ここから始まる
洋介とのデートも、これで何度目になるのだろうか。
ブーツの音を鳴らせながら歩く理絵は、薄墨色に染まる空を見上げた。
今年一番の寒波が吹き付ける冬の夜、吐き出した息は白くてふわっと空気中に消えてゆく。
今日は金曜日。ちょっと前までの自分なら、「もちっと大福」を購入するべく青色コンビニへと車を走らせていた金曜日。
週末の駅前は、飲み屋に向かう者たちでなかなか混雑していた。明日は土曜日だから、今夜は思いっきり飲めや食えやの宴会ができる。居酒屋のネオンが眩しく、まだ夜の初め頃だというのに既に出来上がっている様子のサラリーマンたちが大笑いしながら、理絵の隣を通り過ぎていく。
鞄からスマートフォンを取り出して時間を確認。早めに退社して、駅に続く道が混雑する前にコインパーキングに車を停めておいた。本当は一旦帰宅して身支度を調えてからバスで来たかったのだけれど、どうしても今週中に終わらせなければならない仕事があったのだ。これでも急いだ方である。
トークアプリで指定されたレストランへの道を確認する。駅前ビルの最上階。今までは地上から見上げるだけだった高層ビルに、本日初めて足を踏み入れる。
きょときょとと視線を泳がせつつエレベーターに乗り込み、最上階へ向かう。このエレベーターは一方の壁がガラス張りになっており、高度が上がると駅前の華やかなネオン街の様子を一望することができた。
あの灯りの一つに、「彼」が勤める大手会社があるのだろうか。
郊外のオフィスで働く理絵とは大違いだ。
エレベーターから降りると、最上階展望レストランの入り口が広がっている。何という名なのか分からない立派な観葉植物の植木の前に、スーツ姿の男性が立っていた。
理絵は決して背が低い方ではないのだが、そんな理絵でも見上げなければならないくらい背が高い。
腕を組んでガラス窓から夜景を眺めていた彼はエレベーターが到着する音で振り返ったようだ。そして理絵を見るとふわっと破顔し、手に持っていたタブレットを鞄に片づけて歩み寄ってくる。
「こんばんは、理絵さん」
「こんばんは、洋介さん。お待たせしてすみません」
「構いませんよ。なんというか……あなたを待つ時間もなかなか楽しいものです」
設楽洋介は照れたように笑い、自分の明るい茶色の髪に手をやった。彼曰くこの髪は地毛で、「子どもの頃はもっと明るい色で、これでもだいぶ落ち着いてきた方」らしい。
洋介が差し出した手に、理絵は自分の右手を重ねた。最初の頃は彼と手を握ることにも躊躇したのだが、洋介に「僕は理絵さんと手を握るのが好きなんです」と笑顔で言われるものだから、いつの間にかこうして手を握って歩くのが当たり前になっていた。慣れとは恐ろしいものである。
「ここ、職場の上司に勧められたのです。理絵さんは来たことはありますか?」
席に着いてから洋介が問うてくるので、理絵は慌てて首を横に振る。
「まさか! 大学の頃からずっと前を通ったり見上げたりするくらいでした!」
「そうですか。実は僕も初めて来るもので。おそろいですね」
向かいの席で洋介がそう言い、心から嬉しそうに微笑む。
洋介はよく、こうして芯から嬉しそうに笑う。
別に、理絵が特別なことをしたわけではない。隣を歩いているときとか、買い食いをしたときとか、ベンチに並んで座っているときとか。
一度、「洋介さんはいつも楽しそうですね」と口にしてみたことがある。すると洋介は驚いた様子で理絵を見た後、いつもの照れ笑いで「それは、理絵さんと一緒にいるからですよ」と答えたのだ。
理絵は高級レストランのメニューなんてよく分からないので、注文は洋介に丸投げしておいた。洋介は戸惑った様子もなく、ウエイターを呼び止めてなめらかに二人分の料理を注文してくれた。
メニューを手にウエイターと話す洋介の横顔を、理絵はぼんやりと見つめる。
この人はどうして、こんなに理絵に心を許してくれるのだろうか。
容姿端麗、高身長、高収入(のはずだ。ちなみに聞いたところ、洋介の就職先の給料は破格らしい)、物腰も柔らかい好青年。
対する理絵は、一般人。以上。
「……洋介さん」
もしかして、と思って理絵は注文を終えた洋介に問いかける。
メニューをウエイターに渡した洋介がこちらを見、ふっと微笑んだ。
「はい、何でしょうか」
「ひょっとしてですが、私たちって昔どこかで会っていたりします?」
本当に、何気ない質問だった。
今までは「なんとなく」彼と共にいたのであまり突っ込んだ話をしたことがなかった。
もしかすると、ずっと昔――お互い学生だった頃などに出会っていたのだろうか。
そう思って聞いたのだが、洋介の反応は予想以上だった。
水入りのグラスを持ち上げようとしていた彼の手が震え、あやうく指先からグラスが滑り落ちそうになって、理絵と洋介の「あっ!」という声が重なる。
「大丈夫ですか!?」
「は、はい。すみません!」
「えっと、聞いちゃいけないことでしたか?」
おずおずと尋ねると、水で唇を湿した洋介が非常に複雑そうな顔になった。いつも理絵の前では笑顔を絶やさない彼にしては珍しい表情だ。
……思い返せば、こうしてデートをするようになってから洋介の表情は笑顔で統一されていた。青色コンビニで最初に出会ったときには泣いたり驚いたりというリアクションも見せてくれたものだが。
洋介はしばらく考え込んでいるようだ。なんとなく答えをせっつくのがはばかられ、理絵は水を飲みながら彼の反応を待つことにする。
「……あなたは覚えていないのでしょうけれど」
洋介がようやっと口を開いた。理絵はグラスを置き、視線を迷わせる彼の言葉を待つ。
