや、だめでしょう? それ!」
牧野がそう言うと、霧師希は牧野の目をチラリと見た。
「まあ、俺も言えませんけど…。でも三箱はなー」
などと言いつつ、二人はタバコをふかしていた。
そうこうしていると、会社から那惟子が出てきた。作業着ではなく平装だ。
手には大きめのバッグを持っている。スタスタと歩きながら笑顔で言った。
「おはよう」
「おはようございます」
二人は挨拶を返したが、那惟子は近寄ってくる事なく自家用車に向かって行く。
車のドアを開けると、那惟子は霧師希に向かって言った。
「霧師希、昨日お疲れ」
霧師希は会釈した。
次に那惟子は二人に言った。
「もうすぐ始まるよ! 早く戻りなさいよ」
那惟子は自家用車に乗り込むと、駐車場を後にした。
走り去る車を見ながら牧野は言った。
「副社長美人ですよねー、癒される」
霧師希は牧野に聞いた。
「副社長、社長もですけど、よく自家用車で外出されますね。外回りですか?」
「あっ、それは子供さんが近所の市民病院に入院されてるからじゃないですか? だから看病だと思います。詳しくは知りませんが」
けっこう重い理由なんだと思った霧師希は、聞いた事を少し後悔した。
そう言いながら、牧野は腕時計を見た。
「そろそろ行きましょうか」
二人は会社の玄関に向かって歩き始めた。
「今日も残業ですか?」
牧野が聞くと、霧師希は言った。
「牧野さん次第です」
「あっ、そうでした!」
そう言うと、牧野は右手で頭をかいた。
●
それから数日後。昼休みを過ぎた頃だった。
霧師希が仕事をしていると、牧野から呼ばれた。
「霧師希さん、社長がお呼びですよ。今すぐ二階へ行ってください」
「何の用でしょう?」
牧野の答えは、首を少し傾けただけだった。
●
二階に上がると、一番奥の机に座っている兼心と目が合った。
右手で手招きをして、霧師希を呼び寄せる。
「社長、何でしょう?」
「すまないが、お使いを頼まれてくれないか?」
「お使い? はい」
霧師希が返事をすると、兼心は机の上にあるA四サイズの茶封筒を手渡した。
「娘が市民病院に入院していてね。これをそこにいる那惟子に渡してきてほしいんだ。
忘れたらしくて、今電話が掛かってきたんだ。俺が行きたいところだが、どうしても手が離せないんだよ。もちろん、行っている間は勤務扱いにするよ」
「それはいいんですけど、なぜ僕なんです?」
霧師希が問うと兼心は立ち上がった。そして少し霧師希に歩み寄り、小声で言った。
「お使いって、頼むとイヤがられる事があるんだよ。雑用やらされてる感じがするのかもな。その点、お前は割り切っている感じするから。時給もらえるなら別にOKって感じで」
そう言うと兼心は右手で、霧師希の肩をポンポンと叩いた。霧師希にとってはその通りなので納得していた。むしろ、外出で気分転換ができると思ったくらいだ。
「分かりました。市民病院って、そんなに遠くないですよね?」
「そうだよ。会社の自転車を使ってくれ。二十分もかからないと思う。一階のロビーで那惟子が待っているから。よろしく頼む」
封筒を受け取ると、霧師希は病院へと向かった。
●
霧師希は病院へ到着した。服装は、作業着から私服に着替えていた。
封筒は出勤で使っている、自分のリュックにしまってある。
ここは五階建ての、かなり大きな病院だ。駐車場も五十台くらいは停められるだろうかという広さだ。自動ドアから中に入ると、背もたれのある長椅子が沢山あった。
大人の背丈ほどある観葉植物もあり、病院の雰囲気は柔らかい。人も多い。
ロビーで待っているように言われているので、座って待つ。
通り過ぎる人をチラチラと見るが、那惟子は現れない。
もう十分くらいは過ぎたろうか。『携帯の番号を聞いておけばよかった』と後悔していた。
さて、じっとこうしている訳にもいかない。『家族が入院している』と言っていた事を思い出し、受付で問い合わせた。入院している家族の名前は知らなかったが、
『安輝野』という苗字が珍しかった為か、すぐに病室を聞く事ができた。
『病室の近くにいれば会えるかもしれない』。そう思った霧師希は病室に向かう事にした。
●
エレベーターで五階に到着した。自動ドアが開くと、まずはナースステーションが目に入った。三~四名の看護師がパソコンに向かっていたり・書類を見たりと、忙しそうな姿がカウンター越しに見えた。
霧師希は軽く会釈すると、それに気づいた看護師一人が会釈で返した。
そのまま目的地の五〇三号室へ向かった。
廊下の壁には絵画がいくつも飾ってあった。歩行の邪魔にならないような場所に、観葉植物もある。一階同様、雰囲気は良かった。
霧師希が歩いて思ったのは、『病院の中は広い』という事だ。いくつも部屋がある。
ドアが開けっぱなしの部屋をいくつか通り過ぎた。チラリと中を覗くと、ベットが複数あった。数は部屋によって様々だ。二台の部屋もあれば、四台の部屋もあった。
小さな声ではあるが、談笑も聞こえた。奥へ進むと、声はあまり聞かれなくなっていき、部屋のドアも閉まっていた。ドアの横にある名札を見ても、一人分しか書いていない。
この辺りは個室だ。名札に書かれている部屋の番号が五〇八・五〇七…と減っていく。
それを見ながら奥へ奥へと歩いていると、五〇三号室に到着した。
霧師希はドアに正対して立ち、名札を見た。
安輝野 春那
「(名前はハルナって読むのか?)」
そう思いつつ、霧師希はドアの前で立ち尽くした。ここが、社長の子供の部屋。
さあ、どうするか。窓は無いので、中の様子は伺えない。
部外者の自分が、ずかずか入っていいのか? 霧師希は迷い始めた。
霧師希は『廊下でしばらく副社長を待つ方が賢明だ』と思った。
背負っていたリュックを両手で抱えるように前で持ち、廊下の壁にもたれた。
そんな霧師希の目前を、患者の家族と思われる人や看護師が、何人も通り過ぎていく。
チラリと霧師希を見る人もいる。中には少し怪訝そうな表情をしている人もいた。
いたたまれなくなった霧師希は、ドアをノックしてみる事にした。
中に副社長がいるかもしれないと思った。
コンコン
病院なので、弱くノックをしたのだが、返事はない。今度はやや強くしてみた。
コンコン
…でも返事は無い。入っていく勇気はなく、取りあえず引き返した。
ここに来るまでに休憩所があった。いったん、そこへ引き返す。
休憩所は飲み物の自動販売機があった。周囲には机と椅子のセットが四つある。
奥には座敷があった。座敷には本棚があり、漫画・絵本などの本が置いてある。
この休憩所には何人がいて、飲み物を飲みながらくつろいでいた。
パジャマを着ている人は、入院患者なのだろう。霧師希はコーヒーを買って、空いている椅子に座った。この自販機は、紙コップで出てくるタイプだ。
熱いコーヒーを冷ましつつ、チビチビ飲みながら時間をつぶした。
『あー面倒だ。会社で作業してた方が楽だったな』と、思い始めていた。
二十分くらい経っただろうか? 『もう変化があるのではないか』と思い、五〇三号室の前に戻った。ドアをもう一度、ノックする。だが、返事は無い。
ドアは左へ動く引き戸で、棒状の取ってが取りつけてある。返事が無いのに失礼とは思ったが、霧師希はドアを開けてみる事にした。ゆっくりとドアを開けると、六畳くらいの部屋になっていた。左手にはクローゼットや小さなテーブル、二人くらいは座れそうなソファなどがある。小さなテレビもある。右手には大きなベット。テレビ以外は、みんな白が基調の落ち着いた色彩の部屋だ。部屋の奥、つまりドアの真正面には大きな窓がある。
外側には全体に鉄製の網がある。転落防止の為だろう。
「(誰もいないのか?)」
そう思いながら部屋に入った。ドアは霧師希が手を放すと、自動でゆっくりと閉まった。
人の気配が無いと思っていたが、ベッドの横に来て、初めて人がいる事に気が付いた。
その人物は窓側に頭、ドア側に足を向けている。頭に毛は無かった。枕の横にはピンク色をしたニット帽が置いてある。肩から下は掛布団の中に入っていた。
「だれ?」
ベットに横たわる人物は言った。か細い声だった。
霧師希とベットとの距離は二メートルほどある。
ここが個室でなく、少しでも雑音がある場所だったら聞き取れなかっただろう。
声を聞いた霧師希は、ベットに横たわる人物を見た。見た瞬間、すぐに視線が合った。
どうやらこの人物は、霧師希が部屋に入った時から彼を見ていたのだ。
声の質と体の大きさで、子供だとすぐに分かった。
初対面の上に、子供。人と接するのが得意ではない霧師希は戸惑った。
「えっと…僕は、あなたのお父さんの会社で働いてて…お使いで…その…」
『この子に自己紹介をするべきか? 書類を届けにきたとか言うべきか?』などと考えていると、しどろもどろになっていった。
