第十七話 人の世
白い世界に。
三つの光が浮かんでいた。
八尺瓊勾玉。
八咫鏡。
草薙剣。
神代より。
人へ預けられていた、三種の神器。
弥勒は。
差し出した手を動かさない。
「返せ」
命令ではなかった。
奪おうともしていない。
ただ。
長い役目を終えたものへ。
帰る時が来たと告げていた。
神崎蓮は。
右目に手を当てた。
青い光が。
静かに揺れている。
母・神崎マリアが。
自らの命と引き換えに残したもの。
八尺瓊勾玉。
NOESIS。
十七年間。
蓮を守り続けた、母の祈り。
『三種の神器返還要求を確認』
無機質な声が響く。
『神代接続を終了します』
「待って」
蓮は思わず呟いた。
返事はない。
いつもと同じ。
感情を持たない、機械の声。
だが。
それが最後なのだと。
蓮には分かった。
『守護対象』
『神崎蓮』
『生存を確認』
青い文字が、一つずつ消えていく。
『契約条件を達成』
『守護契約を終了します』
ほんの一瞬。
青い光の奥に。
微笑む母の姿が見えた気がした。
「母さん」
蓮は目を閉じる。
「ありがとう」
右目から。
青い光が離れていく。
小さな勾玉の形となり。
弥勒の掌へ向かって飛んだ。
『NOESIS』
最後の文字が浮かぶ。
『終了』
音が消えた。
世界が。
静かになった。
月乃瀬澄華は。
胸元へ手を添える。
白銀の光が。
その手の中から現れる。
八咫鏡。
幾つもの魂を映し。
痛みを見つめ。
呪いの中に残された祈りを探し続けた神器。
「あなたが見せてくれたものを」
澄華は鏡へ語りかける。
「私は忘れません」
鏡は答えない。
ただ。
月のような光を放ち。
澄華の手から離れていった。
白銀だった瞳が。
ゆっくりと。
一人の人間の瞳へ戻る。
天城煌は。
草薙剣を鞘から抜いた。
幾度も戦い。
呪いを断ち。
人々を守った剣。
煌は刃へ映る自分を見る。
「武とは」
「戈を止める力」
草薙剣を。
静かに鞘へ収める。
「なら」
「これでいい」
刀を手放す。
草薙剣は金色の光となり。
弥勒のもとへ帰っていった。
三つの光が。
一つになる。
白い世界が震えた。
弥勒の額にある目が。
ゆっくりと閉じていく。
「知」
「魂」
「武」
「そなたらは」
「神より与えられた力の果てで」
「人の答えへ辿り着いた」
弥勒は。
三人を見つめた。
その表情は。
神でも。
試験官でもない。
永い時の中で。
初めて予想と異なる未来を見た者の顔だった。
「余は」
「人を見誤っていたのかもしれぬ」
蓮が弥勒を見る。
「これから、どうするんだ」
「神代の役目は終わった」
弥勒の身体が。
白い光へ変わり始める。
「三種の神器は神代へ返す」
「神々の力も」
「呪術も」
「怨霊も」
「人の世から消え去る」
澄華が静かに尋ねる。
「あなたも、消えるのですか」
弥勒は。
僅かに笑った。
「否」
「まだ」
「人の世を見てみたくなった」
光が広がる。
「神としてではない」
「ただ」
「未来を観測する者として」
白い世界が崩れていく。
最後に。
弥勒の声が響いた。
「歩め」
「もう」
「神に道を尋ねる必要はない」
その日。
世界の構造が変わった。
神々の声は聞こえなくなった。
人の恨みが。
怨霊や妖を生み出すこともなくなった。
祈りは天へ届かない。
呪いもまた。
人を超えた災厄にはならない。
祈りも。
呪いも。
その責任も。
すべてが。
人の手へ返された。
神代は終わった。
だが。
世界は滅びなかった。
朝は変わらず訪れ。
人々は働き。
笑い。
怒り。
間違いながら。
それぞれの日々を生きていった。
十六氏族も。
長い役目を終えた。
春日鎮臣は白鹿と山へ帰り。