「ずっと前――本当にずっと昔に、あなたと会っているのです」
「へえ、そうだったんですか。言ってくれればよかったのに」
「いえ、言うほどのものじゃないんです。あなたは僕のことを、その――認識していなかったようですしね」
そう言って洋介は困ったように笑うものだから、理絵もつい苦笑してしまう。
「あはは、そういうことってありますよね。大学生くらいの頃でしょうか?」
「……内緒です」
「え、ひどい。教えてくれてもいいじゃないですか」
「こればかりはあなたのお願いでも答えられません。僕の……初恋ですので」
好奇心がむくむくわき上がっていた理絵だが、洋介の口から放たれた台詞にはたと動きを止める。
「……初恋?」
「……はい」
「……相手は誰?」
「あなたですっ!」
それまで迷いがちな口調だった様子から一転、洋介は耳まで真っ赤になって言い返してくる。ここしばらく見られなかったが、そういえば彼は赤面性の節があるのだった。
空気を読んだのか読まないのか、ウエイターが前菜を持ってきた。カラフルなドレッシングが芸術的な模様を描くサラダに、スープ。
「……ひとまずいただきましょう」
「あ、はい。いただきます」
理絵に促され、洋介も手を合わせる。こういうところから、彼の育ちの良さが伺えていた。
「……その、さっきの続きですが」
「……できたら忘れてほしいのですが」
「いや、気になるでしょう。その……洋介さんの初恋が、私――?」
「じ、自分でも遅い初恋だと分かっています。笑わないでくださいよ」
「笑うわけ――」
言葉は最後まで出てこなかった。
理絵は渦巻き模様を描くドレッシングへと視線を落とす。頬が熱い。洋介をからかえないくらい、きっと今の理絵の顔は真っ赤になっているだろう。
洋介の初恋の相手が、理絵。
「……信じられない」
「本当ですよ。僕はあなたに恋したのです。だから――青色コンビニで再会したとき、嬉しかった。生きていてよかったと思えたのです」
「大げさですよ……」
なんとか笑みを絞り出そうとしたのだが、顔を上げて洋介の顔を見て呼吸を忘れてしまう。
洋介が、今までにないくらい真摯な顔で理絵を見つめていた。
その瞳が孕む熱に、理絵は圧倒されてしまう。
「大げさなんかではありません。……たとえあなたが僕のことを知らなくても、それでもいい。あなたが僕に寄せる好感度はゼロだとしても、あなたと再会できただけで僕は十分でした。……十分だったはずなのに、大福を言い訳にあなたを追いかけてしまいましたね」
「言い訳……だったんですか」
「僕、昔から恥ずかしがり屋の口べたなんです。でも、このままあなたとさようならはしたくなかった。……今では、あのとき思い切って話をしたり連絡先を交換したりしてよかったと思います」
洋介は微笑む。まだ彼の頬はほんのり赤いが、その赤みがえも言えぬ色気を醸し出しているかのようだ。
「僕の初恋は確かに、あなたです。でもあなたにとっての僕は知人以下の赤の他人。……この三ヶ月ほどは、本当に必死だったのですよ。あなたに好いてもらおうと、僕のことを知ってもらおうと、必死でデートプランを練ったのです。慣れないことはするものじゃないですね」
「慣れないって……その、今までに」
「いませんよ」
「え?」
「学生時代はそれどころじゃなかったものでしてね、こうして個人的なお付き合いをさせていただいている女性は生涯であなただけです、理絵さん」
そう言って洋介はいつもの満面の笑みになる。まさか、と理絵は目を丸くして彼の美貌に見入った。
これほどの美形だ。たとえ彼が理絵のことを想ってくれていても、「X番目の女」とかそういう程度だと思っていた。最悪、恋人とすら思われていないただの「お友達止まり」であることだって考えていたというのに。
「……生涯で?」
「はい。きっと後にも先にもあなた以外いないでしょうね」
「えっ……」
「――お待たせしました、メインディッシュをお持ちしました」
ここから、というところでまたしてもウエイターが割って入ってくる。空気を読んでいるのか読んでいないのか、いよいよ分からなくなってきた。ちなみに本日のメインディッシュは理絵も大好きな和牛のステーキである。
「……ご飯が終わったら」
「はい」
「……もうちょっとお話ししても、いいですか?」
うつむいたまま理絵が問うと、前の方でふふっと笑う気配がした。
「ええ、いくらでも。なんなら、夜が明けるまで語りあいましょうか?」
「それはさすがに寝不足になるんじゃないですか?」
「ん? ……ああ、そういえば昔からあなたは、ちょっとずれているところがありましたっけ」
「何のこと……あ……え? ちょっと待って、違う、えっと……」
「ふふ、冗談です」
「夜が明けるまで」が持つ意味に気づいた理絵がナイフとフォークを持ったままわたわた慌てていると、洋介はククッと笑い、目を細くして理絵を見つめてきた。
「……急がなくてもいいんですよ。まだ、時間はたくさんあるんですから」
どこか切なそうな口調に顔を上げるが、洋介はいつも通りの柔らかい笑みを浮かべているだけだった。
前の人生と今の人生を合計すると――そうか、五十年近くになるのか。
リエ様……いえ、理絵さん。
あなたは私にとっての唯一です。
あなたの生きる世界に、あなたの生きる時代に、転生できた幸せ。
これから、一緒に時を刻んでいきましょう。
ジークベルトとリエ様が過ごせなかった時間を、洋介と理絵さんとして、共に。
叶うことなら、今度こそ……
ここで完結とします。
お付き合いくださりありがとうございました。