視線を逸らしてブツブツ言っていると、その子は上半身を起こした。パジャマの色は薄い緑色。個人の物ではなく、病院からレンタルされている物だ。パジャマにふっくらした感じはなく、体の細さがはっきり分かった。腕は肘から先がパジャマから出て見えている。かなり細い。うっすら骨の形が分かるほどだ。顔を見ると、目の下に青みがある。
顔色が良いように見えない。まぶたも半分くらいしか開いていないのではないか。
再び、少女は霧師希に視線を合わせて言った。
「だれ?」
霧師希は、ともかく名乗る事にした。
「霧師希です」
「え?」
「きりしきです」
「きしりき?」
「いや、きりしき」
「ききしり?」
「いや、きりしき」
『確かに言いにくいよな』と、霧師希は申し訳なく思っていた。
すると少女は言った。
「じゃあ、シキでいい?」
「シキ?」
「そう、シキさん」
「う、うん」
とにかくなんでも良い。落としどころが見つかってよかったと、霧師希は思った。
「私は春那」
「僕は霧師希、よろしく」
イラスト:migmag
安輝野 春那 (あきの はるな・五歳)
ともかく、お互いに名前は言えた。ただ、春那の声は終始か細かった。
春那は『ゴホッ、ゴホッ』と少し咳こんだ後に言った。
「で、シキさんは何しに来たの?」
「あなたのお母さんが忘れ物してね。届けに来た」
「ママ? ふーん」
霧師希は、とにかく会話が思いつかない。子供相手だと、より思いつかない。もう部屋から飛び出したい気持ちだった。『副社長でも看護師でも誰でもいいから、部屋に来てくれないか』と思っていた。『どうしよう』と頭の中をグルグル考えていると、先に春那の方から霧師希に話し掛けてきた。
「シキさん」
そんな呼び方に慣れていない霧師希は、目を合わせて言われているのに、自分の事だとすぐに認識できなかった。
「あっ、僕? な、なんだろうか?」
「なんか匂う」
そう言われて、霧師希はギクリとした。体臭だろうか? 右肩あたりに鼻を近づけて、クンクンと匂った。でも違う気がする。それともニコチンの臭いだろうか? 喫煙者は、自分に染みついたニコチンの臭いに無自覚だ。
どちらにしても、恥ずかしいやら申し訳ないやらだった。
「ごめんね」
「えっ?」
春那は『なんの事?』と言う感じで、キョトンとしていた。
次に春那は右手のひらで、霧師希をコイコイと手招きした。されるがまま、霧師希は少しづつ近づく。しかし春那の手招きは止まらない。なので、さらに近づいていく。
ベットの真横に着いた辺りで、手招きは止まった。春那は顔を少し霧師希の胸の辺りに近づけ、スーッと鼻で息を吸った。霧師希は訳が分からず、恥ずかしそうに視線を上げた。
春那は近づけていた体を元に戻すと言った、
「コーヒーだ」
「えっ?」
思いもよらない答えだったので、霧師希は驚いた。
「コーヒー飲んだんだ」
「あっ、そうだよ。ついさっきね」
「それって美味しいんだよね?」
「うん、そうだね」
「いいな、パパやママからもコーヒーの匂いする時あるな。私も飲みたい」
「飲んだ事ないの?」
「ない。ママにダメって言われる。なんでだろう?」
霧師希は考えた。それは小さな子供だからか? それとも何らかの病気だからか?
いずれにしても、コーヒーは幼少期に飲ませて良い感じはしない。
それはやはり、カフェインが含まれているからだ。
カフェインは幼少期はもちろん、中学生ですら勧められないとも言われている。
「それはね、コーヒーにカフェインが入っているからだと思う」
「かふぇいん?」
「コーヒーにはカフェインと言うモノが入っていて、子供には良くないらしいよ」
霧師希の説明を、春那は理解できていない。
霧師希も話しながら、『なぜこんな説明をしているんだろう?』と、思った。
「そっか、ダメなんだ」
春那は前を向いて、顔を少し下に向けた。その後、またも『ゴホッ』と咳きこんだ。
霧師希は考えていた。ダメな原因がカフェインなら、カフェインの入っていない、カフェインレスのコーヒーもある。喫茶店で働いていた頃、そういう商品があったと思い出した。
「まあ、子供が飲めるコーヒーもあるかもしれないけど…」
「えっ、あるの? ホント? 飲んでみたい」
霧師希の言葉に、春那は目を輝かせた。次の瞬間、ドアがゆっくりと開き、そこには那惟子が立っていた。春那の隣に立っている霧師希を見て驚いた。
「霧師希…!」
その声に気付き、霧師希は振り向いた。
「あっ、副社長」
春那は嬉しそうに、声を高くした。
「ママ!」
那惟子は春那の頭を見てハッとした。ニット帽を被っていないのだ。那惟子は春那の近くに駆け寄った。枕の近くに置いてあったニット帽をつかむと、すぐに春那の頭に被せた。
そして春那の肩を抱き寄せて言った。
「霧師希、休憩所分かる? そこで待ってて」
「は、はい」
霧師希が部屋を出ようとすると、春那は言った。
「シキさん、お願いね」
ゴホゴホと咳きこみながら、春那は言った。顔を見ると、切なそうな顔をしていた。
霧師希は声が出なかったが、コクッコクッと何度もうなずき、部屋を出た。
●
霧師希と那惟子は休憩所にいた。二人はテーブルを挟み、向かい合って椅子に座っている。それぞれの前に、紙コップに入ったホットコーヒーが置かれている。
「あの、副社長」
「なに?」
「社長や副社長は、ここでコーヒー飲んだりします?」
「よく飲むけど。どうして?」
「いえ、別に」
『なんの質問だ?』と、那惟子は不思議がった。
霧師希は、ホットコーヒーを右手で軽くつかむと言った。
「これ、ありがとうございます」
「いーえ。先生との話が長引いちゃってね。ロビーに慌てて行ったんだけど、あんたいないし。まさかと思って病室行ったの」
「勝手に入ってすみませんでした」
「別にいいよ。私を探すのなら、部屋を訪ねるのが普通だと思うし」
那惟子の顔に笑顔はなく、淡々と答えていた。
霧師希はリュックから茶封筒を取り出すと、那惟子に渡しながら言った。
「これが頼まれていた書類です」
「ありがとう」
霧師希は迷っていた。『用事は済んだし、もう立ち去っていいんだろうか…?』と。
那惟子は、目の前にある熱いコーヒーを見つめながら言った。
「もうすぐ一年」
「えっ?」
「春那ってんだけどさ、ウチの子。この病院に入院して一年ぐらいになるの」
「はい」
那惟子はテーブルに置かれている紙コップに両手を添えた。
「最近は治療が合わなくてさ。食欲はあまりなくて痩せるし、髪は抜けるしで大変」
「そうですか」
「で、お願いなんだけど---」
那惟子の言葉は途中だったが、霧師希はさえぎるように言った。
「大丈夫です、誰にも何も言いません」
「そう」
那惟子は少し安心した。
もうこれで用事は全て済んだと思い、霧師希はコーヒーを片手に立ち上がった。
「じゃあ、これで失礼します」
「うん、ありがとうね」
霧師希は、那惟子の「一年」という言葉が気になっていた。
「副社長、一つだけ聞いていいですか?」
「なに?」
「子供さん、あの病室で一年間生活しているんですよね」
「そうだよ」
「あの病室で、あの子は普段何をしているのですか?」
そう問うと、那惟子は少し悲しげに答えた。
「生きているんだよ」
●
霧師希は病院の駐車場のスミにいた。病院に喫煙所は無いからだ。
コーヒーはすっかり冷めている。さっきの那惟子の言葉が、何度も頭で繰り返されて、コーヒーを飲む気になれなかった。
「生きている…か」
ふと自分は何故、駐車場のスミに来たのかと思い出した。
そうだ、タバコを吸いに来たのだ。コーヒーをアスファルトの地面に置き、ズボンのポケットに手を入れて、タバコを取り出した。また、頭をよぎる言葉。
『生きている』
毎日を生きるだけで精一杯の子供がいるというのに、自分は一時の快楽の為に、体を痛めている。タバコを見ながらそう思った。右手でタバコの箱をクシャリと潰すと、タバコを吸う事なく会社へと戻った。
●
翌日の朝、始業前。いつも通り喫煙所では、作業着姿の牧野がタバコをふかしていた。
そこに霧師希が近づいていき、挨拶をした。
「おはようございます」
灰皿にタバコの灰をトントンと落としながら、牧野も言った。
「おはようございます」
そう言うと、霧師希は大きな紙袋を渡した。これは何だと、不思議がった牧野は言った。
「なんでしょう?」
「差し上げます」
タバコがカートンでギッシリ詰まっている。驚きながら、牧野は目で追って数えた。
「十個って事は、全部で百個!」
慌てて牧野は霧師希の顔を見た。一方、霧師希は冷静に言った。
「もう止めたんで、もらってください。牧野さんも止めた方がいいですよ、タバコ」
「じゃあ渡さないでくださいよ」
タバコを渡し終えると、霧師希は会社へ向かって行った。
その背中に牧野は言った。
「霧師希さん、何かあったんですか?」
霧師希は振り返った。
「いや、特になにも。ただ、ちょっと教わっただけです」
「教わったって、タバコを止める方法ですか?」
「まあ、そんなトコロです。良い先生に会いましてね」
三、僕はパティシエ?