武ではなく、若者たちへ生き方を教えた。
車折千代は。
神へ捧げるためではなく。
人を笑顔にするために舞った。
玉置岩戸は。
術ではなく。
医術と、その大きな両手で人を支えた。
籠真名美には。
もう水の声は聞こえない。
それでも。
川や海に残された歴史を調べ続けた。
八幡家は。
神社を守るのではなく。
地域と、人の暮らしを守る仕事を始めた。
村雨響香は。
再び刀を打った。
人を斬るためではない。
武振熊が残した両剣薙刀を。
歴史へ伝えるために。
因幡剛は。
毎朝。
道場で刀を振った。
雷は落ちない。
光より速く動くこともない。
それでも。
一振りずつ。
昨日の自分を超えるために。
安倍天明は。
何も見えなくなった空へ扇を向けた。
「陰陽師も廃業やなぁ」
そう言いながら。
どこか。
晴れやかに笑っていた。
数か月後。
神崎神社。
再建された石段を。
蓮と澄華が登っていた。
境内は静かだった。
神の気配はない。
八咫鏡も。
NOESISも。
もう存在しない。
蓮は賽銭箱の前へ立つ。
二礼。
二拍手。
そして。
目を閉じた。
澄華が。
不思議そうにその姿を見る。
「もう」
「ここに神様はいません」
蓮は目を閉じたまま頷く。
「うん」
「願いを叶えてくれる神器も」
「奇跡を起こす力もありません」
「分かってる」
澄華は。
蓮の隣へ立つ。
「それでも」
「なぜ祈るのですか」
蓮は目を開いた。
かつて青く光っていた右目は。
もう。
普通の少年の瞳だった。
「神様に」
「未来を変えてもらうためじゃない」
自分の両手を見る。
何の力もない。
人間の手。
「人として」
「人のために」
「自分の未来を、自分で切り開く」
蓮は静かに笑う。
「その覚悟を」
「忘れないために祈ってるんだ」
澄華は。
しばらく蓮を見つめていた。
やがて。
優しく微笑む。
「そう」
二人は。
神のいなくなった拝殿へ一礼した。
そして。
振り返り。
石段へ向かって歩き始める。
その時。
風が吹いた。
境内の奥。
小さな池の水面が揺れる。
濁った泥の中から。
一輪の花が。
顔を出していた。
汚れの中でも。
真っ直ぐに茎を伸ばし。
朝の光へ向かって。
美しく。
力強く。
蓮の華が咲いていた。
神代は終わった。
祈りも。
未来も。
これからは。
人のものだった。
ここまで『NOESIS―ノエシス―』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
約二十一万文字。
神崎蓮たちと共に始まった物語は、徐福との二千年にわたる因縁を越え、神代の終わりと、人の世の始まりへ辿り着きました。
この作品で描きたかったのは、特別な能力を持つ者の強さだけではありません。
神の力も、神器も、奇跡も失われたとき。
それでも人の中に残るものは何なのか。
知識なのか。
武なのか。
魂なのか。
人は何かに祈りながら生きていく。
けれど最後には、自分自身の足で歩かなければならない。
それが、この物語を通して自分なりに辿り着いた一つの答えでした。
とはいえ、作者が込めた答えだけが、この物語の正解ではありません。
読んでくださった方の数だけ、違うNOESISがあっていいと思っています。
好きだった人物、印象に残った戦い、心に残った台詞。
あるいは、「ここが分からなかった」「この人物をもっと見たかった」ということでも構いません。
一言だけでも、感想やレビューとして残していただけたら、とても嬉しいです。
その言葉によって、この長い物語が誰かの心まで届いたことを知ることができます。
最後まで彼らの旅を見届けてくださり、本当にありがとうございました。




