第1話:プロローグ、あるいはありふれた始まり
静かな病室に、医療機器の微かな駆動音だけが響いていた。
俺――ビリーはベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめていた。
意識は自然と、あの襲撃の夜へと引き戻される。
駆け巡るアドレナリン。
乾いた銃声。
そして、痛みと恐怖が入り混じったあの混沌。
今となっては、それらすべてが遠い出来事のように思えた。まるで、現実感のない作り話のように。
コンコン、と。
控えめなノックの音が、俺の思考を遮った。
看護師かと思って視線を向けると、入ってきたのは一人の若い女性だった。
どこか緊張した様子で、おずおずと足を踏み入れてくる。
視線が交わると、彼女は申し訳なさそうな、小さな微笑みを浮かべた。
「こんにちは」
彼女はドアの傍に立ったまま、蚊の鳴くような声で言った。
「あの……お邪魔じゃなければいいんだけど」
俺は瞬きを繰り返し、彼女の顔を思い出すまでに数秒を要した。
「君は……あの路地裏の」
彼女は勢いよく頷いた。
「うん、そう。あの夜、すぐに逃げ出しちゃって、本当にごめんなさい。パニックになっちゃって……あなたの無事を確認することさえしなかった」
彼女の声は細かく震えていた。
「あれからずっと、罪悪感で押しつぶされそうだったの」
俺はなんとか薄い笑みを浮かべ、首を振った。
「気にするな。怖かったんだろ。誰だって同じことをしたさ」
俺の穏やかなトーンに目に見えて安堵したのか、彼女は一歩、ベッドへと近づいた。
「どうしても、お礼が言いたくて。あなたは私を救ってくれた。もしあなたが割り込んでくれなかったら、私、どうなっていたか分からない」
気恥ずかしさを覚えて、俺は一瞬だけ視線を逸らした。それから、再び彼女の目を見つめる。
「ただ、そうすべきだと思ったから動いただけだよ」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
やがて、彼女は心からの、感謝の詰まった笑顔を見せた。
「私、マリーっていうの。よろしくね」
「ビリーだ」
俺も笑みを返した。
マリーは少し照れくさそうに髪を耳にかけ、さらに緊張した様子で言葉を続けた。
「突然で驚かせるかもしれないんだけど……もしよかったら、今度一緒に飲みに行かない? もちろん、体調が良くなってからでいいんだけど」
予想外の誘いに驚いたが、自然と口元が緩むのを止められなかった。
「ああ、いいよ。喜んで」
マリーの顔が一瞬でパッと明るくなった。
「よかった! じゃあ、退院する頃にまた来るね。約束だよ?」
「約束だ」
彼女は最後にもう一度温かい笑顔を残し、病室を去っていった。
ベッドに深く体を沈め、俺はさっきよりも少しだけ軽くなった心で天井を見上げた。
助けた見知らぬ美女と、飲みに行く約束か。
――俺の運(Luck)は、本当に悪くないのかもしれない。