翌日の昼休み。霧師希は食堂に行こうと階段を登ろうとした時、兼心に声をかけられた。
「霧師希」
「はい?」
「お前、娘…春那と何か約束でもしたか?」
「約束?」
「シキさんってお前の事だろ?」
「そうみたいです」
「昨日病院行ったら、『シキさんはいつ来るの?』って言ってたぞ」
さらに翌日。今度は那惟子に声を掛けられる。
「霧師希」
「はい?」
「あんた、春那に何か用事でもあるの?」
「用事?」
「昨日病院に行ったら、『今日はシキさん来るの?』って聞かれたよ」
「うーん…」
霧師希は考え込んだ。コーヒーの件を、あの子は待っているのだろうか?
そして翌日。霧師希はちょっとした騒ぎを社内で起こしてしまうのだった。
●
「コーヒーを飲ませるだってー!」
昼休み中の廊下で、兼心と那惟子は、霧師希に向かって叫んだ。二人とも大きな声を出してしまった事に気づき、チラチラと周囲を見た。
小声で那惟子は言った。
「なんでそんな事になったのよ?」
「はぁ…」
霧師希は、『コーヒーを飲みたがっている』という春那の件を話した。
「そう、なるほどね」
那惟子がそう言うと、兼心も言った。
「確かにコーヒーに興味を持っていたが、そこまでとはな。
飲みたいと言うたびに『大人になったらな』って誤魔化してきたけど」
「私も、そんな感じの事言ったかな。でもコーヒー飲ますのはちょっと…」
困っている那惟子と兼心を見て、霧師希は言った。
「コーヒーが子供に良くないのは、カフェインなんです。でも、カフェインが無いコーヒーってあるんです。カフェインレスとか、デカフェって言うんですけど」
兼心は疑問を呈した。
「ただ、カフェインが無いからって、コーヒー飲ますのはな」
「カフェインレスと言っても、やはり多少はカフェインは残るようです。なので、やはりコーヒーはダメでしょうね」
残念そうに、那惟子は言った。
「だよね」
「そこでなんですが---」
霧師希は、右手に持っていた銀色の保温ボトルを見せた。水が五百ミリ入る品だ。
次にフタを外した。フタはコップになっているので、ボトルの液体を注ぎ始めた。
温かいので、少し湯気がでる。
「飲んでもらえます?」
霧師希は兼心にコップを渡した。
兼心は、コップをクンクンと匂って言った。
「コーヒーだろ?」
そう言って霧師希を見たが、返事は無い。『とにかく飲んでくれ』という事だ。
恐る恐る口にすると、兼心は驚いた。
「えらく甘いな。コーヒーじゃないのか?」
「それは百%果汁のぶどうジュースです。色合いも紺色なので、黒に近いかと思います。」
「ぶどうの味か。確かにそうだ。でも匂いはコーヒーだぞ?」
「それは、リキッドと言われる香料です。
食品添加物でコーヒーの匂いを付けたと思ってください」
「どれ?」
那惟子は兼心のコップを受け取り、少し口にした。
「ホントだ、ジュースだ。匂いがコーヒーだからとまどうけど」
これはコーヒーではない。だが『コーヒーを飲んでいる気分を味わえる飲み物』ではある。
「うーん…」
二人はコップを見ながら悩んだ。
「やめておきましょうか?」
霧師希は自信なさげに問うたが、兼心は言った。
「いや、飲ませてみようか? 害はなさそうだし」
続けて那惟子も言った。
「本人が納得するかは別だけど、飲ませてみよう」
霧師希はそれを聞いて、少し安堵した。
「分かりました。では改めて作ってきますので、都合の良い日をおっしゃってください。
保温ボトルに入れてお渡ししますから」
那惟子はキョトンとして言った。
「なに言ってんの? アンタが直接渡すんだよ」
●
翌日、時刻は午後三時ごろ。三人は春那の病室を訪れた。
ベットに座っている春那。その向かいにあるソファに座る兼心と那惟子。
その間に霧師希が立っていた。霧師希はコーヒー(?)の準備を始めた。
「あっ、シキさん」
春那は霧師希の目を見てそう言った。『久しぶりだね』という意味だろうか。霧師希はぎこちなく頭をコクリと傾けた。春那の表情は、相変わらず元気さは無い。
時折、ゴホゴホと咳こんでいた。
霧師希はべッド用のテーブルに、コーヒーカップとソーサーを置いた。ピンク色の、可愛らしいコーヒーカップセットだ。春那は目の前に置かれたカップを凝視していた。
そこに、保温ボトルに入れて持ってきた、コーヒー風の飲み物を注いでいく。
カップからは湯気と、コーヒーの匂いがただよった。
「うわぁ…」
カップを見て、春那は少し笑顔になった。
注ぎ終わると、霧師希は保温ボトルのフタを閉めながら言った。
「春那さん、これはコーヒーではないんだ。
あなたには色々な事情があって、コーヒーは飲ませられない。すまない」
「あ…そうなんだ」
少し笑顔になっていた春那であったが、がっかりした表情になった。
兼心と那惟子は、『なにも本当の事を言わなくても』と、思った。
「これはコーヒーの味を、少しでも味わえればと思って作った飲み物なんだ」
「ふーん」
そう言って春那はカップを両手でそっと持ち、顔を近づけた。
「でも、香りはコーヒーだ」
そう言いつつ、一口飲むと言った。
「あれ、味はジューズじゃん」
もう一口飲む。
「なにこれ? でも香りはコーヒーだ」
あれよあれよと、春那は全て飲み干した。二、三口飲んで納得してくれたらと思っていた両親は、春那が喜んでいるようで安心した。
「これ面白いね、可愛い」
春那はそう言うと、両手でカップをソーサーごと持ち上げ、目の前で凝視した。
「すごいピンク。これをシキさんが持ってきたんだ。似合わないね」
「以前働いていた職場でもらったんだ。使い道が無くて困っていたから、丁度よかった」
春那は困り顔をして話している霧師希を、不思議そうに見ていた。
春那はカップとソーサーをテーブルに置いた。それを見た霧師希は言った。
「あのさ、プリン食べれる?」
霧師希の言葉に、春那は反応した。
「そんなのあるの?」
カバンに入っていた小さめの保冷バックから、ラップのかかった小さなグラスを取り出し、それをテーブルに置いた。プリンの大きさは、市販のプリンより一回りくらい小さな品だ。
霧師希は両親に聞いた。
「食べさせても大丈夫でしょうか?」
「うちの子、牛乳に少しだけどアレルギーあるんだよね。プリンって牛乳入ってるから」
残念そうに那惟子が答えると、春那は寂しそうな表情になった。
だが霧師希の次の言葉で、それは消えた。
「大丈夫です。これ、牛乳は使ってないんです。豆乳のプリンです。卵も使っていません」
特にアレルギーの事は聞いてなかったが、入院している子供に食べさせる物なので、
一応対策をしたのだ。春那は意味をあまり理解していなかったが、とにかくこのプリンは食べていいんだと分かった。霧師希は用意していた使い捨てのプラスチックスプーンの包装をやぶり、春那に手渡した。
「ありがと。おいしい~」
兼心はプリンを食べる春那の姿を喜びつつも、不思議がった。
「普段は食が細くて、オヤツはもあまり食べないんだがな」
コーヒーを飲めた事で、春那の機嫌は良かった。それが食欲につながったのだろうか。
那惟子はある疑問が浮かび、霧師希に聞いた。
「ねぇ。牛乳を使ってないプリンって、何処で買ってきたの?」
「いえ、僕が作りました」
「へっ?」
「趣味なんで、お菓子づくり。昨日たまたまプリンを作ろうとしていまして、牛乳抜きで作ってみたんです。ついでです」
『ついで』というのは照れ隠しではなく、本当の事だろう。那惟子は、この不愛想な男から『お菓子作り』という言葉が出るとは思っておらず驚いた。
「最近はチーズケーキに凝っています」
「いや、聞いてないし」
春那はプリンを食べる手を止め、大人三人の話を聞いていた。
特にこの霧師希といわれる大人。コーヒーを持ってきた。しかもプリンまで用意していた。
持ってくるカップはピンク色。チーズケーキも作るという。
春那は漠然と、興味を持ち始めていた。親でもなく・医者や看護師でもない霧師希に。
春那は聞いた。
「『ちーずけーき』って何? ケーキ?」
霧師希は答えた。
「ケーキだね。白いクリームやイチゴが乗っていない、黄色いケーキ」
「黄色?」
「そう。チーズで出来ているから、黄色になる」
正確にはクリームチーズだ。
「それって美味しいの? 食べたいなぁ」
「えっ? うーん。(しかし、牛乳を使うからな…。豆乳で代用するか?)」
霧師希は心の中で、そう悩んでいた。そんな霧師希の顔を、春那は不安そうに見ていた。
視線が春那と合い、霧師希は決意したように言った。
「いや、大丈夫。作ってくる。美味しいチーズケーキを作ってくる」
そう言うと、春那はニコリと微笑んだ。『勝手に約束してしまったが、いいんだろうか?』 と思い、兼心と那惟子の顔を見た。二人とも霧師希と目が合うと、コクッとうなずいた。
娘の笑っているトコロを見たら、止める理由は無いという事だろう。
●
数日後、霧師希は自作したチーズケーキを持ってきた。
チーズケーキはカットした物ではなく、ホールごと持ってきた。
と言っても、直系十五センチ程度の小さなサイズだ。だが、カットされたチーズケーキを予想していた春那は、ホールごとテーブルにトンっと置くと
「わーっ」
と声を上げた。だが、今食べられるのはワンカットだけ。残りは明日から少しずつと言うと、ブーッと頬をふくらませた。同席していた那惟子も、春那をなだめつつも笑っていた。
春那はゼリーも好きなようで、特に柑橘系がお気に入りのようだ。
『みかん味で作ってほしい』とのリクエストがあり、後日に持っていくと、喜んで食べた。
ある日、霧師希は春那に『昔、夏祭りで食べた、屋台のお菓子を食べてみたい』と言われた。両親にも何度か言った事があるそうだが『元気になったら行こう』と言われるそうだ。
『それはいつなんだろう』と、春那は悲しげに言った。
それならと霧師希は、チョコバナナとリンゴ飴を作って持参した。
普通のリンゴだと大きすぎるので、SSリンゴと呼ばれる小さな直系三~四センチの小さなリンゴを使った。『こんなの食べた事がある』と言い、春那は喜んだ。
いつしか霧師希が十五時頃におやつを持って、春那の病室を訪れる日が増えた。
おやつを食べ終えると、十八時ごろに親が来るまで、他愛ない事を話して過ごした。
春那は不安と寂しさがまぎれるのか、それを楽しんでした。
『その間に仕事や家事ができる』と言われ、両親にとっても良かった。
兼心が、霧師希の『お菓子を差し入れする時間』を勤務扱いにした。
おかげで、春那への差し入れで収入が減るという事はなかった。霧師希自身も、お菓子作りは趣味なので苦ではない。それどころか、楽しさも感じていた。自分が作ったお菓子を、「美味しい」と言って食べてもらえるのは単純に嬉しいものである。『量を少なめに・アレルギーに気を付ける…という二点を注意してくれたら、後は任せる』と両親に言われた。
●
ある日、霧師希は会社で残業をしていた。時刻は十九時を回った。
休憩する事になり、工場のスミにある椅子に座った。もうタバコを止めた霧師希が缶コーヒーを飲みながら一息ついていると、目の前に兼心がやってきて声をかけてきた。
「お疲れさん」
「お疲れさまです」
「あのさ、那惟子って今日は会社戻るの?」
「副社長なら、さっきお会いしましたよ。僕が病院を出ようとした時だから、十六時くらいでしょうか。今日は遅くまで付き添うとおっしゃっていました」
「そうか、じゃあ直帰か。お前、ついに俺達の病院の予定まで分かるようになってきたな」
そう言って少し笑いながら、兼心は霧師希の横に座った。
そして少し間を空けて、霧師希に向かって言った。
「あのさ、那惟子とも言ってたんだけど、お前ってどうして春那に良くしてくれるの?」
「良くしてますかね?」
「何か理由でも?」
「別に理由なんて」
今度は霧師希が少し間を空けてから言った。
「まぁ、病院に言っている間も勤務扱いにしてもらってますし、お菓子作り好きですし。それと---」
「それと?」
霧師希は両手で缶コーヒーを持ち、そのまま膝に置いた。
視線は缶コーヒーに向けて話し始めた。
「娘さん…。春那ちゃんは、子供の時の自分と似た環境だなって思ったんです」
「環境?」
「春那ちゃんはずっと病室にいるんですよね? それって大変だと思います。自分の意思で自由に動けなのは辛い。自分もそうだったので。
学校が終われば塾や習い事がありました。終業時刻になると、母親が校門の前で待っています。そのまま母親の自転車の後ろに乗って、塾に直行。塾が終わると父親が車で迎えにきます。家に着いたら、食事とお風呂が終われば勉強です。土日も同様です。とにかく自由は無かったです」
「それは厳しいな」
「だから、『この子は病室にずっといるんだな』と思うと…。当時の僕は、何か楽しみがあったらと思っていました。娘さんは僕のお菓子を楽しみにしてくれているようなので、それくらいなら良いかなと思います」
「そうか、だったらいいんだ。お前、妙に義理硬いトコロあるからさ。無理してやってるなら、お前にとっても俺達にとっても辛いんじゃないかと、那惟子と話していたんだ」
「いえ、辛いとかありません」
「じゃあ、今後も頼んでいいか? あいつ、『シキさんがどうしたこうした』って、よく言ってるんだよ」
「はい、僕でよければ」
四、春那の御馳走は…
二〇〇六年八月。霧師希と春那が出会って約三ヶ月が過ぎた。霧師希が春那の部屋を訪ねるのが普通になりつつあった。病院の看護師の間でも、最初は『あの人誰?』という感じだったが、今では父親の会社の従業員という事で、認知されてきたようだ。
そんなある日の昼下がり。霧師希が春那の部屋を訪ねると、春那がベットで体を起こしており、下半身は掛布団に入っていた。その左側に向かい合う様に那惟子が立っていた。
「あ、シキさん」
「あぁ、霧師希」
二人とも声に元気がなかった。特に春那は涙目だった。春那は霧師希が訪れた時、必ず手に持っている荷物を見る。そして『今日はどんなお菓子なんだろう』と想像し、少し声が高ぶるのが常だった。しかし、今日はそれが無い。
霧師希が話を聞くと、春那が治療の事で嫌がっているとの事だった。
もうすぐ、定期的に行っている強めの治療があるらしい。
注射などで、強い痛みや不快感がある。春那はそれが嫌でゴネていたようだ。
「ヤだ」
春那は前を向いてうつむき、両手で掛布団を強く握りしめていた。
「そうだけど、頑張ろう?」
那惟子は治療を勧めつつも、春那の受ける痛みの事を考えると辛かった。
「もう、痛いのヤだ」
「うん…」
少し間が空き、那惟子は言った。
「でも、今度の検査は痛くないよ、大丈夫だよ」
「ホント?」
ひきつった笑顔で那惟子は言ったが、春那はそれを信じようとしていた。そんなやり取りを繰り返していると、那惟子はチラリと霧師希を見た。『お前も説得しろ!』と言いたげた。
少し考えた後、霧師希は言った。
「痛いと思うよ」
霧師希の言葉に、那惟子は呆気にとられた。霧師希は続けて言った。
「春那ちゃん。それ、やっぱり痛いと思う」
「うぅ…」
霧師希に念を押され、春那は涙がこぼれた。那惟子は霧師希の腕をつかむと、強引に廊下へと引っ張り出した。春那の病室から離れ、階段の踊り場へと連れ出した。
●
那惟子は右手で人差し指を立て、それを霧師希の顔面に向かって突き立てて言った。
「アンタねぇ! どうして痛いなんて言うのよ! また怖がらせちゃったじゃない!
人が必死に説得してるのに!」
病院なので大きな声ではないが、思い切り語気を強めて那惟子は怒鳴った。
霧師希は、恐る恐る答えた。
「でも、それは痛いんですよね?」
「そりゃあ痛いわよ! あんな細い腕にぶっとい注射を刺すんだから、見ちゃいられないわよ! だからって、受けるなっていうの?」
那惟子はそう怒鳴ると、右手を降ろした。目は涙目だった。
「そうではなくて、子供相手でもあまり誤魔化さない方が良いと思うんです」
「誤魔化す?」
「僕も子供の頃、勉強の事でよく言われました。『このテストが終わったら、楽ができる』
『この学校に入ったら、人生が楽だ』って。小学校入学から中学受験の頃までみっちりと言われ続けたんです。でも、いくらやっても楽なんて来ませんでした。親にしたら励ましてたつもりなんでしょうけど。それを何度も繰り返されている間に、親を…大人を信用しなくなりました。このままだと、大人を信頼しないようになるかもしれません」
那惟子は腕組みをし、眉間にシワを寄せながらも、霧師希の話を聞いていた。
「医者や家族が痛くないっていう治療を受けたら、すごい痛かった。そんな時、いつも春那ちゃんはどう思っているのかと考えてしまいます」
「…じゃあ、どうすんのよ」
「ありのまま、言うしかないと思います」
霧師希がそう答えると、春那は深くため息をついた。
「さんざん偉そうな事を言っておいて、良いアイデアないの?」
霧師希は申し訳なさそうに言った。
「ないです」
「まったくアンタは…。しょうがない、戻ろうか」
那惟子は目に溜まっていた涙をハンカチで拭うと、二人で春那の病室に戻った。
●
病室に戻ったものの、三人は沈黙したままだった。
すると、霧師希が言った。
「春那ちゃん、いつも注射をしている腕を見せてもらっていい?」
「腕?」
春那は左手で、右腕のパジャマを少しまくった。細い腕だ。ぜい肉もあまりない。
そんなか細い腕に、五百円玉程度に青くなっている箇所がある。
この辺りに何度も注射をしているからだ。霧師希は胸が苦しくなった。
霧師希は春那の右腕のパジャマをおろして言った。
「今度の治療、痛いと思う。でも、僕には何もしてあげられない。『頑張ろう』とも言いたくない。あなたはもう、毎日頑張っているんだから」
春那は表情が冴えないままで聞いていた。那惟子は春那よりも辛そうだった。
「だから、一緒にいるよ。朝から一緒にいるよ。お母さんだけじゃなく、僕も付き添う。いつも通り、どうでもいい話をしよう。おやつも好きなのを持ってくるよ」
と言って、那惟子をチラリと見た。那惟子は同意したのか、うなずいた。霧師希がいたからと言って、不安は無くならない。ただ、『百の不安が一つでも良いから減らないか』と、霧師希は思っていた。正直、春那には霧師希の言っている意味がよく分かっていない。
でも、『この場にいる大人たちが、自分の為に頑張ってくれているのかな?』
という事は伝わっていた。
「わかった」
春那は力なく答えたが、少しは安心した様子だった。
那惟子はそんな春那を見て、胸をなでおろした。
「シキさん、注射は頑張るよ。だから、お願いがあるんだけど」
「何?」
「タマゴサンド食べたい。作ってきてね」
霧師希はたまにではあるが、お菓子以外にも食事を作ってきた事があった。
具入りの小さなオニギリであったり、少量のサンドイッチであったりした。
その中でも、春那のお気にいりは、具が卵のサンドイッチだった。
「よし、分かった。作ってくるよ」
霧師希がそう答えると、那惟子は春那に向かって言った。
「あんた、それよく言うわよね。タマゴのサンドイッチ。そんなに好きなの?」
春那は答えず、両手で自分の頬をおさえ、ニンマリした。
「なるほど、好きなのね。霧師希、頼むわ」
那惟子は霧師希の肩をポンと叩いた。
●
数日後、定期検査と治療が行われた。太い注射を何本も打たれた。その場に両親と霧師希が立ち会っていた。『春那の涙の量がいつもより半分だった』と、那惟子は言った。
治療は十四時頃に終わったのだが、春那は寝ていた。この治療は過酷で体の負担が大きい為、しばらくは体を横たえるらしい。両親はずっと病室にいるが、霧師希は休憩室にいて座っていた。壁に掛けられた時計を見ると、十五時を指していた。
「さて、どうしようか」
霧師希は椅子に座って考えていた。『もう自分は帰って、会社で仕事をすべきではないだろうか?』。タマゴサンドは両親に預ければいい。だが、春那にはずっといると約束した。
ぐるぐると思考を巡らせていると、那惟子が休憩室にやってきた。
「霧師希、病室に来て。春那が探しているの」
「あっ、はい」
●
那惟子と霧師希が病室に入った。兼心はソファに座っており、春那はベッドの上で身を起こしていた。那惟子は兼心の横に座った。
「シキさん」
春那は霧師希にそう言うと、両手のひらを霧師希に向けて伸ばした。顔は少しニヤけ気味。霧師希はあらかじめ病室に置いてあった自分のカバンから、小さなタッパを取り出し、フタを外して春那に手渡した。
「お疲れさま」
「わーっ!」
春那はタッパの中にあるタマゴサンドに気を取られていた。直系四センチの四角形で、それが四つ入っている。子供でも食べやすい大きさにしてある。塩・コショウ・マヨネーズだけで味付けした卵を、食パンで挟んだだけのシンプルなサンドイッチだ。
ただ、味付け・卵の茹で具合から白身の切り方まで、細部までこだわっている。食パンもスーパーで売っている量産品ではなく、個人店で売っている、やや高めの物を使っている。このタマゴサンドは霧師希の自信作だ。
春那はタッパをベッドのテーブルに置くと、小さなサンドイッチをつかみ、断面を見た。
これはかなり分厚い。食パンは六枚切りを使って薄めにしてあるが、具の卵が二センチほどある。春那はこの見た目も好きだった。まず半分かぶりつく。
「うぅ~ん!」
と言って笑みを浮かべながら、目をつむりながら咀嚼している。
いつもながらの光景。霧師希は、美味しそうに食べる春那を見るのが楽しみだった。
春那の姿を見て兼心は不思議に思った。
「(そんなに美味いのか?)」
那惟子も同様に思っていた。
すると霧師希は言った。
「あの、お二人も食べます?」
そう言うと、カバンからもう一つタッパを取り出し、フタを開けて二人に向けた。兼心は受取り、隣の那惟子とタッパを覗き込む。長方形で大きいタマゴサンドが四つ入っていた。
タッパを見ながら、思わず那惟子は言った。
「わっ、美味しそう」
兼心は聞いた。
「いいのか? 霧師希」
霧師希は答えた。
「はい。こういう事があるかと思い、一応作ってきたんです」
それを見ていた春那は言った。
「いいなー」
手には三つ目のタマゴサンドは握られている。しかも、すでに半分ない。
「いやいや、あなたはそれで充分だから」
霧師希が春那に言うと、部屋は少し笑いがおきた。那惟子食べながら聞いた。
「美味しいわー。ねぇ、これって難しいんじゃない?」
霧師希は答えた。
「いえ、簡単ですよ。調味料も特別な物は使いませんし。
味付けの加減と卵の茹で具合くらいです」
那惟子は、春那がタマゴサンドを美味しそうに食べている姿を見て思った。
「(春那の味の好みを分かってるんだ)」
辛い治療の日だったが、最後は笑って終えられた事に、兼心と那惟子は安堵した。
●
この日あたりから、春那と霧師希はより仲良くなっていった。
病室で二人でいると、春那は霧師希の左手の小指に着けてある指輪を見て言った。
「それって、いつもしているよね? どうしたの? 買ったの?」
「これ? これは、ばあちゃんにもらったんだ。お守りみたいなモノだよ」
銀色一色で、特に飾りのないシンプルな指輪だ。
「へぇー。綺麗だし、いいお守りだね。なにか効果あるの?」
「幸運を引き寄せるんだ。そうばあちゃんが言ってたよ。すごいだろ?」
「すごいっ! ちょっと着けさせてくれない?」
「もちろん」
ところが、どの指にはめてみてもスカスカだった。
「うーん、着けられないよぉ。親指でもダメだぁ」
「アハハ、十号だからね。大人になったら、また試してみようか」
「うん、絶対だよ」
「ピッタリ合うようになったら、春那にあげるからね」
「えっ? ダメだよ。おばあちゃんにもらったんでしょう?」
「そうだけど、春那だったら絶対喜ぶよ。着けてあげてほしいな」
「分かった! 楽しみにしているね。シキさんのおばあちゃんて、どんな人?」
「そうだねー、神様みたいな人だね。僕の頼みを断わらない人でさ。絶対に僕の味方をしてくれる人だったんだ。だから、どんなにひどく親に怒られても耐えられたし、我慢できたんだ。この後、ばあちゃんが味方してくれるって分かってたから」
「そうなんだー。いいね、そういう人。シキさんも、私の頼みを断らないでね」
「よし、わかった」
●
ある日、春那は唐突に、『初日の出が見たい』と言ってきた。
両親に話すと、『それは大晦日の真夜中で、そんな極寒の時期・時間に病院の屋上になんて連れていけない』という趣旨の事を言われたようだ。
そこで、霧師希は考えた。初日の出は大晦日でないと無理。ただ、日の出はいつでも見れる。それでどうだろうかと、春那に提案した。春那は嬉しそうに同意した。
真冬の、ある日の夜中。霧師希は春那の病室に訪れた。春那に厚着をさせ、毛布でグルグル巻きにして紐で縛った。春那は『巻き寿司みたい』と言ってケラケラ笑った。
お姫様抱っこで春那を抱えると、夜勤の看護師に見つからないよう、早朝に春那を屋上に連れて行った。日の出を見せると『綺麗だ』と言って、とても喜んだ。
こういう事もあった。もう何年も遊園地に行っていない。親に頼んでも、『元気になったら行こう』と、言われる。でもジェットコースターに乗りたい。乗った事がない。
そこで霧師希は考えた。ほんの少しでも、それに近い経験はできないかと。
まずは春那をオンブしてみた。春那の顔が霧師希の横あたりに来る。
視点が高まったせいか、『おっ!』と言って喜んだ。霧師希は、さらに高い位置に腕を上げ、春那の顔が自分の頭の上あたりに来るようにした。すると春那は『おおーっ』と、さらに喜んだ。その体勢で小走りしたり、階段を素早く降りたりすると、春那は無邪気に喜んだ。階段の五段くらいから飛び降り、着地した瞬間に霧師希が体勢をガクッと下げる技は、落差が大きくて迫力があり、春那は一番気に入っていた。
こんな乱暴な遊びを、色々と二人はしていた。両親・看護師には見つからないようにしていたのだが、バレるのは時間の問題だったようで…。
●
ある日、休憩所に霧師希と那惟子の姿があった。霧師希がいつも通り春那の病室に行こうとすると、那惟子に呼び止められたのである。霧師希は椅子に座り、両手を膝に置いてうつむき加減だ。那惟子はテーブルの向かい側に座っている。
右手の人差し指で、コツコツとテーブルをつついている。
そして困り顔で言った。
「あんたねぇ、危ないって何度も言ってるでしょう」
「すいません」
「怪我してないから良いようなものの、大けがしてもおかしくない事ばっかりさせて。もうホントに…」
那惟子は腹立たしかったが、同時に感謝もあった。霧師希は、なんとか娘を楽しませようとしている。なので強く責める気にはなれなかった。那惟子は右手のコツコツを止めた。
「何故なの? そりゃあ春那の願いは私だって叶えたいよ。でも、『今は無理』って事があるじゃない? あんた強引すぎるのよ。何か理由あるの?」
「理由ですか? 理由になるか分かりませんが---」
霧師希はためらいつつも答えた。
「僕の学生の頃です。毎日毎日、朝から晩まで勉強で、他の事に興味を持つ事は許されませんでした。『大学に入るまでは、勉強以外はするな』というのが親の口癖でした。
今は耐えるしかないんだなって、落胆しながら生きてました。本当に辛かったです。
だから、春那ちゃんには、『今』を少しでも楽しんでもらえないかなって思ったんです」
『今』という言葉に那惟子は反応し、考え始めた。
「今…か」
一~二分は過ぎただろうか。那惟子は両手の指をテーブルの上でいじりながら、視線を落として言った。
「それ、言っちゃってるかもしれない。『今度ね・退院したらね・元気になったらね』って。もう、春那に諦めさせるような事ばかり。やっぱり、少しでも危険があるかもしれない事には、消極的になっちゃうかな」
「いえ、間違っていないと思います。僕が無責任だったので、反省しています」
「うーん、でもね。確かに危ないんだけど、春那は楽しそうなんだよね。機嫌良いし」
那惟子は指いじりを止めて、霧師希を見た。
「あっ、最近気が付いたんだけど、春那があんたといる時、咳してる?」
「えっと、してますけど、前ほどじゃないと思います」
「あの子の咳って、心因性のところが少しあるそうなのよ。
不安を感じている時に、ひどくなるみたい」
「じゃあ、遊んでいる時は楽なんでしょうか?」
「あと、アンタのオヤツを食べてる時も、咳しないんじゃない?」
「あっ、言われてみれば、そうかもしれません」
那惟子は両手で後頭部を抱え、うーんとうなりながら言った。
「霧師希!」
「はい」
那惟子は頭の手をほどき、言った。
「今後も春那と遊んであげて。ただ! もうちょっとお手柔らかに頼むよ。あたし達、看護師さんに何度も注意されてるんだからね」
「はい、気を付けます」
そう言うと、力なくうなずいた。
「でもまあ、感謝してんのよ、私達」
「感謝?」
「私や兼信さんの親兄弟って、この辺りに住んでないのね。だから春那の看護は、どうしても二人になる。だから春那と仲の良い、あんたの存在は大きいのよ。兼信さんも、よく言ってるわ」
「いえ、僕も春那ちゃんと遊んでいる時は楽しいので」
なじみの無い『感謝』という言葉に、霧師希は照れた。
五、サッカーとの出会い
二〇〇八年四月。霧師希と春那が出会って二年が過ぎた。春那と霧師希の関係は相変わらず。手作りのお菓子や、ちょっとした料理を春那は喜こんでいた。
乱暴な遊びは止めた…という事はなく、目立たないようにして楽しんでいた。
看護師や両親に叱られる事もあったが…。
今年で七歳になった春那は、小学校の勉強を始めた。
高校へは行っていない霧師希だったが、中学までの勉強なら、今でも衰えていなかった。
国語・算数・生活(理科・社会)であれば、問題ない。公式の教科書に加え、霧師希が自作で問題を作ったりした。時間はある。ゆっくりではあるが、着実に成果を上げていた。
三科目に限れば、普通に学校へ行っている生徒に近い学力を保つ事ができた。
春那が気に入っていたのは、『先生と生徒ごっこ』だった。問題集を片手に持つ霧師希に
「この問題わかる人?」
…と、言ってもらう。そして
「はいっ!」
と、元気よく右手を上げる。これが楽しいらしく、よくやっていた。
「はい、ハル! 答えは?」
最近では、霧師希は春那のことを春那ちゃんではなく、「ハル」と呼ぶようになっていた。
文字が読めるようになったのは、春那にとって大きかった。病院の休憩所には、図書コーナーがある。壁一面に本棚があり、自由に借りて良い。大人向けの小説もあるが、ほとんどが子供向け。漫画・絵本・児童用の小説である。
ある日、春那と霧師希は休憩所にある本棚を見ていた。霧師希は、何か春那が楽しめそうな本はないかと探していた。すると、霧師希は思わず大きな声を上げた。
「おおっ!」
「なに? どうしたの?」
「『とびだせ! 青空へ!』だぁーっ!」
普段は落ち着いた雰囲気の霧師希が、興奮している姿を見て春那は驚いた。
霧師希はズラーっと並んでいる漫画本から一冊を取り出し、パラパラめくった。
「それ漫画なの?」
「そうだよ! 小学校の時、夢中で読んだなあ。
僕は運動が苦手だからさ、すごい憧れて読んでたんだ」
二十年ほど前に発売された漫画。今でも続編が発売されている人気作品だ。
明朗な小学生が、プロサッカー選手を目指して奮闘するというスポーツ漫画だ。
「漫画買ってくれるような家じゃなくてね。
内緒でちょっとづつ買って、全巻揃えてさ。ボロボロになるまで読んだよ」
霧師希は春那からの視線を感じた。春那は漫画ではなく、霧師希を興味深く見ていた。
「ん? 何?」
「シキさんが、そんなに嬉しそうに話しているの初めて見たよ」
霧師希は恥ずかしそうに言った。
「あ、そうかな? 懐かしくて思わずね」
「そんなに面白いんだ」
春那は一冊を取って、パラパラめくった。
「私も読んでみようかな。そこまでシキさんが楽しそうに言うなんてさ」
霧師希は、嬉しそうに言った。
「読んでみなよ、絶対おもしろいから!」
霧師希の楽しそうな表情を見て、春那も嬉しかった。
「へへーっ、分かった」
●
数日後の病室、ベットで身を起こしている春那は言った。
霧師希はベッドの近くに立っている。
「シキさん、これ見て」
春那が持っていたのは、漫画『とびだせ! 青空へ!』だった。
院内の図書コーナーから借りてきたのだ。霧師希は嬉しそうに言った。
「あっ、読み始めたんだね。どう? 面白い?」
「面白いよぉ~」
大好物のタマゴサンドを食べた時と、同等のニヤけ具合をしている。
『気に入ってくれたのだ』と、霧師希は思った。春那の楽しみが増える事は良いことだ。
「シキさんは、これ読んでサッカーしようと思わなかったの?」
霧師希は苦笑しながら、右手のひらを振りながら言った。
「中学校の授業でサッカーがあったけど、全然ダメだったよ。運動が本当にダメで。かけっこだって、最下位にしかなったことないし」
「アハハ、ホントにダメじゃん」
春那は漫画をパラパラめくりながら言った。
「へへーっ、この漫画面白いね。続きが楽しみだな」
●
霧師希には気がかりがあった。最近、咳がぶり返し始めた。何かを楽しんでいる時であって時も、あまり変わらなくなっている気がする。今もゴホゴホと苦しそうだ。
そんな時、決まって霧師希がする事がある。春那の背中をさする事だ。
咳き込む春那の背中を、霧師希は優しくさすり始めた。
「ハル、大丈夫?」
「うん、気持ちいい。楽になってくる。いつもありがとう、シキさん」
『背中さすり』は、兼心と那惟子に教えてもらった。『春那が咳で苦しんでいたら、背中をさすってやってくれ』と。
「ふーっ」
四~五分で、春那は落ち着いてきた。治療する行為を「手当て」というように、人間の手には不思議な力が宿るのだろうか。手でさするというのは、大事かもしれない。
●
霧師希は数日後、春那の病室を訪れた。だが姿はない。診察を受けているようなので、病室で待つ事にした。ベットには例のサッカー漫画が六冊置いてあった。休憩所から借りてきた物だ。巻数は二十一巻からだ。全三十七巻だから、物語も佳境を迎えているだろう。
丁度いいので、漫画を読んで待つ事にした。何度読んでも飽きる事がないほど好きだ。
漫画を手に取ってソファーに座り、前のテーブルに漫画を置いた。
一冊を手に取ると、ある事に気が付いた。
「あれ、これなんだ?」
四~五枚、紙が挟まっている。レシート程度の小さな物だ。画用紙やノートの切れ端のようだ。その紙には『ぼれーしゅと』・『ひーるりふと』などと、ひらがなが書いてある。
何かと思ってページを開いてみると、そこには主人公『氷上神住』が華麗にテクニックを披露しているページだった。
紙の切れ端に書いてあるのは技の名前だった。
その中に、『ぱふぱふ』という紙がある。そのページを開いた。内容はサッカーの試合中、氷上が勢い余ってピッチから飛び出してしまい、観客席にいた恋人の胸に顔をうずめてしまうというシーンだった。漫画では、氷上の頭の横に『ぱふぱふ』という効果音が書いてある。氷上の顔は赤くなっており、困っているとも喜んでいるとも取れる。
これが『ぱふぱふ』だ。
「うむむむむ…。しまった、忘れていた。この漫画にはこれがあったな…」
『これはまずい漫画を勧めてしまった』と思いつつ、このページを眺めていた。すると…
「あれ、霧師希。来てたのか」
「うわああああっ!」
兼心の声で霧師希は驚いてしまい、漫画を落としてしまった。ドアはすでに開かれており
そこには車椅子に乗った春那と、それを押している兼心の姿があった。
「あっ、シキさんだ。『とびだせ』を読んでたの?」
「何を慌ててるんだ?」
「いっ、いえ! なんでもないです」
二人に声を掛けられた霧師希は、慌てて落ちた本を拾い、机に戻した。
「霧師希、俺はちょっと事務局に行きたいんで、春那を頼めるか?」
「はい」
霧師希は車椅子を押して部屋に入った。春那に『ベットとソファのどちらが良い?』と聞くと、『ソファ』と答えた。ソファに二人が座り、春那は漫画を一冊手に取った。
例の『ぱふぱふ』のしおりが付いた本ではなかったので、霧師希は安堵した。
「ちょうど今、決勝戦で盛り上がっているんだよね」
嬉しそうに春那は言った。
「あっ、ここ!」
べージをめくり、氷上が華麗なドリブルで相手選手を抜いているシーンを霧師希に見せた。
「ここも!」
今度は難しいシュートを、格好良く決めているシーンだった。
「かっこいいっ!」
春那はうっとりして、画に見惚れていた。
そしてしばらくして言った。
「私も、こんな事してみたい」
そう言うと漫画を閉じ、漫画の表紙を見て言った。
「サッカーって面白そうだね。大きくなったら、やってみたい」
霧師希は驚いた。春那は今してみたい事はよく言っているが、
将来してみたい事を言ったのは、初めてだったからだ。
「そうだね、やってみるといいよ。ハルがサッカーをする姿、見てみたいな」
「うん! 氷上みたいに、大活躍するんだ」
春那はそう言うと、また違うページをめくり、指を差した。
「私さ、ユニフォームも好きなんだよね」
若干だが漫画にカラーページがあり、氷上がオレンジ色のユニフォームを着ている。
「オレンジ色のユニフォームが可愛いんだ。あと、このポーズも好き。カッコイイよ」
「氷上のパフォーマンスだね。ゴールを決めた後に、観客席にいる恋人を指差すっていう。これなら僕でもできそう」
「でもさ、シキさんの場合は恋人いないじゃん」
「うるさい!」
「アハハッ! 私が試合に出たら、指差してあげるよ。シキさん見に来てよね」
「うん、楽しみだ。お弁当に、タマゴサンドを作っていくよ」
「へへーっ! 絶対だよ! 楽しみだなぁ」
春那は嬉しそうだ。春那の口から将来の夢を聞けて、霧師希も嬉しかった。
この時、春那の話し方について気づいた事があり、霧師希は聞いてみた。
「ハル、その『へへーっ』っていうの口癖?」
「えっと、そうかな? 楽しい時に言っちゃってるかもしれない」
後に両親に聞いてみると、とても機嫌の良い時に言う口癖だそうだ。家族以外の前では
言わないらしい。霧師希が自分の前で言っていた事を伝えると、とても驚いていた。
●
数日後、霧師希が病室を訪ねると、春那がベッドで身を起こし、
『とびだせ! 青空へ!』を読んでいたが、浮かない顔をしていた。
「あっ、シキさん…」
霧師希は、春那のベットに近寄った。
「ハル、『とびだせ』を読んでいたの?」
「うん」
春那はそう言うと、本を静かに閉じた。
「私、サッカーがしたいよ」
「そうだな、この間も言っていたよな。『大きくなったらしたい』って」
「違うよ、今したくなった。シキさん。私に今、サッカーをさせてほしいの」
「今か…」
「シキさんなら、なんとかしてくれるでしょう?」
霧師希は腕を組んで、しばらく考え込んだ後に言った。
「そうだな、何かをボール代わりにしてやろうか? それなら病室で---」
霧師希が言い終える前に、春那が言った。
「違う! ホントのボールがいい! 外でサッカーボールが蹴りたい! 今すぐに!」
霧師希は悲し気に答えた。
「ごめん、それはできないよ」
「どうして? なんとかしてよ!」
「…ハル、どうしたんだ? いつもと違うぞ。何かあったのか?」
春那はうつむいて、ベットの掛布団を両手でギュッとつかんだ。
「いつになるの?」
「いつって?」
「いつになったら、サッカーやっている姿をシキさんに見せられるの?」
「そっか、いつなんだろうな…。僕にはいつとは言ってあげられない」
「…」
「でもな、ハル。僕は約束する。お前がサッカーができるようになるまで待っている。
絶対に忘れないで待っているからな。覚えていてくれよ」
「うん…、約束だよ…」
イラスト:migmag
《ハル、僕は待っている。必ず待っているからな。約束だよ》
春那の目から涙が流れ始めた。ポタポタと、しずくが布団に落ちていく。
霧師希は、春那の背中をさすりながら言った。
「ハル、覚えておいてほしい事があるんだ」
「なに?」
「生活をしていたら、どうにもできない事に出会う時が必ずあるんだ。そんな時は目の前にある条件で、何かをできないかと考えてほしい」
「…?」
「大事なのは、知識や立派な物じゃないんだ。知識よりも知恵。物よりも工夫だ。そういうトコロがさ、人間の一番面白い所なんだよ」
「ごめん、難しくて分かんない」
「そうだよな、今はいいんだ。お前なら、必ず分かる日がくるよ」
「『ちしき』より『ちえ』。『もの』より『くふう』だっけ?」
「そうだ。とにかく覚えておいてくれよな」
●
二日後。霧師希が会社で仕事をしていると、兼心から声をかけられた。
「霧師希。お前、春那に何か言ったのか?」
「えっ、何の話でしょうか?」
「さっき病院に行ったらさ、新聞紙とガムテープで作った玉を、ソファに座って蹴ってたんだ。しかも何個も。お前、何か知っているのか?」
「新聞紙で玉…? 蹴ってる?」
霧師希は目をむいて感心した。
「へーっ、そうなんですね!」
「なんだよ、何を言っているんだ?」
「すごいですね。あの子は本当にすごい子ですよ」
●
体調が安定していた春那だったが、この辺りから徐々に悪化していく。食事も細くなり、霧師希の差し入れも食べれなくなっていた。家族以外は面会できない日も増えた。
意識がおぼつかない日もあった。そんな時でも口にしていた言葉が色々あった。
「シキさん、サッカー、タマゴサンド」もよく言っていた。
そして、危篤となった二〇〇八年十二月二十五日のクリスマスを迎えたが、
なんとか命をつなぐ事ができた。
翌年になり、安輝野一家は大きな決断をする。春那の療養を最優先とするため、より暖かく・空気の綺麗な地方に移住する事になった。経営していた会社も売却した。
六、また逢う日まで
二〇〇九年三月。安輝野一家が引っ越しする日だ。
自宅の前には、駅へ向かう為のタクシーが待機していた。その近くには安輝野夫婦と、車椅子に乗った春那がいた。霧師希はひざまづき、春那を見て言った。
「これを持っていって」
霧師希は自分のカバンから、大学ノートを一冊取り出して手渡した。
絵柄は無いが、表紙がピンクの可愛らしいノートだ。
「これなに?」
春那がパラパラめくると、勉強の事が手書きで書いてある。算数・国語など、科目別に自習する時のコツや、覚えておいた方が良い事項などが書き記されていた。
「勉強で困った時があったら、見てくれよな」
「春那、ちょっと見せて」
那惟子は春那からノートを受け取ると、パラパラとめくった。兼心も覗き込んで見た。
「すごい…こんなに!」
最初から最後のページまでビッシリ書かれていた。大きい文字で、漢字もルビつき。重要な箇所には色のついたマーカーが引かれてある。
「小学生が勉強でつまづきやすい所を解説しておきました。六年生まで使えると思います」
「霧師希! ありがとうね」
「いえ」
霧師希は春那にもう一つ手渡した。小さくて白いケース。
手のひらに収まる大きさで、春那はゆっくりと開いた。
「指輪…? あれ、シキさん、この指輪って…」
中には銀色の指輪がささっていた。
那惟子は目を見開いて、霧師希に言った。
「あんた、それって…」
霧師希は春那を見て言った。
「この指輪を着けてから、良い事が起こるようになってさ。ハルに出会えたのも、この指輪のおかげかもしれない」
「そうだ、幸運の指輪なんだよね」
「もう僕は大丈夫。だからハル、これをもらってくれよ。その方が、ばあちゃんも喜ぶだろう。大人になったら着けてくれよな」
「分かった! ありがとう、シキさん」
安輝野夫婦は、その気遣いに感謝した。兼心は右手を差し出して言った。
「霧師希、今まで本当にありがとうな」
「いえ」
霧師希は立ち上がり、恥ずかしそうに兼心と握手した。
次は那惟子が右手を差し出してきた。
「あんたがいてくれて、春那は楽しそうだったよ。ありがとうね」
那惟子と握手をした後、霧師希は言った。
「僕は親とも疎遠だし、友達もいないです。今まではそれで良いって思ってたんですけど皆さんと出会えて変わりました。家族とまではおこがましくて言えませんが、親戚のように感じていました。本当に楽しかったです」
そう言うと、兼心と那惟子は深くうなずいた。霧師希はひざまづいて、春那に言った。
「ハル、お前は初めて出来た友達だ。ありがとうな。」
二人は優しく握手をした。春那は握手している手を見ながら言った。
「シキさんは私にとって、お友達だったし・先生だったし・お父さんだったし・お兄ちゃんだったし・コックさんだったし・お医者さんだったし---」
そこまで言うと、春那は言葉につまった。
そして涙を頬に伝わせ、霧師希の目を見て言った。
「私、夢があるんだ。大きくなったらサッカー選手になるよ! シキさんをワクワクさせるような、すごい選手になるよ!」
「うん、楽しみだ。約束したもんな。待っているからね」
気が付けば、霧師希の頬にも涙が伝っていた。
霧師希と春那は、お互いに沢山の思い出を残してここで別れた。
また再会を果たすのだが、それは十五年後の事であった。
安輝野春那編に続きます。




